第41話 ときめきと葛藤
「……アリア様」
「……ん?なぁに?リネット」
「…大丈夫ですか?」
夜、離宮の部屋で読んでもいない本のページをただ捲っていると、リネットがおずおずと声をかけてきた。
食欲が湧かず、リネットが部屋に運んできてくれた夕食にもほとんど手をつけられなかった。あの日以来食べ物が喉を通らない。大勢の貴婦人たちの前で屈辱的な言葉で側妃から罵倒された事実は、私を精神的に激しく打ちのめしていた。
役立たずの冷遇女、子が産めなくて切り捨てられた、暇だから外交と称して旅行にばかり行っている……
居場所がなくて、逃げてるだけ……
「……。大丈夫よ。ごめんなさいね、リネット。心配ばかりかけちゃって。さすがに少し落ち込んじゃってるだけよ」
私は読むふりをしていた本から目を上げ、優しい侍女の顔を見て微笑んだ。最近のリネットはいつも不安そうな顔をして私のことを見ている。…きっとこの子も、こんな冷遇された正妃付きの侍女として他の侍女たちから冷たい態度をとられたりしているんだろうな…。
だけど、一度も文句を言ったり弱音を吐いたりしない。
他の侍女たちは皆すっかりよそよそしくなってしまったけれど、この子だけが以前と変わらず、私のそばに寄り添ってくれている。
(…これ以上、この子に心細い思いをさせたらダメだ)
私は椅子から立ち上がると両手を組んで上に上げ、大きく背伸びをしてみせた。
「んーっ!…はぁ、肩が凝っちゃったわ。…今夜はそろそろ寝ようかなぁ。最近寝不足だったからたまにはたっぷり眠って英気を養うわ!ふふっ」
「…そうですよアリア様っ。ただでさえ食が細くていらっしゃるのに、この上睡眠不足が続いたら本当に今度こそ倒れちゃいますよっ!たっぷり眠って、そして明日こそはもっとお食事いっぱい取ってくださいっ」
「ふふ、そうよね。いつまでも落ち込んでる暇なんてないんだもの。やることはたくさんあるんだし」
「そうですよ、王妃様。とってもお忙しい身なんですからね!誰かさんの分までめいっぱい働いてらっしゃるんですから」
「しーっ。そういうことすぐに口に出さないの。あなた最近露骨すぎるわよ」
「だって…!誰も彼もあんまりなんですもの。アリア様が毎日どれだけ頑張っていらっしゃるか想像もつかないほどのおバカ野郎ばかりなんでしょうかここは。誰かさんが毎日一切働いてないのにこの王宮が滞りなくこれまで通りの体制を保っていられるのは、誰のおかげだと思っているんでしょうか。ほ…ほんとに…、あの女……!…思い出すたびに腹が立って腹が立ってもう……!お腹の中が煮えくり返りますぅぅぅ!ムキーーーッ!」
喋っているうちにリネットもあの茶会の日のことを思い出したのだろう。全身を小刻みに震わせながら両手の指を意味もなくうねうねと動かしている。…あ、顔まで真っ赤になってきた。
「はいはい、分かったから。大きな声で何を口走ってるか分かってるの?もう落ち着いてリネット。今日はあなたも早く休んでよ。疲れてるからそんなにカリカリするんだわ」
背中をさすりながら私が諭すと、リネットも少し落ち着きを取り戻した。
「ありがとうございます、アリア様。…そうですね、私も今夜はたっぷり休みます」
「ええ!お互い体力と気力を補充しましょう」
「はいっ!」
リネットとおやすみを言いあって、私は小さな寝室のベッドの中に体を滑り込ませた。ブランケットを被って、目を閉じる。今夜の部屋の外の護衛にはクラークやメルヴィンたちがついてくれているようだった。
(…今日はエルドの顔を見なかったな…)
忙しかったのかしら。何か別のお仕事で詰め所の方にいたのかな。それともやっぱり、たまにはゆっくり休みをとったのかしら。…休んでいてほしい。あんなにずっと働いていて、エルドの体が心配…。気付けばいつもいつも私のそばにいてくれて、そりゃ私は嬉しいけれど…。
「…………。」
『…嫌ですか?俺が毎日あなたのそばでお仕えするのは』
あの日夕日の中で彼が私に言った言葉が、ふいに頭の中によみがえる。美しい翠色の瞳を思い出し、胸がざわめく。…嫌なわけないじゃない。あんなに頼もしくて優しくて…、エルドがそばで見守ってくれているだけで、こんな毎日でも心が少し穏やかになれる。
エルドの存在も、もう私にとって、なくてはならないかけがえのない……
(…あれ…?私…、さっきから何で…)
何でこんなにずっとエルドのことばかり考えているんだろう。
ふとそのことに気付いた途端、誰に知られているわけでもないのに急に恥ずかしくなり、顔がどんどん熱を帯びる。あっという間に体中がカッカするほど火照ってきて、もう訳が分からない。
「…やだ、もう。何?これ…」
落ち着こう。別のことを考えよう。
そう思って頬を両手で抑えながら何度も呼吸を繰り返す。ゆっくりと深呼吸したいのに、鼓動が早すぎてそれが難しい。
…考えない。もう考えない…。
そう自分に言い聞かせながら目を閉じる。
「…………。」
『…俺たちがついています、アリア様。あなたはお一人じゃない。…何かあったら、頼ってください』
『どうかアリア様、もう明日まではゆっくりとお過ごしになってください。…心配で、見ていられない』
『…強いのね、エルドって』
『そうですよ。あなた様をお守りするためだけの強さです』
「~~~~~~っ!!」
ダメ。どうしてもエルドの顔ばかりが、優しい言葉ばかりが浮かんできて少しも鼓動が落ち着かない。
私、もしかして……、ときめいてる……?
エルドがあまりにも素敵な人だから……。
(ダッ!…ダメに決まってるでしょうそんなの!私は国王の妃なのよ?!夫のいる身なのに、そんなの…、許されないわ。はしたない。だらしない。絶対にダメよ)
…そりゃ、夫にはもうまるっきり見向きもされていないけれど。
愛されていないどころか、あちらにはもう他に寵愛する女性が別にいて、むしろ私は疎まれてさえいるけれど。
二人で手と手を取り合ってこの大国の平和のために尽くしていこうと誓いを交わし結婚して、…だけど結局、向こうは何もかも私一人に押し付けて、他の女性と怠惰な日々を過ごしているけれど…。
「……はぁ……」
眠気なんてやって来ない。その時ふと、部屋の中がやけに青白いことに気付いた。バルコニーに続く大きな窓の方に目をやると、カーテン越しに外の月明かりが煌々と差し込んできている。
(…今夜の月は随分と真っ青で明るいわね…)
そういえば、今中庭には白い花々が一面に咲き誇っている。最近はあまりゆっくり眺めるゆとりがなかったけれど。
(…綺麗だろうな。こんな月明かりの中の白い花々は)
私はゆっくりと体を起こすと、真っ白なネグリジェのままでバルコニーに向かった。
少しだけ月明かりに照らされた花々を見つめて、気持ちを落ち着けようと思った。
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