第26話:ピンチヒッター

(え……なんで?)

(どこかで落とした?)


 鍵には大きめのキーホルダーをつけている。落としたら気づきそうなものだ。

 明日花あすかは必死で記憶を辿った。


(あっ……)

 駅ビルのカフェでスマホを探してバッグをあさったときのことを思い出す。


「もしかして……!」

 慌てて店に電話すると、落とし物としてレジで預かっていると言われた。

(よかった……やっぱりあのときソファに落としたんだ)


「これから取りにいきます」

 スマホを見ると、21時34分だった。


 これから渋谷に行けば22時過ぎには着くので、23時の閉店時間には間に合う。


(でも、疲れたな……)

 仕事帰りに渋谷に直行し、店を梯子はしごして重い荷物を持って歩き回った。


 そして、雨に降られてずぶ濡れだ。

 本来なら、帰宅後すぐにシャワーを浴びてのんびりする予定だった。

(部屋に入れないから仕方ない……)


 そのとき、エレベーターかられんが降りてきた。


「あれっ、明日花さん! 今帰りですか?」

「あ……蓮さん……」

 本当に彼とはよく遭遇する。


「ずぶ濡れじゃないですか!」

 近づいてきた蓮が驚いたように声を上げた。


「早く部屋に入って着替えないと!」

 気遣ってくれる蓮の言葉に、ふっと張り詰めたものがけた。

 涙ぐみそうになって、明日花は慌てて気を引き締めた。


「鍵を落としてしまって、部屋に入れないんです」

「ええ!? 大変じゃないですか! 交番には届けましたか?」


「預かってもらっているので、店に取りにいくところです」

「どこへ?」


「渋谷の駅ビルです」

「渋谷? 今からですか? ……ここからだと30分くらいですね。往復1時間以上、そんな濡れたままじゃ風邪ひきますよ!」

「大丈夫です」


 明日花は笑顔を作ろうとして失敗した。

 どんどん体温が下がり、疲れも自覚していく。


「とにかくタオルを貸しますから!」

「……ありがとうございます」


 正直、ずぶ濡れで困っていたので遠慮なく借りることにする。


「ちょっと待っててくださいね!」

 ドアの中に蓮が消える。


(いつも助けてもらってばかりだな……)

 中でバタバタする音がし、蓮がタオルを手にすぐに出てきた。


「ありがとうございます」

 タオルで顔や首周りをふき、明日花はぶるっと身体を震わせた。

 髪と服が濡れているせいか、どんどん冷えていく。


「……寒いでしょう? 気化熱で想像以上に冷えますよ」

 心配げに蓮が顔を覗き込んでくる。


「落とし物は僕が取りに行きます」

「え?」

 呆然とする明日花の前で、702号室のドアが開かれた。


「明日花さんは僕の部屋で休んでいてください。洗面所にバスタオルと着替えを用意しました。あ、部屋着は新品ですから安心してください。サイズは大きい思いますが一時しのぎですので」


 蓮がてきぱきと話すのを、明日花はただ見つめることしかできない。


「ドライヤーは洗面台にあります。シャワーの使い方はわかりますよね? 男の部屋に入るのは抵抗があるかもしれませんが1時間以上かかりるので、その間にシャワーを浴びて、しっかり髪を乾かして、服を着て待っていてください」


「あ、あの……」


「つきあたりのリビングにソファがあります。暇だったら適当に本を読んだり、テレビを見たりしていてください。冷蔵庫にあるものは何でも飲んだり食べたりしてもらっていいので」


「いえ、そんな……悪いです! 留守中に家にあげてもらうなんて」

 明日花はやっと口を挟むことができた。

 こんな出会ったばかりの人間を信用できる蓮に驚く。


 だが、蓮はきっぱりと言い切った。


「遠慮している場合じゃないです。肺炎になったりしたら大変ですから。店には代理の者がいく、と電話をしてもらえますか」

「……」


 明日花は涙が込み上げるのを必死で堪えた。

 クタクタで足はパンパンにむくみ、寒くてつらくて情けなくて泣きそうだった。


「……お言葉に甘えてもいいでしょうか?」


「もちろんですよ! むしろ心配なので僕に行かせてください。念のため、連絡先を交換しましょう。何かあったら電話しますし、明日花さんもしてください」


 明日花はうつむいたまま、蓮と連絡先を交換した。


「じゃあ、中に入ったら鍵とチェーンをかけてくださいね。鍵は持っていきますが、帰ってきたら、まずインターホンを鳴らしますから」

「はい……」


 どこまでも細やかな気遣いができる蓮に明日花は感動さえ覚えた。


「では、いってきます」

 蓮は明日花を安心させるように微笑むとエレベーターホールに向かった。

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