異世界に転移したけどパワハラがしんどい

陸路りん

プロローグ

第1話

 それは嘘だ。

 愕然とする。その思考は声になって表へと出ていた。

 目の前の彼の表情がそれを聞いた途端に一変した。

 そこには、恐ろしい顔をした悪魔がいた。


 *


 ああ、どうしていつも私はこうなんだろう。


 莉々子は思う。


 今回の症例発表も失敗だ。


 その原因が、単純に莉々子の力不足なのはわかっていた。

 莉々子はどうにも人付き合いが苦手だ。緊張しいで自意識過剰で、だから仕事の傍ら通っている大学院の先生とも上手にコミュニケーションを図れない。

 だから今回の症例もおそらく珍しい症例で、先生に相談すれば発表の流れになるのではないかと思っていたのにいつまでも言い出せずにぐずぐずとしていた。そうこうしているうちにその患者さんの症状はどんどんと移行していき、評価も考察も十分に出来ないままに、その特徴的な症状は失われて、退院していってしまったのだ。

 同僚にも若干気遣われてしまった。なぜならその同僚は莉々子がその患者について良く調べていたことを知っているからだ。


(そんな気を遣わせたいわけじゃないのに)


 そうは思うが、周りとしては気を使わざるおえないのだろうとも頭ではわかっている。

 なにせ、このような失敗は、一度や二度ではないのだ。

 幸いにして、その翌日は休日だった。大学にも職場にも行かないので誰とも顔を合わせずに済む。

 気にしているのが莉々子だけだということもよくよくわかっているが、そんな自分を変えられないこともよくよくわかっていた。


 カチリ、と電気ポットのお湯が沸き、スイッチが切り替わる音がした。

 職場から帰った時から、もう今日は、否、明日も何もしないと決めていたため、晩ご飯はカップやきそばに決定した。明日は昼まで寝て、遅めの朝食兼昼食は買いだめしている別のカップ麺だ。そうすると、今、決めた。

計画的ひきこもりである。

 やれやれと立ち上がってカップ麺にお湯をそそぐ。


 思えばいつだって莉々子はそうだ。要領が悪くて不器用で、何回も繰り返さないと学習できない。それに対して周りの皆は、優秀だった。要領が良くて器用で、何でもぱっぱっと了解するのだ。そんなことはない、とか、周りの人達だって、同じ苦労をしているんだよ、などと言われても、莉々子にはそんなことは到底信じられなかった。

 莉々子はそれにいつだって引け目を感じて生きてきたのだ。それが、莉々子にとっての真実だった。

 だから、莉々子は職場でも、皆が賑やかにしているその輪のふちにそっと腰をかけて口をつむいでいることが精一杯だった。


 時間が経ったカップ麺のお湯を捨てるため、莉々子はキッチンのシンクへと移動する、そうして湯切り口の蓋をはがし、お湯を捨てようとしたところで、ずるり。

 お湯と共に中身の麺までシンクの中へと流されていってしまった。


「…………」


 莉々子はしばし何も言えず、呆然とそれを眺めやる。


「ああ…」


 ようやくのろのろと動き、とりあえず空になったカップ麺の器を横に置く。


(ああ…、私はカップ麺にすら見放されてしまった…)


 大げさだが、今の莉々子のこの上なく正直な心境である。

 しばしうなだれていたが、いつまでもこうしていても仕方がない。しかし、この惨状を片付ける気力は今の莉々子にはどこにもなかった。


 些細なことだ、いずれをとっても。


 莉々子は決して不幸などではないし、環境的にも恵まれていないわけではない。他の誰かにとっては至極どうでも良いことが、今の莉々子にとってはカップ麺の片付けもできないほどに蓄積したダメージとなってのしかかっていた。

 気分は悲劇のヒロインである。

 悲劇のヒロインにしてはきっかけがカップ麺だなんてあまりにもしまらないが。


(もういいや、寝よう)


 寝て、すべてを忘れてしまおう。

 世に言うそれは現実逃避というやつなのだが、今の莉々子にとってはそれ以外の選択肢は思い浮かべることすら困難だった。



 *



 今の自分を変えたいと思うなら、一番てっとり早いのは環境を変える方法だと莉々子は思う。職場を変えたり、習い事をしてみたり、旅行に行くだけでもいい。多少はこの鬱屈した何かも変わる気がする。

 しかし今はとにかく何もかもがおっくうで、職場を変えるにもまだいいか……、と思ってしまう。後もう少し嫌になったら別の職場にしよう、大学を辞めよう、と何度も何度も同じことを考えるのだ。


 そもそも、自分は変わりたいのだろうか、とも思う。

 ああなりたい、こうなれればという気持ちはあれど、じゃあ、実際、頭に思い浮かべたあの子のように振る舞えるか、と問われればそれは無理! となるのだ。

 物理的に可能か否かではなく、精神的にそれはしたくない。

 つまりそれは今のままでいたいということなのではないだろうか、こんなにみっともなくてみみっちい、今のままで。


(けれど別に今の自分が大好きなわけでもないという。いや、満足はしているのか、一定以上は)


 だから変わらないのか。

 人間死ななきゃ馬鹿は直らないというが、自分を殺す気にならなければ変われないのだろう。

 ぼんやりと、意識が覚醒に向かう。

 目覚ましを使用しない目覚めは穏やかで、心地良かった。


(今日は計画通り、すべてカップ麺か缶詰で済ませてしまおう。とりあえず洗濯機だけ回して……)


 何気なく、いつもの動作で起き上がり、時間を確認しようと枕元に置いたスマホに手を伸ばした。

 届かない。

 そこらじゅうを手で叩いてみるが、手に触れるものはふかふかの布団だけだった。


(うん……?)


 ふかふか?

 莉々子には、ここ最近、こんなにふかふかになるほど、布団を干した覚えはない。


「………っ!!」


 慌てて布団を跳ね上げて起き上がる。

 そこには見たことのない光景が広がっていた。



 *




 昔に行ったことがある、お化け屋敷のようだ、と莉々子は思った。

 いや、お化け屋敷にしてはとても綺麗だが、そう思ったのはこの視界の薄暗さゆえだ。

 莉々子の寝そべっていたのは天蓋の着いた大きなベッドだった。

 目の前には血のように深い色をした重厚な絨毯。

 繊細な意匠の木で出来たチェストには花瓶が飾られ、視線を動かしてぐるりと部屋を見渡すと、壁にはいくつかろうそくの挿された燭台が設置されていた。

 そこに灯る炎が偽物でないのは、光が揺らぐ様が証明していた。


 今時、室内の明かりをろうそくで取ろうだなんて、まともではない。

 まだ、莉々子は夢の中にいるのだろうか。

 思わず身体を抱きしめ、その流れで肩から膝まで確認するように指を這わせた。

 服装は昨夜寝た時から変わらない、くたびれたシャツとジャージ姿だ。

 身体にはどこにも不調なところはなさそうで、痛みなども感じなかった。

 しかし、触れた感覚はリアルだ。


 ふいに、物音がした気がして莉々子は身をすくませた。

 小さなそれは、とんとんと軽快な音を立て、徐々に大きくなる。


 近づいてくる。

 足音だ。


 恐ろしいそれに、シーツをたぐり寄せて身体に巻き付けた。

 まったくなんの解決にも予防にもならないが、気持ちの問題だ。

 周りを見渡してみるが、この部屋には扉以外に出入りする場所が一つもなかった。

 窓が一つも存在しない。

 足音が、ぴたりと止まる。

 この部屋の、すぐ近くで。

 ベッドと向かい合うような形で存在する嫌に大きな扉が、ゆっくりと開いた。


 そこに立っていたのは、一人の吸血鬼だった。

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