▼第2章 近くて遠い佳人

▼2-1 初めての気持ち

 いつの間にか深い眠りの淵に落ちていた。気が付いたら朝になっていた。


 今はまだ雨は降っていないが、これからの降雨を約束する鮮やかな朝焼けが、乙女の唇に差すビンバの紅のような色に東の空を染めていた。


 ハルシャ王子は宮殿の中庭を散策していた。漫然と歩きながら昨晩の夢の内容を訝しんでいるうちに、現実に額に痒みを感じた。象が額に痒みを覚えた場合、あの長い鼻で掻くのだろうか。あるいは鼻で木の枝あたりを掴んで、それで掻くのかもしれない。などととりとめのないことを考えながら、自分は右手の爪で軽く額を引っ掻いていた。


 右手によって両断された視界の向こう、庭園の遊歩道を逍遥する一人の女性が見えた。斜め後ろには護衛と思しき背の高い男が槍を持って付き随っている。


 昨晩の夢の中で最後に見た美しい女性。大王の百番目の娘が成長した典雅な姿。ハルシャの夢の中からガルーダ鳥の翼に連れられて抜け出してきたような姿の窈窕たる女性だった。


 ハルシャの瞼が大きく見開かれた。口が開けっ放しになり、呼吸が浅くなった。猛暑により体力を消耗した犬が舌を出して喘いでいるのにも似ていた。


 己の心の正体に気づいてしまった。魅せられた。自分はあの女性に惹かれているのだ。


 今、洲の中に立つパータリ樹のような彼女は、鮮やかな水色の手巾で鼻の辺りを覆っている。大きな瞳は夜空の星を宿したかのように潤んでいる。庭園に咲いている花をあれこれ眺めているのだろうか。それにしては、花が咲いておらず葉だけが茂っている灌木もじっくり眺めている。植物そのものに興味を抱いているのかもしれない。


 溜息が漏れた。漏れてしまってから、ハルシャは自分の吐いた溜息が暑季の熱風のように熱いことに気づいた。


 十四歳になる今まで、ハルシャは恋をしたことは無かった。身近に恋愛対象となるような釣り合いの取れる女性がそもそも居なかった。『統王』の二男であるからには、将来は政略結婚が義務である。ならば普通に恋愛感情を抱いたとしても無駄だという諦観もあった。


 これは。もしかして。恋というものなのだろうか。


 愛の神カーマは、五本の花の矢で、恋に落ちた者の胸を射抜くという。ラージャー王子もハルシャ王子も真っ直ぐに矢を射るだけだったらほとんど的を外すことは無いが、カーマの矢はどんな名手よりも的確に心臓を射抜く。


 五本の矢は全てハルシャ王子の心臓に命中し、今、絵を描く時に絵具として使う五色の砒素のかけらのように色鮮やかに染められていた。


 そもそも彼女は誰なのだろうか。気品のある所作から見ても、庶民の娘ではないだろう。どこかの有力な藩侯の娘かもしれない。何の用事でタネシュワールの『統王』の宮殿に来たのだろうか。


 藩侯の関係者が『統王』のお膝元を訪れる理由など限られている。同盟関係締結のための条件交渉だろう。


 ハルシャ第二王子は十四歳だ。もうそろそろ結婚相手を考え始めてもいい年頃である。つまり彼女は、ハルシャの結婚相手として想定されているのかもしれない。五本の矢が突き刺さった心臓の鼓動が高まる。


 だが、普通に考えれば、年上である第一王子の結婚相手を先に検討するところだろう。兄は長身で見た目も優れ、戦士としても弓矢や剣技も巧みで、将来は王位も約束されている優れた男だ。だとするとあの女性は兄の花嫁候補なのか。


 ハルシャは歩みを止めて、考える。


 自分はタネシュワールの街で第二王子として生まれ育ってきたからには、いずれは政略結婚する宿命は承知していた。都合よく好みの相手と結婚できるわけではない。といっても、王者ならば正妃以外の妃を囲うこともできる。しかしそれとて、誰でもという話にはならない。


 王者だからこそ、自分が好きになった女と結ばれるのがかえって難しい。それが分かっていたからこそ、今までのハルシャは女性に対して執着が無くほとんど興味を抱かなかった。


 初めての気持ちだ。


 王子として生まれ育って、欲しい物は、金銭で購入可能な物ならば財力を活かして容易にすぐに手に入れることができた。だから欲しいという気持ちが長く続いたことは無いし、焦がれるほどに熱く高まったことも無かった。


 端的に、彼女が欲しい。そう思えた。


 彼女を自分の腕の中に囲いたい。彼女の笑顔を見てみたい。彼女の視線を自分だけのものにしたい。つまり、自分以外の誰かに彼女を取られたくない。


「それは困るから、兄上から譲ってもらうわけにはいかないかな」


 まずは、事実確認が必要だ。


 彼女は何者なのか。


 本人や関係者に直接聞くのが一番早いのだが、十四歳の少年が心中に育む無駄に分厚い矜恃が、それを許さない。あくまでもそれとなく探って、彼女の正体を見抜くのだ。謎解きのようで、少し楽しいかもしれない。だが楽しさよりも、彼女の美しさを目の当たりにして心が乱れる不安の方が大きい。


 ああ、聖なるガンジスよ、西から東へ流れ去って行かずに、一次的にこの福地たるタネの古戦場に立ち止まって、神の御心の中に隠れている答えを運び来てほしい。


 詩人でもないのに柄にもなく十四歳の少年らしい感傷的なことを考えていたハルシャ王子は、そんな己の自己陶酔ぶりが、一瞬だけ恥ずかしくなり、誰が見ているでもないが、少し赤面した。

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