三
櫻子はこれまで、エリカが怒っているところこそ見たことはあったものの、自分自身にそれを向けられたことは一度もなかった。
学校で、そりの合わない上級生と対立したときも。
帰り道で、お婆さんから物をひったくった泥棒を追い掛けたときも。
自分の部屋で、海の向こうにあるという彼女の実家への不満を口にしたときも。
全部、その怒りは自分の方には向けられていなかったと、そう思う。
でも、今は――。
「何それ。誰が染めたの」
心ごと凍らせるような、冷たい視線だった。
洋傘を手に、つかつかと靴音を響かせて、彼女は櫻子の目の前までやってくる。
昔は同じくらいだったはずなのに、今は彼女の方が背が高くなった。見下ろすように、じっと髪に視線を注がれる。
蛇に睨まれた蛙。
櫻子は、身動きもできない。
「――お前?」
エリカの目が、肇に向けられる。
よくもまあ、それで平然としていられるものだと思う。全く肇の態度は、いつもと変わらなかった。長い友人であるはずの櫻子ですら震え上がるような、触れただけで指先が溶けてしまうような真っ赤な瞳を平気で受け止めて、柳のように悠然とした態度で彼は答える。
「ええ。櫻子さんの髪は、私が染めさせていただきました」
「何なの、お前」
それが良かったのか、悪かったのか。
定かではないが、少なくともその受け答えではエリカの激情はまるで静まらなかった。ぐ、と詰め寄る。張り詰めた空気を纏って彼女は、
「見逃してやろうと思ったんだけど、話が変わった。何。どういうつもりでこの子の髪を染めたわけ。そうすれば普通の人に見えるだろうって? お前はそのままいたらどうしようもない奴だから、自分が手ずからまともな形に作り変えてやるって?」
「ちょ、ちょっと待って、」
「少し黙ってて」
宥めようとしたけれど、取り付く島もない。
エリカは続けて、
「そもそも、結婚の条件だとかいうのも全く気に食わない。お前は一体どういうつもりで櫻子を囲ってるんだ。え? 若い女の時間を一年近くも費やさせておいて、経営が軌道に乗らなかったら『その約束はなかったことに』って? どういう虫の良さだ。お前は櫻子を、自分の人生を良くするための道具か何かだと思ってるのか?」
「エリカ、それは私が――」
「そんなつもりはない、と言いたいところですが」
肇が溜息を吐く。
エリカとは全く対照的だった。水と火がぶつかるような光景。彼はやっぱり、いつものあの穏やかな調子で言う。
「傍から見て、そう言われても仕方のない状況であることは自覚しています」
けれど、がっくりとうなだれた。
「どうぞ『甲斐性なし』と罵ってください。それについては、全く弁解の余地がありません」
「この期に及んで道化芝居か。胡散臭い奴。お前みたいなのはさっさと――」
「やめて!」
子どもみたいな言いぶりだったと、自分でも思う。
それでも櫻子は、必死になってエリカの手首を両手で掴んだ。
エリカは、ぴたりと動きを止める。けれどこっちを見ないまま。だから櫻子は、そのまま言い連ねる。
「髪を染めてほしいって頼んだのは私だよ。結婚のことも、私が条件を付けたの。だから、怒るなら私にして」
エリカ、と名を呼んだ。
す、と掴んだ手首から力が抜けていくのを櫻子は感じる。ああ、と安心の気持ちが芽生えた。昔も確か、こんなことがあったはずだ。エリカが怒って、自分が止める。エリカは感情の起伏が激しいけれど、賢い子だから、いつだって制止の言葉を聞いてくれる。
いつもみたいに、振り向いて、
「――そうだね、ごめん」
そう言って、考え直してくれるのだ。
もう大丈夫というように、エリカはこちらの手に触れる。櫻子の両手が外れれば、彼女は穏やかな様子で肇に向き合った。
「すみません。言いすぎました」
「いえ。痛いところを突かれただけですから、お気遣いなく」
「櫻子も、いきなり乗り込んできて引っ掻き回してごめん。私が横からとやかく言うことじゃなかったね」
……でも、その謝罪に自分はどう答えればいいのだろう?
考えているうちに、とん、とエリカの洋傘が床を突く。彼女はふっと櫻子から遠ざかると、その傘を開いて、朝日の中に逃げ出した。
「櫻子が幸せなら、全部それでいいや。――ごめん、今日は合わせる顔がないから、街に遊びに行くのはなしにして」
「え」
「じゃあね。そのうち落ち着いたら、こっちから手紙を書くから。本当に、今日はごめん」
止める手が、間に合わなかった。
伸ばした指先を、エリカはするりとかいくぐる。そうして庭まで出ていくと、すとんと玄関戸を閉じる。
「エリカ、」
慌ててもう一度開いてみれば、背中はもう、あんなに遠い。桜の花の向こうに消えていく。
冬の冷たい空気。黒い傘が揺れたのを最後に、後は寒風と枯草の香りばかりが訪れる。
櫻子は、混乱していた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう?
この一週間に思い描いていたような一日は、目の前で幻のように消え去ってしまった。ここに行こうとか、あそこを案内しようとか。昔だったら決してできなかったことが、今ならできるようになると思っていたのに。何の気負いもないままで、二人で歩くことができるはずだと思っていたのに。
でも、それと同時に。
この結果に対して、奇妙な納得感もまた、胸に湧いているのだ。
「……肇さん」
どうするのが正しいのか、彼女にはわからない。
エリカが肇に相当なことを言ったことは確かだったから。そのことについて、自分は友人として肇に何かを言う必要がある。「ああは言いましたけど」とか、「悪い子ではないんです」とか。そういう言葉をしっかりと考えた上で肇に伝える必要があって、それはきっと早ければ早いほど良くて、だというのにやはり同時に、櫻子はこうも感じているのだ。
ここで立ち止まっていたら、もう一生、エリカと会えない気がする。
「行ってあげてください」
そして肇は、やっぱりいつものように穏やかに言うのだ。
「お二人が特別仲の良い友人だということは、見てわかりました。正直言って、グレイさんのご指摘もかなり的を射たご批判だと思いますし」
「そんなことは……ないと思います、けど」
「私と話すのは、いつでもできますから。今すぐじゃないといけない方の方に行ってあげてください。あ、」
その上彼は、あれだけのことを言われたというのに、微笑みすらして、
「さっき言われたことも、横に置いておいてください。仲直りのときにそれで変にこじれてしまうのも良くないですから。一旦は私のことは忘れて、さ」
流石に、これは本心ではないのではないかと櫻子は思う。
肇は物腰穏やかな人間だけれど、人から言われたことを何もかも聞いていないという性質ではないはずだ。一緒に暮らしていてわかるようになってきた。肇は一見すれば確かに妖しいというか、底知れない印象がある。でも、ご飯も食べれば眠りもするし、風邪だって引く。
普通の人間で、だから。
だから、何も思わないはずもないだろうに。
「今ならきっと、間に合いますから」
なのに、彼は。
励ましも慰めも、いつも一番欲しい形でくれるものだから。
「――ごめんなさい、行ってきます!」
櫻子は、そうして桜の影に消え去っていく。
肇はその背中が見えなくなるまで、店の中から手を振っていた。冬の朝だ。寒くないはずもなく、開け放した玄関戸から入ってきた冷気に、瞬く間に指先はかじかんでいく。
彼は懐に手を入れると、小さな石を取り出した。
『火温石』。櫻子が初めて蔵の中から見つけ出してきた妖の品。それを手の中で弄びながら、肇は思い出している。
風邪を引いていた自分に、「身体を冷やさないように」と彼女がこれを渡してくれたときの笑顔。反対に彼女が風邪を引いて、自分がこれを渡したときの、彼女の忸怩たる表情。どちらも治ればどちらが持つかという話になって、もう一つ持ち出して来ればいいだけの話なのに、店番に立つ方が持つことにしましょうと言って、お手玉のように代わる代わるにそれを手渡し合ったときの、あの秘密めいた喜び。
帳場に肇は、座り込む。
珍しく机に肘を突いて、俯いたりする。あー、なんてちょっと濁った声を喉の奥から出してみたりする。
最後に思い出すのは、今のこと。
桜の花に紛れて、髪を靡かせて彼女が駆けていった、その姿。
長く長く、肇は溜息を吐いた。
冷たい朝だから、白く濁る。その息が天井へと昇っていくのに従うように、肇もまた顔を上げる。後ろ手を突いて、ぼんやりと視線を上へ。
冬の光の薄く輝く天井に、誰に届けるつもりもなく、呟いた。
「……妬けるなあ」
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