祖父の言っていたことを、櫻子はずっと思い出している。



「ふたりとも、大丈夫!?」


 祖父がまだ若かった頃。鉄道の敷設地を探して彼は山の中に迷い込んだ。するといつの間にか辺りは夜に闇に包まれていて、目の前には崖がある。


 その崖の下から、声がしたという。


 それが、全ての始まり。


「返事をして! 聞こえてないの!?」


 けれど今は、どれだけ呼び掛けても声が返ってこない。

 どうすればいいのかわからないまま、何度も何度も櫻子は呼び掛ける。そこにいるかを確かめたいのに、その崖の下には冬の樹木が未だに生い茂っていて、二人の姿は伺い知れない。


 最悪の想像が、頭を過る。

 でもまだきっとと思うのは、かえってさっきまでの不思議な出来事があったからだ。


 櫻子は顔を上げる。夜のように見えたあの場所が、今はあの朝の続きの澄んだ快晴を見せている。同じだ、と思った。祖父が自分に教えてくれた古い記憶と今のこの状況は、ひどく似ている。


 ただ声が返ってこないだけ。

 なら、と考えた。


「縄を――っ」

 祖父がやっていたのと、同じようにすればいいだけだ。


 辺りを見回す。蔓を縒って縄を作る。それを崖の下に吊るしていく。もしかしたら二人は落ちた衝撃で動けなくなっているかもしれないから、それならただ吊るすだけに留めてはいけない。自分が降りていって――いやでも、ダメだ。


 肇のことはもちろん、エリカのことを担ぎ上げて戻って来られるだけの力すら、自分にはない。


 だったら、と櫻子は決めた。


「今、人を呼んでくる! すぐに戻るから、少しだけ待ってて!」


 走り出せば百歩もしないうちに街道が見えたと、祖父は言っていた。そこまで同じだったならと、櫻子は期待している。


 同時に、ひどく不安でもあった。





「ちょっとさあ」

 起き上がってまず最初にエリカが言ったのは、文句の一言だった。


「なんでいきなり飛び掛かってくるかな。見てわからない? 私はこのとおり羽があるの。かえってあなたの分の重さが掛かったせいで、下まで落ちちゃったんだけど」


 すくっとエリカは立ち上がる。一方で肇の方は、背中でも打ったのだろうか。崖の下の土の上に仰向けに転がって、大の字で空を見上げている。


 それは、夜の空だ。


「下が岩じゃなくて助かった……あなた、さっきから大丈夫? 頭でも打った?」

「まずいな。『こっち』のままだ」


 言って、彼はようやくむっくりと起き直る。何、と眉を顰めるエリカに向かって、人差し指で崖の上を示した。


「不思議に思いませんか。あの櫻子さんが、私たち二人が落ちてしまったのにもかかわらず、何の呼び掛けもしていないことを」

「はあ? いいから、頭も打ってないならさっさとこっちに背中向けるなり何なりしてくれる? 別に、不意打ちじゃなければあなた一人くらいなら一緒に飛べるんだから」

「ここをあなた方のあの古い館と同じようには考えない方がいいと思いますよ。グレイのご当主様」


 言えば、エリカは怪訝な顔になる。

 唇の隙間から、僅かに白い牙を覗かせて、


「――なぜそれを知っている?」

「一時期、海の外に渡っていました。それでこういう家系なものですから、有名な方々のことは多少は知っていますよ。もっともこうしてあなたの羽を拝見するまでは、まさかその『銀の一族グレイ』様だとは思いませんでしたが」

「……モガミ? お前も、この国の『その家系』か」

「そう大層なものではありません。遠い祖先に何がいるかは知りませんが、それは大抵の人が同じでしょうしね」


 それより、と肇は続ける。


「あまり飛び回らないことをお勧めします。下手に動き回ると、戻れなくなりますよ」

「知った口だな」

「ええ。ちょうど私の祖母も、以前にこうした状況になったことがあるそうです」


 しばらく、エリカは肇をじっと見つめていた。

 緊張感。しかしそれは長くは続かず、彼女は肩から力を抜くと、その張り詰めた空気を自ら弛緩させた。


「話してみて」

「では。僭越ながら、あなたがどの程度こちらの事情に通じているか測りかねますので、初歩的なことから説明させてもらいます」


 まず、と。

 落ち着いた口調で肇は語る。


「こちらで『妖』と呼ばれるものは数多くありますが、その中にも形のないもの、名前のないものがあります。そうしたものを持つことで得られる利点もある一方、それがないからこそ……それこそ『妖しさ』と言い換えてみましょうか。その奥行きと強度を保っているものもある」

「今私たちが巻き込まれてるのがそれだっていう話?」

「流石、話が早くていらっしゃる」


 ふん、とエリカはその賛辞を鼻であしらって、


「別に、昼と夜を誤認させて崖の下に落とすだけなんでしょ? 普通の人間なら困るだろうけど、私にとってはただ飛んで戻ればいいだけ」


 でも、と彼女は真剣な声色で言った。


「それだけじゃないってことね」

 ええ、と肇もそれに頷く。


「戻れません。今私たちがいるこの場所は、元の場所とずらされている」

「それは、たとえば間に壁があるってこと? たとえば私がここから上がろうとしたら、頭をぶつけるとか」

「もっと深刻です。戻っても、その場所に『ない』んですよ」

「何も?」

「いいえ。代わりに『ある』んです。私たちの知る景色と非常によく似て、しかし決定的に異なるものが」


 しばらくエリカは、その言葉を咀嚼している。唇に指を当てて、落ちるときも持ったままだったらしい洋傘を、その場でとんとんと地面に鳴らす。


「たとえば、あなたの家のある場所に、違う人間が住んでいたり?」

「ええ。あるいは、その場所が家ではなく川になっていたり」

「国の名前が違っていたり」

「そもそも、大陸ごとなくなっているかもしれません」

「知っている人間は一人もいなくなってる」

「もちろん。きっと偉人の名前だって全く異なっているでしょうし――あるいはむしろ、それが同じだった瞬間を見たときこそ、真に恐怖を覚えるかもしれません」


 とん、とん。

 傘は何度も地面を叩く。やがて、土がほんの少し抉れた頃に、


「こういうの、こっちの国の言葉で聞いたことがある気がする」

「それは?」

「『神隠し』」


 ああ、と肇が頷いた。


「ひょっとするとそのうちのいくつかは、私たちのこれと同じ状況のことを指していたのかもしれませんね」


 微笑んで、そう答える。

 やはりエリカは怪訝な顔で、胡散臭そうに彼のことを見た。


「随分余裕そうだけど、戻り方を知ってるの?」

「いいえ、全く」


 けれど、あっさりと彼は答えた。


「当事者としてこの状況に陥ったことは、私はありません。そしてこの状況と似た経験についてもっとも詳細に語ってくれたのは私の祖母ですが、何せさっきも申し上げた通り、形もなければ名前もない妖です。ここまで曖昧な事態を引き起こせるとなると、恐らくは自然から出でた妖の一種、山の怪なのではないかと思いますが、それだって何ら確証のある推測ではありません。聞きかじりの経験も、どこまで通じるものか」

「実体験を知ってるなら多少は参考になるでしょ。そのときはどうしたの」

「まず、落ちた先では別に夜にはなっていなかったそうです」


 エリカが口を噤めば、肇は肩を竦めた。


「祖母の霊感か、それともその反対の天才的な鈍さか。あるいは祖母が陥った状況の方が通常の状態であって、私たちの方がより不規則な事態に見舞われているのか――たとえば、わざわざ説明役として一緒に落ちてきた間抜けが紛れていたせいでそうなってしまったのか――は、わかりませんが」

「……落ちたのが、厄介なことに力の強い妖だったからかもよ」

「いずれにせよ、その実体験が参考にならないことはおわかりいただけたかと思います」


 ぐりぐりと、傘の先が土にめり込んでいく。

 エリカは短く溜息を吐いた。


「で、余裕綽々のあなたとしてはどうすればいいと思うわけ」

「待ちましょう」

「何を」

「櫻子さんが、私たちを助けてくれるのをです」


 にわかに彼女から、物騒な気配が漏れ出す。お前、と一歩進み出る。肇は素早く両手を肩の辺りまで上げて、無抵抗の意を示した。


「まあ待ってください。祖母が戻ってきたときも、そういう流れだったんですよ。櫻子さんのお祖父さんがちょうど山の上に通りかかって、祖母を引き上げてくれたんです」

「櫻子の?」


 エリカは力を緩めて、


「何それ。じゃあ、そのときと同じ状況ってこと?」

「細かいところは違います。祖母のときは崖の上と下で意思の疎通が取れていたようですから……しかし、こう聞くといかにも助かりそうじゃありませんか」

「確かにそうは聞こえるけど、曖昧すぎる」


 そもそも、と彼女は言う。少し考える素振りを見せてから、


「あなたのお祖母さんが元の世界に戻れたっていう保証はどこにあるの?」

「え?」

「だから、たとえばあなたが代々やっている店が……昼と夜でいいか。たまたま昼の世界と夜の世界のどちらにもあったとして、そのお祖母さんが夜の世界から昼の世界に戻れないままこっちで暮らしているだけだったら、どうするのって」

「…………」


 じっと黙って、肇が考え込み始める。

 すると不思議なことに、慌てるのは先に言い出したエリカの方だった。


「ちょっと、否定しなさいよ」

「いや、得体の知れない人だったのでその可能性も……」


 そこで初めて、エリカは肇にあからさまに同情的な表情を見せた。それは、同類に向けるような、そんな眼差し。


 とにかく、となぜか彼女の方が話をまとめにかかって、


「櫻子はじゃあ、そのやり方を知ってるのね?」

「わからないとは思います」

「はあ? いい加減に――」

「でも、必ず助けようとはしてくれるはずです」


 きっぱりとした肇の言いぶりは、それ以上に何も大切なことはないとでも言いたげだった。


「先ほども言った通り、私はこの状況に陥ったことは一度としてありません。しかし、これでそれなりに場数は踏んできたつもりですからね。こういう場面に通じる一つの法則めいたものは知っています」

「それは?」

「曖昧で不可思議な事態には、単純な解決がもたらされるということです」


 この場合は、と。

 肇は腕を組む。さっきまではしっかりと伸ばしていたらしい背筋から、気を緩めたように力を抜いた。


 言う。




「どこにも帰れなくなったときは、迎えを待ちましょう。

 幸い、私たちには迎えに来てくれる人がいるわけですから」




 エリカが、言葉を失った。

 呆れているわけではないらしい。感心しているともまた違う。驚いたとか、納得とか、そういうのが入り混じったような微妙な表情。


 けれどそのまま大人しく佇んでいるためには、まだ一つだけ思うところがあったらしくて、


「私が、」

 上を指差して、


「私が上に戻って、戻る方法を知ってる奴を探すのはどうなの。長生きしてるのだっているだろうし、上手く聞き出せればそれで解決すると思うんだけど」

「妖はいないそうです」

「山の中にいなくても、どこかにはいるでしょ。川だって近くにあるんだし」

「いえ、『夜の世界』に」


 きっと、言葉の意味は伝わっていたと思う。

 それでもエリカが訊き直したのは、その『言葉通りの意味』を想像できなかったからで、そのことがわかったのだろう。彼はもう一度、丁寧に言い直した。


「こちらには妖がひとりもいないんだそうです。海の向こうのことまで調べた人がいるのかはわかりませんが、少なくとも我々の知るあの国とよく似た、こちらの国には、全く」


 確か名前は、と。

 昔話を語るように、肇は言った。


「日本、と言ったかな」





 川だ。

 多分、登川だ。


 百歩も進めば街道があるだなんて、全然嘘だった。いつまで行っても人の気配のない場所ばかり。自分がどこにいるかもわからないまま彷徨った末に、櫻子はようやくその場所へ辿り着いた。


 そもそも祖父が言っていたのはこの山ではなかったのか。それとも全く違うところから自分が出てきてしまったのか。あるいは何十年も経った末に、かつての街道は森の中に埋もれてしまったのか。


 わからないけれど、何となく上流下流くらいは見て取れる。もう随分下流の方で、ちょっとした見覚えもある。途中で滝に突き当たって立ち往生なんてこともなさそうで、だからその川べりに沿って櫻子は下っていく。


 すると、子どもたちの声が聞こえてきた。


 身体が強張ったのは、視界に真っ白な髪の先が見えていたからだ。


 足が竦みそうになる。

 エリカから問い掛けられたあの言葉が、何度も何度も、頭の中で聞こえてくる。忘れていた感情が蘇ってくる。


 人と会うのは、怖い。



「誰か、そこにいませんか!」

 けれど櫻子は、迷うよりも先に叫んでいた。


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