鯖缶/東雲ひかさ

 初秋の昼下がり。

 ある自然公園の大木。梢からは太陽の光が漏れ、地面をまばらに照らしている。葉はまだまだ緑だ。その木陰のベンチに、制服姿の少年が座っている。短髪に真面目そうな顔つきだ。傍らには学校指定であろうバッグが置かれている。

 少年は物憂げで、梢を見上げては眩しそうに目を細め、溜息を吐き、前屈みにうなだれる。いつからそこにいたのかは分からない。

 四辺に少年以外の気配はない。川のせせらぎ。草木の擦れる音。名も知れぬ鳥の鳴き声。ただ自然が彼を取り囲んでいた。

 少年が幼ければ、親を不安そうに待っているか、迷子にも見えた。しかし、少年は十代にしては凜々しい顔をしており、超然とした自然の中にぽつんと、少年だけが存在している。いささか世界最後の一人にも見える。

「こんにちは」

 少年が何度目かの溜息を吐いたとき、無邪気な声がした。それは幼い女声だった。

 少年は声の方を向く。いつの間にか少年のバッグを挟んだ隣に、小学生低学年ほどの女児がちょこんと座っていた。

 女児の足は地面についておらず、茶色のブーツがぶらぶらとしている。女児の黒髪は背中まで伸び、アホ毛が二本あった。純白の肩紐ワンピースを着ている。顔立ちは整っている。

 少年はそれを見て、寒くないのかなと思った。そしてすぐ、自分が話しかけられたことに気づいて目をそらした。

 少年は子供が苦手だった。そのうえ得体の知れない子供に警戒をしていた。

 今日は平日で、学校があるはずだ。それにまわりに親の姿が見えない。子供単体はそれほどではなかったが、少年は状況に恐怖を覚えていた。

「高校生、ですよね。サボり、というものですか?」

 女児はまん丸い目で少年の顔を覗き込んだ。少年はそっちのほうこそ、と思った。しかし、それよりも引っかかったのは少女の言葉づかいだった。

 道行く大人を適当に捕まえてきたときに、彼女と大人のどちらが気品ある話し方が出来るだろうかと少年は考えた。何人捕まえても十中八九、彼女のほうが上品な話し方と、育ちの良さのような凄みで、雑多な大人など全く歯が立たないだろうと少年は思った。

 艶々とした長い黒髪はよく梳かされて、キラキラと木漏れ日を反射する。ワンピースは眩しいほどに白い。金持ちの子供だろうか。しかし女児は異様な雰囲気をまとっていて、金持ちの子供というような、簡単な推理を看破されるような不安を少年にあたえた。

 少年は黙って無視をした。目をつぶり、彼女が立ち去るのを待った。しかし彼女が立ち去る足音も、ベンチから立ち上がる音も一向に聞こえない。

「あの、聞こえていますか?」

 衣擦れの音のあと、上品な女児の問いかけが聞こえた。

 少年は逃げようかと思った。しかし逃げる場所がどこにもないことに気づいた。

 観念して目を開き、溜息を吐いた。

「聞こえてる」

 女児ではなく、遠くを虚ろな目で見て少年は答えた。

「ああ、よかった。言葉が間違っていたらと、心配だったのです」

 少年は女児の言っていることが理解できなかった。そしてすぐに思い至った。これはおままごとなのだと。そして母親を探すべきか、学校はどうしたと聞くのか、何か大人びたことをすべきかと考えた。だが、こんなところに子供を一人にしておく親など碌なものじゃない。それに学校に行っていない自分と彼女を重ねて、少しくらいは付き合ってあげてもいいかと考えた。

「何のようだ」

 少年は恥ずかしさと設定がどんなものか分からないとで、無愛想な返答しか出来なかった。

「恩返しがしたいのです」

 女児は愛らしく胸のあたりで手を組んで、計算されたように上目遣いで言った。

 相手はおそらく小学生の女児だ。少年はそのような仕草にドキリともしなかった。しかし、その仕草は教育されたもののような違和感があり、気持ち悪さを少年は感じた。

「恩返しって、なんだ」

 少年はもう後に引けず、惰性で返答を続けた。

「こちらをどうぞ」

 彼女は身体の後ろから、赤いリボンのかかった紙の小箱を取り出した。それは手のひらサイズで、フィクションの中で見るような、あからさまなプレゼント箱だった。

 彼女はそれを両手の指先で支えて、恭しく少年に差し出した。少年はやはり、その仕草に気持ち悪さを覚えた。そしておずおずと訝りながら、つまむように小箱を受け取った。

「ぜひ、開けてみてください」

 女児は嬉しそうに言った。少年はリボンを解き、ゆっくりと箱のふたを開けた。

 中には輪切りにされた木が入っていた。大きさは人先指と親指で作る円くらいだ。その輪切りの木の上には、てらてらとつや出しの加工をされたどんぐりがひとつ、載っかっている。

「ブローチ、というものです。どうですか? それとも、ブローチの概念が間違っていますか」

 箱の中に入っていたのは、言われれば確かにブローチだと、少年は思った。しかし女児の言うブローチの概念という言葉に、戸惑いを隠せなかった。

「多分、ブローチだと思う」

 少年は戸惑いながらも答えた。普段使いは出来ないだろうなとか、子供の工作だなとか思い、女児のえも言えぬ気色悪さが軽減された思いだった。

「よかったです。それで、どうですか」

 女児は嬉しそうに言う。子供らしいと少年は感じた。

「どう、と言われても……」

 少年は返答に窮して、それっきり黙った。女児はまん丸い目に期待を湛えて、少年を貫く。

「本当に身に覚えがないんだ。恩返しって、鶴か何かか?」

 少年は閉口の末、このブローチを受け取る資格がないことを女児に伝えた。女児はキョトンとして「確かに、この姿では無理もないですね」と自分のワンピースを見た。少年は、こういう子供なのかもしれない、と思い始めていた。

「では僭越ながら。わたくし、人間の言う蟻です。先日はありがとうございました」

 女児は少年のほうを向き、ベンチに正座して頭を下げた。少年は当然驚いたが、それよりもなんだか馬鹿馬鹿しくて、もしかするとこのような設定のおままごとが流行っているのかもしれないと思った。

「それで、お礼を言われるようなことを僕は何をしたのかな」

 少年は子供が嫌いではないが苦手だった。しかし、この不思議な女児の前では好奇心や子供への興味が先行した。

「先日、カマキリの脚をもいでくださったことです。動けなくなったカマキリを食べることで、わたくし含め家族が食いっぱぐれることなく、今日まで生きて来られました」

 女児はまた頭を下げた。

 少年は慄然とした。女児の言葉の残酷さにではない。誰も知るはずもない自分の秘密を、この子供に知られているということに、彼は口をパクパク言葉を紡ごうとして、胸で早鐘を打った。

「な、なんで知ってる?」

「なんでって、助けてもらった方の顔を忘れるはずもないじゃないですか」

 女児は無邪気な口調で首を傾げる。少年は言葉に詰まる。おそらく、万引きを見られたときや、ポイ捨てを見られたときのような心持ちだと、少年は思った。

 もちろん、そんな経験は少年にはなかった。しかし、今の状況は、今の自分の感情は悪事を咎められた人間のそのものだと理解できた。

 品行方正の彼の、ただひとつの秘密。不道徳な悪事。やめられないへき

 他にも見られているのか?

「なっ、なんなんだ! 僕は誰にも迷惑をかけていない! 僕をっ、僕を責めるのか?」

 少年は自分でも何に憤慨しているのか分かっていなかった。女児はそんな彼を、言っている意味が分からないという様子で見ているだけだった。

「悪いとかいいとか分かりませんけど、わたくしたちが助かりました。ただそれだけです。では本当にありがとうございました。息災でお過ごしください」

 女児は立ち上がり、深々と低頭した。そして女児は駆けていって、すぐに見えなくなった。

 そよ風が吹き、草木が揺れる。川のせせらぎと鳥の鳴き声が混ざる。少年の手には小さな箱とブローチが残された。

 ふと、彼の視界の端に動く点のようなものが認められた。それは虫であった。

 草の色に紛れて、一見何もいないように見える。保護色だ。目を凝らせば、そこにいるのは分かった。公園の草は緑だ。だからそれも緑色だった。

 直翅目バッタ科トノサマバッタ亜科、学名はLocusta migratoriaである。つまりトノサマバッタ。ダイミョウバッタとも言われる。ベンチの足下にいたのはそいつだった。

 少年はただ、それを見つめていた。

 お天道様があたりを照らしていた。

 

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