スポットライト

さくさくサンバ

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「ねぇ見た? 昨日の『タコ雲』」


 一限終わりの休み時間に、クラスの女子の一人から発せられた言葉に俺は耳をそばだてた。盗み聞きの趣味があるわけでは断じてないが、聞き流せない単語が含まれていたのだから仕方ない。後ろの席に向かって背中を耳にする気持ちで構える。


『タコ雲』。

 ざっくり言えば今話題のドラマというやつだ。原作だとかストーリーだとか主題歌だとか、色々と押し出される要素はあるがとりあえずそんなものはどうでもいいな。


「もち見! 今週もカッコよかったぁ……矢戸くん!」


 どうでもいいな。


「あはは。相変わらずー。まぁたしかに格好良かったね」

「もーヤバいってぇ! あーもうスキ。はぁ」


 二言三言は矢戸というイケメン俳優のべた褒めが続いた。主に顔面に関して。正直なところ男の俺から見ても「うおっ、なんだこのイケメン」ってくらい顔がいいから気持ちはわかる。ちなみに実際にはじめて見た時に口に出してしまったら家族に笑われた。悲しいね。


「展開も、すごかったよね。まさかサークルの人たちまで、それも実は最初から夢遊病だなんて」

「それ! な! もう……もうマジ……もうマジむりって感じ。わたし泣くかと思ったし」


 ストーリーは序盤の山場を迎えている。信頼していた人たちが次々に手遅れだったと判明する今の展開はかなり衝撃的ではある。ちなみに夢遊病は一般的なものではなく作中に特有の症状患者をそう呼んでいる。


 どうでもいいな。


 それから次週が待ちきれないやら主題歌のショートやら話題は変遷するものの、俺が待ち望む単語は中々出てこない。


「くっ、焦らすじゃないか」

「せめて黙ってようねー」


 ついつい口をついて出た小声を目の前の人物に拾われて注意される。俺がすっかりそいつを放置しだしたわけだから多少のお言葉は飲み込む所存である。

 まぁそれは今はどうでもいい。


「あーあと矢戸くんの相手役の子」


 キタッ!


「『ゆっぺ』?」


「そう! 『ゆっぺ』!」


 うんうんうん。


「めっ……ちゃ」


 ちゃ? ちゃ?


「かわいくない!? やばかわじゃんね! わたし『ゆっぺ』推すわ!」


 ガタガタガタ!


 派手な音が響いた。てか響かせた。

 すまんけど普通に高揚しすぎて椅子から落ちかけた。


「うわ、どしたん相沢」

「びっくりすんじゃん。なんか用?」


「あぁいや全然。全くちっとも用なんてないけど。どうぞどうぞ続けて?」


 俺は振り返った際に勢い余って滑り落ちかけた椅子にいそいそと座り直す。危うく転倒するところだったとは秘密だ。秘密に出来ているかは知らないしなんかちょっとどこかしら近いところから呆れた溜息が聞こえてくる気もするけど気のせいだろう。


 二人で話していた女子の内、比較的外見の大人しい方の女子が困り眉を作った。いかんすっかり二人の会話の腰を折ってしまった。ほんとに全くちっともそんなつもりはなかったので俺としても痛恨である。


「言い方ー!」

「い、いいよ京ちゃん。そだ、ね、ちょっといっしょに来て? ほら」


 もう一人の女子が目つきを鋭くさせたのも束の間、先に席から腰を上げた女子に合わせて京ちゃんと呼ばれた方も立ち上がった。


「夏花がいいならいいけど」


 そう言う京ちゃんさんの感情はもちろん別としてだ。不満気がよく顔に出ている。


 これ、こっからどうやったら京ちゃんさんと『ゆっぺ』トークできるくらいの関係築ける? 誰かルート情報教えて。


「そんな……どこへ行くんだ……」

 俺と、とは贅沢言わないからもうちょっと『ゆっぺ』の話しませんかどうですか。そんな思いで二人を見詰め縋る。


「あだっ」

「いってらっしゃい三輪さん、神宮さん。この馬鹿は気にしなくていいから」

「あー……ま、そう言うなら」

「……うん。あはは。じゃ」

「はーい」


 後頭部叩かれて何も言えないでいる内に二人は俺の後ろに手を振ってから離れて行ってしまった。


「あ、あぁ……そんな……『ゆっぺ』の話題が……」


 二人がドアの向こうに消えるまで見送って、俺は自席で打ちひしがれる。この世から一回分、『ゆっぺ』に関する歓談を取り消してしまった。生きている価値がない。俺isゴミ。机の温さが頬に張り付く。


「俺はほんとにどうしようもない……なにゆえ生まれ落ちたのか……」


「はぁ……『ゆっぺ』を推し尽くすため、でしょ?」


 俺が俺の不甲斐なさに落涙していると、頭上から溜息と声が降ってくる。


「……そのとおり! ありがとう浅井、目が醒めたよ」

「醒めてないんだよなぁ」

「いやいや醒めたって。めちゃくちゃ醒めまくったって」

「知らん知らん。言ってろ。てか、最近は前にも増してとち狂ってんじゃん。さっきのあんた……正直わたしもちょっと引いたから」

「あぁそう」


 浅井が俺の言動に引き攣ることは珍しくもないのでさらっと流しておく。幼馴染の気安さよ。


 そんなことより。


 『ゆっぺ』とは何者か。


 まぁ言ってしまえばアイドルだ。歌手かもしれない。ここ数か月であれば女優か。或いは初心ならばモデルであろう。


 マルチに活躍中のタレント。藍谷由華。通称『ゆっぺ』。


 俺が俺の全てを捧げると誓った我が生涯の最推しである。


 そんな彼女が出演するドラマがこの春から絶賛オンエア中というわけ。話題性抜群、視聴率高止まり、SNSトレンド一位連発って具合だ


 さて藍谷由華を指してマルチタレントとは言ったものの、つまりいろんなジャンルに可能性を模索していたところ、こうして今回の役が当たった。当たっているというわけだが。


 目に見えて注目度が上がっていく藍谷由華に嬉しさ八割寂しさ二割といった感じなのが俺だ。


 黄昏るには席が窓際最後尾じゃないのが残念。教室の真ん中あたりのなんとも言えない微妙な配置なんだよね俺の席。


「話の続きする気ある?」

「ない」


 俺の返答を受けて肩を竦めて立ち去る腐れ縁の親友は見送る必要もないとして、とりあえず鞄からスマホを取り出してみる。


 話といっても他愛ない世間話。部活がどうのとかそういうもの。二学年に進級して先輩になったから色々あったりなかったり。


 待ち受けであるが、飾るのはもちろん最推しのご尊顔だ。あーかわいい。

 はい。特にスマホに用はないです。なんとなく待ち受け見たくなっただけです。


「本当に……かわいいなぁ」


 浅井が言うほどとち狂ってはいないが、気をつけないといけないとは思う。

 今みたいな独り言。


 危うく飲み込んだ一言を、うっかり人前で零してしまわないように。


 本当に……かわいいなぁ……俺の妹は。


 藍谷由華——本名、相沢有香。


 何を隠そう俺のかわいいかわいい妹である。


 中学三年生。誕生日、八月一日。血液型はA型。


 好きなモノは歌うこと、物心ついた時から一緒のぬいぐるみ、香りの強い紅茶。あとお兄ちゃんこと俺、相沢俊。


 ピロン。とスマホに通知が届いた。


『トイレットペーパー』


 トークメッセージはけっこう淡泊。


 有香から送られてきた単語の文脈を読み解くのは簡単で、要は帰りがけにトイレットペーパーを買ってこいということ。大方は母からの依頼のたらい回しだろう。

 俺も短い了承だけ返しておく。妹であり最推しであり自分の命より上位の存在とはいえ、いやだからこそ、相手の望む程度の節度ある接し方を心掛けているのだ。

 以前に絵文字やスタンプ使いまくりの長文を乱発したら実に神妙な表情と口調でやめるよう言われたからな。あれはあれでかわいかったからヨシ。


「おー俊、今日は部活あんのか? 部活の後にでも」

「わるいな。部活後はソッコー帰らないといけないんだわ、今日は」

「あそう、んじゃいいや」


 何用だったのか定かではないが、なんにせよトイレットペーパーより優先されるものではない。


「ところで太一は『タコ雲』は見てるか?」

「あーあれ、昨日だっけ? 興味ないし全然見てねぇ」

「そうか。録画送るから見ろ」

「は? いや興味ないが」

「うるせぇ見ろ」


 見ない。見ろ。と数度の応酬にチャイムが割り込んで一時休戦と相成った。

「いやだから見ないっつの!」


 まぁ見せるが。なんなら俺が編集している藍谷由華登場シーン集だけでも後で送っておこうそうしよう。


 そうして、藍谷由華の名前は世間に広がっていったのだった。

 俺が気の置けない友人に布教する必要もなかったほど急速に、着実に。


 それは『タコ雲』が最終回を迎えて一か月経っても収まらなかった。


 一躍、時の人となった顔を街灯広告に見上げる。


「ふっ……誇らしい」

「俊さんが誇ることではないよね」

「ほんっとそれ」


 二つの声が俺を窘める。男と女、なのにどこか似た響き。浅井姉弟とは古い付き合いすぎて遠慮ってものがない。お互いさまではある。


「やれやれ君たちにはわからない、か」

「ウザいなぁ。姉ちゃん大変じゃない? これと学校もクラスも一緒とか」

「言っとくけどこんなもんじゃないから」

「うは。なんか奢ってあげよっか」

「んじゃ遠慮なく。あとでアイス買って」


 仲がよろしいことで。夏休みも残すところ三日となった今日は三人で出掛けているところだ。続編制作が決定した映画を観て、ぶらりとショッピングモールを目指している。


 二年前なら間違いなく四人だった。それを一番心寂しく思っているのは俺だが、浅井姉弟も同じくらい寂寥感を抱いているとは認める。


 とはいえ、弟君の方には同情しないが。


 浅井健太、14歳。有香と同じ中三、同じ学校に通う同級生にして、目下俺が最も警戒している野郎である。


「有香も来られたらよかったんだけどなぁ」

「あぁん? 有香さん、な?」

「この怠い兄貴も黙らせてくれたのに」

「あーちょっとなつかし。有香の「こらお兄ちゃん」」


 それは俺も懐かしい。浅井の姉の方こと恵梨香の言う通り、昔からよく聞いているのだ「こらお兄ちゃん♡」って。


 母さんがするのを真似たのがはじまりで、大人ぶった雰囲気を作ってこれっぽっちも怖くない怒り顔で「こらお兄ちゃん♡」。


「まーた俊、トリップしてる」

「なんかおれ、だるいめんどいとかより心配が勝ってきたかも」


 そのあとは微妙に優しさを見せる健太に若干の気持ち悪さを感じつつ午後を過ごしたのだった。


 ところで。

 どうも最近、有香に直接会える日が減りすぎていると思うんだ。

 いやわかる。わかるよ。所謂『見つかった』状態の由華であるから、ここは勝負所だ。時の人で終わるわけにはいかない。一過性の知名度、瞬間の爆発で満足してはいけない。


 それにしても誕生日にすら電話が精一杯というのはお兄ちゃんガチでさびしかった。


「今年な? 特に四月以降、有香と同じ空間にいたの249時間だけなんだよ……」

「はいはい泣くな泣くな」


 昼休みに中庭のベンチで恵梨香に愚痴に付き合ってもらっている。


 当然ながら、俺は藍谷由華が相沢由香であり俺の妹であることは伏せている。だから校内じゃ恵梨香だけが話せる相手だ。


「理解はしてんのよ? 今は仕事に力入れる時だってさ。にしても一週間も帰ってこないとか……しかもまた矢戸と共演だし……あーだめだ……今日はもう帰る」

「帰るって。いいわけないでしょ。いいから早く食べちゃってよ」


 昼ご飯はこのところ弁当が多い。ついでだからで作ってきてくれる恵梨香には感謝。


「矢戸くんとまた一緒なんだ?」

「おう……。いちおこれ秘密な?」

「わかってるって」

「そうなんだよなぁ、まーた矢戸大地とだとさ。ちょぉっと『タコ雲』がヒットしたからってよぉ安直すぎない?」

「うーん……時期的に『タコ雲』の影響そんな大きいのかな? キャストってそんな簡単に変えたり、決めたり出来るの?」

「さぁ? わかんね」

「じゃ、偶然ってことにしておきなよ。そんな気にしすぎても……って無理か。わたしも見たよ。昨日。由華と矢戸くんってまぁ、お似合いではあるもんね」

「ないが? 全く全然何一つお似合いでなどないが?」

「わ、わわ、ごめんって。顔怖すぎ」


 恵梨香があんまりアホなこと抜かすからついつい顔面に力が籠ってしまった。しかし、そうなのだ、バラエティやらなにやらで由華と矢戸を、二人の関係を揶揄するネタというのが横行している。

 俺個人の事情を置いておいても中学生だぞ? それをあれこれ茶化しおって、あーまた腹立ってきた。


「でも矢戸くん、ちゃんと由華を庇おうとしてたけどなぁ」

「あん? 矢戸がなんだって?」

「なんでもないでーす」


 大人の世界は汚いな。俺は空の眩しさに目を細めた。


 たまに電話口の有香の声が震えている理由を深く訊くことはしていない。探るような問いかけは「忙しいから」とせき止められる。だから深入りはしないでいるが、それとも訊いた方がいいのだろうかと、ここ数か月は思い悩んで夜眠れないこともある。


「ほら、俊。また目が死んでる」

「あーっとわるいわるい」


 ごちそうさま、で手を合わせてベンチから立ち上がる。


「そうだ、神宮さんがアンケートはよ出せって言ってたぞ」

「あやっば。あとで渡しとく」

「そうしろ。神宮さんカンカンだったぞ」

「それは嘘でしょ。夏花ってそんな短気じゃないし」

「それはそう」


 気が付けば昼休みが終わるように、一年もまた思いの外早く過ぎ去ってしまうものだ。


 俺と恵梨香の昼雑談が恒例になった頃、冬休みに突入した。


 年末年始はさすがの藍谷由華も実家で過ごす。


「有香ぁ! おがえりぃい!」

「うわぁ!? お兄ちゃんちょっと! 苦しいよ!」


「おかえり有香」

「有香、久しぶり、おかえり」


 でもなんで浅井姉弟までいるのかそれが俺にはわからない。


「あ、恵梨香おねえちゃん! ただいまですっ。えへへ。あー久しぶりだぁおねえちゃん」


 ひしっと抱き合う有香と恵梨香である。俺もつい今さっき有香と抱き合ったけどな。恵梨香より先に抱き締め合ったけどな。


「俊さんまた碌でもないこと考えてるっしょ」

「とんでもない。ただちょっと長くね? って思っただけだ」


 ちなみに健太が俺や恵梨香並みに有香と触れ合うことはない。当然だが。常識的に考えて。仮に常識や世間や互いが許しても俺が許さないしな。


「おい健太。おまえちょっと外走ってきていいぞ24時間くらい」

「いやっすけど普通に」

「健太も。久しぶりだね。学校どう?」

「どうって言われてもな。特に変わらないよ。有香もたまにでいいから顔見せに来てくれ。忙しいのはわかってるけど、みんな喜ぶしさ。もちろんおれも有香が登校してくれると嬉しい」

「そっ、か。じゃあ、ちょっと頑張って学校行ける日作ろっかな」

「ああ。その時はおれが迎えに来るよ」

「え。そん……ほんとに?」

「ほんとに」

「私がそんなことしなくていいって言ったら?」

「それでも、ほんとに嫌っていうんじゃなければ一緒に行こう。おれはそうしたいと思ってる」


 なお、俺はいま恵梨香に後ろからがっしり固められて口に封をされている。

 いやいやおいおいまてまて。なにをいい雰囲気作ってんだ健太。おい。おまえ。外にほっぽり出すだけじゃ足りねぇ。裸にひん剥いてほっぽり出してやりたいんですが構いませんね?


「はいはい。邪魔者はこっちねー」


 恵梨香に引きずられ、俺は涙を呑んでリビングの隅に移動した。


「ぐ、うぅ……ぐぅうううう」

「唸らないの」

「ぐ……ふぅううう。……ふん。だがなぁ、有香のあれはあくまで親愛。家族に向けるそれよ。ハッ」

「……ま、それは健太が一番わかってるけど、ね」


 いい気味だ。さんざんに苦労するがいい。


「まぁ、いい。久しぶりに有香に会えたのだし年末だし、今日のところはこのくらいで勘弁してやる」


 折角の有香との時間である。機嫌よく過ごしたいものだな。


 そうして少ない有香との時間を数度繰り返し、あっという間に春になる。


 宣言どおり有香は出来るだけ学校に行けるようにスケジュール調整をマネージャーに頼んだようで、そうすると必然家にもいる時間が増える。俺は早めの春気分でほくほくとしたまま最高学年になっていた。


「なんつーか、春だなぁ」

「あー春。おお春よ。素晴らしき哉、春」

「ほんと春だわ」


 今年度も同じクラスの太一もどうやら春に異論ないらしい。そうとも春だとも。


 なにがって、それはもちろん、新たに本校の生徒になった一人のおかげだ。あとおまけ二人。


「もーお兄ちゃん。恥ずかしいからあんまり目立たないでねって言ったよね」

「はははすまないマイシスター。しかしだね、それは無茶な話だろう、目立たないというのは」

「うっ……ちょっと思ったけど」


 入学式前の僅かな時間。有香の教室の前の廊下で俺たちは寄り集まっている。


 俺と有香。


 とおまけ三人。


 なんか抗議みたいな視線があるから一応紹介すると、太一と健太と矢戸である。


 教師陣はたいそう頭を抱えたという。なんなら今も抱えていると思う。なにせ超の付く有名人が二人も同時に入学してきたのだ。

 さして特筆すべきところのないありきたりな高等学校に、テレビで顔を見ない日はない男女など手に余る。

 そういった経緯もあって通常は二、三年生は休みの今日この日に俺と太一は登校してきてなおかつ新入生の教室前まで押し掛けているのである。太一はどうしてもっていうから連れて来た。


「ごほん。えーと、あー、その、おれは松木太一っていいます。よろしく有香さん。それと浅井くん、矢戸くん」


 三人と握手を交わした太一は改めて有香に向き直る。


「そんで……おれ、由華さんの大ファンでしてっ。どうぞよろしくっ。いちおう! 俊、あいやお兄さんとは仲良くさせてもらってます!」

「そうそう仲良くしてやってるわけ」

「はぁ? してやってるってこた」

「んんん? なんだってぇ?」

「いえ! 仲良くしてもらっています! はい!」


 約一年前からじっくりことこと煮込んだ『ゆっぺ』ファンであるから、太一はもう俺に逆らえないワハハハハ。にしても緊張しまくってて面白れぇガハハハハ。


「ねぇ健太君、有香ちゃんの兄さんってけっこうアレな人?」

「おう、見てのとおりのクソ兄貴だよ」


 ちょっとなんか言ってるけど聞こえないな。


 そんな具合に俺の立ち位置が『ゆっぺファン』から『藍谷由華の兄』に変わって、ところが周囲の反応は俺の想定とは少しばかり異なっていた。


「アレが『藍谷由華の兄』か。噂通り……やべぇな」

「この前なんかよ、相沢さんとちょっとぶつかった男子ががっつり肩組まれてて……泣いてたよ」


「お兄さん、また来てたよ」

「有香ちゃんも大変だね」

「あはは。ご、ごめんね、迷惑かけてないかな?」

「あ、ううん、そういうことは全然ないんだけど……なんていうか、ガッカリっていうか……」

「あんな感じじゃなければね……」


 有香に接触した男子の噂あれば東へ奔り事情聴取。他の人の前じゃ話しにくいこともあろうから校舎裏へご案内してあげた。

 見守りは欠かさない。体育の時間が被った際には、有香の様子を一部始終注視しつつ兄の有能さアピールも並行する。見てくれ有香、お兄ちゃんはサッカーでこんなにも大活躍しているぞ。


「おい誰かあのキモイの止めろ!」

「でもよぉ! あいつキモイくせにクソ上手いんだよちくしょうっ!」


 顔の向きは有香が腰を下ろして休む体育館前に固定しつつドリブル突破で敵陣に食い込むなど造作もないこと。ついでに一点取っておく。


 そうこうしている内に一学期が終わり、夏休みが駆け足で過ぎ去ればそれは現実感を増して襲ってくる。


「あ……あぁあ……なんということだ……ゆ、有香と過ごす学校生活が、お、終わってしまう、うぅ」


 二学期最初の登校日にふとその事実に気が付いた俺は、始業式後の教室で滂沱の涙を零している。


 あまりに楽しかった。楽しかったのだ。

 それはもちろん、有香は時には仕事で学校を休む。それでも多くの日を共に過ごし、同じ学び舎に通い、有香の青春を見守っていた俺は、俺は……。


「う、う、う、う、う」


 この輝く日々がいつか終わることが悲しくて仕方ない。


「はっ! 留年すればいいのか!」

「いいわけあるかっ」


 鋭いツッコミをくれたのは丁度近くに居た三輪さんだ。スナップの効いた、それでいて痛くはないいいツッコミだった。


「て、どこ行くん?」

「有香のところ」

「はいはいバカ言ってないで。もう先生来るっつの」

「放せっ、俺は有香のもとに行かねば……行かねばならないんだ」

「いい加減にしろっての」


 そんなやり取りの間に担任の先生がやって来たのでさすがに席に着く。


 簡単な挨拶だけで解散。委員会決めなんかは明日にということだった。


 さくっとホームルームが終わり、このあとはクラスの面子で飯に行く予定である。


「はぁ。だめだ。わるいけど俺は食事会はパスで。有香のところに行かないといけないのでな」

「え。あ、え、ほんとに?」

「そりゃもちろんほんともほんと本気の本気」


 企画してくれた上に今も気にしてくれた神宮さんや他の人たちには悪いが、気分がもう有香一色なのだ。

 少し待つことにはなるだろうが、声を掛けて一緒に帰ろう。有香の交遊関係なんかも大事にしているから、駄目なら諦めるけど。


「待ってよ。待ってよ相沢。それどうしても行かなきゃダメなん?」

「有香が俺を待っている」


 三輪さんにも制止され少なからず注目を集めるが、またかといった目線であってそこには僅かな呆れと面白がる気配がある。いつものように。


「いい加減に……」


 俺が違和感に首を捻る間もなく、三輪さんに手首を掴まれて廊下に連れ出された。こんな展開はいつもどおりではない。


 しかし三輪さんはそれ以上は何か言うでもなくどこかあらぬ方向を見詰めたまま固まってしまった。

 そうとなれば俺だって考える。なるほど先ほどの態度はよろしくなかった。

 この頃、いやはっきり、三年生になってから、俺は有香が有香がと、少しばかり周囲を蔑ろにしていたのは事実だ。


「わるい、わるかった。考えなしだったな。やっぱり……行ってもいいか? 食事会」

「……なら、いい。別に。来るんなら、いい」

「さんきゅ。じゃあ先に戻ってるな」


 それはそれとして俺の最推しが有香であることは1mmも変わらないけどな。


 食事会で楽しい時間を過ごそうが文化祭に泣き笑いしようがそれはそれこれはこれ。


「有香もついに先輩かぁ……兄ちゃんは……兄ちゃんはもう……くぅう、く、大人になったなぁ有香ぁ」

「えぇ……なんで泣くのお兄ちゃん。そんな大袈裟すぎ」

「大袈裟なものか。あんなにちっちゃかった有香が、こんな立派な……立派な姿になって。くぅうううう」

「いやどう考えても大袈裟でしょ。……それじゃあ、わたしはそろそろ……行くね」

「おう。じゃあな、しっかり頑張れ」

「恵梨香おねえちゃん」

「有香」


 いつにも増してひっしと抱き合う二人を見つつ隣の健太に問いかける。


「健太はいいのか? あれやんなくて」

「冗談キツイって俊さん。姉ちゃんと抱き締め合えって? あんただって……はやるか、率先して、喜々として」


 キョウダイで泣き笑いの抱擁なんていうのは、俺だったらむしろ大歓迎に決まっているじゃあないか。


 始業式にして恵梨香の出発の日。遠くの大学への進学となる恵梨香を俺と有香、健太に大地で見送る。


「矢戸もやっとく?」

「僕がやったら明日の一面ニュースは決定ですね。ってわかってますよね恵梨香さん」

「あはは。間違いないね」


 この一年で有香を中心に打ち解け合った故の軽口だ。


「俊」

「は?」

「ん」

「たしかに俺はニュースにはならないけどさ」

「ん!」


 珍しく口数少なく我儘を言う恵梨香の背中に手を回す。もうすっかり大人だ。俺も恵梨香も。何年振りの感触だろうかと考えるほどに。


「じゃあ……行ってきます!」

「あ、姉ちゃん。今週末に母ちゃんが様子見に行くって言ってた」

「もう! 情緒考えろバカ健太!」


 恵梨香が地元を離れる。そもそも俺も恵梨香も、太一も三輪さんも神宮さんもみんなも高校を卒業した。他にも地元を離れる人はそれなりにいる。

 色んなものが変わっていく。


「さて、と。んじゃ俺たちも行くか、由華」

「そうだね。また明日、健太、矢戸くん」

「スタジオ入りまで少しあるけど何か腹に入れておくか?」

「そうだなぁ。ううん、いいや」


 変わっていく。俺と有香の関係も。俺と由華の関係も。

 新米マネージャーに、多忙を極めるタレントのマネジメントは中々どうして難しい。


 短い収録の後、夜にはボイスレッスン。


 目標は、武道館ソロライブ。


 あくせくと働き、大人の中を藻掻きながらかき分けて進む。それを推すのはやめて、押すことにしたのだ。その背中を。

 いつか思い悩んだ有香の苦悩への回答だった。


「マネージャー!? 困るよ時間の調整はさぁ、基本でしょ? そこんとこ出来ないんじゃないでしょ、いる意味、君がさいる意味」

「その条件じゃうちじゃ無理だよ。他も無理だと思うけどね」


 ――上手くいかないことはいくらでもある。投げ出したくなる夜も。

 ――けれど。


「みなさん! 今日は来てくれてありがとぉー! ほんとうにほんとうにっ、ありがとぉーーー!」


 ――思い耽ることもある。目を逸らし続けた青い日々の、自分自身のあったかもしれない可能性に。

 ――けれど。


「みんな……大好きだよっ!」


 こんな結末スタートも悪くはないと思う。

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