第18話:気になる彼女

「じゃあ、叔父さんお疲れさま」


 れんは白衣を脱ぐと、じゅんに声をかけた。


 逢坂おうさか整形外科内科クリニックの受付は18時までで、診察はだいたい19時には終わる。


(毎日、定時に出退勤って楽だな……)


 蓮は研修医として地元の基幹きかん病院にいた頃のことを懐かしく思いだした。


(当直、キツかったな……)


 朝から勤務して、そのまま明け方までずっと働きづめ。

 地元では救急外来がある病院は多くない。


 なので、夜間に外来に来る患者は多い。一晩で100人以上診察したこともある。


 研修医なので大したことはできず、とりあえず薬を出したり点滴をしたりと急場をしのぎ、朝に外来が開いたら改めて専門医の診察を受けるよう言うことが多かった。


(毎日が飛ぶように過ぎていった……)


 大学を卒業し、医師国家資格を手にしてからの5年間はまさしく一瞬で過ぎ去った感がある。


(しんどかったけど……充実してたな……)


 毎週のように症例検討会があり、医師や看護師、技師たちコメディカルの人たちに囲まれて刺激的で学ぶことばかりだった。


(臨床現場は緊張の連続だったけど……楽しかった……)


 あのまま、地元で医師として働き続けていたらどうだったのだろう。

 つい考えてしまう。


 第一線の現場を経験し、論文を書いて、専門医の資格をとって――同期たちはどんどん経験を積んでいくのだろう。


 そう考えると胃がぎゅっと締め付けられるように痛くなる。

 のんびりとぬるま湯につかっている状態の自分に焦りが募る。


(ダメだ。過去を振り返ってもしょうがない)

(今は休むときだと納得したじゃないか)


 蓮は悶々としながらメトロに乗り、飯田橋いいだばし駅で降りた。


(晩ご飯はどうしよう……)

(自炊する気分じゃないな)

(いつものスーパーの弁当でいいか)


 飯田橋駅近くのスーパーの、五穀米ごこくまいを使ったヘルシー弁当が最近のお気に入りだ。


(穏やかな日々だな……)

 道を歩いていても、知り合いに会うことがない。


 誰も自分を知らないことが、こんなにもリラックスできるとは知らなかった。

(やっぱり上京してよかったんだよ……)


 叔父のクリニックは整形外科もあるせいか、男性患者が多い。


 看護師や受付の女性も40代、50代の既婚者なので、恐怖心をいだかずに済む。

 蓮は想像以上に新しいクリニックでの仕事にすぐ馴染んでいた。


 蓮はスーパーに入ると買い物カゴを手に取り、まっすぐ奥にある惣菜そうざいコーナーへと向かう。


(ただ、1つだけ思いがけない出会いがあった……)

(新天地ではトラブルを起こさないよう、あまり人に関わらないようにしようと思っていたのに)


 柔らかそうなカールした黒髪、猫目の明日花の顔が浮かぶ。


(明日花さん……)

(友達と会うって言ってたけど……)

(なんでこんなにもやもやするんだろう)


 原因はわかっている。

 お昼にばったり会った明日花のうきうきした顔のせいだ。


(あんな顔、初めて見た……)

 喜びが隠しきれない表情をしていた明日花が、不意に質問してきた。


(新宿に行かないですよね?って心配そうに言ってきた)

(あれはきっと、俺とばったり会うのが嫌だからだろうな)

(あれだけあちこちでバッティングしてるもんなあ……)


 驚きうろたえる明日花は気の毒だったが、正直蓮にとってあんなに女の子に嫌がられるのは新鮮な体験だった。


(俺はいつもつきまとわれる方だった)

(困惑したし、恐怖すら感じた)


(女性なら尚更だろうな)

(鬱陶しいよな……)

 そう考えると、自分でも少々ショックだった。


(友達って男かな?)

(明日花さん、美人で可愛いもんなあ……)


(いや、俺には関係ないだろ!)

(若い女性には関わらない、って決めただろ!)


「あのー、そのお弁当取りたいんですけど」

 老人に声をかけられ、蓮は弁当売り場で悶々と立ち尽くしていたことに気づいた。


「あっ、すいません!」


 考えないようにしようと思えば思うほど、蓮は思考の迷路に落ちていった。

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