第1話

 深夜〇時。東京都江戸川区篠崎。民家の明かりもなく、冷え冷えと静かな住宅街。生活音すら聞こえぬ底冷えの闇夜を、彼らは忍ぶように歩いていた。片方は灰色の外套に身を包む少年、片方は燕尾服を纏う少女。寂れた街に不釣り合いなほど端正な顔立ちをしている。


「索敵の誤差は?」


 口を開くのは少年の方だった。


「半径一五メートル程度。任務に支障をきたしはしない」


 少女は言葉の棘を裁定するかのように答える。断定的な口ぶりで抑揚のない声色を放つ彼女は、さながら慈愛の欠けた聖母であった。


「程度っていうのが気になるな。俺たちは路地にいると踏んでいるが、例えば特異点の発生が民家であったら――」


 食い下がる少年が口を閉ざしたのは、前方に赤茶けた生物が佇んでいたからだ。


「支障をきたさないと言った、だろう?」


 語尾にイントネーションを付けて、少女は口角を上げる。格式高い男装姿とも言うべき出で立ちの彼女は、歩行から停止に至る動作までもが凛と洗練されていて、さながらランウェイの様相であった。


「対象と接敵。これより任務を遂行する」


 まるで引け目を感じさせず、少年もまた毅然とした口ぶりで襟元へ言う。


 陰鬱とした夜の底で、赤茶けた生物はジッと彼らを見つめていた。地球上の生命体に喩えるなら羊によく似た輪郭である。


 だかしかし、それはエイリアンに他ならない。だからこそ彼らは呼ばれたのだ。

羊ではなくエイリアンであると断言できる決定的な違いはサイズだ。暗がりでは頭から尾までの全長は見えないが、足先から頂点までの高さで言えば成人男性ほどはあろうか。胴体から頭部に至るまで余すことなく赤茶色に染まっていて、白い瞳孔だけが鋭く二人を射貫いていた。


「臭うな」


 不意に少年が言った。


「嗅覚レベルでも毒性はないようだ」


 少女が返す。彼らの鼻腔にはパーマ剤に似た独特の臭いが届いていた。有害な化学を連想させる刺激臭には警戒する、それが彼らの世界での鉄則だ。同時に危険性がないと即座に感じ取った嗅覚と判断力も、彼らがひっきりなしに派遣されている理由である。


 ――刹那、彼らは動き出した。


 全身を巡る血管を赤く発光させた彼らは、音速もかくやのスピードで羊に詰め寄った。紅の閃光と化した二人の内、まず少女が『斬りかかった』。少女の手にはいつの間にか十字型の剣が握られていた。彼女自身の半分はある長大な剣を、まるで玩具のように軽々と扱い、羊に向けて容赦なく振り下ろす。刃と羊が接触するその瞬間、羊の胴体が爆発的に膨張した。刃は羊に深々と切り込むが、斬撃の感触はまるでない。スライムに指を突っ込んだような吸収の感触。少女は顔をしかめながら飛び退いた。


 その隙に少年は羊の背後に飛び込んでいる。傍らのカーブミラーを掴むと、グキ、と根菜のようにあっさりと鉄柱をへし折る。少年がカーブミラーを振り上げ、そして羊に打ち込む――彼の発光が増した。グンワリと羊の胴体が歪み、そして鉄柱を吸収する。少年はあっさりと鉄柱を放り投げて、少女と同様に飛び退いた。


「物理接触は効かない!」


 少年が声を張り上げた。


「分かっている」


 少女も同様の声量で答える。


「じゃあどうする?」

「俺は念動力で攻撃する。『お前』は物理ではなく念力の具現を溜めておけ」

「……『お前』と言った件は報告しておこう」


 今度は二人は動き出さなかった。しかし赤い光は何倍も眩く増している。少年は片手を羊へ向け、全身の意識を掌へ集中させた。たちまち赤光が手に集約していき、呼応するように羊の輪郭も紅の粒子で染まっていった。その刹那、羊の周囲で空間がうねった。歪んだ斥力によって、座標諸共羊のシルエットが歪んでいく。少年の念動力が、羊そのものに作用しているのだ。


 対する羊の馬鹿ではなかった。自らに働く歪な力を自覚するや否や、変形する身体に鞭打って少年に飛び掛かった。その巨体からは想像も付かない俊敏さであった。赤き念動力に全神経を費やしていた少年にとって、それは意識の不意を突かれたも同然。羊が彼のすぐ傍を通り抜けた直後、少年の側頭部が頭皮ごとめくれ上がった。毛髪も皮膚も剥がされて、血の滲む頭肉が露出する。


 ――髪の毛を食べにくるタイプの羊か……!


 側頭部を抉られた少年は、咄嗟に傷口を抑えて振り向く。既に彼の体からは赤光が消えている。暗がりの中で、羊は少年の頭皮を咀嚼しながらじっと睨んでいた。思わぬ速度、思わぬ攻撃。少年はチラリと背後に目をやる。『溜め』に注力する少女の光が、十字の剣に集中している。


 息を吐き出して視線を戻したそのとき、赤茶けた生命体が肉薄していた。


 無音の接敵。刹那の機動。敵の瞬発を、少年は読んでいた。


 不意に羊の動きが止まる。その足に、赤い粒子をまとったアスファルトが食らいついている。少年の念動力が地面を抉り上げ、羊の足元を食い止めていたのだった。


「今だ!」


 少年が声を張り上げるのと、剣を携える少女が駆け出すのは同時だった。


 深紅に煌めく巨大な刃が、羊の胴体を貫いた。天高く突き上げられた切っ先は夜空をも穿つ。さながら神話。さながらキリストの絵画。芸術性をも孕む珠玉の一撃は、羊を絶命させるに余った。


「任務完了。これより帰還する」


 首元に囁くのは、凛とした少女の声だった。


「じゃあ後始末は任せた」


 捨て台詞を残して去る少年の背中へ、少女は「おい」と告げる。


「私のことを『お前』呼ばわりした件、まだ片付いてないぞ」

「……だったら決着付けるか?」


 赤く光る眼で、少年は彼女を睨んだ。風が吹いて、グレーのロングコートがさざめく。少女もまた凛然と相対する。夜の底で静謐な睨み合いが火花を散らさんとした――が、先に緊張を解くのは少女の方であった。


「顔面を血塗れにしておいて凄むな。我々はいつだって同胞を望んでいる」

「同胞、ねえ……」

「歓迎するぞ、お前のこともな」


少女はニヤリと笑って見せた。

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