第1話
歌が聞こえる。
軽やかに、そして楽しそうなそんな歌が聞こえる。
身体を起こすと、胸元に掛かっていた布団がずるりと体を滑っていった。
条件反射、あくびが出た。まだ身体は睡眠を欲していて、頭はぼんやりと眠気が残っていて、ぼんやりと思考が定まらない頭にテレビのアナウンサーの声、やかんが甲高い音が聞こえた。階下の両親は既に起きているようだった。
耳は家に面する通りの音を拾っていく。人や散歩中の犬の吠えることが聞こえ、すでに朝なのだと伝えていた。
小鳥のハミングのような音が混じった。
正確な時間が知りたいとベッドの脇に置いてある時計に目をやった。いつもよりも少し遅い時間を針は指していた。仕事のない日だからと、目覚ましを用意せず、夜更かししたことが原因だろう。
頭がぼんやりとしたままベッドから起き上がり、カーテンを開ける。それまで遮られていた陽の光がこれでもかと部屋の中を照らし、ついでとばかりに僕の目を焼く。視界がぼわっと白に染まる。
白に染まった視界、いまだにぼんやりとした視界のまま、眠気に抗うように部屋を出る。
部屋を出ると階段の窓から差し込む朝日が差し込んできていた。窓の高さや時間の影響だろうか、普段よりも遅い寝起きの僕を責めるように光が顔に当たる。眩しい光に目を細めながら階段を下りていく。
「あ、ようやく起きてきたね。はい、これ」
僕が下りてきた音に気が付いた母が台所から顔を出し、新聞買ってきて、と数枚の硬貨を下手投げで渡してきた。ちらばらないように優しく投げられたそれを左手で受け止める。さながらキャッチボールのようだ。
「よろしくね」
「ん、他に何かある?」
少し考えた後、何もないわねと、母は朝ごはんの準備に戻った。玄関に置いてある靴を引っ掛ける。
玄関越しに聞こえてきたハミングはいつしか歌声に変わっていた。先ほどより覚醒した頭が音を拾ってくれる。
玄関を出ると太陽の光が眩しい。東から上がった太陽の光。横から刺さるそれにまたも僕の世界は白く染められる。
白くなった視界が次第に色を帯びていく。白さからだんだんと色付き、輪郭がはっきりしていく。歌声も気が付くと止まっていた。
「あら、おはようクリス。今日は少し遅かったのね」
歌声の主は僕の姿を捉えると、そんな風に挨拶をする。
向かいに店を構える個人商店の看板娘は店先をほうきで掃きながら、口ずさんでいたようだ。さながら、ミュージカルの一幕。高い位置で結ばれた金色の長い髪が馬のしっぽのように、左右に揺れ、はきはきと動く彼女の後ろを跳ね回っている。寝ぼけ眼の僕とはえらい違いだ。
いつもよりも遅いと言われた時間はまだ朝と言って差し支えない時間だ。そんな時間でも既に店は開き、彼女の父である店主の声も奥から聞こえてきた。
「おはよう、エリー。そっちはいつも通り早いね。とりあえず新聞貰える?」
注文承りました、とすぐに朝刊を持ってきてくれた。受け取った朝刊と引き換えに左手から硬貨の重みがなくなった。
その場で朝刊をめくる。当たり障りのない大都市の、この町にそれほど関係のない出来事が一面を飾っていた。次のページも同様だ。その次のページにはエンターテインメント、エリーの好きな映画の記事も載っていることがある。
上から順に流し読みをしていく。どこかの国から入ってきた映画の良し悪し。どこの誰かも知らない評論家の映画批評。あれは良かったが、ここは悪かった。だから私は嫌いだということを伝えるために何百文字も連ねた文章が紙面を踊っていた。
まるで自分に酔ったのか、又は正義を振りかざしたいかのような言葉で締めくくられていた。
その物言いは気に入らないな。不愉快だなと、目を逸らすようにその下の記事に目を落とした。
「ロベルタ監督、ロケへ、か」
大見出しを口に出してみる。見出しでは全貌がよく分からない。すぐ横に始まる記事の文章を読み進めていく。どうやら有名な監督が新たな作品のロケ地を探しているというもののようだ。あまり監督の名前ではピンとこなかった。どんな作品を作ったのか聞けば分かるだろうか。
これを見つけたのが僕ではなく、映画好きのエリーなら監督の名前だけで飛び跳ねるほど喜んで、あの監督の新作よ、と叫ぶかもしれないが。あまり映画を知らない僕には関係ないだろうな。
そんな思考から僕は次の紙面をめくる。ニュース欄だが、ここら一帯に関してのものは一切なく、遠い大都市で起きた事件の内容だけが載っている。そこにも何か目を引くようなものはなかった。
「また髪が跳ねているわ。すこしくらい直したら」
紙面を読んでいる僕の隣に来て、エリーは僕の髪を撫でつけた。撫でつけられたことで、茶色の前髪が視界に映るが、それは彼女が手を離すと視界から出て行った。どうやらそんな優しく触ったくらいでは僕の髪は止められないようだ。反抗するように爆発の跡地のようにはねっ返ったままだ。彼女は少しむきになったようで、強めに二度、三度と撫でつける。撫でるというよりも頭に押し付けるような力の入れ具合。それでもだめなのか、エリーが手を離すとぴょんと音がしそうな感じに髪は反り返ったまま。
「いいよ。あとでシャワー浴びるし」
エリーはそうね、それがいいわと諦めたようで、僕が開いている新聞に視線を落とした。
ニュース欄の見出しに目を通したようだが、彼女にとってもめぼしいものがなかったようで面白くないと不貞腐れたような表情を前面に押し出した顔をする。
「このへんって、本当に何もないわね。ニュースらしいことが一つもない」
新聞を読んでいる僕を横目に彼女はつまらなそうにつぶやいた。
平凡で特に事件らしい事件も起きないこの町に住んでいると、毎日何かが起こっている都会が羨ましく思えるときもある。流行り病のようなものだ。
僕もほんの少し前はそんな風に思ったこともあるが、今は彼女が疾患しているようだ。
「それがこの町らしいし、僕は好きだけどね。平和が一番だよ。あ、でも、こんなのがあったけど、どう?」
つまらないと嘆いている彼女に先ほどのエンターテインメント欄を見せる。どれ?っと覗き込んできた彼女に右人差し指でその記事を示す。映画監督がロケ地を探しているという記事だ。
それを目にすると目の色を変えた。
「え? うそ! ロベルタ監督の映画ロケ地募集!」
記事に目を通すほどに、何もないことにつまらないと項垂れていたことが嘘のように彼女は興奮していた。思っていた以上の反応に腰が引ける。
「そ、そんなすごい監督なの?」
「すごいなんて一言では言えないわよ。前に一緒に映画を観に行ったでしょ。あのミュージカル映画の監督よ。去年の映画の賞も獲っているわ」
ミュージカル映画と、頭の中で反芻する。なんとなく覚えがあった。
絶対に面白いから観ようと手を引かれ、わざわざ映画館のある街まで観に行ったあの映画の事だろう。
実際に見た映画はすごく面白かった。素人の僕が論評なんてできないけど、映画で使われていた音楽はいまだにラジオで聞くことがあるほどで、多くの人に支持されていることが納得できる作品だった。聞いたことがある映画の大きな賞を取った、とテレビで放送されていた気がする。
「監督の名前までは覚えてなかったからぴんと来なかったよ。すごい監督さん、なんだね?」
「そうよ、ほんとにすごい監督なの。私の憧れの人」
ミュージカルや映画に目がない彼女は、新しい作品を作るのね、楽しみだわ、と心ここにあらずといった様子で何度も記事を読み返している。件のミュージカル映画であれば、この場でうきうきと踊りだしそうなほどの興奮具合だ。
「新しい映画はどんなものかしら。それにロケ地を捜しているということはまだ先かも、けど、あれ? もしかしたら、うん。これはチャンス、なのかしら」
ついに体を抱きしめるようにしてくるくると回り始め、妄想を口にしていた彼女はあっ、と小さく呟いて口元を手でふさぐと静かになった。何かを思いついたのか目を丸くして、そして何か決めたように手をぐっと握りこんでいる。
そんな彼女に何も言えずにいると、後ろから声を掛けられた。
「おう、おはようさん。お、坊主。頭が凄いことになってんな。起きたばっかか?」
振り返ると、通りに住んでいるおじさんがいた。黒い髪の中に白がいくらか混じっていた。
「まあ、そんな感じだよ。寝起き」
「そうか、で、嬢ちゃんの方はどうした? なんかいいことでもあったのか? 今日も美人さんだが、一段と機嫌が良さそうでなにかあったのか?」
おじさんの視線の先にはひとり、やるぞー!と声を上げている彼女がいた。
「うーん、なんか良いことを思いついたんじゃないかな」
「何を思いついたって? さっきまでくるくるティーカップみたいに回っていたじゃねーか」
「おじさんも見てたんだ。さあ、なんか突然くるくると踊りだしてぶつぶつ言い始めたから、僕もよく分からないけど」
「あら、おじさま、おはようございます。朝刊ですか?」
二人で口にしていると、おじさんに気が付いたエリーはすぐに営業顔になって、近寄ってきた。
「お、おう朝刊一枚くれ。なあ、やっぱり、なにかあったのか?」
興奮気味かつ上機嫌の彼女に呆気にとられたおじさんは僕に顔を寄せて聞いてくる。
「うーん、思い当たる節は、あ、僕がこの記事見せたからかな。憧れの映画監督が新作を撮るんだってさ。それが楽しみみたいでさ、ほらこの記事」
エンターテインメントの欄を開いて、その記事を指さす。
「どれ? ほう、映画な。それも去年だか、なんかでかい賞もらった作品の監督さんのか。へえ、この町には映画館なんかないから、俺は観てないが、面白かったらしいな。うちの母ちゃんも観に行ったって言っていたな。そりゃあ、嬢ちゃんは映画好きだもんな。これは楽しみが増えるってもんだ」
「それって、贔屓チームが勝った時のビールみたいなもんかな」
「それよりも、あれだな優勝が決まった時みたいなもんだ。そういう楽しみは大切だ。な、嬢ちゃん」
「ええ、そうなの! ほんと楽しみなの、はい朝刊です」
そんな同意を求めるおじさんの声に応える彼女は笑顔だ。
「ああ、そりゃいい。娯楽なんてないからなこの町。あるのは中継の野球くらいだ、っと。うし、これでプレーオフがまた近づいたぜ」
贔屓しているチームが勝ったのを確認し、他チームの状況を見ては、ざまーみろとほくそ笑んでいる。写真にはチームのヒーローになった選手が決勝打を打ったシーンがでかでかと載っていた。
「おじさま、朝刊だけでよろしいですか? ちょうど新しい豆が入荷していますよ」
にこにこと機嫌がよさそうなエリーはそう続けた。
「そうだな。チームも勝ったし、美人の嬢ちゃんにそんな言われたら、買わないわけにはいかないな。それじゃ、その新しい豆もつけてくれるか」
「ありがとうございます。少しお待ちくださいね」
看板娘が店の中に戻ると、おじさんは僕に突っかかってくる。
「いやはや、どんどん商売上手になっていくな、嬢ちゃんは。おう、坊主。まだ眠そうな顔してるな。目ん玉いつもの半分くらいの大きさになってるぞ。ほら、目ん玉かっぴらけよ」
「そりゃ、寝起きだから、ってさっきも言ったよ。それよりおじさん、いやおじさま。随分と朝から元気じゃないか」
「おいおい、おじさまなんて言うな。お前に言われても気味が悪い。健康のためだよ。この間の健康診断で引っ掛かっちまったからな。酒の量も減らすことにしたんだよ。で、酒も飲めないから夜も早くなっちまった」
やれやれだと言いながら、その目は店内の酒瓶に目が向いていた。飲むなと言われても、そういった欲は無くならないもの。
「おっさん、目が酒に行ってるぞ」
「おっといけねえ、お医者様に怒られるわ」
「そんで、早起きに朝から運動か。健康まっしぐらだな。というよりも老人か?」
「ばかいうんじゃねーよ。まだまだ現役バリバリだ」
おじさんに頭を軽く小突かれる。昔からこのおじさんには小突かれた。この通りの人間は全員が知り合いだ。特にこのおじさんなんかは僕や彼女のおしめも変えたことがあるくらいの付き合いだ。小さいころの失敗談も何もかも知られているのだから、畏まった態度をとるだけ無駄だ。いつも通りに軽口を応酬しあう。
「それでお前はどうなんだよ。朝から美人の嬢ちゃん見てよ」
おじさんは肩に肘を乗せてくる。酔っぱらった時の親父のような絡み方だ。
「何、その絡み方。アルコール入ってないよね。なんもないよ。今起きてきて、新聞を買って読んでいただけ。ただそれだけだよ」
「ちぇ、朝から看板娘と仲良くしてるなと思ったが、お前にそんな甲斐性なかったか」
「昔から知っている、どころか風呂も一緒だったような子だよ。家族だよ。家族」
「うわ、つまらねえ返しだな」
「つまんなくていいよ」
右肩に回された腕を払いのけると、おじさんはまるで近所の子供たちのように、バカの一つ覚えのようにつまんねえ奴と繰り返す。
「つまんねえ奴で悪かったな。残念でしたね。この町のネタになるようなゴシップは提供できないよ」
二人にらみ合うようにガルルと威嚇し合う。
そうして、ちょうど看板娘が出てきた。
「・・・・・・二人とも何してるの?」
「なんでもない、ただのじゃれ合いだよ」
「なに、カッコつけてんだ。じゃれあいってそんなこと言うキャラじゃないだろ、お前」
「うるさいな、おじさまは」
「うわ、虫唾が走る。やめろ、エリーちゃんに言われるならいいけど、お前に言われるのは気色悪いわ。うん、気色悪い」
本当に嫌がっているのか、おじさんは体を掻き抱くように抱きしめて数歩下がった。
そのまま、おじさまと言いながらにじり寄っていくとやめろ、気持ち悪いわ!と怒鳴るように言う。
「あー、えっと、おじさまって呼ばない方が良かったですか?」
「エリーちゃんはいいだよ。こっちの奴に言われるのが嫌なだけだから。だから寄ってくるな。どっかいけ! っし、っし」
犬を追っ払うように僕を追っ払うおじさんを見ながら看板娘は笑顔を崩さない。だけど、僕は分かるぞ、その顔は苦笑いだ。
「そうですか、クリスはそこで待て。えっとご注文の朝刊とコーヒーです。南米原産の豆で、苦みが特徴ですよ。あと、奥様が紅茶にはまっているとお聞きしたので、紅茶の茶葉もいかがですか?」
「嬢ちゃんは獣使いだな。それにしても、うちの母ちゃんのそんな情報まで入っているとは、さすがは看板娘。それじゃ紅茶もいただくよ。でいくらだ?」
これくらいで、と手でジェスチャーする。豆も紅茶の茶葉もそれほど高くないものらしく片手で足りる程度のようだ。
「安いね、頂く」
おじさんはいくらかの硬貨をエリーに手渡すとそれじゃ、と言って来た道を帰っていく。
「毎度御贔屓にどうもありがとうございました」
エリーはそう、頭を下げる。
「店の前での迷惑行為は慎んでいただかないといけないですな。私の家族様には」
「あ、やっぱり聞こえていた? さっきの」
「まあ、ばっちり、くっきり、しっかりって感じですね」
「あ、やっぱり」
「けど、いいんじゃないかな? 家族らしいし」
どうでもいいけどと口には出さないだけで、そんな雰囲気が感じられる物言いだった。
「家族って言うのは、言葉の綾というか、何というか、うーん何だろう」
「何だろうね。なんとなく言いたいことは分かっていますよ。おしめを変えてもらったのも、お風呂も一緒でしたもんね」
なんと、言い換えればいいのか。良い表現が思い浮かばないけど、そういうことだ。生まれてこの方、隣にはエリーがいるのだから。それは家族みたいなものだろう。
「まあ、そうだね。うん、言いたいことはそんな感じだね、うん」
「なんか、勝手に納得してるし、まあ、私たちは散々いじられてるからねー。夫婦だとか、あとは何、兄妹だっけ? あとは甲斐性なしって」
「最後の奴は誰が言ったんだろう。誤解があるな。僕だって稼いでいるからね」
そうですね、気持ちの入っていない相槌を打ちながら、エリーは店先の商品の陳列に戻っていった。
その態度に反論したい気持ちもなくはないが、むし返したところで、反論にもなっていない反論を重ねるだけのような気がした。あと、ただのじゃれ合いみたいなものになりそうなそんな気がする。
そろそろ朝飯ができているころだろうと、家に足を向ける。
あ、と何かを思い出したエリーの声が聞こえた。
「どうしたの?」
僕は振り返る。振り返った先でエリーの視線と合う。少し、僕よりも低いその目の位置はまっすぐに僕を射抜いている。
彼女はすこし潜めるような声で言う。
「今日は予定ある? 練習、付き合ってもらってもいいかな?」
少し周りを気にするように、というよりも商店の中を気にするような。
彼女の行動を頭の隅に追いやって、頭の中で練習という言葉が繰り返す。僕の中で思いつくのは一つだった。
歌の練習、この町で行われる収穫祭の一つの催しの歌のコンテストのための練習だ。
「分かった。いいよ。今日は親方が休みだって言ったから。それじゃあいつもの場所に正午でいいかな」
僕も彼女に習うように少し声を落とす。
「うん。お願い。お祭りもあるからね。少し本格的に練習しないと」
そうか、そんな季節か。春だって喜んでいたのが、気が付くともう一月以上前のことなのか。もうすぐ夏の季節が訪れる。
「そっか、もう暑くなってきたもんね」
「そうそう、暑くもなってきたからね。服装も春仕様から少しずつ変化しているんだよ。ほらここらへんとか風が通りやすい素材になっているんだ。かわいいよね、これ」
くるりと回って見せると、爽やかなパステルブルーのフレアスカートが円を描くように広がった。その動きを追うように商店の名前の入った薄紅色のエプロンもふわりと浮いた。
「あー、うん。かわいい。かわいい」
「うわ、少しも気持ちが入ってないかわいい、頂きました。もう少し、こう取り繕うみたいな態度見せてもいいと私、思うんだけどな」
「いや、エリーが着ているスカートは良いんだけど、視界の隅でおじさんが来ているエプロンのほうが見えて」
店の奥でちらちらと見え隠れするエリーの親父さんもエリーと同じエプロンをしていた。薄紅色のエプロンにひよこのアップリケが付いている。それが鍛えられた胸筋に押されて歪んでいる。黄色だからひよこだとは思うんだけど、横に引き伸ばされてひよこの原型はない。
「あの、アップリケってひよこ? だよね」
「あー、まあ、ね。あれはあれでかわいいでしょ」
「かわいいとはいったい何だろうか。横に縦に伸びてひよこの原型がなくなったものもその言葉は向くのだろうか、どうだろうエリー?」
「あー、うん。ごめん変なこと言ったわ。気にしないで、そしてそれ以上広げなくていいわ。そ、それはそうと。うん、練習だよ。練習。今年も優勝かっさらうんだから」
無理やりに空気を入れ替えるように小さく握り拳を作りながら、エリーは話を戻す。
「気合入っているね。その気合とかやる気とか入れ込み過ぎて、空回りしないでよ。力入れ過ぎて、練習五時間やりましたとか、ぶっ続けで歌ってましたなんてあほみたいなことして喉つぶさないでよ。前も頑張りすぎて本番危なかったから」
「そんなへまはもう、しませーん。そっちこそしっかり聴いててよ。この間みたいに途中で寝てて、あ、ごめん。聴いてなかったなんてことならないようにね」
「仕方ないでしょ、納期が迫ってて、毎日遅かったんだから」
「言い訳は聞きませーん。しっかりエリーちゃんの歌を聴かないとお仕置きでーす」
「そのお仕置きが、ロシアンルーレットの激辛物なのはないよ。おい、商店の娘が商品で遊ぶなよ」
「知らないよ。売れ残っていたやつで誰も買いそうになかったから、有効活用です」
「うわ、ああいえばこういうの屁理屈だ」
僕たちは軽口を言い合う。この関係性で良い。僕はこの変わらない日々のままで。
〇
暦の上では春を示しているはずなのに昼を過ぎた頃になると、暑さが気になるほどだった。今日は特に暑くなるらしく、テレビの天気予報が晴天とともに暑さに注意するように伝えていた。
額に汗が噴き出るのを感じながら森の中を進んでいく。人一人が通れるほどの雑草が削れて土の色が見えるようになった通り道の先。町からすぐの森の中で広場のように開けた場所。そこが僕たちの昔からの集合場所だった。
木々が生い茂った森の中でもそこだけは円形に切り取ったように日の光が差し込む。その割には夏場でも風の通り道となっていて、直で日光が当たる町よりも少し涼しい場所になる。
屋外でありながら、どこか太古からその場所だけが残された劇場のような。そんな独特の雰囲気を持つ場所だった。中心にはよほど大きな木が残っていた思われる切り株がある。そこを頂点に差し掛かった太陽の光がまっすぐと降り注ぎ明るく照らしている。スポットライトに当たったステージのようだ。
がさっと近くの木が揺れる。人がそれほど近寄らない場所だから動物だろうか。
あるいは。
「あ、ちょうどだったみたい」
けもの道を抜けて出てきたのは約束の相手だった。近道をしようとしたのか服や頭に葉っぱが付いている。商店が忙しかったのか随分と急いで来たようで、その息が上がっている。
息を整えようと何度か深呼吸を繰り返している。
「少し休憩する?」
「いや、いいよ。時間ないから」
どうやら忙しい合間を縫って出てきたようだ。この時間は昼時だからか商店のお客が少しだけ減る、らしい。その間の休憩時間にこの場所で練習する。
「ラジオカセットも持ってきた。で、今日はどんな曲を練習するの?」
僕は手に抱えたそれを見せるように持ち上げた。
エリーは持っていたカバンからテープを出した。何やら年季が入ったテープだ。
「この曲をお祭りで歌いたいの」
お祭りで、と彼女は言った。
数か月後に開かれる祭りでは歌のコンテストが行われる。コンテストと言っても、収穫祭にかこつけた歌の大会で大半は酔っぱらったおっさんたちが歌えや踊れやのどんちゃん騒ぎに終始する。それでも中にはしっかりと歌う人もいる。目の前に立っているエリーもその一人であり、昨年の優勝者だ。
例年であれば、優勝者に簡単なメダルが送られて終わりだが、今年は特別感を出すためかコンテストで優勝した人には町のラジオにて曲を歌わせてもらうことができるという特典がついていた。例年にないその特典を聞いて、エリーは目の色を変えて優勝を目指すことにしたらしい。
エリーが取り出した古いテープの側面には白いテープの上に文字が書いてある。エリーに誘われて一緒に見た懐かしい映画の挿入歌だ。映画や音楽にそれほど明るくない僕もこの映画と曲名は覚えていた。この作品は彼女にとっては特に思い入れがある作品で僕も十数回は一緒になって見ている。
「いいんじゃない。この曲なら祭りに来てくれる人たちも一度は聞いたことがある曲だし、聞き馴染みがあるはずだし。なにより、君がそれを歌いたいんでしょ」
「うん、私はこの曲で祭りに出たい」
エリーの思い入れの強さが感じられた。その目は意欲に溢れていた。
テープをラジオカセットに挿入する。少し古いものだから丁寧に扱わないと、再生ができなくなることもある。工業製品とかはすぐに壊れやすいから注意が必要だ。僕の仕事道具も注意は必要だけど、こんなに繊細に扱う必要がないものも多いから時々、勝手が分からなくて力が入りすぎてしまうことがある。それで一度泣かれたことがあったな。何とか直すことができたが、それ以来十分に注意して使う癖が身に付いた。
壊れモノを扱うように優しくテープがセットされたラジオカセット。再生のボタンを押すとガガっという機械の動く音と掠れたメロディが流れ出した。
流れ始めた前奏。前奏に連れて、かみ合い始めたのか音が明瞭になっていく。
軽やかなピアノの音に合わせるように彼女は目を閉じて息を吸って、吐く。
歌う前に彼女が行う儀式のようなもの。今までここで何度も見てきた姿だった。もうすぐ前奏が終わる。
僕はただ一人の観客として彼女の声に耳を傾ける。
僕の出来ることは彼女の歌声に耳を傾けることだけ。観客としてこの場所にいることだけ。具体的な知識もなければ、音程のそれも分からない。ただ、ラジオカセットから流れる歌声と目の前の歌声に酔いしれる。
歌い終わると、いつものように感想を求められた。しかし、僕からしてみれば彼女の歌声はテープから流れるそれと遜色ないほどに素晴らしく聞こえる。
「だから、何も言うことがない。完成しましたねって感じだね」
「それは、それで嬉しいけど、他にはないの?」
「ほかに?」
言われて考えてみる。歌の様子だろうか。あるいは技術的なものだろうか。だけど、技術なんて僕が言えることはない。考えあぐねた結果、口から出た。
「楽しそうでよかったと思う」
まるで小学生の感想のようなものだった。
だけど、弁解させてほしい。頭にどうにか浮かんだ彼女の表情と歌声、その二つに共通していたことを挙げてみるが出てきたのは、そう、楽しそうなのだ。
「楽しそう」
オウム返しのように彼女は口にした。
「うん、楽しそう。うん、ミュージカル映画だし、映画の中でこの歌が流れていた時も楽しそうなシーンだったよね。それに合うような楽しそうな歌声だった。なんか映画を思い出した」
僕は思いついた感想をそれほど考えずに口にしていた。
「えへへ。なんだ、ちゃんと感想言ってくれるね。・・・・・・そっか、映画みたいに歌えていたんだ」
思いついたことをそのままよくも考えずに口にしたが、言われたエリーの方は嬉しそうに頬を緩ませている。こんな感想でも良かったようだ。
だけど、気になる部分がないわけじゃない。
「だけど、一つだけ気になることがある。君の歌じゃないよ。テープやラジオカセットのほう。もう音が掠れて聞こえない部分もあるし、機械の音も気になる」
時折、機械音が混じり、甲高い回転が混じる。それに何度も聴いたことでテープの方もガタが来ているのだろう。掠れた音になって音が聴こえづらい部分もあった。僕がそう言うと、にへととした笑顔から苦笑いに変わった。
「そうなんだよね。けど、このテープくらいしかないんだよね。難儀なものですね」
「うん、難儀なものだ。僕の方でもテープを持っている人がいないか探してみるよ。お祭りの日くらいはちゃんとしたのを流したいよね」
僕の言葉に同意したのか相槌を打つ。
「うーん、テープ以外でも曲が聞ければいいんだけどね」
彼女はそうつぶやいた。
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