嵯峨の帝は輝く龍の泉の夢を見るか

大隅 スミヲ

第1話

 中務省なかつかさしょうきょを構える僧の空海くうかいのもとへ、みかどよりの使いがやってきたのは、年明け二日のことであった。


 朝餉あさげを済ませた空海は、唐より持ち帰ったしょを読み、ゆっくりと時が過ぎていくのを感じ取っていた。

 空海に与えられた部屋には、空海が唐より持ち帰ったしょや空海が書き記したしょが所狭しと置かれている。書の整理などは空海の弟子たちがおこなっていたが、いま空海の座る文机ふみづくえの周りには空海の読んだ書が散らかされている。


「空海殿に客人が見えられています」


 その部屋に中務省の役人がやってきて、取り次いだ。


「ほう」


 空海は書に目を落としたままで、空返事からへんじをする。


「どうやら、内裏だいりからのようですぞ」


 まったく興味を示そうとしない空海に対して、役人は少しだけ強い口調で言う。


「なるほど」


 やはり空海は、顔を上げなかった。

 役人は苛立った様子を見せたが、それでも空海は顔を上げることは無かった。

 すると新たな気配が部屋の前に現れた。


「空海よ、みかどがそなたを呼んでおる。内裏へ参れ」


 そこでようやく空海は書から目をあげた。

 聞き覚えのある声がしたからだ。

 部屋の前にはたちばなの逸勢はやなりが立っていた。

 橘逸勢は、空海と共に唐へ渡った人物であり、空海にとってはともとも呼べる男であった。 


「偉そうな口調だな、逸勢はやなりよ」


 笑いながら空海がいう。


「別にそういうわけではない。私は帝の使いとして参ったのだ」

「それが偉そうな口調というのだよ」


 空海の言葉に、中務省の役人は顔を背けて笑いを噛み殺している。


「帝がお待ちだ。すぐに行くぞ」

「わかったよ、逸勢。支度をするから待ってくれ」


 のんびりとした口調で空海はいうと、読みかけの書を閉じて文机の上に置いた。



 空海と橘逸勢は、中務省の前に止めてあった牛車ぎっしゃに乗り、内裏へと向かった。内裏などは、歩いてもすぐの距離である。しかし、逸勢は帝からの使いということでわざわざ牛車に乗ってやってきたのだ。


「やはり、偉くなったものよ」


 牛車の中で空海が呟くように言う。

 反論することも面倒になった逸勢は黙ったまま、すだれ越しに見える外の景色を眺めていた。


「ちょっと、止めてくれ」


 急に空海が牛車を引いていた牛飼うしかいわらわに声をかけて、牛車を止めさせた。牛飼童というのは、職名であって本当に童子どうじというわけではない。ただ、その格好は水干に垂髪という童子どうじのような格好であり、その童形が牛飼童の語源となっている。ちなみに、このとき牛車を引く牛を先導していた牛飼い童の年齢は35歳と、童子からはほど遠い年齢であった。


「おい」


 空海は牛車の簾を上げて、道を歩く若い男に声をかけた。

 声をかけられた若い男は、天を衝くような大男であり、急に目の前に停まった牛車を訝しげな目で見ていたが、中に乗る空海の姿を見るとその難しい顔を破顔一笑させた。


「これはこれは、空海様ではありませんか」


 若い男は空海に頭を下げる。

 空海の隣に座っていた逸勢は、男の顔をじっと見た。

 どこかで見たことのあるような顔であるが、それが誰であるかは思い出せなかった。


「こちらはどなただ、空海よ」

参議さんぎ小野おのの岑守みねもり殿のご子息で、小野おののたかむら殿だ」

「おお、あの……」


 逸勢は何かを言いかけて、そこでやめた。篁には色々な噂があり、その噂話のひとつを逸勢は持ち出そうとしたのだろう。


「小野篁にございます」

「私は橘逸勢だ」

「存じております」

「ほう。私のことを知っていたか」

「はい、よく空海様よりお話を」


 その篁の言葉に逸勢はちらりと空海を見たが、空海は聞こえない振りをしていた。

 おそらくその話というのは、逸勢にとってあまりいいものではないのだろう。


「篁、私はこれから帝に会いに行く。ちょうど良い、乗れ」

「お、おい、空海」


 その言葉に慌てたのは逸勢であった。


「よろしいのですか」

「乗れ」

「では」


 篁はそういうと、ひょいと牛車の中に乗り込んできた。


「帝に会いに行くのだぞ、空海」

「わかっておる。帝も篁に会いたかろう」


 空海はそれだけ言うと、目を閉じてしまった。

 そんな会話をしている間にも、牛車は大内裏だいだいり内を進み、内裏に入るための建礼門けんれいもんを通過していた。



 牛車を降りた空海たちは、逸勢はやなりに連れられて紫宸殿ししんでんへと通された。

 紫宸殿の中では、こうが焚かれており、どことなく厳かな雰囲気があった。


「空海殿をお連れしました」


 部屋の入口の前で逸勢は頭を下げてそう告げると、部屋の奥にある御簾みすの向こう側から声が聞こえてきた。


「うむ。中へ入れ」

「陛下、ご無沙汰しております」


 御簾の前まで進み出た空海は穏やかな声で、御簾の向こう側にいる帝へ声をかけた。

 時の帝、嵯峨天皇と空海、橘逸勢の三人は、のちの書の世界で最高峰の三人として『三筆さんぴつ』と呼ばれるようになる人物である。


「珍しいのを連れてきたな」

「はい。こちらに向かう途中で出会いまして。何か役に立つのではないかと、連れてまいりました」

「そうか。篁よ、そなたもこちらへ参られよ」

「はっ」


 帝は篁の父である小野岑守に絶大な信頼を置いており、以前篁が陸奥の地で武芸に明け暮れているということを知って「漢詩に優れ侍読じどくを務めるほどであった岑守の子であるのに、なぜ弓馬の士になってしまったのか」と嘆いたほどだった。

 なお、侍読というのは帝に学問を教える立場の人間のことである。

 この話を人伝いに聞いた篁は、武芸の修行をやめると、勉学に励み、平安京みやこに戻った際は文章生もんじょうしょうの試験に一発合格していた。


「空海に橘逸勢、小野篁か。面白き者たちが集まったのう」


 帝は扇子で口元を隠しながら笑う。


「それで此の度、この空海を呼ばれたのは……」

「ああ、そうであった」


 そう言うと、帝は昨晩に見た夢の話を語り始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る