第3話 多田春疾②

 日付は少し戻り──昨年、秋の終わり。


 多田ただ春疾はるとは同級生のこう莉子りこのボディガード任務を完遂した。春疾はクラブ活動を休む旨コーチ、もしくは同じクラブで活動しているメンバーに伝えなかったことを、莉子はバレエ教室を無断で欠席したことを黄コーチに注意され、ふたりしてきちんと謝罪をしたのだが、


「変な人、いなかったね」

「うん。でも……」

「あ、別にオレ、莉子ちゃんが嘘言ってるとか思ってないから」


 翌日教室で顔を合わせた春疾と莉子はそんな風に言葉を交わした。


 莉子が恐れる『変な人』は莉子の自宅前にはいなかった。莉子が一軒家の中に入っていくのを見届けた後、春疾はバレエ教室の前まで歩いて行った。30分ほどかかった。冬の空気はひどく冷たく耳がちぎれそうだったが、莉子が教えてくれた三階建てのビルの前に辿り着く頃には体はすっかり温まっていた。『空色バレエ教室』は三階建てのビルの二階にあり、特に不審な印象は感じなかった。もちろん、玉虫色のサングラスをかけた奇妙な人間の姿もなかった。

 春疾は『空色バレエ教室』が入っているビル前をチェックしたことも合わせて莉子に報告した。形の良い眉を下げた莉子は困りきった様子で「そうかぁ……」と呟いた。


「なんでだろう……私が考えすぎてるのかなぁ……」

「いや、でも、ストーカーってそういうものじゃない? オレと莉子ちゃんが一緒にいたから姿を見せなかっただけかも」

「そう……ハルくん、ごめんね。ありがとう」

「いいよ。ていうか、どうする?」


 この場合の「どうする?」は「今後どうする?」という意味だ。春疾は目撃していないとはいえ、莉子は玉虫色のサングラスをかけた人間に付き纏われていると証言している。春疾としては──警察官の父を持つ多田春疾としては、この件をそのまま放置しておく気にはなれない。莉子が父親である黄コーチに相談するのに躊躇いがあるというのなら、春疾の父にそれとなく情報を流すことだってできる。


「そんな、迷惑かけられないよ」

「迷惑じゃないよ」


 即答する。春疾自身は、莉子に対して特別な感情を持っていない。でも彼女はクラスメイトで、サッカークラブでお世話になっている黄コーチの大切な子どもだ。莉子が不安な思いや怖い思いをしているというのであれば、力になりたいという気持ちはあった。


 今日は水曜日。明日は木曜日。春疾はサッカークラブ、莉子はバレエ教室に行く日だ。


「バレエ、明日も休むのは困るでしょ」

「……うん」

「今日、オレが父さんに相談してもいいけど。それか、クラブ休んで、バレエのとこまで送っていくとか」

「……」


 紺色のスカートをぎゅっと掴んで俯く莉子は、やがて意を決した様子で口を開いた。


「明日バレエ教室まで、送ってくれる?」

「オッケー」


 その日の放課後、春疾はクラス担任の洗馬先生を捕まえて「明日クラブ休みます」と伝えた。洗馬先生はちょっと驚いた顔をして「火曜日も来てなかったけど、なんかあったのか?」と尋ね、春疾は「すごく大事な予定があるんです」とだけ応じた。洗馬先生から両親に連絡が入ったりしたら──その時はその時だ。別に春疾は、悪いことをしているわけではない。


 木曜日、放課後。淡い紫色のランドセルを背負い、バレエ教室用の鞄を肩から下げた黄莉子と、同じく黒いランドセルを背負った多田春疾はふたりで『空色バレエ教室』に向かうためにバスに乗った。バス代は莉子が出してくれた。春疾は「お礼に」と彼女のバレエ教室用の鞄を持った。バスに揺られた時間は、ほんの10分程度。歩いて行くとずいぶん遠かったのにな、と春疾は思った。ふたり掛けの座席の窓側に座った莉子の顔色は、少しだけ青褪めて見えた。

 バスを降り、『空色バレエ教室』が入っている三階建てのビルに向かう。歩いて1分もかからない。ビルの前には軽自動車や自転車が停まっていて、バレエ教室の生徒と思しき子どもたちが送迎をしてくれた親──もしくはきょうだい、さもなくば親戚──に手を振りながら、エレベーターが来るのを待っていた。


「いる?」


 春疾が尋ねた瞬間だった。莉子の右手が、春疾のスタジャンの腕を強く掴んだ。


「ハルくん!!」

「どこ!?」


 その──ひとは。

 三階建てのビルの前に置かれた飲料の自動販売機の前に、ひっそりと立っていた。

 誰も気付いていない様子だった。

 異様だった。

 玉虫色のサングラスをかけていた。


 それだけでもひどく目立つというのに、『空色バレエ教室』の生徒たちの保護者でもなんでもなさそうな風体──真っ黒い裾の長いコートを着込んで背筋良く立つ姿が本当に奇妙で、莉子が怖がるのも無理はないと春疾は判断した。


「……あれ、莉子ちゃん?」


 春疾の腕に縋るようにして立つ莉子に、声をかけた者がいた。振り返ると同年代ぐらいの──しかし見知らぬ少女が、母親らしき女性と一緒にこちらを見ていた。


「火曜日お休みだったけど、大丈夫? どうしたの?」


 どうしたの、は自動販売機の方をじっと見詰めている今の状況についての問いだろう。莉子は薄っすらと浮かんだ涙を空いている方の手の甲で拭い、


「キミちゃん。あの……今……あそこに……」


 指を差した先──自動販売機の前には、玉虫色のサングラスの男の姿は既になかった。


 と呼ばれた少女、君村きみむらかすみは別の小学校の五年生なのだという。莉子とはバレエ教室に通い始めたタイミングが同じで、もう三年の仲なのだと胸を張って自己紹介をされた。

 莉子は、玉虫色のサングラスの男(その瞬間の春疾には男性に見えた)のことを君村かすみには言わなかった。「?」と興味津々で尋ねてくる君村かすみとその母親に「うん」と答えてしまったせいで、春疾は莉子の彼氏で、最近変な人に遭遇することが多い莉子のために今日はボディガードとしてバレエ教室まで一緒にやって来た、という設定にされてしまった。「本当は生徒さんと保護者以外は中には入れないんだけど」と『空色バレエ教室』の講師である大庭おおば先生は苦笑いをしながら春疾を教室の中に入れてくれた。レッスンが終わるまでの1時間半、春疾はバレエスタジオの端に置かれた椅子に腰を下ろし、持参した水筒のお茶を飲みながら過ごした。何回か「ちょっとトイレ」と言って教室を出、階段で一階まで降りて辺りを確認したが、玉虫色のサングラスの男の姿を見つけることはできなかった。


 春疾は二週間に一度のペースで、莉子のボディガードをした。バレエ教室の関係者から「」だと思われている件については、言い訳や訂正をしなかった。莉子を大事にしている「カレシ」だと認識されている方が、何かと都合が良かったからだ。玉虫色のサングラスの男は、春疾がいない日には必ず姿を現しているという。だが、春疾がボディガードを勤める日には絶対に出てこない。


 莉子のことを狙っているのだ。小学生の春疾にも分かった。


 やっぱり、そろそろ父に──警察官の多田隼人に事情を説明すべきではないか。莉子と春疾の意見が一致し始めた頃、事態が急変した。


「ハルちゃん」


 クラブ活動がない金曜日の放課後。クラブメンバーと校庭でドリブル練習をしていた春疾に、とっくに家に帰ったはずの弟・ゆきが声をかけてきた。一年生の幸の授業は、今日は五時間目までしかなかったはずだ。


「幸? どうした?」


 驚いて駆け寄った春疾の手を掴んで、幸が言った。


「うちのまえに、知らない人がいた」

「えっ?」


 ──ひどく、嫌な予感がした。


「幸、それ、どういう……家の前に? 母さん……はまだ仕事か。父さんもいないよな。家には入れたのか?」

「うん。それでね」


 春疾の抱く嫌な予感を他所に、幸はふにゃふにゃと可愛らしい笑みを浮かべる。


「これ、もらったよ」


 幸の小さな手が、春疾の手のひらにつるりとした何かを置く。

 それは、鮮やかな緑色に輝く、綺麗に磨かれた小さな石だった。

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