第36話:嵐の予兆

「しかしいい笑顔だな、明日花あすかちゃん」

「だろ?」


 写真を撮られる明日花が、本当に嬉しそうに笑っていたことを思い出す。


「それ、俺がとったぬいぐるみなんだ」

「ああ、例のストーキングしたときに?」

「ストーキングって言うな。クレーンゲームで一回でとれてさ。すごく喜んでくれて。ちゃんとお礼言ってくれて……お返しにってカフェを探してくれて」


「どうした?」

 言葉を詰まらせたれんに、晴哉はるやが首を傾げる。


「いや、医学部に入った頃から、奢ってもらうのが当たり前、みたいな女性が多かったからさ」

「あー、そりゃあなあ。医学生イコール金持ち、って認識なんだろ」


「そういう奴もいるけど、ウチはシングルマザー家庭で、父の保険金とかで学費をまかなっただろ? 奨学金なしで入学させてもらったからさ、母さんに負担をかけたくなくて卒業してからは家にお金を入れてきたし……」


「おまえはなんか優雅な感じあるからなー。育ち良さそうで余裕があるっぽく見えるから。ボンボンと思われたんだろうな」

「……」


 周囲には親が開業医だったり、会社の経営者だったりと、裕福な家庭の子女が大半だったのは確かだ。


「デート相手に奢るのはいいんだけどさ、当たり前のように高級店を指定したり、お礼すら言わない人ってさ……」

「ドン引き」


 ニヤニヤしながら晴哉が言う。


「まあ、距離を置くよな……」


「おまえ、ほんとロクな女に出会ってこなかったんだなー。てか、受け身だからガツガツした女ばっかり来るんだよ」


 痛いところを突かれ、苦い思いで水を飲む。


(晴哉の言うとおりだ。自分から好きになった女性はいない)


 デートが苦痛になってきてから、蓮は合コンやお誘いを断り、学業と仕事に打ち込んできた。


 女性が関わらないと随分楽でシンプルな生活が送れた。


(それでいいと思っていたのに)


 気づけば毎日のように明日花と会って、挙げ句に一緒に出かけたりしている。


(いや、お隣さん同士の付き合いの範疇はんちゅうだろ、あれ)

(でも――)


 一時期、よく眠れなかったり、寝られても悪夢で目が覚める時が続いた。

 夜になるとベッドに入るのが怖くなる。

 でもこの一週間は安らかに眠れた。

 朝目覚めたら、また明日花の顔が見られると思うと楽しみにすらなった。


(癒やしなんだよな……)


「どうした。まだ若いんだから、これからいろんな女と付き合えばいいだろ」


 沈黙していたせいか、晴哉は蓮が落ち込んでいると勘違いしたらしい。


「おまえ、おっさんみたいなこと言うな」

「もうすぐ30歳。立派なおっさんだろ、俺たち。ほら、何か追加で頼めよ」


 晴哉がメニューを差し出してくる。

 キツいことを言ってしまったかもと心配しているのが、長い付き合いの蓮にはわかった。


(こういうところが憎めないんだよなあ……)


 二人は運ばれてきた料理に舌鼓したづつみを打ちつつ、会話に興じた。

 あっという間にクローズの時間になる。


「はー、楽しかった」


 食事と会話を堪能し、蓮は満足感を覚えながら嘆息した。


「俺も。またうまいもの食いにいこうぜ。神楽坂住みなら、これからは気楽に誘えるな」

「おまえ、俺がつくばにいても気軽に出てこいって言ってきただろ」

「必死でやりくりして、わざわざ足を運ぶおまえを見るのが面白くて」

「こいつ!」


 軽くこづくと晴哉は大げさによろけた。


「おまえ、力強いんだから加減しろよ」

「飲み過ぎだろ。ほら、タクシーで帰れよ」


 晴哉は職場に近いからと麻布十番に住んでいる。タクシーならあっという間だ。


「じゃあな!」


 晴哉をタクシーに押し込んだ蓮は大きく伸びをした。


「よっと……俺も帰るか」


 久々に友達と気楽に話せて、かなり気分転換になった。

 蓮はメトロに乗ると、神楽坂に帰った。


(明日は月曜日……明日花さんに会える)


 だが、楽しい気分は一瞬にして砕け散った。


 マンションに入ろうとした蓮は、愕然として足を止めた。


更紗さらささん……」


 マンションの前に、今一番会いたくない女性が立っていた。

 蓮は目を疑った。

 彼女は地元のつくばにいるはずだった。


 長いストレートヘアをばっさり切ってショートボブにしているが、薄幸そうな面立ちや折れそうに細い体型は見間違いようもない。

 黒岩くろいわ更紗だ。

 落雷を受けたような衝撃が走る。


(なんで……?)

(なんで居場所がバレた?)


 冷や汗が流れ、じりっと無意識に後ずさりする。

 更紗がゆっくり歩み寄ってきたからだ。


「ごめんなさい、私のせいで引っ越しまでさせて……」


 喉がからからだったが、蓮はなんとか声を絞り出した。


「あなたはもう、僕に近づかないと約束しましたよね。お世話になった院長先生の娘なので、警察に被害届けを出したり事を荒立てなかったんですよ?」


 黒岩院長は土下座までして、金輪際娘を絶対近づけないと言ったのに。


「私、どうしても直接謝りたくて……」


 更紗がじりっと足を進めてくる。

 殴れば吹っ飛びそうな華奢な相手なのに、蓮は心底震え上がった。


(なんでそんなに俺に執着をするんだ……?)

(あれだけの事件を起こして、まだ足りないのか?)


「それ以上、俺に近づかないでください! 警察を呼びますよ」

「……」


 更紗が悲しそうな表情になる。

 だが、諦めたのか立ち去ってくれた。

 更紗の姿が見えなくなると、蓮はほうっと大きく息を吐いた。


(全部捨てて上京したはずなのに……!)

(ようやく新たな気持ちで生活を――)


 動悸どうきが収まらず、蓮はシャツをぎゅっと握った。

 マンションに入ることもできず立ち尽くしてると、背後から聞き覚えのある声がした。


「あれ? 蓮さん?」


 振り返った蓮の目に、明日花が映る。

 きょとんとしている明日花の顔を見てホッとする自分がいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る