最終話 座敷童の恋(下)
一
「あと三十分だって。早く着きすぎちゃったね」
「だからついてこなくていいって言ったのに」
昼前の駅、乗降所に人影はまばらだった。
案内板の時刻を屈んで見つめていた櫻子は、ようやく目当ての数字を見つけてその背を起こす。隣ではやや大きな荷物を引いたエリカが、唇を尖らせて彼女を見ていた。
「だって、じゃあ一人で待つつもりだったの?」
「こういうときのために本とか色々持ってきてるの。一人でも時間を潰せるように」
「あ。……私、邪魔だった?」
「誰もそんなことは言ってないでしょ」
彼女が待合の椅子に腰を下ろす。ん、と隣を叩くから、櫻子はそっとそこに座る。
ちょうど汽車と汽車との切れ目なのだろうか。ひどく静かな時間だった。
さいはて町からこっちに出てくると、駅周りは多少都会めいて見える街並みではあるが、しかし賑わっていると呼ぶにはまだ少し寂しいものがある。線路と駅舎が周りを平らに切り開いたおかげで、むしろ二人は何もない場所の中心に、ぽつんと取り残されたようでもある。
ちらほらと、視線も送られる。
そんなの気にした素振りも見せないで、エリカが口を開いた。
「変な借りを作っちゃったな」
町の人、と彼女が言えば、櫻子はすぐに「ううん」と首を横に振った。
「気にしなくて大丈夫だよ。みんな知ってる人たちだったし、結構その、普段から上手くやってるから」
「櫻子たちはそれでいいけど、私はそんな関係築いてないでしょ。できるだけ早く、お礼の手配をしておくから。櫻子からもよろしく言っておいてもらえる?」
うん、と今度は頷く。ありがと、とエリカも言った。
それからは、他愛のない話がいくつか続く。これからどこに行くの。一旦東ノ丸で仕事して、それからは流れでまた海外かな。大変だね、飛行機怖くないの。出たそれ、別に海くらい自力でも渡れるし。自力で渡ってるのっ? 違う、いざとなったらの話。
「いちいち外に出るのに自力で渡ってたら疲れるでしょ。旅券の処理も面倒だし。……ねえ、櫻子」
「何?」
「最後にもう一回だけ、しつこくしてもいい?」
エリカは、櫻子の顔を見ないままで言った。
一方で櫻子は、エリカの顔を見ている。その表情に滲む色、昔だったら見逃してしまっていたかもしれない気配を見て取って、もう一度「うん」と頷く。
「大丈夫?」
それは、エリカにしてはひどく曖昧な問い掛けだったと思う。
補足もなければ、撤回もなかった。きっと、と隣にいて櫻子は思う。エリカは複雑なことを考えている。いつもだったら単刀直入にきっぱりと言うのに、それができないくらいに――けれどそれは同時に、自分に対して無神経にならないようにと気遣った結果でもあるのだろう。
だから、櫻子は、
「――自分のことだけど、よくわからないや」
できるだけ真摯に、その質問に答えた。
そう、とエリカが答える。沈んだような声音。
でも、櫻子には続きがある。
「ね、エリカ」
「ん」
「お揃い」
エリカがこっちを見るまで、ずっとそうしてみた。二秒ほどかけて、彼女は言葉だけではわからなかったらしい。こっちを見る。
櫻子は、自分の髪を指差している。
ふ、とエリカは笑った。
「何それ」
やがて、ぽーっと汽笛を鳴らして列車がやってくる。幾人かの人々がぱらぱらと降りて行って、すれ違うようにエリカは車内に乗り込んでいく。
櫻子は、それには乗らない。
「じゃあまた。手紙も出すね」
「ん。多分私の方が先に出すけど」
「うん。また来てね。あ、それか今度は私の方がそっちに行くよ」
「やめておきなさい。絶対こっちに来ても、気が休まらないから」
そうなの、と櫻子が訊く。そうだよ、とエリカが答える。
発車を報せる音が鳴る。扉が閉まりますと駅員が言うから、櫻子は一歩だけ後ろに下がって見送る準備をする。
「櫻子」
エリカは、言った。
「またね」
❀
『
「そう、魔法の扉はいつでもそこにあるの。後は君が、勇気を持って鍵を差し込むだけ」
お姉さんはそう言うと、ソフィアがぎゅうっと固く握っていた指を、一本ずつほどきました。
するとどうでしょう!
不思議な、青くてきらきらした鍵が、いつの間にかソフィアの手の中にあったのです。
いつの間にか、もうすっかり夜が来ていました。
昔のソフィアなら、暗闇が怖くて足を止めていたでしょう。でも、今日だけはその暗がりが、その暗がりの向こうに何かがあると信じる心が、その青い鍵と同じくらいにきらきらと輝いて見えたのです。
もう一度、ソフィアはお姉さんを見ました。
お姉さんはとても美しく笑うと、ソフィアに向かって言いました。
「さあ。君はどうしたいの?」
』
「郁ー!」
「わ!」
夢中になっていたから、畔上郁は飛び上がらんばかりに驚いて、持っていた本をばたんと閉じる。
それは厚表紙の、子どもが持てば大きすぎるようにも見える本だ。綺麗な青い装丁で、本棚に飾っておくだけだって悪くない。鞄に入れれば優に教科書の三冊や四冊分くらいの大きさがあって、子どもからすれば永遠に読み終わらない魔法の本のようにすら見える。
今朝、郁は珍しく父に注意された。朝ごはんを食べているときくらい本を読むのはやめなさい。そして母に肩を持たれた。ごはんより本を読む方が好きなんて、この年でいいことじゃない。すると父はさらに注意した。あなたはもう少しご飯を食べることに興味を持って、家族のためだと思って。母はうなだれた。
表面上、郁は父の言うことに従った。しかし学校に行くために家を出て、一つ角を折れたらもう誰に憚ることもない。早速本を鞄の中から取り出して、黙々とその続きに視線を落とし始めて、そして今。
授業が始まるまでは、ずっと読んでいようと思ったのに。
「な、何もう。朝から元気だね」
「ね! ねえねえねえ!」
「私は幸多のお姉ちゃんじゃない」
「そうじゃなくて! 今暇?」
「学校に行くところ」
「じゃあ暇だ! ね、バス停行こ、バス停!」
うおおおおお、と三田村幸多はその場で足踏みまで始める。
郁はいつも思う。自分と同級生のはずのこの男の子は、特別落ち着きがないのだろうか。それとも自分が他の子より落ち着いていて、大人びているのだろうか。あるいは傍から見れば自分も幸多もそんなに変わっては見えなくて、大人の目には自分もこのくらい子どもに見えているんだろうか。
だったらちょっと嫌だなと思うけど、幸多のこと自体は嫌いじゃない。
「いいけど」
だからそう答えれば、ぴょんぴょん飛び跳ねて幸多が喜ぶから、郁は苦笑いをした。流石にこれと同じには見られていないだろう……いやでも、それなら自分も『歩きながら本を読む』なんて子どもっぽい上に危ないことは、きっぱりさっき限りにしよう。
バス停は、幸い学校と似たような方向にある。そのまま歩いていって、真っ直ぐ進むはずのところをちょっと左に逸れるだけ。すぐに着けば、まだ誰の姿もない。駅の方に仕事に出掛ける大人は、多分もっと早いバスに乗っていくのだ。
何か面白いものがあるのかと思えば、そんなこともないように見えた。
だから、素直に訊ねた。
「何か見たいものでもあったの?」
「そうなんだけど、あと三分待って!」
幸多がそう言うから、はいはい、と郁は停留所の椅子に腰を下ろした。そして「これなら歩き読みじゃないからいいの」とばかりに、また青い本を取り出して膝の上に開く。
どこまで読んだかを忘れることはないけれど、この本に付いている栞紐だってお洒落で良い。そう思うから、さっき咄嗟に閉じてしまった頁に、その青い栞紐を挟み込む。
「なにその本」
幸多が覗き込んできた。
「なんか、すごい……高そう」
「良いでしょ」
ふふん、と郁はその背表紙を幸多に見せてやる。幸多はじっと目を細めてから「読めない」と呟く。それはそうだ。自分だってその外国語は読めない。
「もらったんだ。櫻子さんのお友達から」
正しくは、自分が貰ったわけではない。母の会社で翻訳がどうとか連載がどうとか、そういう話の一環で見本として貰ったらしい。詳しいところはわかっていない。郁にとって大事なのは、それを自分が読むことができるというただ一点だった。
「何の本? むずかしい話?」
「難しくはないと思う。面白いよ。読み終わったら、幸多にも貸してあげようか」
「ぜったい読めなそー。その分厚いの、ぜんぶ文字なんでしょ?」
む、と郁は唇を尖らせた。
折角この喜びを分けてあげようと思ったのに。
郁は珍しく、幸多に熱く語ろうとした。このお話は引っ込み思案で利発な女の子、ソフィアが主人公で、彼女の周りにはちょっとした不思議なことがいくつも起こっていて、けれど彼女は両親の言いつけをよく守る女の子だからそれを不思議に思うことはあってもその中に飛び込んでいくことができないでいて、そこに素敵なお姉さんが現れて、これから何が起こるのかすごくわくわくして、そのお姉さんが何だか櫻子さんにちょっと似ていて――
「あ!」
と言う前にバスが来た。
おーい、と幸多がぶんぶん手を振る。お父さんが乗っているんだろうか。そう思って運転席を見てみると、しかし全然違う顔だ。けれどその運転手も幸多のことは知っているのか、笑って手を挙げる。それから二人の前で、ぷーっと音を立てて停まる。
ぷしゅー、と音がして扉が開く。
「ほら見て見てみてみて!」
ぐいぐいと手を引っ張られるから、はいはい、と郁は幸多に従う。何を見せたがっていたのかは、意外なことに一目でわかった。
「いつもと違う?」
「そう! 見てこれ、新しいバス!」
ほらほら、と幸多がバスの中に入ったり出たりを繰り返す。確かに、見た目にはかなり新しい。そしていつものバスだったら入り口で「よいしょ」と大きく足を上げなきゃいけない段差があるはずなのに、それがない。車内の床が低いのか、すごく乗りやすくなっている。
「へー」
「すごくない!?」
「すごいね」
む、と今度は幸多が口を尖らせた。もっとさあ、と身振りが始まる。けれど、こっちもやっぱりその前に運転手が、
「はーい。それじゃあ出発しちゃいますからね。扉を閉めるから離れて。今日も一日、学校がんばって」
そう言うから、はーい、と二人でバスから降りた。離れる。ブロロ……といつもよりは少し静かだろうか、音を立ててその大きな姿が遠ざかっていくのを見送る。
「あれが見たかったの?」
訊けば、そう、と幸多は頷いた。
「なんかねー。この間のほら、あったじゃん。てんちょーが崖から落ちたやつ」
「もしかして、そのお礼?」
「うん! ……あ、え。その本も?」
うんうん、と郁は頷く。
「あの、傘を持った綺麗な人。あの人がお礼にってお母さんの会社にくれたんだって」
「うちも。バス、新しいの買ってもらったんだって」
えー、と二人で顔を合わせる。
「すごいね」
「ね。……その本、バスと同じくらいすごいの?」
郁がもう一度背表紙を見せる。幸多はむむむ、とそれを見つめる。その真剣な顔がおかしかったから、郁はちょっと笑って、
「読み終わったら、すごかったか教えてあげる」
それから二人は、学校へ向かう。
今度駅の方に行くなら、あのバスに乗ってみたいねと話しながら。
❀
登川のほとりに、妖がひとり佇んでいる。
暖かな日差しが降り注ぐ日で、しかし川の水はまだ冷たいのだろうか。氷のようにも見えるきらめきで、ざあざあと傾斜を流れる。彼女はその川に足を浸すと、ぱしゃぱしゃと考えごとをするように、それを揺らしている。
腰から上は、岸に出ている。
そしてその目と鼻の先には、一つの瓶詰が置かれていた。
妖は瓶を見つめている。右に回したり、左に回したり、あるいは空に掲げて陽の光に透かしながら、眉をひそめている。
瓶の中には、黒っぽい何かが入っていた。甘いのか、しょっぱいのか。そんなこともわからないし、何も知らずに見たら、そもそもそれが食べ物だということすらわからないかもしれない。
しかし妖はその瓶を掴むと、ぐっと捻って蓋を開けた。
小指の先に、その黒いのをほんの少しだけつける。硝子を通さずにもう一度じっと見て、鼻を近付けて少し香って、それからいよいよ口に含む。
「!」
大きく目を見開いた。
妖は右に左に、急に落ち着きなく視線をやる。誰の姿もないことを確かめると、再び瓶を見る。じーっと見つめる。さらにまた左右を確かめると、素早く蓋を閉める。
今にも鼻歌でも歌い出しそうな、歓喜の顔。
妖は瓶を大切そうに抱き締める。
川の中にとぷんと潜れば、彼女の姿はもう見えなくなっていた。
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