【短編】小説と小説

佐藤純

第1話

大晦日も間近に迫った寒い日、赤羽駅前の自宅マンションで、三十一歳の女性が血を流して倒れているところを発見された。


第一発見者は被害者の夫である黒田洋一。食品メーカーに勤める会社員で、商品企画に携わる少数精鋭の部署に所属している。洋一は時期によっては連日遅くまで働いており、基幹事業を支える製品開発のプレッシャーから、上司は洋一に厳しく当たることも多かった。

洋一は事件当日、十五年ぶりに開催された高校の同窓会から戻ると、リビングで倒れている妻の玲子を発見し、慌てて救急車を呼んだ。新婚の時に買った長毛の白い絨毯には、彼女の血がアメーバ状にどす黒く光り、ふかふかに逆立っていた毛は、べっとりと張り付いている。玲子の死因は、背中に刺さったナイフだった。現場に来た警察が言うには、ナイフは根元までしっかりと刺さり、背中から心臓を貫いていたそうだ。ナイフに指紋はついておらず、割れたベランダの窓と、足跡で汚れた床などから、警察は突発的な強盗殺人の可能性が高いとして捜査を開始した。



洋一はシャワーを浴びていた。現場に来た刑事二人からは、こんな夜にシャワーを浴びる気になるのか、と非難を込めた目で見られたような気がしたが、他にやることがないのだ。それに、コートを脱ぐタイミングを逃して汗をかいてしまったし、とても疲れていた。シャワーを浴びるという一種のルーティンは、洋一の心身を少しばかり落ち着かせてくれる。洋一は熱いシャワーを浴びながら、玲子のことを考えた。


「ねぇ、洋一。悪いんだけど、あなたのことは一切信用する気になれないの。」


玲子は機嫌が悪くなるとすぐに、このセリフを口にした。

僕と玲子はあまり円満とは言えない夫婦だった。原因は、本当によくある、価値観の違いだ。

新婚当時は二人とも資金がなく、狭い2DKのマンションに住んでいた。玲子は潔癖で、こだわりが強かったので、自分の好み以外のものが視界に入ることに、特にストレスを感じていた。洋一が学生時代から使っている大きなデスクトップパソコンや、なくしたと思って何度も買ってしまったドライバー、学生時代に一人でヨーロッパを旅した時につけていた古い日記、そんなごちゃごちゃして体系的でないものが、狭い共用空間に存在していることに、玲子は我慢ができなかったらしい。中でも洋一の所有物の大半を占めていたのは、装丁も多種多様な本だった。本が好きな洋一に惹かれた玲子だったが、リビングにある洋一の机の上に、読みかけの本や読み終わった本が、雑多に積み上げている状態は、玲子をよく苛立たせていた。


玲子は幾度となく、洋一に「片づけてほしい」と要望を出していたが、洋一は忙しさを理由になかなか片づけることはなかった。玲子はだんだんとストレスと抱えていき、洋一はその状態を理解することなく、二人の間には修復不可能なくらいの亀裂が入っていった。その関係性は、洋一が昇進し、玲子の新しい転職先が決まったのを機に広い家に引っ越した後も、戻ることはなかった。



「僕は、転職を考えている、と言ったんだ。君に信用される必要はないんじゃないかな。」

僕は、毎日の帰宅が深夜になる今の職場に、だんだんと疑問を抱くようになってきて、ある朝転職を考えていることを不要にも玲子にこぼしてしまった。すると、何もかもをすっとばしたような「信用できない」という言葉が玲子から飛んできたのだ。僕は、またか、とげんなりした。


「あなたは、結婚してから、私の要望を聞いてくれたことが一度もないことに気が付いている?どうせ、今の会社がブラック企業だから転職したいって言うのでしょうけれど、もし仮にあなたの転職がうまくいって、もっと早い時間に帰って来ることができるとなったとして、あなたが家の事を手伝ってくれる保証はどこにもないわ。もし転職をするなら、家事を手伝ってくれると約束してほしいの。でも、約束が守られなければ、私は問答無用であなたのものを全部捨てるわ。あなたにはそれくらい信用がない。」

「君はなんでも飛躍しすぎている。それに、僕のものを捨てるのは許さないよ。」

「じゃあ、片づけてよ!机の上の、上巻のない古い小説は何。下巻だけなんて、気持ちが悪いわ。」

玲子はつらつらと僕に対する気に食わない点を並べ、ヒステリックに叫ぶ。僕だって片づけたくないわけじゃないが、片づける時間と合理性が見つからなくて、手を付けられずにいるだけだ。視界に入るとストレスになるからと、玲子は主張しているが、自分のものはすべて机の上や机の下の一定のパーソナルスペースに収まっている。床を掃除する分には問題ないし、玲子が何かの行動することに対して迷惑はかけていないはずだ。

「君に迷惑はかけていないじゃないか。」

「そうゆう問題じゃない!」

玲子は、僕に理解されないイライラをぶつけるために、さらに声を上げる。転職というキーワードからどんどん遠ざかっていく話題に、どうやって軌道修正しようかと思案するが、それすらも億劫になってしまう朝だったので、僕はやんわりと玲子との会話をあきらめた。

「わかった。僕は君に何と言われようと、転職活動をするよ。」

「勝手にして!」

僕は今日も四ツ谷にある会社へ向かう準備をした。僕たちはあの狭い家の時から何も変わっていない。




僕は最寄り駅である赤羽駅までの道を歩きながら、玲子に言われた一言で昔のことを思い出していた。




高校時代のある日、まだ本格的な夏も始まっていないのに、うだるような暑さで、外に出るのも億劫に感じる放課後だった。顔を合わせると連日喧嘩をしている両親がいる家に帰りたくもなかった僕は、学校の図書室で、いつも適当な本を読んで時間をもてあましていた。

「ねぇ、何を読んでいるの?」

僕は突然、女子生徒に話かけられた。その彼女の顔は知っていた。なにせ彼女は、図書委員として毎日図書室にいるのだ。必然的に僕とはほぼ毎日顔を合わせていることになる。ただ、僕と彼女は話したことはなかった。僕が図書室にいる理由は、あくまで時間潰しだったので、本を借りたことがないからだ。

「本を読んでいるんだけど……。」

突然話しかけられたことに驚いた僕は、突拍子もない返答をしてしまったことに気が付いた。彼女は本のタイトルを聞いたのだと気づくのに、一瞬のタイムラグがあった。

「あ、いや、ごめん。話しかけられると思ってなくて……。今読んでいるのは『世界の終わり』だよ。」

少しぶっきらぼうになってしまった事を謝り、本来彼女が聞きたかったであろう、本のタイトルを教えた。

「それ、私も大好きなんだ。」

彼女は、僕が持っている本を指さしながら、にこっと微笑んだ。さらに、どうやら僕はとんだ間の抜けた顔をしていたようで、少し驚いた顔をしたあと、またくすくすと笑った。その笑い声は、二人しかいない静か図書室にとてもきれいに響いたのを覚えている。


それからほどなくして僕たちは自然と付き合い始めた。放課後は毎日図書室で待ち合わせ、お互いに好きな本を読み、帰り道で感想を言い合った。どちらが何を言ったわけではないが、いつのまにか手を繋ぐようになり、休日にもお互いの時間を共有するようになっていった。初めて付き合う彼女に、僕は少し興奮していたし、人生で一番濃密な時間を過ごしている気がしていた。


「私、この本が一番好きなんだ。」

ある日彼女は、少し唐突に思えるくらいには脈絡なく、鞄から一冊の本を取り出した。

「知ってる。いつも鞄に入っているよね。」

彼女はいつも、ある文庫本を持ち歩いていた。イタリアが舞台の、とても切ない恋愛小説で、男性目線と女性目線それぞれに描かれたものが一冊ずつ、上下巻の二冊セットで刊行された本だ。ハードカバーでも文庫版でも持っている、というからよほど好きなのだろう。ところどころにたくさんの線が引かれてあるのを、ちらと横目で見たことがある。

「はい、洋一くんにこれ貸してあげる。恋愛ものはあまり読まなかったよね?」

そう言って彼女は、下巻と書かれた一冊を僕に渡してきた。

「これ、下巻じゃない?上巻から読むのがいいと思うけど…。」

僕は至極まっとうな意見を言ったつもりだが、彼女がこんな変な行動をとるなんて珍しいから何か意図があるのだろう、という考えは捨てなかった。

「そうだけど、持っていてほしいの。」

普段はどちらかというと控えめで、冷静に物事を話す彼女が、少し強引な感じで「持っていてほしい」とだけ主張する。

「僕が持っていたらいいの?でも、くれるんじゃなくて、貸すって言ってなかった?」

僕は彼女が手渡してきた本を受け取りながら、疑問を口にした。すると彼女は、耳まで真っ赤になって照れながら、「ずーっと貸せるといいな、と思って。」と言いながら少し小走りに僕の前を歩いた。


それから季節は過ぎていき、僕たちはほどなくして別れてしまった。大多数のカップルのように、受験期の本当にささいなストレスが原因だった。お互いの志望大学はどちらも都内だったので、合格したらあれをしよう、これをしよう、と言っていた約束は、二人の成績が引き離されていくに従って、うすうすと叶わないのだろう、と感じるようになっていった。その予感どおり、僕は第一志望の大学に合格したが、彼女は落ちてしまった。結局彼女は一年浪人をして、一年後に第二志望の大学に受かったという事を、風の噂できいた。風の噂で聞くしかないくらいには、僕と彼女との交流は断たれていたし、周りの知人たちも遠慮して彼女の話題は避けてくれていたのだ。



************



僕はシャワーを浴び終わって、適当なパーカーとジーパンに着替えると、若い方の刑事から、玲子が殺された当日の行動を聞かれた。玲子が殺されたのは、十五年ぶりくらいに開かれた同窓会に行っている時だった。僕は、友人である今野拓馬から送られてきた同窓会の案内と、当日の行動を、若い刑事へ説明した。



「洋一、同窓会には参加するか?」

久しぶりに来た高校の友人からのメッセージには少し唐突感があったが、十一月頃にSNSで誰かが拡散していた同窓会の案内を見て連絡してきたんだろう。クラスの中心人物だった男子生徒が、主催しているらしい。


「あぁ。少し顔を出すよ。拓馬は?」

「行くつもりだよ。ただ、あいにくその日はきちんと仕事があって、少し遅れそうなんだ。」

「年末に大変だな。仕事は何をしているんだったっけ?」

「IT系の営業だよ。データの分析会社だったんだが、最近それを応用して事業評価系のマネジメント用ソフトウェアを開発してね。社長の肝いりで売れっていうんで、正月休みもなしだよ。」

「参加は何時ごろになりそうなんだ?」

「八時くらいだと思う。もう皆、べろんべろんだろうな。」

「そうだろうな。まぁ、待っているよ。」

「そういえば、洋一が高校の頃に付き合っていた彼女も来るらしいぞ。もう十五年もたっているから時効だと思うけど、ま、一応。」

「わかった、ありがとう。でももう本当に時効だ。いい機会だし、彼女とは笑って思い出話をするよ。」

「そうだよな。じゃ、当日。」

そういって、拓馬とのやりとりは終わった。



************



高校を卒業して十五年たったある日、同窓会を開催する、というお知らせが鈴木瀬奈のもとに届いた。

瀬奈はSNSをやっていなかったが、高校時代の唯一の友人だった亜矢から連絡を受けて、その同窓会の案内を知ったのだ。

主催しているのはクラスで中心人物だった男子生徒だ。瀬奈自身はあまり話したことはなかったが、彼自身は誰とでも分け隔てなく接することができる人物で、クラスの誰からも好かれていた。


同級生は、大手の会社に就職したり、資格を取って堅実に働いたり、家庭をもったりしている中、瀬奈は第一志望の大学に落ちてしまってから、何もかもうまくいかないと感じる人生を送っていた。もともと真面目な性格をしていたので、文学部の友人とは適度に遊び、単位を落とすことも、留年することもなく、多くの大学生が過ごすような普通の大学生活を送っていた。高校時代に付き合っていた彼といわゆる自然消滅をしてから今まで彼氏はいなかったが、大好きな純文学に囲まれて、瀬奈は幸せだった。


就職活動をし始めてから、瀬奈は自分が特に特筆すべきもない平凡な人間であるという事実にエントリーシートが何も埋められず、面接に行っても、自分が今まで築き上げてきたものが全否定されているような気がして、どんどん落ち込んでいった。そして、とうとう卒業間近まで就職先は決まらなかった。大好きな物語を読んでいる時は、自分はとても無敵の人間のような気がしていたが、いざ自分の人生を見つめなおしてみると、物語のように輝いてはいなかったことに、突然焦燥感を抱いた。


瀬奈は結局、たまたま出ていた中小企業の事務職の求人に応募し、十五年たった今でも細々とその仕事を続けている。特にスキルが身につくわけでもないが、言われたことを淡々とこなし、お客様の電話対応や、入力補助などの業務をこなし、一人で生きていくには十分なお給料と、ほどほどの充足感を得て生活していた。


瀬奈は、そんな小さな幸せと自尊心を守るため、同窓会には行きたくないと思っていたが、亜矢に誘われて断るのも面倒だったため、渋々参加することにした。


同窓会に行くと、瀬奈は来たことを後悔した。

同窓会の会場は靴を脱いで座敷に上がるスタイルの居酒屋だった。掘り炬燵式の長いテーブル三つが二列に並び、三十人は入りそうな大きめの部屋だったが、その奥に、高校時代に別れてしまった彼氏が座っていたのだ。十五年ぶりだったので、やっぱり少し面影は変わっていたが、たぶんあの人だ、と思えた。彼は仕事帰りなのか、ワイシャツを着てスーツのズボンを履いていた。


瀬奈は、思い出したくもないほど恥ずかしい理由で、彼との連絡を断ってしまった事を思い出した。大学受験に向けて一緒に勉強していたのに、どんどん差がつけられていくのが悔しくて、彼と対等にいたかったと追いつめられていく自分が情けなくて、自分から連絡を断ってしまったのだ。今思うと、相手の気持ちも考えていない、強引で子供っぽい理由だと少し後悔していた。


瀬奈は元カレであった洋一とは一番離れた席に座り、周囲の友人たちの近況を聞きながら適当に過ごした。途中で席替えがあったが、酔っぱらってくると、だんだんと席を移動するのも億劫な雰囲気になり、仕切る人も不在になっていった。「俺の靴はどこいった」や、「誰が長い事トイレに入ってんだよ」と言った言葉にに返す人がいなくなるほど、だらだらとした時間が過ぎていった時、そろそろ帰り際だなと判断して、誘ってくれた亜矢に声をかけた。

亜矢はまだ飲むというので、私は主催してくれた幹事にお金を払い、その店を後にした。


同窓会は、正月休みで地元に戻ってくる人たちのために、年末に開かれた。とても寒い日だった。私は、ポケットに手を入れて、早足で帰ろうとした。その時、後ろから声をかけられた。


「瀬奈。」

声をかけた人は振り返る前にわかってしまった。洋一くんだ。私は、心臓をぎゅっとされたような感覚を感じて、少し息苦しくなった。振り向いた後、私はなんて言葉を発しようかと考え、永遠の時が過ぎたような気がした。


「ひ、久しぶり。」

振りむいて洋一くんの顔をまともに見ると、ありきたりの言葉が自然と口をついて出てきた。

「うん、久しぶり。」

洋一くんは急いで出てきたのか、コートを腕にかけたまま、こちらに歩いてきた。

「もしかして追いかけてきてくれた?コート着なよ。カバン持つよ。」

「あぁ、悪い。そうだな。」

そういって洋一くんはカバンを私にひょいと渡してコートを着た。

「お待たせ。駅まで歩くよね?」

コートを着終わった洋一くんは、私からカバンを受け取りながら、赤羽駅に向かって歩き出した。


「さっきは全然話せなかったね。」

洋一くんと私は、結局お互いに一言も話さないまま同窓会の店を後にしたのだ。私は視界の端にほぼずっと洋一くんを入れて、そこに行かないように避けていたのだから、それは当たり前といえば当たり前だ。

「そうだね。思ったより人がいっぱいいたから、話し込んじゃったね。」

私は、避けていたのを悟られないように、はははと笑う。


そのまま、私たちは赤羽駅まで歩いた。

「高校の時に借りた本、返しにきたんだ。」

洋一くんは赤羽駅に着くと、カバンからビニール袋に包まれた一冊の本を取り出した。私は同時に「あぁ」と、思う。わざわざ私を追いかけてくれた十五年前の元カレの用事はいったい何だったのだろうかと、歩きながら疑問に思っていたのだ。謎が解けてしまったと同時に、がっかりした暗澹とした気持ちがざわざわと広がっていく。そしてそのがっかりの正体を自覚し、羞恥の感情がぶわっと体を支配した。私は一体何を期待していたのだろうかと思いながら、自分の気持ちを奮い立たせる必要があった。

「貸してたっけ?」

私は、洋一くんにその本を貸した時のことを明確に覚えていたが、忘れたふりをした。声が裏返ってはなかったかと、それだけに意識を集中する。

「付き合っていた時の帰り道で渡されたよ。一番好きな本なんだ、って。」

「確かに。一番好きで、何冊も持っているから貸していることに気づかなかった。それ、あげるよ。」

私は、本に施したある仕掛けを思い出して、自分の手元に置いておきたくない気持ちが勝った。どうせこの同窓会を機に、もう洋一くんと会うことはないだろうと思う。もう二度と手元に戻らなくてもいいくらいに、恥ずかしい代物だった。

「でも、返したいんだ。」洋一くんは、引かなかった。

「そう?じゃあ受け取る。ちなみに、読んだ?」

私は、本の中の仕掛けに洋一くんが気付いたかどうかを確認したかった。

「それを聞かれるのが怖くて、ずっと返せなかったんだ。結局読んでいない。上巻を買う気にもなれなくて……ごめん。」

「そう。」

私は、安堵とも落胆ともとれるようなため息まじりの言葉が出る。

「じゃあ、ずっと罪悪感を抱かせてしまってたんだね。」

「そんなことないよ。それを見ると、また会えると思えたから。」


そして結局、私はその後、洋一くんからの「飲みなおそうよ」という提案に、断ることもできずについていった。



同窓会の翌日、私は雨戸の閉まった暗いホテルの一室で目が覚めた。横には高校時代の半分を一緒に過ごした男性が寝ている。

私は洋一くんが寝ているのを確認して、机の上にホテルの代金を置くと、そのホテルを後にした。

外は思っていた以上に寒くて、白い息がしっかりとした輪郭を保っている。もう会うこともないだろうなという漠然とした、ただ決意に近い確信的な思いを抱きながら、静まり帰った駅までの道をゆっくりと歩いた。駅に着くころにはちょうど始発電車がでるだろう。


もういい大人なのだから、私は特に後悔はしていなかったが、何か自分の中で踏ん切りがついたような気がした。ただ、少し思い出を昇華させる時間が必要だ、と感じる。とりあえず、正月休みは本を読もうと決めた。今まで忌避していたようなホラーやミステリーもいいかもしれない。少しおしゃれをして、いつもと違う場所ーたとえばカフェのテラスとかーで本を読んでみたり、都内で開かれている読書イベントに参加してみたり、そんなことをとめどなく考えながら、どんどんと気持ちに整理がついていくような気がした。


それから数日たったある日、ある若い刑事が訪ねて来た。

「え?黒田さんの同窓会の時の様子ですか?」

「えぇ。同窓会で、何か違和感や、普段と違う様子などありませんでしたか?」

「違和感と言われましても、その日は十五年ぶりに彼と会ったんです。わかりません。」

「なるほど。では、黒田洋一さんはその日一晩中あなたと一緒にいたと聞いていますが、間違いないですか?」

「え、ええ。」

私はその時のことを思い出し、悪いことをしたわけではないのに、責められているような気がして少し低い声になってしまう。それに、若い刑事は気にもしていないだろうが、私はとてもきれいで大事にしまっていた宝物をぐしゃぐしゃに踏み荒らされたような嫌な気分になった。

「それは間違いないですね?」

「はい。明け方彼とは別れましたが、それまでは同窓会も含めて一緒にいました。」

同じテーブルに座りたくなくて、ずっと背中を目で追っていたことを思い出し、間違い無い、ともう一度若い刑事さんに伝えた。

「わかりました。ありがとうございます。」

「あの、なぜそんなことを聞くのですか?」

「黒田洋一さんが同窓会に行っている間、洋一さんの奥さんが自宅で背中をナイフで刺されて死亡していたんですよ。強盗殺人の疑いで捜査していますが、念のため第一発見者である洋一さんのその日の行動を洗っているんです。捜査協力ありがとうございました。」

なし崩し的に告げられた事実に、まともな言葉を発せられないまま、その若い刑事は帰っていった。



私は、あの日洋一くんに返してもらった袋を開けた。

自宅に戻ってから、何も触らずにそのまま本棚の隅に袋ごと封印していたのだ。

その本は、ページの間に挟まっているしおりやチラシさえなかったが、買ったばかりの新品のようだった。私は、当時の恥ずかしい仕掛けがあるかどうかを確認するために、ページをぱらぱらとめくる。私は、小説に線を引く癖があるのだが、当時あげた本には、洋一くんへ私の気持ちが表現されている箇所に線を引いたのだ。洋一くんとは自然に付き合うようになったから、何か区切りをつけたくて、好きだという気持ちを本に込めて洋一くんに渡したのだ。洋一くんがそれに気が付いていたかどうかは怪しいが、私はその行為だけで満足だった。


「ちゃんと線が引いてある。」

私はところどころに引かれた線を見ながら、その箇所を一つ一つ確認していく。

「あれ。私が引いたところと違う箇所にも線が引かれてる…。」

私は、自分が引いた覚えのない線をすべて洗い出した。


ー僕は、去っていく彼女の背中を物悲しく見つめたー

ーナイフのように鋭利な言葉を彼女に吐いてしまったことを後悔しー

ーいつまでも忘れられない思い出は、僕の中で壊れやすいガラス細工のように透き通っていてきれいだ。ただし、とても脆くはかないものになっているのを失念していたー


私は自分が引いた記憶のない線の箇所を読んで、亜矢に連絡を取った。



       **************



洋一は、同窓会の翌日、横で寝ていたはずの瀬奈の姿が見えなくなっているのを見ても、何も思わなかった。自分の感情という感情がすっぽり抜け落ちてしまったように感じて、淡々とホテルを出る準備をする。 

シャワーを浴びながら、これからどうしようかと思考のまとまらない頭でぼんやりと考える。あの本を僕にくれた本人に会えば、なんとかなるのではと一縷の望みから参加した同窓会だったが、代わりにはならないと感じた。それほど自分にとってあの本はかけがえのないものになっていたのだと気づく。


彼女が渡してくれた本には、ところどころに線が引いてあった。彼女はよく本に線を引いていたから、この本にも同じように引いたのだろうと気にも留めていなかったが、よくよく読んでみると、自分に向けて引いてくれた線だと気が付いた。そう気が付いてから僕は、ページ番号と線の箇所を覚えるほど、何度もその本を読み込んだ。

玲子と結婚してからも、その本が大切なものに変わりはなかった。仕事で上司に人格ごと否定された時も、玲子との関係が悪化した時も、何度もその本を読んだ。どこかで自分のことをすべて肯定してくれる存在がいるような気がするのだ。

その本が、もう手に入らないと知った時、僕は自分が信じていたものに裏切られたような感覚に陥った。僕はこれから何にすがって生きていけばいいのかわからない。今まで気にも留めなかった上司の小言や、ニュースで流れる理不尽だと感じる政策、昼間から酒を飲んで店員にからんでいる老人、そんなものに無性に腹が立って仕方なくなってくる。これからの人生が、こういった怒りや悲しみで支配されるようになってしまう気がして、それから毎日悪夢を見るようになった。


ある日仕事から帰宅すると、比較的きれいな本を数十冊残して、ほとんどの僕のものがなくなっていた。その事件が起きた時に、不思議と怒りはわかなかったが、だんだんと感情が付いてきたのか、数日後には玲子を殺すしかないと考えるようになった。


そして、僕は玲子を殺した。




数日後、洋一に瀬奈から連絡があった。

瀬奈が会って話したいというので、洋一は赤羽駅西口の前にある星乃珈琲店を待ち合わせ場所に指定した。時間ちょうどについたが、瀬奈はすでに店の中にいた。正月の三が日ということもあって、利用者はまばらで、店内のBGMはやけに大きく感じる。瀬奈は店の一番奥の席に座っていたので、僕はその前の席に着いた。


瀬奈はすでにホットコーヒーを頼んでいたので、僕も同じものを店員に頼んだ。店員がそのホットコーヒーを持ってくるまでの間、僕たちは軽く雑談をかわしていたが、コーヒーが手元にくると、瀬奈が意を決したように僕を見つめて口を開いた。

「洋一くん、あの日、奥さんを殺したの?」

「どうしてそう思うの?」

僕は、コーヒーを口に含んだが、熱いと思ってすぐにカップから口を離しながら、どうしてそんな結論に至ったのかを聞いた。

「私、同窓会中、ずっと洋一くんを見ていたの。十五年たった今でも、というか、十五年もたってしまったらこそ、あなたとどんな会話をしていいのかわからなくて、気まずかったのよ。」

「気が付いていたよ。僕を避けているなって。」

瀬奈が僕に気が付いていたように、僕も瀬奈に気が付いていた。十五年たった瀬奈は、変わらずに姿勢がよく、まっすぐな瞳をしているなと感じていた。

「そう。それで、昨日若い刑事さんに洋一くんとあの日ずっと一緒にいるか聞かれたのよ。それで私は、ずっといた、と伝えたわ。」

「ずっといたからね。」

僕は、瀬奈のそのまっすぐな瞳に見つめられながら、店のBGMがだんだんと遠くなっていくような感じがした。でもね、と瀬奈が続けた。

「ずっといると思っていた人は、洋一くんじゃなかった。私がみていたのはあくまで洋一くんの背中だったから。亜矢と幹事に確認したんだけど、あの日、途中で今野くんが仕事帰りに参加していたわ。スーツでね。飲み会も後半になっていたから、もう誰がどこに座っているか気にする人はいなくなって、わからなくなっていたのね。私は飲み会にいたスーツの人の背中を追っていただけで、洋一くんを追っていたわけじゃなかった。」

瀬奈は、やけに淡々と話し続けた。同窓会の日に恥ずかしそうにずっとそらされていた視線は、今はまっすぐに僕を見つめてくる。

「瀬奈は、僕が飲み会中に会場を抜け出して、妻を殺したと思っているんだ。」

「そうよ。」

「飲み会中に僕がいなくなった証拠や、僕が妻を殺した証拠があるのかい?長いことトイレに入っていただけかもしれない。」

僕は、そういって瀬奈の推理を否定しつつも、瀬奈のまっすぐな視線になぜか少し安堵を覚えた。

「うちに来た刑事の人が、ベランダのガラスが割られて土足の靴で踏み荒らされていたといっていたわ。」

「そうだよ。現場の唯一の手掛かりはその靴跡だけど、その靴は僕の持っている靴じゃなかった。」

「洋一くんは、同窓会に来ていた人たちの誰かの靴を履いて自宅に戻った。奥さんを殺した後、わざとその靴で室内を荒らしたんだわ。飲み会中に靴がなくなったと騒いでいたのは香川くんだった。だから…。」

瀬奈はそのまま「香川くんの靴を調べたら血痕がついているはずだ」と続けた。


「そうだね、その通りだよ。」

僕は、瀬奈の素晴らしい推理に、抗うわけでもなくすんなりと肯定した。

「どうして、あの本を私に渡したの?あれがなければ、私はきっと、気にも留めなかった。」

先ほどよどみなく話していた人とは同じ人物とは思えないほど、瀬奈の声は震えていた。瀬奈にとって重要なのは「なぜ殺したか」ではなくて、「なぜ自分にそのことを告げようとしたのか」だったのだろう。

僕は実際のところ、なぜ瀬奈にあの本を返そうと思ったのか、自分でも正確に理解できてはいなかった。ただ、そうしたいと思ったのだ。

「瀬奈は、あの本が最近新しく買ったものだって気づいた?」

「ええ。十五年たっていたら、さすがに保存状態の良い本でも色あせるわ。新しく買った本だって気づいたけど…私の引いた線の箇所、全部覚えてたのね。」

瀬奈は、そのままぽろぽろと涙をこぼした。ただ、瀬奈は涙を拭くことなく、瞬きをすることもなく、まっすぐに僕を見つめてくる。

僕は、瀬奈に対してというより、僕自身がなぜそうしたかに向き合うために、言葉を紡ぐ。

「あぁ、あの本は僕にとって、とても大事なものだったんだ。おそらく、いつのまにかその本を通して、瀬奈ではない瀬奈のような存在を夢想してしまってたんだと思う。」

「……。」

「だから、君を試したのかもしれないね。実は、あの本はもう手元にないんだ。僕は、もしかしたらこの十五年間、あの本にすがって生きていたのかもしれなくて、君がその代わりになるのか試したのかもしれない。自分でもなぜあんな線を引いて君にあの本を渡したのか、わからないんだ。」

「そう。きっと、私はあの本の代わりにはなれないと思う。」

瀬奈は、ようやく涙を拭く気になったのか、ハンカチを取り出して涙を拭いている。僕はそれをぼんやりと見つめながら、失望感とも虚無感とも言えない悲しい思いを味わっていた。ここ最近で得られなかった感情らしい感情が、ゆっくりと湧き上がってくるのを感じた。同時に僕は、玲子を殺した後悔がじわじわと押し寄せる。

「そうだよね。ごめん。」

そう言って瀬奈を巻き込んだことに謝罪した後、僕はこう付け加えた。

「大丈夫、自首してくるよ。ありがとう。」


そういって僕は、飲める温度に冷めたコーヒーを一気に飲み干して、席を後にした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【短編】小説と小説 佐藤純 @kuro_cco

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ