第2話 宝石②

 犬飼いぬかいに先導された煤原すすはら小燕こつばめは、検死、解剖を終え、霊安室に移動した遺体に面会する。遺体があまり良い状態ではないということに煤原はすぐに気付く。隣で遺体に手を合わせる小燕も同じ気持ちだろう。解剖を行ったせい、ではない。



 枕元に置かれた花には目もくれず、犬飼が遺体──体の大きさから察するに練炭心中をした母親だろう──の顔にかけられていた白い布を捲る。

 小燕が鋭く息を呑む。煤原は眉根に皺を寄せ、まじまじと亡くなった女性の顔を覗き込む。

 眼だ。犬飼の言う通りだ。遺体の眼窩がんかが、不自然に凹んでいる。

 柔らかい眼球が、眼窩の中に押し込まれている。


「本来ならば死体破損を行った人物に罪を問うべきかもしれませんが」

「別の場所で亡くなった夫が犯人か?」


 先回りをする小燕に、犬飼は神妙な顔で首を縦に振る。


「その通りです。指紋が出ました」

「指紋が? ……何から?」

「これです」


 遺体の傍らに置かれていたビニール袋を持ち上げ、犬飼が答える。



 手袋を嵌めた手で、小燕がビニール袋を受け取る。たしかに袋の中には──鮮やかな新緑色の石が入っている。これが、宝石?


「この石に指紋が付着していたのか?」

「はい。ええ、こちらのご遺体の名前は……瀬尾せお。瀬尾美音子みねこさん。32歳」

「若いな」


 小燕が顔を顰める。犬飼は小さく頷き、


「お子さんは小学五年生の陽毬ひまりちゃんと、小学二年生の青羽あおばくん──ふたりの眼窩にも同じように石が嵌め込まれていました。ご覧になりますか?」

「いや、いい」


 首を横に振った小燕はビニール袋の中身を霊安室の頼りのない明かりに翳し、


「この石の名称は? 間違いなく宝石なのか?」

「一般的に知られている名前は、翡翠ひすいですね」


 小燕と煤原を呼び付ける前に、調べられる部分はすべて調べ終えていたのだろう。犬飼は即答する。


「翡翠か。俺が認識している翡翠とはずいぶん色合いが違うように思えるが」

「どの宝石でも同じなんですが、人工着色された翡翠も世の中には多く出回っているんです。僕も、こういう……天然の美しさを持つ翡翠に遭遇したのは今回が初めてです」


 さらさらと応じながら犬飼がどこから取り出したのかタブレットを煤原に手渡した。そこには色とりどりの翡翠の写真が掲載されていて、


「緑じゃない翡翠もあるのか」

「そうなんです煤原さん。真っ白や真っ黒の翡翠も存在しますが、翡翠といえばグリーンというのが世の中の定番ですからね。緑色で上書きして販売しているものが偽物……というわけではないんですが、天然石の輝きとはやっぱり異なるというか」

「それで? この本物の翡翠が、瀬尾家の……練炭を用いて自死した三人の眼窩に嵌められていた、と?」


 小燕が話の軌道を修正する。そうです、と応じた犬飼は、


「すべての石から首吊りで自死をした瀬尾家の男性──瀬尾英壱えいいちの指紋が検出されました」

「まさかとは思うが」


 ビニール袋を犬飼に戻しながら、小燕が尋ねる。


「こっちが死因という可能性は……」


 眼窩に石をねじ込まれたことが原因のショック死。できれば想像したくない死因だ。犬飼は小さく首を横に振り、


「大丈夫です。いや、何も大丈夫ではないんですが、石はすべてご遺体──美音子さん、陽毬ちゃん、青羽くんが息を引き取ってから嵌め込まれています」

「そうか」


 僅かに安堵した様子の小燕が、「だがたしかに何も大丈夫ではないな」と呟いている。煤原も同じ気持ちだ。


「それで犬飼。わざわざ俺を呼び付けてまで石のことを報告するということは──単にその石ころが天然の美しさを持つ翡翠だから、という理由じゃないよな?」

「そうそれ。そこなんですよ。煤原さん、煤原さんもちゃんと聞いてください」


 犬飼、煤原、それに小燕は既に、『宝玉眼ほうぎょくがん』という通称の、不審者なのか怪異なのか分からないがとにかく不穏な存在の情報を共有している。長身のふたりを見上げながら、犬飼が続けた。


「ご遺体の前でこういう話をするのはどうかと思ったんですが、この石、翡翠ですね。価格が尋常じゃないんですよ」

「値段?」


 小燕が裏返った声を上げる。


「僕も調べてみて初めて知ったんですが、最高級クラスの翡翠は琅玕ろうかんと呼ばれています」

「もう翡翠って呼ばれてないのか」

「煤原さん余計なこと言わない。そしてですね、こういう良く澄んだ、それでいて濃いエメラルドグリーンの琅玕ろうかんには数千万の価格が付くと言われており……」


 数千万。突然飛び出した響きに、霊安室には奇妙な沈黙が落ちた。

 沈黙自体は奇妙であったが、三人の考えていることはほとんど同じだった。


「煤原」

「はい」

「瀬尾家は決して裕福な家庭ではなかったな」

「はい。家長──という言い方は今の時代正しくないかもしれませんが、瀬尾英壱は食品加工会社に勤務していましたが、給金のほとんどをギャンブルに費やしていたという証言が同僚、近隣住民から寄せられています」

「妻の美音子さんは」

「出版社の契約社員で、週に三日営業部の電話番を──あれ?」

「あ! 煤原さん、僕も気付きました」


 犬飼が挙手し、銀縁眼鏡を外した小燕が眉間の皺をぐりぐりと揉んだ。

 多田隼人の妻、多田瑛子えいこも出版社に勤務しているのではなかったか。それも、営業部の正社員ではなかったか?

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