あの男の声。今でも時々夢に見る。いや、時々ではない。眠れば必ず、夢に見る。低く、甘い声をしていた。春の夜の夢みたいな、陶酔を誘う声。

 『今から会える?』

 そう、男は訊いてきた。俺は、会えない、と言った。怖かったのだ。自分はゲイと認めてはいても、男となんらかの関係を持ったことは、これまでなかった。ひっそりと、亀が首を縮めて嵐をやり過ごすみたいに、俺は人生をやりすごしていた。その首を外に出してみるのは、明らかな恐怖だった。

 『俺が怖い?』

 男は確かにそう言った。俺の心の中を読み取ったみたいに。俺はそのとき、男のことが怖かった。でも、それを認めたくなくて、違う、と言った。

 『なら、会えるよな?』

 煽るような言い方だった。俺はそんな言い方に動揺するほど間抜けではないつもりだったけれど、そのときは駄目だった。男の声に、理性をやられていたからだ。

 『いいよ。』

 完全な強がりだった。本当は全然よくなかった。会うのは怖かったし、今でも俺は、この夜あの男に会ったことをずっと後悔している。

 男は、30分後に俺のアパートにやってきた。玄関のドアを開けるのも、俺は躊躇った。このまま追い返してしまえないだろうかと思った。ただ、俺の中にあるなにかがそうさせてくれなかった。だから俺は、住所も職場も知られてしまっていることを言い訳に、玄関のドアを開けた。

 男は平然とドアをくぐり、靴を脱ぎ、俺の肩を掴むと口付けてきた。俺は、キスをするのもそのときがはじめてだった。自分がなにをされているのか理解ができなくて、抵抗できなかった。男はそれを、了承の返事と取ったらしかった。

 『朝見た時から、ヤりたかった。』

 そんな言葉を吐かれた記憶がある。そのまま俺は、部屋の奥に敷いてある布団に押し倒された。

 『待てよ。』

 ようやく我に返り、俺は男の肩を押しのけようとした。すると男は怪訝そうに首を傾げた。

 『あんたもそういう目で俺のこと見てたくせに。』

 そういう目?

 俺は再び混乱し、その間に男は俺のワイシャツのボタンを外した。

 『見てない!』

 はっとして思考を打ち切り、男の手を払いのけようとした。すると男は低く笑い、遅いよ、と言った。

 『確かにあんたは俺のこと見ないようにしてたみたいだけど、今の間で全部台無し。』

 見ないようにしてた? そんなに分かりやすく? だとしたら俺の性癖は、そこらじゅうで露見しているのではないか?

 込み上げてきたのは、恐怖だった。そして、縋れる相手は目の前の男しかいなかった。

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