フユキとの毎日

 噂はマンションの管理人さんに届いたらしい。子どもがいないはずの家で僕らの存在を隠したいお母さんは、「預かっている子」としてやり過ごした。

 

 僕らを家にも外にも置けないと苛立ったお母さんは、諭すようにこう言った。 



「マンションの下の交差点に行きなさい。そしてなるべく大きな車が来たら、走って飛び出すの。大丈夫、すぐ終わるから」



「…………」



「それが出来ないなら、そこの道をずーっと歩いて家から離れなさい。子どもだから、そのうち誰かが声をかけてくるだろう。そうしたら、歩いた道と反対方向から来たと言うんだよ。親の名前も自分のことも分からないと言えば、どうにかなるから」



「お母さん」



「何度も言ったでしょ、あんたのお母さんじゃないから。頼むからさ、もう」




 お父さんも思ってるのかな……。




「死んでよ」








 何時間も玄関に立たされ、そんな言葉を聞いた。


 僕はお母さんが背中を向けるのを待っていた。




「行こうかフユキ」


「行こう、ハルキ」





 夜だった。どういうわけか玄関ドアは開けっぱなしで、僕らは音もなくマンションの階段へと歩いた。


 暗い階段も、行く当てもなく出て行くことにも怖さはなかった。それよりも本当はわくわくしていたんだ。


 幼くて、先の不安なんて少しも感じていない。ここから離れれば痛みから逃げられる、顔色に怯えながら息を潜めなくてもいいんだ。それしか思わなかった。

 

 いつも『今』だけを生きていたから。 


 だけど僕らは本当に幼くて、大人が考える損得なんて分からない。僕らが言う「ごめんなさい」は受け入れてもらえないのに、誰かの言葉は嘘でも簡単に喜んでしまう。




「ちょっと、あんた本当に行くの?」




 降りかけた階段から振り返ると、開いた玄関ドアからお母さんが覗いていた。




「まあ、出たいならいいけど、出たいなら」




 決して僕らが必要だったわけじゃない。今なら分かるけど、この頃の僕らがすがるには十分な言葉だった。




「……い、行かないよ」




 いてもいいんだと、馬鹿な勘違いに喜んでしまうほどに。



 そんな僕らだったから、期待が打ち砕かれる日もすぐにやってきた。





「おまえ、こぼしたな!」



 いつもの怒鳴り声だったけれど、この日のお母さんは収まらなかった。



「ぼろぼろこぼしてんじゃねーよ」


「ごめ……」




 朝ご飯をもらえることは珍しかった。一枚の食パンを細かくちぎって渡されたそれはとても硬く、小さな粉が皿代わりの新聞紙からはみでていた。



「ごめんなさ、すぐ片付けま……」



「どっちの手がやった?」



「え?」



「どっちの手がこぼしたか、つってんだよ!」



「あ、あの」




 出した方が叩かれるんだと思った。




「早く出せ!」



「はい、こっちです」





 どちらでもよかった。考えずに右手を差しだしたんだ。





「ぎゃぁー、熱いっ、」



 信じられない痛みに叫んだ。更に強い痛みが走る。


 差しだした右手の甲を掴んだお母さんは、吸っていたたばこの火を押し当てていた。




「熱いっ、痛いよ、熱いよお母さん」



「うるさいっ、口塞ぐぞ」




 恐怖と痛みで涙が止まらないのに、僕は必死で息を止めた。声を出せばもっと痛いことがやってくる。


 お母さんは僕の手の上でねじってタバコの火を消した。




「さっさと外出ろ」




 震える腕を押さえながらいつものようにサンダルで外に出た僕は、その日は人の来ない建物の裏で一日を過ごした。僕の手……真ん中の黒く焦げたところを見つめながらずっと隠れていた。




 




 いつだって、フユキがいたから寂しくなんかない。けれどだれも僕らを見つけてくれないから、時々僕らは本当にいないんじゃないかと思うんだ。


 お父さんは僕らがご飯を食べていないことを知らない。怪我をしていても気づかない。僕らは……見えていないのかもしれない。   




 僕らの存在に困った大人は、僕とフユキを遠くの保育園に行かせた。


 朝早くにお父さんが車で送ってくれる。お父さんと僕らだけの時間が嬉しかった。毎日、行きと帰りにお父さんと話せることを楽しみにしていた。



 なのにお父さん……迎えに来なくなったよ。


 夕方にはみんな帰って行くのに。僕だけ、何も言わず突然置き去りなんて。


 どうしていつも置いて行かれるんだろう。なぜ僕を忘れてしまったの。




 なんで、どうして、僕らのことが見えないんだろう――。




 












 




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