3.月より遠く
3.月より遠く
前日の夜、ギルド併設の酒場を静まらせ騒がせた「余所者」は、街外れにある小さな聖堂を訪れていた。理由は依頼主に会う為だ。
両開きの大扉を開く音。
前から数えて三列目、左列の長椅子の右端に、浅く腰掛けていた少女がはっと振り返った。両サイドで三つ編みに結った栗色の髪が揺れる。
十四歳。未だ成人の儀を迎えていないが、憔悴が老けさせたその顔は、既に生きることに疲れ果てているよう。彼女こそが依頼主だった。
「あー、立ち上がんなくて良いから。座ったまま、落ち着いて話そう」
かっ、かっ、かっ、と規則的な足音。片手をひらひらと左右に振りながら、軽やかな声で少女を制し、余所者は少女の前列に腰掛けた。神父が磨き終えたばかりの窓から差し込んだ光が、その淡い金髪を穏やかに彩る。
落ち着いていられるものかと、少女は膝の上に置いた両手で、母が仕立ててくれた橙色のワンピースを強く握った。
余所者はその焦りと怒りを察したのか、
「『闇泳の魔物』だけど、捕まえられそーだぜ」
「っ! 本当ですか!?」
「本当。君に会いに来たのはその報告のため。
それから、改めて判断材料が欲しい」
地上に神が顕現する時代だ。祭壇の奥、紅を基調としたステンドグラスを背に佇む神像は、神と会うことが叶った者の記憶を元に彫られている。
『女神は天上に座す一柱のみ』……そう言われていた時代より、奇跡は人間に寄り添うようになった。それでも不公平は変わらず在る。全ての人間が護られ、救われるわけではない。
「俺さー。君の前で言うべきことじゃねーのかもだけど」
神は、少女の家族を護れなかった。
敵討ちが叶うほどの力と知恵が、自らに突然兆すわけもない。
だから少女は数日前に、新たな保護者となったこの教会の神父とともに聖都を訪れたのだ。神を糾弾する為ではなく、正しき裁きを乞う為に。
人間一人一人が持つ、異なる色をした願いを、神は黙って受け止める。
祈りの対象でも呪いの対象でもある、神像の閉ざされた目蓋を見つめながら、
「母さんが大好きなんだよね」
余所者は言った。
「過去の……生まれる前は流石に、だけど。今も未来も、世界中で誰よりも、森羅万象の何よりも、母さんのことを大切に思ってるって自信がある。ここへ来たのも君の為って言うより、母さんの為って言った方が正しい。だから、」
少女に背を向けている余所者には分からない。少女の蒼色の瞳を覆った涙が、今にも溢れ落ちそうになっていると。
「母さんが、夜空に浮かぶ月よりも遠いところへ連れて行かれてしまったら?
母さんを想うことが、母さんの為に動くことが当たり前の俺は、一体どうなっちまうのか。想像さえできないんだよなー……」
「……わたしも、分からないんです」
かぼそい、ソプラノ。
ぼたたっ、と大粒の涙が零れ落ち、遺作のワンピースに暗いシミをつくる。
「わたしが、どうしたら良いのか」
もう、涙は枯れ果てた。
何度、そう思ったことか。
土路の上で仰向けに横たわった母に、ふるえる脚で駆け寄ったあの日。涙の跡を残した頬……氷のように冷たくなった頬に触れてから、何度。
それでも、涙は再び溢れ出す。
渇いた感情を潤わせ、よみがえらせる。
「分からない、分からないの……だって、ずっと一緒だったから! 一緒にいることが当たり前だったから、だからっまだ、お母さんのいない、家の中で、どうしたら良いのか、全然、分からないの……!!
ただ、悲しくて、後悔して、憎んで……悲しくて、後悔して、憎んでっ……ずっと、ずっと、その繰り返しで……っ、だけど……」
黒いインクで、白紙にひたすらぐるぐると渦巻きを描くような。
行き場を失った負の感情を炸裂させる、叫び。
やがて。
負荷に耐えかねたペン先が折れたように、
「……だけど、誰よりも優しかったお母さんが、悲しむ顔は、見たくない。
ねえ……わたし、どうしたら良い?」
かぼそく、かぼそく、少女は言った。
掃除という名目でさりげなく
それに気付いた余所者は、口許だけで笑み、
「材料は充分揃った、かな。
んーと、どうしたら良いか、ね。とりあえず明日の朝、『闇泳の魔物』さんを連れて来るから、言葉でも拳でも構わねーんで、全力で一発ぶん殴ってもらってー……」
早々に立ち上がった。そしてあとは任せたとばかりに、神父を手招きする。
「で。そこから先は、人間同士で考えよう」
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