嵯峨の帝は輝く龍の泉の夢を見るか
大隅 スミヲ
第1話
空海に与えられた部屋には、空海が唐より持ち帰った
「空海殿に客人が見えられています」
その部屋に中務省の役人がやってきて、取り次いだ。
「ほう」
空海は書に目を落としたままで、
「どうやら、
まったく興味を示そうとしない空海に対して、役人は少しだけ強い口調で言う。
「なるほど」
やはり空海は、顔を上げなかった。
役人は苛立った様子を見せたが、それでも空海は顔を上げることは無かった。
すると新たな気配が部屋の前に現れた。
「空海よ、
そこでようやく空海は書から目をあげた。
聞き覚えのある声がしたからだ。
部屋の前には
橘逸勢は、空海と共に唐へ渡った人物であり、空海にとっては
「偉そうな口調だな、
笑いながら空海がいう。
「別にそういうわけではない。私は帝の使いとして参ったのだ」
「それが偉そうな口調というのだよ」
空海の言葉に、中務省の役人は顔を背けて笑いを噛み殺している。
「帝がお待ちだ。すぐに行くぞ」
「わかったよ、逸勢。支度をするから待ってくれ」
のんびりとした口調で空海はいうと、読みかけの書を閉じて文机の上に置いた。
空海と橘逸勢は、中務省の前に止めてあった
「やはり、偉くなったものよ」
牛車の中で空海が呟くように言う。
反論することも面倒になった逸勢は黙ったまま、
「ちょっと、止めてくれ」
急に空海が牛車を引いていた
「おい」
空海は牛車の簾を上げて、道を歩く若い男に声をかけた。
声をかけられた若い男は、天を衝くような大男であり、急に目の前に停まった牛車を訝しげな目で見ていたが、中に乗る空海の姿を見るとその難しい顔を破顔一笑させた。
「これはこれは、空海様ではありませんか」
若い男は空海に頭を下げる。
空海の隣に座っていた逸勢は、男の顔をじっと見た。
どこかで見たことのあるような顔であるが、それが誰であるかは思い出せなかった。
「こちらはどなただ、空海よ」
「
「おお、あの……」
逸勢は何かを言いかけて、そこでやめた。篁には色々な噂があり、その噂話のひとつを逸勢は持ち出そうとしたのだろう。
「小野篁にございます」
「私は橘逸勢だ」
「存じております」
「ほう。私のことを知っていたか」
「はい、よく空海様よりお話を」
その篁の言葉に逸勢はちらりと空海を見たが、空海は聞こえない振りをしていた。
おそらくその話というのは、逸勢にとってあまりいいものではないのだろう。
「篁、私はこれから帝に会いに行く。ちょうど良い、乗れ」
「お、おい、空海」
その言葉に慌てたのは逸勢であった。
「よろしいのですか」
「乗れ」
「では」
篁はそういうと、ひょいと牛車の中に乗り込んできた。
「帝に会いに行くのだぞ、空海」
「わかっておる。帝も篁に会いたかろう」
空海はそれだけ言うと、目を閉じてしまった。
そんな会話をしている間にも、牛車は
牛車を降りた空海たちは、
紫宸殿の中では、
「空海殿をお連れしました」
部屋の入口の前で逸勢は頭を下げてそう告げると、部屋の奥にある
「うむ。中へ入れ」
「陛下、ご無沙汰しております」
御簾の前まで進み出た空海は穏やかな声で、御簾の向こう側にいる帝へ声をかけた。
時の帝、嵯峨天皇と空海、橘逸勢の三人は、のちの書の世界で最高峰の三人として『
「珍しいのを連れてきたな」
「はい。こちらに向かう途中で出会いまして。何か役に立つのではないかと、連れてまいりました」
「そうか。篁よ、そなたもこちらへ参られよ」
「はっ」
帝は篁の父である小野岑守に絶大な信頼を置いており、以前篁が陸奥の地で武芸に明け暮れているということを知って「漢詩に優れ
なお、侍読というのは帝に学問を教える立場の人間のことである。
この話を人伝いに聞いた篁は、武芸の修行をやめると、勉学に励み、
「空海に橘逸勢、小野篁か。面白き者たちが集まったのう」
帝は扇子で口元を隠しながら笑う。
「それで此の度、この空海を呼ばれたのは……」
「ああ、そうであった」
そう言うと、帝は昨晩に見た夢の話を語り始めた。
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