第46話:決壊

 少し前――明日花あすか更紗さらさがカフェから立ち去ったあとも、衝撃で動けずにしばらく席ぼうっと座ったままだった。


(婚約者……)


 急にれんが遠ざかってしまったような気分だった。

 明日花は心の整理を付けようと、更紗とのやり取りを思い出した。


        *


 更紗は品良くカップに口をつけ、紅茶を味わうと明日花を見た。


「最近、あなたと蓮が親しいと知らせがあって飛んできたんです。率直に伺いますが、蓮とどのようなご関係ですか?」

「えっ、あの……ただの隣人です」

「よかった!」


 更紗がぱっと明るい表情になった。


「彼、すごく素敵なうえ、誰にでも優しいから誤解されることが多くて」


 更紗が勝ち誇った笑みを見せる。


「女性につきまとわれることもあって心配だったんです」


 更紗の言葉に、カッと頬が赤くなる。


(私……つきまとっていたかな?)

(少し調子に乗っていたかも……)

(雨の日に助けてもらって以来、距離が近くなった気がして……)

(恥ずかしい……)


「蓮さんにはいろいろ助けてもらって……それでお礼をしただけです」


 明日花は更紗と目を合わせられず、早口で言った。


「そうですか。でも、もう近づかないでいただけます? ただの隣人として、節度のあるお付き合いをお願いしますね。それから、私と会ったことは内密にお願いします」


 畳みかけるように言うと、更紗がコートを手にさっさと出ていった。


         *


「あ、もう20時30分過ぎている……」


 気づくと、思っていたよりも時間がたっていた。

 明日花はのろのろと椅子から立ち上がった。

 飲み物は半分以上残っていたが手をつける気になれず、明日花はカフェを出た。

 まだ混乱しているし、つらい気持ちでいっぱいだ。


「さっさと帰ろう……」


 こういうときは行動するに限る。

 家に帰ってお風呂に入っておやつを食べて漫画を読んで――そうすれば少しは気が紛れるだろう。


(ううん、きっと無理……)


 明日花は自分が泣きたくなっていることに気づいた。

 そして、蓮と会いたいと思っていることも。


(やだ……なんでつらい時は蓮さんの顔が浮かぶんだろう)

(頼りすぎ甘えすぎ。情けない……)

(やっぱりイケメンに関わるべきじゃないんだ)


 地下鉄の入り口に向かおうとしたとき、歩道を歩いているれんを見つけた。


(蓮さん!)

(雑踏の中でも一目で見つけられる)

(背が高いだけじゃなくて、すごく存在感がある……)


 明日花はフラフラと吸い寄せられるように蓮に近づいた。


「蓮さん!」


 ダメだとわかっているのに声を掛けずにはいられなかった。

 蓮が驚いたように振り返る。


「え? 明日花さん? なんで……とっくに帰ったんじゃ……」


 蓮に話しかけられた瞬間、明日花は思わず泣きそうになった。


(関わらないでって婚約者に言われたのに)

(遠くから拝めたらいいって思ってたくせに!)


 込み上げてくるものをぐっと抑えて、明日花は笑顔を作った。


「ちょっとカフェで寄り道してて、蓮さんは?」

「仕事帰りにビルの横丁で一杯……」


 蓮がはす向かいのビルを指差す。


「ああ、あの話題の日本橋エンパイアビル」

「美味しかったし、雰囲気よかったですよ」


 蓮がそわそわしている。


(婚約者のことを考えているのかな……。更紗さんって言ったっけ)


「今度、一緒にいきませんか。点心とかピザとか色々あって楽しいですよ。その日の気分で好きなものを食べて呑める感じです」


 つい昨日までなら、掛け値無しに喜んだであろうお誘いだった。


(ああ……すごく残酷だな)

(女として認識されてないってわかる)

(婚約者がいるのに、二人呑みとか……)


「いえ、やめておきます」

「え?」


 蓮が驚いたように目を見開いた。


「体調が悪いとか――」


 おろおろする蓮に、明日花は苛立ちを感じた。


(なんでこんなに怒っているんだろう、私)


「あっ、いたいた!」


 駆け寄ってきたのは、今一番会いたくない人間――岳人がくとだった。


「蓮さん、足早いんだから……あれ、明日花?」


 不思議そうにこちらを見てくる岳人を、明日花はぎっと睨みつけた。


「あんた、なんでここにいるの?」

「蓮さんと飲んでたんだよ。ね、偶然横丁で会って!」


 岳人がわざとらしくおどけるように言う。


(嘘に決まっている。きっと、蓮さんに余計なことを言いに後をつけたんだ)


 くすぶっていた小さな怒りの炎が、めらめらと勢いを増していく。


「じゃあ、三人で飲み直しますか」

「冗談でしょ。私、帰るから」


「付き合い悪いなー、そんなんじゃダメだって。おまえの兄貴も心配してたぞ。あいつは社交性がないからずっと独身じゃないか、って」


 明日花はムッとした。


「人の心配より自分の心配をしろって言っておいて!」

「確かに! 28歳で独身ってヤバいよな」


 何がおかしいのか、岳人が一人で笑っている。


「え? 独身?」


 呆然とした蓮の表情に、明日花の背筋が凍った。


「明日花さんのお兄さんには息子さんがいるんですよね?」

「いないですよ、独身だもの」


 岳人が答える声が遠くに聞こえる。失言を受け入れたくなくて、必死で現実逃避しようとしているのだ。


「お兄さんが二人いるとか?」

「こいつ、二人兄妹ですよ」


 反射的に口を手で覆った明日花を見て、こういう時だけ勘のいい岳人がニヤリと笑った。


「え、何、おまえ甥っ子いるとか言ってたの? なんでそんな嘘ついてんだよ」

「……」


(バレた……)

(嘘つきって思われた……)


 明日花は限界を迎えた。

 胸の中で燃え上がる苛立ちの炎がすべてを飲み込んでいく。


 同時にこれまでのつらい思い出が、雪崩のように押し寄せてくる。

 明日花はきびすを返して走り出した。


「明日花さん!!」


 蓮の声が聞こえたが、明日花は振り向かず雑踏を駆け抜けた。


 目から涙がこぼれ落ちるのを、ぐいっと拳でぬぐう。

(また逃げている。どうしようもなくなって、逃げてばかり)


 ――そんな簡単に泣くな!!

 ――おまえは一番隊の隊士だろ!!


 同じ隊の女の子が泣いたとき、一番隊隊長である刃也じんやくんがかけた言葉だ。

 厳しい言葉を投げかけながらも、刃也くんは泣きじゃくる彼女に背中を貸してあげていた。


――1分だけ貸してやる。

――そのあとは隊士に戻れ。


(刃也くんはいない)

(誰も私に安心して泣ける場所なんてくれない!)


 明日花は走り続けた。

 誰にも泣き顔を見られないように。

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