まなこのない夜【更新停止中】

大塚

序章

第1話 煤原信夫①

 同僚のため息が聞こえる。


 普段ならば扉を破壊しかねない勢いで出勤し、壁を突き破りそうな大声で喋り、世の中の飲食店から喫煙席が着々と減っている現状を完全に無視して一日一箱煙草を吸い付ける男が、自身のデスクで頭を抱えている。勤務先である建物の敷地内は一応完全禁煙なので、大抵の場合彼は社用車や、もはや稀少な存在となった喫煙可能喫茶店で煙草に火を点けている。


 同僚の名は、多田ただ隼人はやとという。


 煤原すすはら信夫しのぶは、年の瀬に発生した強盗傷害事件に関する報告書を作成する手を止めて、まじまじと多田の横顔を見詰める。東京生まれ東京育ちの煤原は、昨年まで海のある地方都市の警察署に勤務していた。警察官になったばかりの頃は都内の警察署で仕事をしていたのだが、捜査中に起こした事故がきっかけで、地方都市へと転勤することになった。左遷である。だがその地方都市でも事件が起き、そこそこの手柄を挙げた煤原は、数年ぶりに生まれ故郷である東京に戻ることになった。

 そうして、警察学校の同期である多田とデスクを並べて仕事をしている。


「煤原」


 名を呼ばれる。顔を上げると、上司である小燕こつばめ向葵あおいが鼻の上に皺を寄せて手招きをしている。


「あ〜っ、あけましておめでとうございます!」


 離席せず、煤原は声を張って挨拶する。「そうじゃない」と小燕が唸るように返してくる。年が明けてから、小燕と顔を合わせるのは今日が初めてだ。挨拶を要求していたわけではなかったのか。銀縁眼鏡の奥の瞳を瞬かせる煤原を、黒縁眼鏡をかけた小燕が再度手招きする。なぜだ。小燕の相棒バディは煤原ではない。目の前のパソコンの画面が真っ暗になっていることにも気付かぬ様子でうんうん唸っている多田隼人である。

 席を立ち、腰に手を当てる。ワイシャツの裾がスラックスからはみ出ているのに気付く。ずいぶん長い間デスクに向かっていた。腰は痛むし、服装も乱れる。仕方がない話だ。軽く握った拳で腰をトントンと叩きながら、煤原は小燕の方に歩を進める。小燕が煤原に背を向け、廊下に出ようとする。「ええ」と声が出た。廊下は、寒い。何か話があるなら室内で済ませてほしい。


「煤原」


 小燕がいかにも不機嫌そうに繰り返す。多田隼人は警察学校の同期で、小燕向葵は煤原が都内の警察署で仕事をしていた頃の上司だ。いつの間にやら、全員が警視庁で仕事をする流れとなり、人の縁とは奇妙なものだと煤原は考える。


 寒い廊下に出る。


「おまえ、多田からなにか話を聞いたか」

「は?」


 小燕はちゃっかり紺色のマフラーを巻いている。白い壁に背中を預けた煤原は薄いシャツの上から二の腕を摩りながら、裏返った声を上げる。


「いや何も知りませんが。ていうか寒いんで中に戻りたいんですが」

「年明けからあの調子でな」

「俺は何も知りません関係ありません。寒いから中に戻らせてください」

「おまえ、多田とは同期だったろう。事情を聞いてやってくれないか」

「は……?」


 腹から声が出たので、結果的に「?」という音が廊下に響いた。上司に対して放って良い音ではない。それに小燕は、少々怒りっぽい面がある。「なんだその口の利き方は」だとかなんとか言われるのだろう──間もなく40代というこの年になってまで──と煤原は内心ため息を吐きながら覚悟をしたが、


「まあ、分かる。おまえの仕事じゃないからな。だが、俺が聞いても何も言わないんだ、あいつは」


 と、小燕が眉を下げて続けた。意外だった。


 180センチ近い長身の小燕と、だいたい同じぐらいの目線の高さで生活している煤原。多田隼人は彼らよりさらに10センチほど長身で、がっしりとした体躯をしていて、野生の熊や猪と戦っても勝ちそうなビジュアルをしている。先述の通り声も大きいし、所作もいちいち荒々しい。既婚者で子どももおり、なんなら煤原も小燕も多田の結婚式に出席している。白いタキシード姿に神妙な表情で花嫁に対峙する多田は、煤原の知る多田隼人とは別の人間のように思えた。小燕は多田隼人の上司兼相棒としてスピーチを引き受けていた。


 結婚式の日とはまるでシチュエーションが異なるが、年明け早々捜査一課内の空気が灰色になりそうなほどに嘆息を繰り返す多田もまた、煤原の知らない生き物だった。


「俺が聞いて、何か喋ってくれますかね……」

「なんでもいいんだ。たとえば子どもが反抗期で困ってるとか。年末年始家を開けっぱなしにしていたせいで女房の機嫌が悪くて参ってるとか。少しでも事情が分かれば、俺からも何か……」

「何かできるんですか?」


 小首を傾げて尋ねた煤原を、一瞬の沈黙ののち小燕が鋭く睨む。


「なんとか、する」

「はあい」


 する、と言い切るのであれば仕方がない。捜査一課十三係係長、小燕向葵の命令は絶対──というほどでもないが、係長とその相棒の仲がぎくしゃくしては年の始めにあまり縁起が良いとは思えない。「はあい」と繰り返した煤原は小燕を一旦室内に戻し、自身は手洗いに寄ってからデスクに戻った。


「多田」

「ああ?」


 こんもりと盛り上がった小山のような背中に声を掛ける。「ああ?」という音としてはそれなりに感じの悪いいらえは、しかしあまりにも覇気がない。なかなかの重症だ。


「一服しよう」

「なんだ煤原……おまえ、急に」

「鑑識に行こう。灰皿あっただろ」

「いや、俺は」


 俺は、と言葉を切った多田のぎょろりと大きな目が彼らしくもなく繊細に揺らぐ。自身のデスクに戻った小燕向葵は、滑稽なほど露骨にそっぽを向いていた。相棒同士の痴話喧嘩──にまでは発展していない様子だが、幸いにも──とにかくそういう揉め事の解決を請け負うには自分では役不足だと煤原は考える。小燕は「事情が分かれば自分がなんとかする」と断言しているし、なんでもいいから多田から言葉を引き出したい。左手首の時計を見る。時刻は間もなく17時。当直の多田はいいかもしれないが、煤原は通常勤務なのでできれば定時で上がりたい。

 多田を急かして、寒い廊下を突っ切り鑑識課に移動する。鑑識課のトップを張るのは犬飼いぬかいそそぐという男で、煤原、多田とは頻繁に同じ現場に立つ仲だ。


「あら? 珍しいおふたり」

「煙草いい?」

「どうぞ〜」


 犬飼も休憩中だったらしく、鑑識課の一角に勝手に作った喫煙所のパイプ椅子に腰掛け紙巻を咥えている。犬飼は缶ピースを愛飲している。

 煤原は青いジャケットのハイライトを、多田はショートホープをそれぞれ取り出し、自分のライターを使って無言で火を点ける。ショートホープの箱の中には、数えられる程度の本数しか紙巻が残っていなかった。


「なんかありましたぁ?」


 犬飼が尋ねる。煤原は口を開き、煙を吐いて、閉じる。「なんだよ」と多田が不服げな顔をする。


「なんもねえよ。こいつに急に連れて来られただけだ」

「ははあ。なんもない。それにしてはいつもの多田さんらしくないですね、いつもなら『なんかあるなら俺にも教えろ』とか言うじゃないですか?」


 犬飼は煤原・多田よりも少し若く、口が達者だ。一旦彼に任せてみるかと煤原は紫煙を吐きながら聞き役に徹する。


「煤原さんも『犬飼が聞き出してくれるならいーや』じゃなくて、ちゃんと喋ってくださいよ。僕ぁ鑑識なので、生きてる人間から証言を引き出すのはあんま得意じゃないんでね」


 徹せなかった。


「あー……じゃあ聞くが。多田、なんかあったのか、最近」

「は? なんか? なんかってなんだ」

「なんか……知らんが……去年の暮れ色々あって全員帰れなくなったじゃないか。あの件で嫁さんと喧嘩した、とか」

「嫁って言い方は前時代的で好きじゃねえ。妻だ」

「妻さん」


 素直に訂正した煤原の目の前で盛大に煙とため息を吐いた多田は、


「なにもねえっつってんだろ!」


 と、久しぶりに腹から声を出して言った。


「はふぁ……鼓膜がビリビリする……」

「同感。元気じゃないか、多田」


 右手の小指を耳の穴に突っ込んで呻く犬飼と、呆れたような声を上げる煤原を多田は交互に睨み付け、


「ったく、なんだか知らねえがおまえに世話焼かれるほどダメんなってねえんだよ俺は! もう戻るぞ!」


 ショートホープの吸い殻を灰皿に放り込み、パイプ椅子を蹴って多田は立ち上がる。熊にも猪にも勝てそうな巨漢を煤原と犬飼は同時に見上げ、


「俺に世話焼かれるのがいやなら、小燕さんは?」


 煤原の言葉に、多田は大きく顔を顰める。


「なんで小燕さんが出てくるんだ」

「小燕さんはおまえの相棒だろ。気にしてたぞ」

「……気にされるようなことは、起きてない。小燕さんにもそう言った」

向葵あおいさんって呼ばないんすか?」

「犬飼おまえ黙ってろ」


 多田が、小燕とペアで動いている時には相手を「向葵さん」と呼んでいることを煤原も犬飼も知っている。ふたりは本当に公私ともに仲が良い。以前何かの飲み会の席で酔っ払った多田が、血の繋がった親戚よりもよほど小燕の方が世話を焼いてくれるため、子どもたち(多田には息子がふたりいる)が小燕のことを本当の伯父さんだと思っている──などと話しているのを聞いたことがある。同じ宴席に居合わせた小燕は素知らぬ顔をしていたが、その首筋は真っ赤だった。


「向葵さんに言えないことを〜、一旦僕らに吐き出す! どうすか!」

「犬飼、参加したいの?」


 尋ねると犬飼は大きく笑って、


「した〜い! 生きてる人間の悶着に参加した〜い!」

「悶着って言うな!」


 多田が声を張り上げる。多田が何らかの悶着を抱えているのか否か、そしてそれが本当に『悶着』というシンプルな言葉で片付けられるものなのかどうかはまだ分からないが──


「俺定時で帰りたいから、手短に纏めてくれる?」

「……煤原おまえ、本当に嫌なやつだな」


 退勤時間はとっくに過ぎている。「僕ぁ当直なので!」と犬飼が明るく笑った。

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