第45話:恋の自覚

(なんだ、こいつ……)

(なんで、わざわざ俺に明日花あすかさんの悪口を――)


 れんはハッとした。


(もしかして、嫉妬か……?)

(明日花さんのことが好きだけど相手にされなかったとか?)


 そう思うと、岳人がくとがフラれたという明日花の元同僚の肩をやたら持つのもわかる。


 おそらく自分を重ねているのだ。


(自分の思い通りにならないから苛立って、なんとか明日花さんの注意を引きたいのか)

(そして彼女に近づく男を牽制している……?)


 そう考えると岳人の意味不明だった行動が、ストンとに落ちる。


(わざわざ彼女に会いに来たのも、単なる好奇心や用事のためだけじゃない)

(明日花さんのことが好きなんだ)


(だけど、プライドが高いのか、優位に立ちたいのか)

(自分から好きになってもらおうとせず、反応を引き出すための侮蔑的な言葉を使ってえつに入っている)


「……小学生か」

「え?」

「いえ、なんでも」


 幸い蓮の小さなつぶやきは周囲の喧噪けんそうにかき消され、岳人の耳に届かなかったようだ。


(別に気に掛けるほどの相手じゃないな)

(こんなやつ、明日花さんが好きになるわけないし)

(俺の方がもっと大事に――)

(大事に? なんだ?)


 ざわり、と胸が騒いだ。


 ――それって『初恋』なんじゃねえの?


 晴哉はるやの言葉が鮮明に蘇る。


「ん? どうしたんすか?」


 目ざとく蓮の異変に気づいた岳人が声をかけてくる。


「顔が真っ赤ですよ。ジョッキ一杯で酔ったんですか?」


 岳人の声が遠くに聞こえる。


(嘘だろ……)

(俺は明日花さんのことが――)


「ちょっと、気分悪いんですか? こんなところで吐かないでくださいよ!」


 蓮が口に手を当てたのを勘違いしたのか、岳人が嫌そうに顔をしかめる。


「いえ、なんでもないです。じゃあ、僕はこれで」


 蓮はぐいっとジョッキを飲み干し、空になった皿を手にしてテーブルを離れた。


「え、ちょっと待ってくださいよ!」


 岳人の声がしたが、構っている余裕はなかった。

 横丁の人混みを抜け、足早にエスカレーターへと向かう。


(嘘だろ嘘だろ)

(俺――明日花さんが好きで付き合いたいと思ってるのか?)


 ――恋はするものじゃなくて、『落ちる』もんなの! 

 ――気づいたときにはもう、途方なく深い穴の底にいて呆然とするもんだ。

 ――初めての経験なら、これが初恋だろ。


(俺は――とうぶん女性と関わらないって決めていて……)


 だが、岳人のような男が明日花のそばにいるのは許せない。


(俺はただの隣人で――)


 明日花が他の誰かを部屋に上げたり、あのソファで一緒に映画を観たりする、と想像しただけで胸に強い痛みが走った。


(いや、落ち着け落ち着け――)


 足早にビルを出ると、ひんやりした夜風が優しく髪をなぶっていった。

 蓮は夜空を見上げ、大きく息を吐いた。


「どうかしてるな、俺……」


 やっぱり酔っているのかもしれない。


(出会って一週間の女性だぞ?)


「しっかりしろ、俺」


 そう言いつつ、脳裏に浮かぶのは明日花の顔ばかりだ。


(明日花さんに会いたい……)

(さっき会ったばかりなのに)

(帰ったら部屋を訪ねてみるか?)

(いやいや、夜に酒が入った状態で訪ねるとか、ダメだろ)

(失礼だろ、一人暮らしの女性宅に……)


 訪ねたら明日花はきっと驚くだろう。


 猫のように目を大きく見開いて、あわわと対応に戸惑う彼女の姿が浮かぶ。

 蓮は自然に唇がほころぶのを感じた。


「……蓮さん!?」

「え」


 声を掛けられて蓮は目を疑った。

 目の前に明日花がいた。


「え? 明日花さん? なんで……とっくに帰ったんじゃ……」


 不意打ちを食らった蓮は言葉に詰まった。


「ちょっとカフェで寄り道してて、蓮さんは?」

「仕事帰りにビルの横丁で一杯……」

「ああ、あの話題の日本橋エンパイアビル」

「美味しかったし、雰囲気よかったですよ」


 平静を装っていたが、蓮の心臓はばくばくと音を立てている。

 明日花を見た瞬間、ぱっと嫌なことが吹き飛び、世界が明るくなった。


(なんだこれ……)

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