四
普通に向かうなら、バスの停留所に決まっている。
だって駅に向かうなら、他にはタクシーしかない。そしてタクシーを使われていたら、もう自分の足では間に合わない。だから行くべき場所は、まだ間に合うはずだと期待できる場所は、停留所を置いて他にない。
「――はぁっ」
なのに、どうしてなのだろう。
櫻子は、停留所とはまるで関係のない方に向かっている。
登川に架かる橋を渡って、林道へ。祭りのときに使ったのともまた違う道。祠の方へは続かない。駅へと続く舗装道路からは遠ざかって、段々と起伏も出てくれば、いよいよ山道の気配が漂い始める。
それでも、櫻子には奇妙な確信がある。
エリカはこっちに行ったんだと、ただ事実を知るような、理屈をねじ伏せてまで足を進ませるような感覚が、胸に宿っている。
ざっ、と足を止めたのは三叉路だ。
冬枯草にまみれてしまって、足跡なんか探すべくもない。どの道も大して変わりがあるようには見えなくて、手掛かりなんか見つけようがない。
それなのに櫻子は、大した迷いもなく右の道へと歩みを進めていく。
白い髪が、風に光るように靡いた。
❀
「うわ、陰気臭い」
いきなりのご挨拶に顔を上げなかったのは、知っている声だったからだ。
開いた戸が閉まる音。勝手知ったる足取りで帳場の近くに寄ってきて、接客用の椅子に腰かける音。その全てにも馴染みがあり、だから、目を使わなくてもわかる。
「最近は随分華やかになったと思ったのに、一気に逆戻りですね。採光や陳列や可憐な店員さんくらいでは、『最見屋』それ自体が持つ陰気さは消せませんか」
「ああ。見ての通り、店主もこの店の一番の不良債権だしな」
「随分不貞腐れてますね。一体何があったんです」
稲森だ。
一方で肇は、勘定台に突っ伏したままだった。顔を上げる気力がない。そのままぼそぼそと、さっき起こった出来事を説明していく。
「ふうん」
稲森は、大して動じるでもなくそう言った。
「それでぐうの音も出せなくなって、ここで泣き寝入りなわけですか。子どもの頃から知っている相手にこういうことを言うのも気が引けますが、何というか君は……」
「……」
「……」
「……君は、何だよ」
「気が引けたので、言わないことにしました。冷酷非道の京妖にも、これで情らしきものは備わっているんです」
まあ元気を出しなさい、と彼は勝手に店の奥に入ってくる。
急須を取って、しかしそれが随分軽々持ち上がる。稲森はそのままさらに奥に引っ込んで、勝手にお湯を沸かして戻ってくる。悠々と自分の分だけを湯呑に注いで、一服した。
「前から思っていたんですけど、なんでさっさと結婚しないんですか?」
「……お前な」
言ってから、三秒。
冬眠明けの獣のように、のっそりと肇は顔を上げた。
「今の私の話を聞いてたか? なんで一度刺されて傷が開いたところにもう一度刺し込もうとするんだ」
「そこがわからないと慰めようがないでしょう」
「頼んでない」
「頼んでないのに何かをしてもらえることを『人徳』と呼ぶんです。よかったですね、人徳があって」
む、と肇が口を噤んだ。
おや珍しい、と稲森が茶化す。君の口八丁もたまには止まるんですね。寒さのせいかな。
「……別に、私だってわかってるんだ」
溜息のように、肇は言った。
おお辛気臭い、と稲森は笑って手を振って、
「何がですか。自分が甲斐性なしなことが?」
「それもある」
「あらら、悲しいこと」
「櫻子さんが、私に好意を持ってくれているということがだ」
沈黙が数秒続く。
ちらりと肇が横目で見れば、綺麗に絶句する稲森が視界に入る。
「……そんなのは、赤ちゃんでもわかります」
「だろうな。私もその頃の無邪気さのままでいられたらよかったよ」
それを大して気にした風でもなく、肇は続けた。
問題はここからだ、と彼は、
「一方で櫻子さんは、私が櫻子さんに好意を持っていることに気付いていない」
「――嘘でしょう?」
「嘘だと言えたら、こんなにややこしいことにはなってないんだが」
ぽつぽつと語り始める。
もちろん櫻子さんだけが悪いという話では全くないんだが、と前提を置いてから、
「あの人は、自分のことを良く思う力が薄い。だからこんなにあからさまに好意を向けていても、どこか斜めに構えていて、上手く当てられない」
「櫻子さんといるときの肇くん、気味が悪いくらいにやついてますけどね」
「幸せそうに微笑んでいると言え。……あれは別に、わざとやってるんじゃなくて自然にああなるんだ」
一時は筋肉痛にもなった、と肇が頬を押さえる。
それがツボに嵌ったらしい。ふ、と笑いを一つ洩らすと、それから稲森は腹を抱えて背中を向ける。
音も何もないのに、ずっと笑っているのが目に見える。
やがて、何事もなかったかのような澄まし面で稲森は肇に向き直り、
「それで?」
「もう帰れ」
「拗ねない、拗ねない。それで、話はどう続くんですか。櫻子さんが肇くんの好意を素直に受け取ってくれなくて、それで? それこそさっさと『結婚しましょう』と言って逃げられなくしてしまえばいいでしょう。何をぐずぐずやってるんですか」
「逃げられなくなるから、やらないんだよ」
そのときになってようやく肇は身体を起こした。
今度は逆だ。身体を後ろに倒して、両手でかろうじてそれを支えながら、天井を眺める。ぼんやりと煙草の煙でも吐くようにして、
「そりゃあ、私だってわかってる。今すぐに結婚しましょうと言っても、あの人は頷いてくれる。だけどそれは、弱みに付け込んでるのと同じだ」
髪を、と肇は言った。
「黒く染めただろう」
「ええ」
「あれは多分、あの人にとって人生が変わるくらいの衝撃だった。だから柄にもなく、初対面の男に思い切り告白なんかしたわけで……しかし私は別に、お前みたいに何でもかんでも願いを叶えてやれる神様なんかじゃない」
「僕よりかは君の方が、できることは多い気がしますけどね」
よく言うよ、と肇が言えば、稲森は胡散臭く笑う。
「本当のことですよ。で、君は結局、道具をぽんと与えたから好きになってもらえたってことが気に食わなくていじけてるわけですか」
「そうだ」
「しょうもない。運が良かったと諸手を挙げて喜べばいいのに」
「『それしかなかった』というのは、『選んだ』とは言わんだろう」
肇の視線が動くから、稲森も釣られてそれを見た。
壁に掛けられた、月替わりの暦。いくつもの予定がそこに記されている。肇の字もあれば、もちろん櫻子の字もある。
そのどれもが、いかにも楽しげに映って、
「何でもできるし、何でもやっていい人なんだ。私はその当たり前に気付かせただけで、その程度の気付きの支払いのためだけに、『ずっと一緒に』なんて決めてほしくはない。だからあの人が『本当は自分がどんな人間なのか』を確かめ終えるまで、結婚してもらうつもりはなかったんだ」
「……君は、」
稲森は、口を開いて、閉じる。
言葉を吟味するための時間らしかった。彼はまじまじと肇の顔を見て、それから感心したように零した。
「てっきり商売下手なだけかと思いましたが、もしかして、対価を受け取ること全般が苦手なんですか」
「苦手とか、そういう話じゃないだろ。人の心を対価にするような取引なんぞ、この世にあっていいはずがない」
「……変なところだけ似ちゃったのかなあ」
稲森の呟きに、肇が訊き返す。誰とだ、祖母さんか。しかし稲森は首を横に振って答えない。では、と話を繋ぐ。
「何となく、話はわかりました。肇くんとしては、髪を黒く染めたくらいは何てことはないし、この世に居場所なんかあって当然だし、櫻子さんのそれが一時の気の迷いであることも考慮して、ここで彼女が自分の生き方を確立するまでは、人生を決定的に固めてしまうような『結婚』をするつもりはなかったと」
「そうだ。が、これが都合の良い留保の形に見えるのも、彼女の好意に付け込んで見えるのも否定しない。グレイさんの叱責も当然だ。逆の立場なら、私だってそうする」
「で、それって櫻子さんが『やっぱり結婚しません』って言い出したらどうするつもりなんですか?」
石のように肇の身体が固まった。
しばらく稲森はそれを眺めている。おーい、と眼前で手を振る。反応がない。
「『よく考えたらこんな甲斐性なしとは一緒にいられません!』って言われたらどうするんですか?」
追い打ち。
「そ、れは……翻訳の方で、収入もあるし」
「『ありがとうございました。あなたといられた時間は私の宝物です』って綺麗にお辞儀をされて旅に出られたらどうするんですか?」
歯ぎしりするように、肇は口をぐぐぐと動かして、
「尊重する、が、」
「というか、結婚を保留するとか約束しておいて君の普段の態度は何なんですか? 明らかにさっきの殊勝な言い分に留まらない労わりぶりですよね。登川なんかこの間、『最見屋があれだけ大切にするってことは、あいつはどこかの姫なのか』って真顔で言ってましたけど」
そして完全に、動きを止めた。
唇は真一文字に引き結ばれて、身体ごとぴくりとも動かなくなる。
「君ね、」
もはや稲森は、肇のすぐ隣に座って彼を覗き込んでいる。瞳の奥まで射貫くような狐の目で、じっと見つめる。
言った。
「迎えに来てくれたのも、見初めてくれたのも、お姫様の方からなんですから。
いつまでも不安がってないで、たまには素直になりなさい」
それで、岩のように固まっていた肇は、深く息を吐いた。
深く、深く……肺の底まで空にするような溜息を、長く吐いた。
それから、
「お前が思うより、私は素直に振る舞ってる。が、」
「が?」
「そこまで言われれば、たまには素直に頼みごとをするのも吝かじゃない」
稲森、と名を呼ぶ。
はい、と答えてやれば彼は言う。
「店番は好きか?」
そうして稲森はもう一人、桜の向こうに消えていく人影を見送ることになる。
窓の外、冬とは思えない光に包まれた庭。昔はほんの小さかった背中が遠ざかっていくのを、古い瞳で見つめている。
「やっぱり、」
思い出して、彼は笑った。
「そんなに似てないと思うけどなあ」
❀
本当にこの方向なのかと、冷静になればきっと櫻子も思ったことだろう。
何せ、どんどん山道は深くなっていく。一体このさいはて町のどこにこんな奥深さがあったのか。木々はどんどんとその背を伸ばして聳え立ち、今や陽光のほとんどを地面に通さない。下草は冬枯れも手伝ってそれほどではないけれど、進むにつれて町の音は遠くなり、鬱蒼とした景色は人里のものとはまるで違った姿を見せる。
やがては、虫の声すら聞こえなくなった。
あの夢みたいだ、と櫻子は思う。そしてほんの数秒のちには、その夢がどの夢なのか、自分でもわからなくなる。ただとにかく、本当に『さいはて』へと続いてしまうような道を行く。
背中が見えた。
追いつけるんだ、とまず最初に訪れた思いは驚きだった。
庭から出て後姿が見えなかった時点で、正直なところ「もう無理なのかもしれない」という考えはあったのだ。エリカの足の速さはよく知っているし、自分だってあれから走り込んだりしたということもない。昔のままなら、もしかするとこのまま永遠に追い付けないのかもしれないとすら思っていた。
そして、次にはごく自然な喜びが来る。
名を呼ぼう、と櫻子は思った。けれどここまでの山道がすっかり彼女の肺から空気を抜き去っていたから、声を出すために一度だけ、深く吸いこむ必要があった。
その一呼吸。
櫻子が彼女に気付いていて、彼女が櫻子に気付かなかった、その一瞬。
それが、彼女の秘密を暴いてみせた。
ばっ、と仰々しく、彼女の背から翼が生えた。
「――え」
吸い込んだ息が、微かな声になって喉から抜け出ていく。
エリカが振り向く。真っ赤な瞳。驚いた顔。深い森の黒の中、少し開いた口から、彼女の真っ白な歯が覗く。
それを本当に歯と呼ぶべきか、それとも『牙』と呼ぶべきか。
彼女は頬を歪める。左右非対称の表情。悲しんでいるような、諦めているような、あるいは『いつかは来る』と知っていたものがようやく訪れたことに安堵するような、そんな顔で、
「あーあ」
笑って、言った。
「見られちゃった」
(第十話・了)
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