比翼連理

八尾倖生

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 今日は、スーツ姿のOLが陵辱りょうじょくされている三十分ほどの動画で、夜をやり過ごした。

 二十代後半から三十代前半くらいの、「女上司」という肩書きが正に当てまりそうな妖艶ようえんな女性が、出張先で若い男の部下と同部屋になってしまうというありきたりな設定の下、お酒を飲まされて酩酊状態にされた末、半強制的にかんせられている。

 ところが僕は、無料動画サイトに落っこちていた既製品の切り抜きであろうこの三十分の動画のうち、初めの十五分ほどで既に切っていた。動画自体は始めの五分ほどで作品の設定と男の部下の心の内を描写し終え、次の五分間で「女上司」を酩酊させ、また次の五分間で徐々に服を脱がせ始めて、そこから最後までは女性の身体をひたすらむさぼっていた。なので初めの十五分ほどでは、動画の一番の見所には到達していないのだ。

 だが、僕にはそれで充分だった。僕は元来、シチュエーションのあるドラマ的な作品が好きだった。何事もない普通の日常から、人間の欲望だけが渦巻く非日常への架け橋を形造るあの瞬間、あの情動、あの狂躁きょうそうこそが、僕の中の閾値いきちとなる。僕は一度の自涜じとくで最大四度までことができるが、先の動画で言えば、まず始まってすぐ、同じホテルの部屋に上司と部下がいるということ自体に陰茎は反応し、二人が共にお酒をたしなんでいるところで一度目の射精をした。その後約一分間のインターバルを挟み、次の五分間で女性のスーツが脱がされ始め、スカートが取られて下穿きが露わになったタイミングで、二度目の射精を行なった。

 ただその日は二日連続という条件だったため、その時点で筆は自重した。以前からあれほど連日で抜くことはご法度だと自分で決めていたのに、大学から帰る途中の電車で隣に座ったキャリアウーマンの甘美な香りと、ほのかに触れたその左太ももの深淵な柔らかさに血潮は絶叫し、眠りはこの情欲の陰に隠れ、明後日が一限で早起きだから今日で調整しようという言い分をかこつけて、生殖細胞たちの宴を推し進めた。ちなみに昨夜用いた動画は家庭教師の筆下ろしモノであり、女性の方が積極的かどうかという違いはあったものの、年上の女性と年下の男という構造は一致していた。

 そのようなことを頭の中で巡らせているうちに、気付いたことが一つある。どうやら僕は、年上の女性が好みらしい。どちらもシチュエーションで言えば鉄板中の鉄板だろうし、失礼な物言いだが、動画内の女性も特別自分の嗜好しこうに当てまる容貌ではなく、また業界内で高く評価されているわけでもなさそうだった。家庭教師の方に関しては、動画の詳細欄に名前すら載っていなかった。しかし彼女らのまとう情緒は、確実に、僕の情欲をくすぐった。

 自分より遥かに豊かな人生経験を携えている泰然な淑女が見せる、鷹揚おうような快感と一縷いちるの恥じらい。その海のような優しさと、粉雪のようなあどけなさが悠久の美を創り出し、僕の卑小な器を錯覚で満たし尽くす。仮に状況を逆転させたとしても、あおほのおは発光を留めない。自分より高潔な人生を送ってきた若者に手籠めにされる、ある種愉悦を含んだ恥辱と、自身の醜さがもたらす背徳感が、凡俗な年増女の中に潜む明鏡止水をあぶり出す。彼女らがむ桃源郷には、斯様かよう瑰麗かいれいが自然の一つ一つに身を潜めている。それらに触れたとき、心の中に生まれるのは熱いものではなく、口の中で溶けたアイスが血と混ざり合うような、あかくて冷たい、それでいて生命力を宿した、空々漠々な理性と本能だった。

 しかし現実は、あまりにも現実過ぎる。こんな風な安っぽい色遊びで背伸びをしてみたものの、結局のところの事実は、僕はそのような女性と具体的に接する機会など一切なく、ただ単に「初めて」で恥をかかないようなシチュエーションをひたすら夢想し、結果的に、年上の女性に導いてもらうことが最適解であるという解答を突き付けられ、そうした意識が僕の嗜好すら支配しているのではないか。それならそれで、性犯罪に繋がるような悪趣味への羨望を抱くよりはマシなのではないか。仮に伴侶を持つ人妻と関係を持った際、世のことわりには反しているが、まだ幼い小学生の娘に手が伸びるよりは、人妻本人に全ての思慕を預ける方がまだ道徳的ではないだろうか。

 既に萎れている皮を被った一物が、陰惨な色で僕の顔面を見つめている。大学でもアルバイト先でも、小さな自尊心を守るために欲求に蓋をして、ただ日々を浪費している生き方に、当てつけのような欲情で対抗してくる。「お前はこうしたいんだろう」と、「お前に欠けているものはこれだ」と、出来もしない提案を並べ立ててくる。そうして脳が出来もしないと訴え返すと、「それなら一生そうしていろ。俺は溜まるものさえ出せれば充分だ」と、次なる欲情を煽り立てる。シチュエーションのみに傾倒する誤った倫理観で、また新たな誤った男女関係への願望が植え付けられる。

 そうやって今日という日も、現実の男女関係から遠ざかっていく野鄙やひな慣習を終えて、夜をやり過ごした。


 翌朝八時、アラームの人工的なさざめきに促され、目を覚ました。同じタイミングで起きた母が作る朝食をしたため、起きてから一時間後の九時ピッタリに家を出た。いつものように東京の西側へと走る電車を乗り継ぎ、生きている年数とその先にある死の運命だけが僕と同じな若者たちが集う広大なキャンパスへと足を運び、中途で踏み止まる千差万別な青年期を見せつけられながら、十八時に帰宅した。

 おわかりいただけただろうか。人生の夏休みとも評されることのある大学生活で、これほどまでに描写する出来事がないことに。これは一日で起きた何かしらの出来事を端折はしょっているわけではなく、特別取り立てるような出来事が本当に何もないのだ。ただ電車に乗って大学へ行き、ただ午前の講義を受け、ただ昼休みに昼食を認め、ただ午後の講義を受けて、ただ電車に乗って帰宅する。その道中に先のキャリアウーマンのような女性と出くわせば、普通の人間であればただの一風景に過ぎないのだろうが、僕にとっては祭に発展し、人生に影響を与える。

 もう一年以上、僕はこんなやり方でしか生を営めない。光が昇れば光を眺め、光が沈めば光を仰ぐ。朝起きて、社会の歯車が満足に回っていることを悟れば、感情は言い様のない不満足に陥る。

 別に、誰かの不幸を願っているのではない。自分だけが不幸だと自惚れているわけでもない。僕は別に、世間的に見れば不幸ではないのだ。着る服があり、腹を満たす食べ物があり、住む家があり、おまけに、学生という免罪符を持っている。道を歩くだけで咎められることもなく、行くべき場所に行けば、それなりの待遇が用意されている。『トゥルーマン・ショー』のように僕の一挙一動を世界に発信すれば、魂を入れ替えさせてくれと懇願する老若男女もどこかにはいるはずだ。

 しかしそれに対して、承諾する勇気はまるでない。なぜなら僕は、今の生き方でしか生を営める気がしないからだ。衣食住が欠如している環境に当たれば当然淘汰されるだけだろうし、仮に自分より遥か上の、薫陶くんとうを施され、溢れるばかりの色彩と風雅を備え、知性も品性も世界中から約束された才媛さいえんな令嬢が、心に空いた小さな隙間を瑞々みずみずしい好奇心に換え、自分と同年代の男子大学生に憑依しようという無垢な懇願も、無下にしてしまうだろう。たった一日だけ、いや、眠りに就く前のほんの十分だけ、ゼウスの見惚れるようなその身体を、自分のものにしてみたいという願望はある。けがれのないその身体を、ヘーラーの嫉妬により牝牛めうしや熊に変えられてしまうような美しい衣服の中身を、ほんの少しだけ、嗜んでみたいという邪心が芽生えていることは否定しない。しかし、その生活に立ち入るどころか、才色兼備を護り通せというゼウスのみことには、応えることはできない。僕の小さな器が護り通せるのは、小さな器がすっぽりと収まったこの着ぐるみだけだ。この小さな着ぐるみの前に敷かれた、狭くて暗く、舗装されていないデコボコなそば道がしるしている、規模の知れた生涯だけだ。

 今僕は大学二年生だが、振り返るほどでもないこの一年間を無理やり振り返ってみると、かの令嬢がおののき震え上がるような、無為な一年だったと改めて思う。運動部に所属し、同性も異性も程々に付き合っていた中学時代までは想像もしていなかった、凄惨せいさんな時間を送っている。サークルには所属しておらず、外国語のクラスを含めても交友関係は皆無と言っていい。大学内に僕の名前を存知している人間がいれば、それはたまたま僕の情報を扱ったことのある事務の人間か、外国語のクラスで全員の名前と人間関係を把握している、影武者気取りの天邪鬼あまのじゃくな女子学生か、学生間で大量の情報を売買している、権謀家気取りの幼気いたいけな男子学生くらいだろう。後者二人が実際に存在するかどうかは絵空事に過ぎないが、こんな絵空事を自分の置かれている立場もかえりみず描いている時点で、僕の対人能力に支障があることは見え透いている。これで地方からの上京者であったなら、強いられた一人暮らしの中で魂が磨かれたのかもしれないが、同じ都内の実家暮らしで、しかも未だに家事全般を母に負担させている環境は、ある意味、渇きが生んだ天誅てんちゅうなのかもしれない。

 だからこそ、僕の願望は導きに割かれている。自分の経験の何もかもを若き色欲に捧げてあげたいと願う魔性的な欲求が、この世のどこかに息いていることを信じて、春の黄昏たそがれと共に沈んでいく一日をただその場で眺望する、それが、僕の大学生活であり、人生なのだ。取り立てる出来事など何もない。衆目を集める瞬間などどこにもない。人が出会い、そして、別れていく瞬間をこの目に焼き付けながら──、いや、焼き付けている気になりながら、明日という日に思いを馳せることもない。誰かに救ってほしいわけでもない。

 ただ、きっかけが欲しいだけだ。機会が欲しいだけだ。約二十年間を共にしてきた、自分の理性と本能を試せる、絶好の機会が。


 翌朝六時半、早起きだけが取り柄な生活機能が、今日も正常に働いた。一週間のうちでは比較的混んでいる電車に乗り、多種多様な風采と行き先を一瞥いちべつし、社会の一員になっている気だけを保つ一日が、今日もまた始まった。

 もし自分から学生の身分が剥奪されたら、僕はどうやって社会と向き合えばいいだろう。もし何かしらの外的要因により、社会に触れる機会が著しく制限されたとしたら、僕はどうやって塞ぎ込む自分の思考に打ちてばいいだろう。並行して時代を生きるの道筋を、どう捉えればいいだろう。

 無論、彼らには相応に幸甚こうじん謳歌おうかしてほしい。小学校で離れ離れになった縁人も、中学校で発育を共にした同朋も、高校でただ同じ時を過ごした同輩も、将来を誓い合った、ただ一人の朋友も、その途中途中で僕の思春期に花を添えてくれた妙齢な少女たちも、自らの汗と涙で幸福を掴む血気がある。自らが描いた夢にその身を預ける精気がある。それこそが、人間を生に至らしめる何よりの権利なのだ。

 では、僕はどうだろうか。僕には汗と涙は必要だろうか。描いている夢はあるだろうか。そうやって言い分と考察ばかりを並び立てる人間に、微笑む女神などいるだろうか。

 社会の歯車は今日も、自らの欲求と欲望のために漸進ぜんしんする青年たちの営みを妨げない。その姿を見て、自らの立場と居場所を誇示する壮年たちの心持をあざけりはしない。その姿を見て、自らの生涯と足跡に最後の肯定をけしかける老年たちの生き様を否定しない。

 欲求と欲望のために営み、そうして得た立場と居場所を心持に仕舞い込み、肯定できるだけの生涯を足跡にする。それが、人並みの幸せなのだろうか。人並みの生き様なのだろうか。そこから外れた僕は、それができない僕は、三文小説でしか飢えた愛を消費できないのだろうか。

 愛は確かに、世界を救うかもしれない。世界に希望をもたらすかもしれない。

 しかし愛は、世界を壊す兵器にもなる。逃れようのない束縛で人々の運命をもてあそぶ。

 それが、僕の内に慈悲をかたどる、愛の果てと終わりである。

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