こういうのは金輪際やらないようにしたい。

 そんな思いが段々と強くなるのは、だってこんなの、陰湿な束縛家がする真似みたいだからだ。


 最見屋から飛び出していった肇は、もちろん何の計画もなく櫻子の足取りを追おうと思ったわけではなかった。そのくらいのことを容易くこなせる道具なんてあの店にはいくらでもあるし、何ならこの一年で人に売ったことだってある。


 紙細工の犬が、てこてこと進んでいくのを追い掛ける。


『ここ掘れ犬』だ。櫻子が最見屋に来てから、初めて一緒に仕事をして売ったもの。匂いを手掛かりにして、目的とする人や場所の元まで導いてくれる妖の品。


 匂いは、もう随分と一緒に暮らしているから、肇自身のもので十分だった。

『ここ掘れ犬』が走る。肇はその後を追う。一歩一歩進むごとに、どうもこういうのは全く良くないのではないかという罪悪感が増してくる。


 友人と話しに行くところを、自分は見送ったのだ。

 その見送ったはずの相手の居場所を突き止めて追いかけるのだって随分後ろめたいのに、ついさっきまでその友人には全くの図星を突かれてなじられていた。一体どの面を下げて二人のところに割り込みに行くというのか。行かない方がいいのではないかという気もしてきて、それでも足を進める理由が何ら正当性のない、単なる私情だというのだからどうしようもない。


 そのことを思うたびに、足取りは鈍くなる。

 だから本当のところ肇は、それを目にすることがなかったら、どこかで足を止めていたのではないかと思う。


「……? どうした」

 肇より先に、『ここ掘れ犬』が足を止めたのだ。


 込められた力が切れたのかと摘まみ上げてみても、どうもそんな様子はない。しかしもう一度地面の上に放り出してみても、まるでどこへも駆け出す気配がない。


 ただの、山の入り口のあたりだ。

 どうしてこんな場所に櫻子が来たのかという疑問は、当然あった。てっきり停留所の方に向かうものだとばかり思っていたから、『ここ掘れ犬』が明後日の方向に走り出したときは何かの間違いかとも思ったし、念のためにこれを使ってよかったとも思った。


 周囲はただ、明るい昼の木々だ。

 冬とはいえ、このあたりは常緑樹も多い。枯れ枝やら何やらが転がる以外は、比較的に見目はのどかな、里山のはずれのあたり。


 頼みの『ここ掘れ犬』は、ただ身体を揺らして、その場所をぐるぐると回るばかり。


 この下に二人が埋まっているとでも言うまいし。

 肇は足を止めて、しかし、考え込むのは一瞬だった。


「まさか、」

 顔を上げる。


 記憶にあるその話。実物に会ったことなんて、一回もない。

 それでも肇は一度、ぱん、と大きく手を叩く。


 あっという間に、夜が来た。





「私も、霊感あるよ」


 言ってはみたものの、本当に自分にそんなものが備わっているのかなんて、全然わからない。でも、どうしてそんなことを言ったのかだけは、自分でわかった。


 だからとにかく、話を繋げられればいいと思って、


「エリカには話してなかったけど、私が今働いてるあの店って、妖にまつわる品を扱う店なんだ」


 順番も何も考えないままで、そう切り出した。


「いきなりこんなこと言っても嘘っぽく聞こえると思うんだけど、だから、そういうのを扱う仕事をすることもあって。そのときに言われたの。私には霊感があるんじゃないかって。なんでかって言うとね、私、お客さんに頼まれた古い品物を『夢で見た』って言って探し当てたことがあって」


 だから、その、と。

 言葉が詰まれば、言葉以外のものと向き合わなければならなくなる。今、エリカはこちらを見つめていた。


 見つめられると、なおさらのこと。

 私も同じだよ、の言葉が出てこない。


 それを口にすることが、何か二人の間にある大切なものを壊してしまうような気がして、櫻子は地面に視線を落としてしまいそうになって――


「今、私のこと慰めようとしてる?」

 真っ直ぐに、エリカが言った。


 言葉に釣られて、無理やりに櫻子は顔を上げる。けれど、その問いかけには「はい」とも「いいえ」とも答えられない。慰めることのみが目的というわけではないけれど、では一切慰めるつもりがないのかと言えば、そんなこともないはずだから。


 人と違っていることは、苦しい。


 そのことを自分では知っているつもりで――でも、同じ苦しさを知っていると言えてしまうほどの厚かましさも、櫻子にはなくて、


「ただ、」

 だから、真っ直ぐな言葉を返すのが精一杯。


「ただ、引き留めたかっただけ……」


 しばらく、エリカは何の反応もしなかった。視線は動かない。でも、羽も動かさない。


 やがて彼女は、


「今、私がさ」

 ぽつりと言った。


「『そんなのどうでもいいでしょ。私と櫻子は最初から生きてる世界が違うんだよ』って言ったら、」

「…………」

「はい、わかりました。怒るのね」


 両手を挙げるエリカに、ううん、と櫻子は答える。

 これはきっと、思う通りに言ってもいい。


「怒ったりはしないけど、悲しいよ。本当にそう思ってるの?」

「…………」


 沈黙の後、


「わかった。正直に言う」


 エリカは長く溜息を吐く。

 それから、もう一度向き直ってくれた。


「私さ、こんなのでしょ?」


 彼女は翼をはためかせる。吸血鬼、と言っていた。どうして鬼に翼が付くのかはよくわからないけれど、ひとまず櫻子は頷いて返す。


「人とは違うし、実家からは追い出されるし、そんな風には見えないと思うけど、それなりに悩みらしいものはあったんだよ。これでも、子どもの頃から」


 もう一度、櫻子はもっと深く頷いて返した。

 同じ気持ちだとは言えない。でも、エリカが言うことはわかる。


『ここじゃないんじゃないか』という思い。

 そんなことを、他に言っていた人もいた。


「それで挙句の果てには全然知らない人ばっかりの土地まで飛ばされて。そりゃあ、言葉くらいなら学べばわかるけどさ。学校に行く前に街を歩いたときなんか、愕然としたよ。『これからここで生きていくの?』って」


 東ノ丸はこの国の現首都であり、港を開いて以来はそれなりに外国人だって見かける場所だ。それでも、エリカがそう思った理由はよくわかる。自分の実家のあるその街でだって、自分と似たような人は見つけられなかった。


「それで教室に行ったら、櫻子がいた」


 彼女が言うから、櫻子もまた、そのときのことを思い出して、


「覚えてるよ。エリカ、私の方に一直線に向かってきた。あれって……」

「そう。こいつもはぐれ者なんだろうなって思ったから。これも覚えてる? あの頃の櫻子って、全然喋らないしいつも俯いてるし、声もやたら小さいし。あの頃はこっちの言葉の聞き取りに自信がなかったから、『話しかける奴間違えたかな』って思ってた」


 もちろんそのことも覚えているから、「ごめん」と櫻子は、エリカに合わせて苦笑いをする。でも、心のもう一枚奥の方では、また違うことを考えている。


 あの頃の櫻子、とエリカは言った。

 果たして今の自分は、あの頃と何が違っているのだろう?


「でも櫻子って、私が訊き返しても一度も嫌な顔しなかったよね」

「え?」

「これは覚えてないの?」


 都合良いな、とエリカは笑う。

 だって、と櫻子は繋いだ。


「エリカって最初からずっと話せてた……よね?」

「さあ、忘れちゃった。でもいいでしょ。こういうのって結局、自分がどう思ったかの問題だから。私が『こいつなら他に仲間もいなそうだし御しやすいかもしれない』って選んだ相手は大層お優しくて、ひとりぼっちの子どもの気持ちを和ませるには十分な友達になってくれましたって。私が話したいのはただそれだけ」


 で、と。

 優しく笑って、彼女は、


「本当はさっきの、ただの八つ当たり」

「……お店のこと?」


 訊き返せば、やっぱり頷いた。


「これでも結構、大切に思ってたつもりだから。櫻子から幸せそうな手紙が来たときはすごく嬉しかったし、それだけに腹が立っちゃった。あれ、自分でお願いして染めてもらったって本当?」

「うん。本当」

「そっか。じゃあ、本当にちゃんと八つ当たりだ」


 私さ、と彼女は自分の髪をかき上げる。

 寂しそうに笑って、


「多分、櫻子のことを自分と重ねてたんだよ。ずっと。それでその象徴みたいなものがその髪の色だったから、それが変わってるのを見て、かっとなっちゃった。櫻子が、自分を押さえ込んで生きてるところは見たくないと思って」


 でも、と彼女は言った。


「そういうことじゃ、ないんだよね」


 夜の山の中は、ひどく静かだった。


 動物の気配もなければ、虫の声も聞こえない。風が草を撫でる音もなければ、葉が落ちて土に触れる音すらも聞こえない。何もない場所だ。嵐の真ん中だってもう少し賑やかだろう。木々が埋め尽くす頭上、僅かに覗いた夜空には星もなく、瞬く音すらも聞こえない。


 言葉を発すれば、全てが彼女の耳に届く。だからこそ櫻子は、それを躊躇わせている。


 そういうことじゃない。

 自分を押さえ込んで生きているわけじゃない。


 たったそれだけの言葉を、どうして胸を張って言えないんだろう?


「やっぱり、ちゃんと謝ってから帰ろうかな」

 答えを待たずに、エリカが言った。


「櫻子もそのつもりで来たんでしょ?」

「あ、ううん」


 そうして話が切り替わったことに、心が軽くなるような安堵を覚えた。そのことにもまた、櫻子は自分で思うところがあったけれど、


「謝ってほしいとか、そういうことじゃなくて。その」

「その、何?」

「もう会えなくなっちゃうような気がしたから。追い掛けなきゃって思って、ただ、それだけ」


 意表を突かれたような顔。

 それからエリカは、にやっと悪戯っぽく笑った。


「そうしてあげた方がよかった?」

「いいわけないでしょ。なんでそういうこと言うの」

「こうやってからかってあげた方が、『そんなことない』ってはっきりわかるでしょ。本当に二度と会えない人は、こんなこと言わないもん」


 しょうがないなあ、と彼女は歩み寄ってくる。それから櫻子の肩を軽く叩くと、一歩を踏み出した。


 進むのは、櫻子がたった今やって来た方向。

 最見屋の方へ向かって、また二人並んで歩き出す。


「確かに、手紙の頻度が年に一回から二年に一回くらいにはなってたかもね」

「あ、ほら。やっぱり」

「で、私の方からはじわじわ何も出さなくなっていって、そのうちどっちかが引っ越しちゃって――」

「だから、なんでそういうことばっかり言うの」


 ぽこ、とその肩を拳で叩けば、愉快そうにエリカは笑う。その顔に櫻子は安心するけれど、やっぱり心のどこかで思うところもある。


 これは結局、エリカが上手く収めてくれただけなのだ。


 自分は結局、彼女が投げかけた問いに何も答えられていない。肇がどうこうという話じゃない。髪の毛の色のことだけでもない。それは、昔から付き纏ってきていた問題だ。


 今は、普通の人みたいに暮らせている。

 じゃあ、普通の人じゃなかった自分はどこに行ってしまったのだろう?


 今もどこでも暮らせないまま、どこかに取り残されているのだろうか?


「心配しなくても、向こうに行ったらちゃんと謝るよ」


 そんなことを考えているなんて、エリカは知りもしないのか。それとも案外、昔からそうしてきてくれたみたいに、自分のことを見透かして、先回りして、ちょっとした姉のように気遣ってくれているだけなのか。


「わざわざ櫻子も、髪の色を戻してきてくれたわけだし」


 明るく、彼女は言った。



 それで櫻子は、ようやく気が付いた。



「え、」

「それ、そんなに簡単に色を染めたり抜いたりできるの? 妖の品だっけ。確かに、最初に見たときに変わった店だなとは思ったんだけど」

「待って、私、」


 怪訝な顔で、エリカが言葉を止める。

 櫻子は自分の髪を摘み上げる。昔よりはずっと伸びた。だからそうするだけで、すぐに確かめることができる。


 真っ白だった。


「髪の色、抜いたりなんてしてないよ」


 いつから?


「何それ。勝手に落ちるの?」

「違う。何ヶ月でもそのまま落ちなくて、」


 記憶を遡って考える。

 いつも色が抜けるときは、眠ったり気を失ったりした後だ。でも、自分はそんなことはしていない。だって、朝にああやってエリカの前に姿を見せて、そのとき黒髪だったのがこうなった原因なのだから。それから彼女を追い掛けてここに来るまでの短い時間で、そんなことが起こるはずがない。


 朝?


「なんで暗いの?」


 あまりにもおかしなことが起こりすぎて、「ああ、これは夢なんだな」と理解したときのような感覚だった。


「何、暗いって。だって――」

「夜じゃないよ」


 思い出して、と櫻子はエリカに言う。


「エリカが来たとき、まだ朝だったよ。最初の待ち合わせの時間だって昼前のはずだったでしょ」


 彼女もまた、最初は怪訝な顔をしている。

 それからゆっくりと、本当にゆっくりと辺りを見回して、その顔に動揺が生まれ始める。


「なんで?」


 わからない。

 けれど櫻子は、この状況に覚えがあると思った。


 自分で経験したことじゃない。人から聞いた話だ。けれど何度も聞いたことだから、よく覚えている。自分がここにいる理由の一つでもあるから、これからもきっと忘れることなんてない。


 だからきっと、反応できたのだと思う。


「動かないで!」


 エリカが、周囲を確かめるために一歩を踏み出したその瞬間のことだ。

 どうしてそれが危ないと思ったのだろう。後になれば、櫻子はそれを自分で理解できる。けれどそうして咄嗟に行動に移したときには、まだはっきりと理由はわかっていない。


 それでも、手を伸ばしたから。

 一歩先、来る途中にはそんなものはなかったはずの場所に進もうとしたエリカの裾を、微かに指先で掴まえられた。


 踏み出した先は、崖だ。


 エリカはもう、ほとんど宙に身を投げ出している。これではどうにもならない。だから櫻子は指の力を思い切り込めて、その場に留まろうとする。


「ばっ――」

 どん、とそれをエリカが腕で押しのけた。


 考えてみればわかりきった話だ。

 エリカはこういうとき、二人で落ちるくらいなら一人で落ちる。そういう性格だから。だからもっと、そんな力じゃ到底突き放せないくらいに強く握っておくべきだった。


 そんな後悔をする暇もない。


 音が、後ろから近付いてきていた。


 獣が草をかき分けるような、激しい音だ。枯れ草を押しのけて一つの影が、その場に留められた櫻子を、背中から追い抜いていく。


「――はじ、」

「くっ、落ち――」

 落ちていくエリカを、影は空中で掴まえた。


 けれど、そこまで走ってきた勢いを完全には殺し切れていない。たたらを踏もうとして踏み切れない。影の足もまた、崖の端を堪え切れない。


 そうしてエリカ・グレイと最見肇の二人は、崖の下に落ちてゆく。

 後には春河櫻子が、たった一人で残される。


 天を仰げば、昼の快晴が見えたはずだ。


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