第63話 ラドレイヴン王国王妃(※sideカイル)

 あの真面目な正妃の目に触れぬようにと、父は王宮内の金の動きに関するいくつかの書類を巧みに隠し通していた。しかしそれらはついに正妃の知るところとなった。度重なる災害により困窮しはじめた他国が援助を申し出てきたため支援内容を熟考しようとした正妃が、ついに国民の血税が奴らの浪費に消えていっていることに気付いたのだ。問い詰められた財務大臣が漏らしたらしい。


 毒々しいまでに饐えた驕奢の匂いが漂うジェラルドの私室に乗り込んできた正妃は、奴に果敢に正論をぶつけはじめた。


「ジェラルド様、即刻無駄遣いをお止めになり、そちらのマデリーン妃にも改めるようしっかりとご忠告ください。そしてここにいくつも転がっているこれらの宝飾品を処分していただきます。早急に財政の立て直しを図らねばなりません」

「…誰に向かってそのような生意気な口をきいているのか、分かっているんだろうな貴様」

「もちろんよく分かっておりますわ。このラドレイヴン王国の国王陛下、あなたに申し上げているのです」


 …随分雰囲気が変わったな…。

 他人事のような気持ちでそのやり取りを眺めながら、俺はアリア妃陛下の変貌ぶりに驚いてもいた。カナルヴァーラからこの王宮に嫁いで来られた頃のこの人は、もっと大人しくて頼りなげな雰囲気だったはずだ。周りの目を気にしながら時折隠しきれない不安を覗かせつつ、それでも必死になって王妃教育や公務に取り組んでいた。

 だが今の妃陛下からは、あの頃の自信なさげな様子は感じられない。国王相手に堂々とその行動を諌め、自分の意見を主張している。


 しかしこの部屋の低俗な主たちには彼女の真摯な思いは欠片ほども届いていない。二人してこれでもかと妃陛下を愚弄する言葉を投げつけ、彼女の尊厳を踏みにじろうとする。

 ついに妃陛下が冷静さを欠きジェラルドに食ってかかろうとしたその時、考えるより先に、俺は言葉を発していた。


「…陛下。もうよろしいでしょう。妃陛下を離宮にお送りしてまいります」




 離宮に彼女を送り届けた後、国に帰ってはどうかと提案してみた。さっきあの愚王は離縁だの替えはいくらでもいるだのと言って、この人を貶めていた。ならばいっそのこと本当に帰ってしまえばいいと思ったのだ。どうせこの人は異国の王女。我が国に特別な思い入れなどあるはずもない。沈みかかった船から脱出して家族の元へ帰れるのならば、それが一番楽でいいんじゃないかと思ったのだ。

 この人を巻き添えにする必要はない。


 ところが妃陛下は俺を真っ直ぐに見つめると、澄みきった美しい瞳できっぱりとこう言ったのだ。


「私はこのラドレイヴン王国の王妃です。そう生きていくのだと、覚悟を持ってここへ嫁いできました。上手くいかないから、陛下に愛想を尽かされたから、見捨てられ冷遇されたからと言ってすごすごと逃げ帰ることなど絶対にしません。私が今そんなことをすれば、この国の民たちはどうなるのです」

「……え……」

「公務を放り出し、民の血税を自分たちのために湯水のように使うことを当然と思っている。あんな人に国政を委ねてここを見捨ててしまえば、遠くない将来この国は本当に破綻します。それだけは絶対に阻止しなければ。…それが今の私の、身命を賭して挑む仕事ですもの」


(───────っ!)


 頬を思いきり叩かれたような気分だった。抜け殻になり、ぼんやりと霞がかかった世界を生きていた俺の頭が突然クリアになった気がした。


 周囲を恨み、境遇に絶望し、運命を呪ったままただ全てを諦め、生きる屍となった自分。軽蔑する人間たちに抗うこともせず、感情を捨て流されるままに毎日を過ごしていた自身のことが、急に恥ずかしくなった。


 しかしこれからどうするか。国としてはもう他国に援助をしている余裕などない。かと言って、友好関係を築き上げてきた小国の危機を黙って見過ごしたのでは面目が立たない。

 すると妃陛下の筆頭護衛騎士であるファウラー侯爵令息が提案をした。莫大な私財を持つ西端の地の領主、プレストン辺境伯に相談してみてはどうか、と。


 その名が出た途端、俺の心臓が強く跳ねた。美しいあの人の姿が頭の中に蘇り、言いようのない胸の痛みに息が止まる。ああ…、俺の心はいまだあの人に、こんなにも強く囚われている…。


(…今の俺の姿を見たら、あの人はどう思うだろうか…)





 その後プレストン辺境伯に赴き離宮へと帰ってきた妃陛下に呼び出された俺は、平静を装いつつ彼女の元へ向かった。

 辺境伯はかの国への援助を受け入れてくれたと、そのような内容の報告だった。それはよかったですねと表向き返事をしながら、俺はうわの空だった。この場から一刻も早く立ち去りたいような、それでいて、あの人には会ったのか、元気にしていたのかと妃陛下を問い詰めて聞き出したいような、どうにも落ち着かない気持ちを抱えていた。

 

 するとまるで俺の気持ちを察したかのように、妃陛下が言った。コーデリア様からあなたに伝言を預かってきているのよ、と。




 コーデリア。




 その名を聞いただけで心臓が飛び出るほど大きく脈打ち、全神経が目の前の女性に集中した。緊張のあまり呼吸もできない。

 あの人が…この俺に伝言を…?一体何を言付かってきたのか。


 まだこの俺の存在が、あの人の中にちゃんと残っていたのか……


 そんな狂気じみた喜びと、何を伝えられるのかと怯える気持ちに押しつぶされそうになりながら、俺は祈るような思いで妃陛下の次の言葉を待った。


「コーデリア様は、今とても幸せですと。あなた様もどうか元気でいてくださいと。…そう伝えてほしいと言われたわ」

「……っ、」


 彼女の言葉を脳が理解した途端、全身の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。


 そうか……よかった。コーデリア。

 幸せなのか。とても。


 ……そうか……


 ずっと心配だった。あの愚か者に裏切られ、ズタズタに傷付いたままここを去ってしまった健気なあの人のことが。

 だけどあなたは今きっと、夫となった人に大切に守られながら穏やかな日々を過ごしているのだな。


 それなら、よかった。


 安堵と恋しさで張り裂けそうな胸を必死に抑えつけ、俺はどうにか言葉を絞り出す。


「…そうですか。分かりました。では、私はこれで失礼します」


 部屋を出る前、俺はほんの少し逡巡した後振り返った。


「…ありがとうございます、妃陛下」


 昂った感情を隠しきれず無様な姿を見せてしまう前に、俺は急いでその場を辞した。




 離宮を離れあの愚かな男の部屋に戻りながら、俺はたった今まで言葉を交わしていた彼女のことを考えた。

 本当に、立派になられた。見捨てて逃げ帰ってしまえば楽になれるだろうに、この国の民たちのためにここで戦うことを決意している。あの人は紛れもなく、このラドレイヴン王国の王妃となったのだ。


(……しかし……今更どうなるというのか)


 あんな愚王が、下品な側妃が、強欲な父がどうなろうと知ったことではないと投げやりな気持ちで傍観しているうちに、この国はもう取り返しのつかないところまで来てしまった。ジェラルドと側妃は自分たちのために割り当てられた金を使い切ると、他に組み込まれていた国庫の予算まで王命の元に動かし使い切ろうとしている。たまらずジェラルドの判断を諌める重鎮が現れれば即刻解雇するという傍若無人な独裁者と成り果てたのだ。


(ここから立て直すことなど、できるはずがない…)


 俺にはもう、この大国の終焉が見えていた。







 

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