第2話 多田春疾①

 多田ただ隼人はやとは結婚しており、妻の瑛子えいこ、それにふたりの息子・小学五年の春疾はると、小学一年のゆきの四人で暮らしている。年の離れた兄弟の仲は良く、春疾はつい先日まで保育園に通っていた幸の面倒を良く見ているという話だった。


 そんな春疾が「不思議な人に会った」と言い出したのは、昨年の秋の終わり、11月頃だという。


「サングラスをかけてる男の人なんだけど」


 と夕食の席で春疾は言った。多田はその日非番だったため、久しぶりに家族四人が揃うということで、夕食はすき焼きだった。


「サングラス?」


 瑛子が小首を傾げる。それのどこが不思議なの? と言いたげな表情だ。瑛子は多田と結婚する以前から、出版社に勤務している。現在は営業部に配属されており、毎日のように書店を飛び回る生活を送っている。


「そう、なんか……? のサングラス」


 玉虫色。あまり頻繁に聞くことのない響きに、多田と瑛子は顔を見合わせた。「ぼくもみたよ」と幸が口を挟んだ。


「キラキラしてたねぇ」

「してたよな」

「その──玉虫色のサングラスの……男か? それとも女?」

「父さん、男とか女とか、言い方良くない。、でしょ」

「ああ……」


 春疾がくちびるを尖らせて注意する。瑛子のことを「嫁」と言ってはいけないと言い出したのも春疾だ。彼の指摘は間違っていない。多田は短く刈った髪をかき回し、


「男性か、女性か──そうだな。俺の言い方が悪かった。それで、どんな人だったんだ?」

「それがねえ」


 幸の取り皿に焼き豆腐と肉、それにネギを盛りながら春疾は続けた。


「なんか良く分かんないんだよね」


 夫婦は再び、顔を見合わせた。


「なんか良く分かんないんだったら、不思議でもなんでもなくない?」


 瑛子が尋ねる。「ネギいらない!」と騒ぐ幸に、「全部食べないと風邪ひくぞ」と春疾が眉間に皺を寄せて脅している。実際、ネギは食べた方がいい。


「最初に見かけたの、オレじゃないんだけど」


 自分の取り皿の中身を食べながら春疾はどことなく歯切れの悪い調子で続けた。そこで、多田は気付く。この話を警察官である父親の前でいつ披露するかを、春疾はずいぶん長く悩んでいたのではないか──と。

 これは取り調べではない。家族の団欒だ。だから多田も、春疾を急かすような真似はしない。手元のお茶を飲み、五穀米をゆっくりと咀嚼しながら息子の言葉を待つ。


 玉虫色のサングラスの男性。春疾が彼に出会ったのは、夏休みが明けて少し経った頃のことだという。春疾は小学校内のサッカークラブに所属しており、毎週火曜日と木曜日に学年の違うチームメイトたちと練習を行う。コーチを務めているのは春疾のクラス担任である洗馬せんば先生と、高校サッカーで全国大会まで行ったという経歴を持つこうさん──春疾と同じクラスのこう莉子りこの父親だ──のふたりで、クラブの雰囲気はいつも和気藹々。男女混合チームの試合を多田も見に行ったことがあるが、幸が「ぼくもサッカーやりたい!」と騒ぐのも納得がいく良い雰囲気が漂っていたのを記憶している。


 黄コーチの娘である莉子はサッカークラブには所属していないのだが、試合にはいつも顔を出す。顔が小さく、すらりと背が高い莉子は学校内のクラブには所属しておらず、バレエ教室に通っているのだという。「莉子ちゃんを好きな子は多いよ」と春疾は軽い口調で言っていた。「あんたはどうなの?」と尋ねる瑛子に「オレは同じクラスにカノジョはいらないかな。だって、別れた時気まずくなっちゃうし」などと分かったような口を利いていた。自分の両親が高校時代の同級生であることを、春疾だって知っているはずなのに──そんなことは、ともかくとして。


 クラスのマドンナ的存在である莉子が、夏休みが明けて少し経った頃、春疾を個人的に呼び出した。火曜日だった。春疾はサッカークラブに向かおうとしていた。

 莉子は、青い顔をしていた。


「ハルくんのパパって、刑事さんだったよね?」


 ユニフォームとシューズが入ったバッグを抱えた春疾を図書室に呼び出した莉子は、そう尋ねた。別に隠すようなことでもないので「そうだよ」と春疾は答えた。続けて「何かあったの?」とも。何もない人間は、個人的に刑事を頼ろうとなんてしないからだ。

 莉子は大きく頷き、


「あのね……変な人が、いるの」


 と言った。

 変な人、という言葉から春疾はすぐにストーカーを連想した。莉子は大人っぽい顔立ちをしていて、スタイルが良く、それでいて笑った顔は誰よりも子どもっぽくて可愛い。そういう女の子を狙う変な人間がいることを、春疾は父親から聞いて知っていた。


「どこにいるの?」

「色んなところ……」

「莉子ちゃんを付け回してるって意味?」


 付け回す、と反復して、莉子は小首を傾げる。そういう意味ではないのか。ストーカーとは、違うのか。


「付け回されてる……感じじゃなくって」

「うーん?」

「先回りされてるっていうか」

「ええ?」


 話が見えなくなってきた。もしも莉子を付け回している悪い大人の男性がいるのであれば、すぐに父親に言おうと思っていた。それは犯罪だからだ。でも、先回りとはいったいどういう意味だ?


「そうだよね、分かんないよね……」


 莉子は大人びた顔をくしゃりと歪め、今にも泣き出しそうな表情をする。春疾は慌てて「信じてないわけじゃないよ」と言った。


「ちょっと、オレの想像が及ばなかったっていうか」

「想像が……」

「オレの想像力が足りなかった!」

「そ、そういう」

「うん」


 ユニフォームとシューズの入ったバッグを床に置き、腕組みをして考える。莉子は毎週、火曜日、木曜日には授業が終わった瞬間学校からいなくなる。バレエ教室に通うためだ。土曜日にも教室に行っていると黄コーチから聞いたことがある。プロのバレリーナになれる確率がどれほどのものなのか、春疾には分からない。でも、莉子がバレエに夢中だというのは分かる。春疾だってサッカーが大好きだからだ。

 そして、今日は火曜日。莉子はバレエ教室に行っておらず、春疾と図書室の書架の前で向かい合っている。図書委員は莉子のファンの男の子だったから、春疾と莉子がふたりで書架に向かうのを少し嫌な顔で見詰めていた。


「もしかして、バレエの時にもその……先回りされてるの?」


 莉子が頷く。


「いつから?」


 莉子は首を横に振る。


「覚えてない? っていうか、気付いたらいた、みたいな?」


 莉子が再び、頷く。


「コーチ……お父さんには言った?」

「言えない」


 莉子が答えた。


「どうして……いや」


 想像しろ。想像しろ、と春疾は自分に言い聞かせる。莉子の気持ちを、想像しろ。


 バレエ。


 黄コーチは、莉子にも何かスポーツをやってほしかった、とか言ってなかったか。サッカークラブの女の子たちがすっ転んで怪我をする度に「大丈夫、すぐに治るよ」と優しく声をかけながら、時々物憂げな表情をしていなかったか?

 バレリーナは深刻な捻挫に襲われることがあると、どこかで聞いたことがある。


「……分からんが、分かった」

「えっ?」


 莉子の潤んだ目が春疾を射抜く。これはみんなが好きになってしまう顔だなぁ──と春疾はそんなことを思っている場合じゃないのに、思ってしまう。


「今日、オレどうせ遅刻だし。クラブ。莉子ちゃん家までボディガードするよ」


 そういうことに──なった。

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