第51話:蓮のトラウマ

「ストーカー……」


 明日花あすかは驚きつつも、に落ちた。

 更紗さらさは異様にれんと明日花のことに詳しかった。

 しかも蓮に対する執着を強く感じたのだ。


「私たちの行動に詳しかったのはそれで……」

「彼女のいつものやり口ですよ、調査員を雇ったんでしょう。彼女は僕の恩師である病院長の一人娘で、お金にはまったく苦労していませんから」


 蓮が吐き捨てるように言った。


「地元でも同じことをしていました。僕の交友関係を隅々すみずみまで調べ尽くして、周囲にいる女性が僕から離れるように仕向けて」

「そんな……」


 明日花はにわかには信じがたかった。

 ストーカーのニュースはよく聞く。その過激さやしつこさは知っていたはずだが、こんなにも身近にいるとは。


「どんどんつきまといがエスカレートしたので、彼女の父を同席させて、じっくり話し合って説得したんです。二度とつきまといをしない、接触しないと誓約書まで書いてもらった」


 蓮がつらそうにぽつぽつと話す。


「僕も甘かったんです。恩師に土下座されて、僕自身も大事おおごとにしたくなくて警察に届けずに内々で済ませてしまった。でも、もう無理ですね。東京まで追いかけて繰り返すようでは……」

「た、大変でしたね……」


 たまに岳人がくとに絡まれるだけでも鬱陶しいのに、それが毎日のようにと考えるだけで吐き気がした。


「嘘をついていたのは、僕が上京した理由です。叔父が誘ってくれたんじゃなくて彼女から逃げてきたんです」


 蓮の手がかすかに震えているのが見えた。

 無意識なのか、手のひらをさすっている。


「トラウマから逃れられなくて……」


「何があったんですか? あ、言いたくないならいいんです。でも、話した方が楽になるかもしれないから私でよかったら……」


 明日花は自分の失態を芙美に話して落ち着いたし、客観的に見ることができた。


「……」


 蓮が無言で起き上がり、ソファに腰掛けた。


「聞いてくれますか?」

「はい!」


 明日花は蓮に勧められるまま、ソファの逆側に腰掛けた。


「あの、手、痛いんですか?」

「えっ」

「ずっとさすっているので……その、傷があるし……」

 

 遠慮がちな明日花に蓮が苦笑する。


「不安なときに、ついしてしまうんですよね……。さすると少し落ち着くので……。もう痛くないです」


 蓮が大きな手を広げて見せてくれた。


「あっ……」


 蓮の手のひらには痛々しい傷跡があった。


「割れたグラスを握ったんです」

「なんでそんな……!!」


 想像するだけで痛い。


「更紗さんに好意を寄せられて、つきまとわれたと話しましたね」

「はい」


「最初は自分だけで解決しようと思ったんですよ。話をしたいと更紗さんに言うと、当時働いていた病院の院長室の応接間に呼び出されたんです。更紗さんはお父さんの秘書的な仕事をしていたので、変に思わなかったし、大勢が働いている病院内ということで油断していました」


 明日花はごくりと唾を飲み込んだ。


「相手が自分よりずっと小柄な女性ということもあって、ストーカーと二人きりになるという危険性に考えが及ばなかったんです」

「な、何があったんですか?」

「薬を盛られました」

「え……?」

「出された紅茶の中に、無味無臭の睡眠薬が入っていたんです……」


 当時のことを思い出したのか、蓮が苦しげに顔を歪める。

 明日花はごくりと唾を飲み込んだ。

 飲み物や食べ物に睡眠薬を混ぜて女性を暴行するという手口は知っている。海外のドラマや映画でもよく見かけるシーンだ。


「それで……紅茶が苦手になったんですか?」


 部屋に上げたとき、蓮は紅茶を断り緑茶にしていた。

 紅茶と緑茶は発酵度が違うだけなので、違和感があったのだ。


「よく覚えていますね。そうです。それ以来紅茶が怖くて飲めなくなってしまって……。別に何にでも危険性があるのに」


 だが、トラウマというのはそういうものだ。理屈ではない。

 明日花はイケメンの男性を見ると、反射的に警戒してしまう。

 サッカー部だったと聞くと、警戒度が上がる。

 ひどく傷つけられた経験があると、特定のキーワードや状況に、本能的に備えてしまうのだ。


「話しているうちに頭がぼうっとしてきてヤバいと思って、グラスをたたき割って握りしめました。……院長室は最上階にあって人が滅多に来ないんです。そして、後からわかりましたが、院長は講演のために不在でした」


 蓮は手をぎゅっと握りしめている。

 あまりにつらそうで、明日花はいたたまれなくなった。


(でも、我慢だ……。蓮さんは今、トラウマと向き合っているんだから)


「かなり強く握ったので、出血が激しくてそれで更紗さんが怯えてしまって人を呼んだんですよ。だから、手を怪我しただけだったんですが……あのまま意識を失ったらどうなっていたのかわかりません」


 声が消え入るように小さくなっていく。

 それでも蓮は自分を奮い立たせるように、明日花に微笑みかけた。


「薬が抜けたあと、情けなくて……。油断していた自分が……。もちろん、院内でも噂になって、皆の視線が僕を嘲笑っているようで……」


「情けなくなんてないです!!」


 明日花は思わず叫んでいた。


「蓮さんは被害者です!! 悪くないです!!」

「でも相手はか弱い女性で、僕は鍛え上げた男なのに……」

「性別なんて関係ないでしょ!! 一緒でしょ、男も女も若いとか何も関係ない!

薬をもられるなんてそんな暴力を振るわれたら、誰だって怖いし悲しいですよ!」


 明日花の剣幕に、蓮がびっくりしたように固まってしまっている。


「す、すいません、怒鳴ってしまって……」

「いえ……」


 蓮はゆっくり首を横に振った。


「こんな話をしたら、きっと明日花さんに軽蔑されるって思ってて」

「しませんよ!! 何言ってるんですか!!」

「……ですよね。明日花さんに失礼でした」

「いえっ、私も同じです。勝手に蓮さんのことを『イケメンの超リア充ハイクラス男性』ってカテゴライズして、趣味を馬鹿にされるんじゃないかって……」


 それはある意味、相手をあなどっているに他ならない。


「お恥ずかしいです……」

「いえ、明日花さんもつらい思い出があったから重ねてしまったんでしょう? 昨日のあの岳人くんとか……」

「そう! あいつ、サッカー部だったんですよ!!」


 明日花は思わず勢い込んでしまった。


「な、なるほど。それで僕がサッカー部って言ったときに複雑な表情になったんですね」

「私のことはいいです! それよりも問題は更紗さんです!! 今度こそきっちり対処しましょう!! 手伝います!!」


 勢い込んだ瞬間、ぐーーーーっとお腹が派手になった。


 明日花が顔を赤らめると同時に、蓮のお腹がぐるぐるぐると獣のようにうなり声を上げた。


「……僕、朝から何も食べてなくて」

「私もです」


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