絶対に自立したくないお姉ちゃんVS絶対に自立させたい私

犬甘あんず(ぽめぞーん)

第1話

 白水叶恋しらみず かれん

 その名前を聞いたら、学校の人は「完璧超人の生徒会長のことだ」と答えるだろう。智友ちゆは「乃愛のあのお姉ちゃん」と答えるだろうし、私もきっと、たった一人の大切なお姉ちゃんと答えるだろう。


 そう。

 白水叶恋は私のお姉ちゃんだ。とても、とても大切な——


「のーあー? ご飯まだー?」


 間伸びした声が聞こえる。

 この十五年間、生まれた時からずーっと聞いてきた、お姉ちゃんの声。私はコンロの火を一度止めた。


「あ、今日のおゆはんは麻婆豆腐かー。たまには中華もいいねー。やっぱり暑い時は汗かかないとだよねー、うんうん」

「……お姉ちゃん」

「なあに、乃愛ちゃん」

「お風呂から上がったらすぐ体拭いて髪乾かしてって、いつも言ってるよね?」

「そうだっけ? ごめんごめん、暑くてつい。ほら、こう暑いと髪なんて乾かしても乾かしても汗で湿っちゃってー」


 お姉ちゃんはバスタオル一枚でリビングまでやってきていた。

 床には点々と、お姉ちゃんの足跡。


 だらしない。あまりにもだらしなさすぎる。あとで床を拭くの、私だってことわかってるのかな。いや、わかってるから適当なんだろうな、きっと。

 ……はぁ。


「……せめて体はちゃんと拭いてよ。床、びちゃびちゃになってるし」

「その前にクーラーに当たらせてよー。暑いよー」


 私の話を完全にスルーして、お姉ちゃんはクーラーの下にのそのそ移動する。


 かと思えばバスタオルをソファに放って、体を震わせる。

 犬か、犬なのか。いくら家の中っていったって、全裸で過ごすのはほんとどうかと思うのですが。


 ああ、だめだ。ずっと耐えてきたけれど、もう限界だ。

 私はお玉を置いて、ゆらりとお姉ちゃんに近づいた。


「乃愛ちゃんも一緒にクーラー当たる? キッチン暑いでしょー」

「お姉ちゃん」

「はいはいー?」

「正座」

「え?」

「いいから、正座」

「え、でもでも……」

「……お姉ちゃん?」

「……はい」


 お姉ちゃんは私の前で正座をした。

 ……裸のお姉ちゃんを正座させるって、結構ひどいことな気がするけれど。


 いやいや、ここで甘くしちゃ駄目だ。たまにはガツンと言ってやらないと、このままじゃお姉ちゃんは駄目人間になってしまう。


 今だってそうだ。

 炊事洗濯掃除、果ては着替えまで。お姉ちゃんは全てを私に依存している。


 高校卒業して、私がもし一人暮らしを始めたりなんてしたら、お姉ちゃんは干からびてしまうんじゃないかと思う。


 それはまずい。ちゃんと自立した生活ができるようにしないと、本当に。


「お姉ちゃんは今、何歳?」

「十七歳だよ? この前のお誕生日、料理すごい美味しかったよ。さすが乃愛ちゃん!」

「あ、うん。ありがと。ちょっと作り過ぎちゃったけど、大丈夫だった?」

「平気平気。乃愛ちゃんの作ったものならいくらでも食べるよ!」

「お姉ちゃん……!」

「乃愛ちゃん!」


 私は思わずお姉ちゃんを抱きしめそうになった。

 ……いや、違くない?

 今はこういう流れじゃない。


 料理を褒められたことが嬉しくてついつい抱きしめそうになったけれど、ここで甘やかしたら全部おしまいである。

 私は咳払いした。


「……お姉ちゃんはもう十七歳なの。そろそろ成人なんだよ? 学校じゃ皆からも尊敬されてるし、まずいよね?」

「何が?」

「こんなにだらしない生活してるのが!」


 私はばん、とテーブルを叩こうとした。

 したけれど、やめた。

 あんまり大きい音立てたらかわいそうだし。

 じゃ、なくて!


「服も下着も廊下にほっぽってるし! 髪も体も乾かさないし拭かないし! わかるよ? 家では安心して生活したいって。でも、それには限度があるでしょ!」


 お姉ちゃんはぽかんとした表情を浮かべた。

 え、これ私が悪いのかな? いや、いやいやいや。


 どう考えてもお姉ちゃんが悪い。これはお姉ちゃんのために言っているのだ。このままじゃお姉ちゃんの将来が大変なことになってしまうのだから。


 もしお姉ちゃんが将来、誰かと暮らすことになって。こんなだらしないところを見せたら幻滅されてしまう。


 あの完璧な叶恋さんがこんなにだらしないなんて! となるに違いない。

 ずっと昔から知っている私でさえ、ちょっと引くし。


「そうだよね。ごめんね、迷惑かけちゃって。乃愛と一緒にいると落ち着いて、つい甘えちゃって。お父さんも全然うちに帰ってこないし、乃愛が私の、唯一の家族みたいなところあるから……」


 マシンガンのように放たれる、お姉ちゃんの言葉。

 ばしばし、ばしばし。


 鼓膜に言葉が降り注ぐ度に、ちくちく胸を刺激してくる罪悪感。

 う、うぅ。

 駄目だ。ここは厳しく、厳しくいかないと——


「お母さんももういないし、学校では結構肩肘張ってるから、家では誰かに甘えたいなって気持ちがあって、ね。うん、そうだよね。私ももう子供じゃないんだから、乃愛にあんまり甘えたら駄目だよね。ごめんね? これからはちゃんと、一人で……」

「……わかったよ」

「え?」

「わかったってば! 甘えちゃ駄目とは言ってないから! ほら、髪乾かしてあげるからこっち来て!」

「ふふ。さすが乃愛ちゃん! そういうとこ、好きだよ」


 やばい。

 わかってはいたけれど、私はお姉ちゃんに甘すぎる。こうやって今までずっとずるずるお姉ちゃんを甘やかしてきたのだ。


 いわばこれは、私とお姉ちゃんの戦いである。

 私にはこれまで甘やかした分、お姉ちゃんを自立させる義務がある。そして、お姉ちゃんにはこれまで甘やかされた分、これからも甘やかしてもらいたいという願いがあるのだろう。


 どちらかが完全に折れるまで、この戦いは終わらない。

 今日は私の負けだ。

 でも、次は。


 明日こそは絶対に、お姉ちゃんを自立させてみせる。

 そう、絶対に。できる、ならば。可能な限り。

 ……できるかなぁ。

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