「どう思いますか、真鍋先生」

「どうって、行きたければ行けばいいんじゃない?」

「そう簡単に決められないからこうやって相談に来てるんじゃないですか」


 もっと真剣に聞いてくださいよ、と松波千枝が嘆いているのは公民館の調理室でのことだ。


 今日は水曜日。もう少し経てば、ぞろぞろと料理教室の生徒たちが集まってくるはずの時間帯。夕暮れはこの頃少し足を緩めるようになって、窓から差し込む光はまだ明るい。


 机に突っ伏している千枝のつむじを、真鍋は頬杖を突いて見つめていた。


「聞いてる聞いてる。でも、結局そういうのって自分で決めることでしょ?」

「そうですけど、そうやって自分で何でもかんでも簡単に決められるくらい賢いなら、学校なんて行かずに今すぐ子どもはみんな大人になったっていいわけじゃないですか」

「なってみたら?」

「急かさないでくださいよ。どうせみんなすぐに大人になっちゃうんですから」


 鋭い、と真鍋は笑う。他人事だと思って、と恨めしげな目で千枝は頭を起こす。調理台の上に置いたその冊子に手を伸ばす。


 外国語で書いてあるから、きっと大抵の人間はそれを読むことができないだろう。

 しかし、ここ最近ちゃんと辞書を引きながらこの言語と向き合っているから、千枝にはそれが読める。表紙の言葉はこうだ。


 学校案内。


「留学かー……。憧れと言えば憧れなんですけどね」

「じゃあ行ってきちゃいなよ」

「ちょっと、可愛い教え子が心配じゃないんですか。海の外で一人暮らしだなんて、何があるかわかったものじゃないんですよ」

「でも、その春河さんのお友達が衣食住なんかも提供してくれるんでしょ? 行くだけ得じゃない」


 んぐ、と千枝が言葉に詰まる。それから彼女は、これまでの経緯を思い出すように視線を宙に投げて、


「まさかちょっと自転車を走らせたくらいのことが、ここまで大きくなって返ってくるとは……」

「運の良いこともあるもんだねえ。私もあの出前用の自転車、そのくらい役に立ってくれるといいんだけど」

「あ、じゃあ真鍋先生も一緒に行きます?」


 何が「じゃあ」なの、と呆れた顔で真鍋が言う。いいじゃないですか、と千枝は強引に押し返す。ほら、前から洋食の勉強がしたいって言ってましたし、これを機会に。


「店も教室もあるでしょ。これでも一城の主なんだから、そんなに簡単には旅になんか出られないの」

「そんなあ」

「むしろ千枝は良い機会じゃないの。大人になる前なら、後ろ髪を引くものだってそんなに多くはないんだから」


 うーむ、と千枝は唸る。腕を組む。天井を見る。


 三秒。


「……そういえば、髪で思い出したんですけど」


 ひそっ、と声を小さくする。真鍋は子どもの相手をよくする人間らしい気安さで、彼女の方に身体を寄せる。千枝は後ろを窺う。さらに真鍋に寄って、より小さな声で、


「春河先生の髪のこと、真鍋先生は知ってますか?」

 真剣な声色だった。


 しかし真鍋の反応は芳しくない。彼女はちょっと考えるようにして、首を傾げて、しかし、


「全然。何かあるの?」

「あ、いや。知らないならいいんです。知らないなら」


 千枝の引き際も潔い。その答えを得るや、彼女はすぐさまその質問を引っ込める。何か話題の替え先を探したのだろう、その手は再び『学校案内』の冊子に伸びようとする。


 その前に、扉を叩く音が聞こえた。


「はーい。もう開いてるよー」

 真鍋が返す。扉が開く。


「こんにちは」

「ど、」


 ついさっき話題に出した春河櫻子が現れて、千枝は、


「どうしたんですか、春河先生」

「あ、うん」

 すぐに立ち上がって、彼女のもとに寄っていく。


 彼女の頭には、髪をすっぽりと覆い隠すような頭巾が被さっていたからだ。


 千枝の頭の中では、ここ一ヶ月くらい二つのことが渦巻いている。一つは、ちょっと自転車を走らせただけで降って湧いてきたこの留学話のこと。そしてもう一つは、その『ちょっと自転車を走らせた』あの日に見たもの。


 崖の下から出てきた、あの随分と綺麗な櫻子の友人のことも、もちろん印象に残ってはいる。

 しかしそれ以上に、その前に見た真っ白な髪のこと――触れた方が良いのか良くないのかもわからないまま、ずるずると今日にまで至っているそのことが、常に頭の片隅にある。


 だからその頭巾を見て、また何かあったのかと思った。

 心配して訊ねてみれば、しかし櫻子は、


「大したことじゃないんだけどね」


 呟く。言葉の割には緊張しているようにも見えて、ますます千枝は心配になる。この人は普段は頼りになるし優しいけれど、どこか儚げというか、ちょっとしたことで折れてしまいそうな危うさみたいなものを感じなくもない。そんな風に思っている。


 だから、その後の行動に腰を抜かすほど驚いた。


「真鍋先生」

 そう言って、彼女は頭巾を取ったのだ。


 さ、と真っ白なそれが光の中で露わになる。千枝は小さく口を開けたまま、何も言えない。どういう行動を取るべきなのかわからなくて、櫻子と真鍋の間で視線を交互させる。


 何事かを櫻子が言おうとする。

 その前に、真鍋が言った。


「あら、可愛いこと」


 言われた方は、目を見開く。それから本当に美しく、目を細めて笑う。


「地毛が、この色なんです」


 似合うね、と真鍋は何でもないことのように言う。

 ありがとうございます、と櫻子も答える。


 落ち着いて言葉を交わす二人を見ながら――留学案内の冊子も視界に収めながら、千枝は考えている。


 いつか自分も、このくらいの人たちになれるんだろうか。





「ねーなんであたしだけ何も貰えな――わ! 何その色、櫻子!」

「やかましいのが来ましたね」


 鴉が店に飛び込んできて、振り向いた稲森が容赦なく言う。それに櫻子は苦笑いをしながら「いらっしゃいませ」を言う。


 当然、鴉は聞いていない。


「白ってそれ、元の色!?」

「はい。ちょっと今、試しに戻してみていて」

「綺麗! 鶴みたい!」


 鶴の頭って黒とか赤じゃありませんでしたっけ、と稲森が言う。当然、これも鴉は聞いていない。ふんすふんすと鼻息を荒くして帳場の奥に乗り込んでくると、前から後ろから櫻子の髪をしげしげと見つめてくる。


「いいじゃん! ね、あたしも白くしてみたい! 今度櫻子の櫛も作ってよ!」

「え。それは……できるなら、いいですけど」


 ちら、と櫻子は稲森の方を見るけれど、彼は肩を竦めた。


「僕からは何とも。肇くんならそういうのもできるかもしれませんけどね」

「ほんとっ? 後で頼んでおこーっと」


 鴉はにこにこ笑って、ようやく櫻子の頭から離れる。

 すると急に思い出したように「あ、」と、


「そうだ。櫻子、友達来てたんでしょ。なんで呼んでくれないの?」

「なんで君を呼ぶ必要があるんですか。櫻子さんの友達が来ただけなのに」

「だって、登川とかその友達から何か良いもの貰ったんでしょ。あたしだって欲しかった!」

「僕だって貰ってませんよ」

「あれ、そうなの?」


 ええ、と稲森が頷けば、やや鴉は落ち着いた様子だった。だから櫻子はその隙を狙って、かくかくしかじかと経緯の説明をする。


「ふーん」

 と頷いたときには、鴉はもうすっかり来客用の椅子に座り込んでいた。


「あの山にそんなのいるんだ。知らなかった」

「なんで君が知らないんですか。山の妖でしょうに」

「あたし、むしろ空の妖だから。それにほら、こっちが地元ってわけじゃないし」

「あれ、そうなんですか。鴉さん」


 そうだよ、と鴉は頷く。ではどちらが地元で、と自然の流れとして櫻子は訊ねる。


 十五秒が経つ。


「……忘れた!」

「ちなみにあそこの山、定期的に話題になりますよ。もう妖がどうとかいう話でもないんじゃないかって。それこそ櫻子さんのご友人もそうですが、先々代の最見屋も含めて誰でも引っ張り込まれますから。一体何なんだあれはと」

「そうなの?」

「というかこれ、百五十年くらい前は君が広めてまわってませんでしたっけ」


 そうなんですね、と櫻子は頷いて昼下がり。

 それも平日の昼だ。子どもたちもまだ学校で、誰か他に来る気配もない。櫻子は帳場の奥に下がっていくと、とぽぽ、と鴉のために茶を注ぐ。彼女はそれをにこにこしながら受け取って、「でも」と繋げた。


「あれかもね。怖くないから覚えてないのかも。ほら、あたしって友達多いし。別に迷ったところで困んないから」

「でも君、いつもふらふらしてるから気付かれるまでに時間がかかりますよ」

「そのときはあんたがあたしを助けに来る!」


 決定、と鴉が稲森の背を叩く。

 決定されても、なんて言いつつ、まんざらでもなさそうな顔で稲森は笑う。


「まあしかし、どうにか二人とも帰ってこられてよかったですよ。櫻子さんのおかげですね」

「いえ、私は何も」

「何言ってるんですか。先代なんか、それをやられただけで初対面の男に『結婚してやろうか』なんて言ったんですよ」


 櫻子はちょっとたじろいで、


「そのお話、有名なんですか」

「いえ、前に肇くんから聞きました」

「何々、何の話?」

「櫻子さんと肇くんの馴れ初めの話です」

「聞きたい!」

「あの、馴れ初めってそんな、」


 まだ、と言いかけたところで、それは櫻子の視界に入った。

 もうすっかりこんな季節だから、冬と違って戸を閉め切る必要がないのだ。風はするりと店の中に入り込んで、同時に、最見屋の庭先に絶えず明るい光をもたらすそれを、季節らしい化粧まで添えて運んでくる。


 桜の花びらが床に一枚、滑るように吹き込んでくる。

 外を見ると、その桜の木の下を、一人の男がこっちに向かって歩いてきていた。


「おっと。あんまり長居してもよくありませんね」

 稲森が腰を上げる。


「それじゃあ櫻子さん。また今度来るときまでに、さっき言った品を用意してもらえると助かります」

「はい、わかりました」

「よろしくお願いします。ほら、鴉も行きますよ」

「え、なんで?」

「これから登川のところに押し掛けて宴会を開くからです。どうせ興が乗ってきたら、その貰いものも出してくれますよ。喜ばせたがりですから」


 言われて鴉は、きょとんとした顔。

 ようやく理解が追い付けば、彼女は口の端を上げて、


「賢い! あたしの子分にしてやろうか?」

「結構です」

「もっと友達呼んでくる!?」

「流石に登川が可哀想なのでやめましょう。あ、どこかで良い酒も調達しましょう。手ぶらじゃなんですから」


 んじゃ街の方に出てみようか、とまで話し始めたら、もう止める理由もない。二人のやり取りを見守っていると、


「でも、櫻子も良かったね」

 唐突に、鴉が振り向いて言った。


「何がですか?」

「だって、聞いてたらそれ、友達と最見屋だけじゃなくて櫻子も一旦はその中に入っちゃったんでしょ? 『夜の世界』ってとこに」


 ほう、と稲森が感心したように頷いた。


「意外と話を聞いている」

「でしょー」

「確かに、二人に限らず櫻子さんも帰ってこられてよかったです」


 稲森がそうまとめてくれるから、櫻子は頭を下げた。


「お気遣い、ありがとうございます」


 稲森が笑う。いえいえ。

 鴉も笑う。でしょ。


「あたしたちといられるこっちの方が、絶対楽しいもんね」


 どういう自信なんですかとか、何がとか、そんな風に話を弾ませつつ、稲森と鴉は去っていく。ありがとうございました、またのお越しをと、今度は店員らしい言葉で櫻子はそれを送り出す。


 桜の木の下で、何事かを話している。

 ふたりとすれ違って、入れ替わりに一人が店の中に入ってくる。


「ただいま戻りました」

「おかえりなさい。肇さん」


 春だ。


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