じゃあ、俺はもう行くけど。

 約束の一時間が経った後、宮本くんは白いシャツの上に紺色のダウンコートを羽織って立ちあがった。

 「お線香、上げさせてくれる?」

 言われた俺の方が、戸惑った。

 そんなことを言われるとは想像もしていなかったし、さらにいえば、そんなことを言ってくれるひとがこれまでいなかったので、線香なんて用意していなかった。俺の部屋にある仏壇は欠けているものだらけだ。きちんとした作法さえ分からないで、ただ仏具屋に行って、仏壇1つ下さい、と言って買ってきた。

 「……線香?」

 「うん。」

 「……ないな。」

 「そうなの?」

 「うん。」

 「コンビニに売ってるよ。」

 「コンビニ?」

 「うん。買って来るね。」

 猫の目をした宮本くんは、軽い動作で身をひるがえし、約束通り鍵をかけなかった玄関のドアから出ていった。結局彼は、セックスの前にカメラを探すそぶりさえ見せなかった。

 俺は布団の上に裸で座り込んだまま、脱いだスーツのポケットに入れっぱなしだった煙草を取り出し、火をつけた。

 あの男のことを、思い出す。

 たまたま知り合った男だった。運命の出会い、なんてものではない。本当に、たまたま。俺の職場のクーラーが壊れたとき、修理に入った業者があの男だったのだ。

 目で追ったとか、目があったとか、そんな覚えもない。なのにあの男は、修理が終わり、撤収していくそのとき、俺の机にメモ用紙を一枚置いて行った。そこには、電話番号だけが書かれていた。

 自分がゲイだとは、ずっと前から自覚していた。だから、ひととの関わりを避けてきた。自分の親にすらカミングアウトができない俺には、ゲイバーかなにかに出入りして男を作るなんてことは、夢のまた夢だった。

 寂しかった、のかもしれない。職場とワンルームのアパートを行き来するだけの生活が。あの電話番号に電話をかけたのは、寂しさからきた気の迷いだと思う。

 とにかく俺は、メモ用紙を人目につかないように処分するのではなく、ワイシャツの胸ポケットに押し込んで退社し、家についてすぐに電話をかけてしまった。

 『電話、してくれると思ってた。』

 あの男は、傲慢に笑った。姿のいい男だった。上背があり、筋肉質で、顔だちも整っていた。そこから来る自信が、あの男を傲慢でいさせたのだろう。

 俺はその傲慢さを、不快に思った。不快に思ったのならば、その場で電話を切ればいいのに、なぜだかそうしなかった。なぜだか、などという言い方は、嘘になるだろうか。俺は、あの男の声にやられたのだ。

 

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