15分

第1話

 暮れなずむ川面に揺蕩う光の粒が反射した。視界が眩しく覆われた刹那、俺の真横に何かが落下してくる。隕石さながらの衝撃を放ったそれは、大きく弾みながら堤の下方へ転がって行った。


「すいませーん!」


 遠くの方で野球帽を被った少年たちが頭を下げている。河川敷のグラウンドでは少年野球のチームが試合をしていて、ファウルボールだかホームランボールだかが飛んで来たのだった。


 俺は小さく手を振り返したが、彼らに見えたかどうかは分からない。小さな選手たちはすぐに試合に戻っているから気にしている風ではなかった。


 東京の河川においては都心から外れるほどに堤防が広くなっている。隅田川なんて申し分程度の散歩道があるくらいだが、荒川や玉川の方へ行けば野球やらサッカーやらのグラウンドが整備されているし、勾配の強い九十九折りの坂道では若者がスケートボードに乗っている。俺も若者には違いないのだが、スポーツに興じる世界に住んではいなかった。


 十一月も下旬だというのに暖かい日が続いていた。長袖のTシャツの薄手のジャケットだけで事足りるのだから、冬と呼ぶには一抹の抵抗がある。便宜的な秋がダラダラと続いて気が付けば日曜日の夕方になっている。ため息が出た。傍らに置いた麻のトートバッグからスケッチブックと鉛筆を取り出す。眼前の風景、光の粒子、水面、アスファルト、少年野球。目に見えるものを虚構を交えながら書き起こして、絵になるのならそれで良いと思った。ならないのなら、今日も俺は何ひとつとして生産できないままになる。


 休日の夕方に足繫く河川敷に通っていると、俺と似たようなルーティンを辿る人々がいることを感じ取るようになった。タンクトップ姿でランニングする色白のおじさん、柴犬を散歩させるサンバイザーを被った中年女性、トランペットを吹く少女、ぼんやりと堤防に腰を下ろす虚ろな目の男。俺から見る世界では、俺たち全員に無言の連帯感があって、休日の夕方の河川敷には独特のコミュニティが構築されている。互いが互いのパーソナルを知らないまま、付かず離れずの距離で共に過ごすのは悪くない心地だった。例えばいま大地震が起こったとして、俺は真っ先に彼らと手を取り合って生き抜くのだと思う。


 スケッチブックの中の川に陰を落としていると、不意に頭上から声がした。


「今日も絵ですか?」

「はい。他にやれることもないんで」


 声の主は俺の隣に腰を下ろす。1メートル程度の距離。彼女は無言の連帯感を破って会話を交わす唯一の仲間だった。俺がここで絵を描くとき、彼女は決まって一眼レフカメラを構えていた。写真家、と便宜的に呼んでいるものの、俺と同じでその道のプロではないのだろう。


「この前も同じようなやつ書いてなかった?」

「だってここから見える景色同じなんですもん」

「じゃあ時間とか場所とか変えてみたらいいじゃん」

「なんかモネみたいですね」

「モネ?」

「画家の人です。同じ題材を時間とか場所とか変えて何枚も描いたっていう」

「あーなるほどね。そしたらいいじゃん、君も夕日とか月とか描きなよ」

「夕日はいいかもですね。どうせ夕方なんで」

「ん。夕暮れはさ、陽が落ちてから十五分後が一番綺麗なんだよ」

「そうなんですか?」

「まあ日没がいつかは分からないけどねー」


 彼女は笑い飛ばすでもなく、かといって真剣な目をするでもなく、平淡な調子のままだった。他人同士で負う責任感として最も適切だと思った。

 シャッターを切る音がした。彼女が肩から下げる一眼レフカメラを空へ向ける音だった。雲一つない高い高い空を撮って、それが最後にどんな意味を持つのだろう。


「何もない」


 画面を見ながら彼女が言った。


「空がありますよ」

「空しかない」


 分かり切ったことを、とは思わなかった。何もないものに、それでも何かがあるはずだと期待を抱く感覚は痛いほど分かるからだ。俺たちは何者でもない自分をなによりも恐れている。自分に何かの文脈を求めて、俺は絵を描くし彼女は写真を撮る。それ以外の文脈を互いに知らないまま。

 遠くの方でカキンと心地よい音が聞こえた。顔を上げると少年の打った野球ボールが空の奥へ吸い込まれそうになっていた。彼女がカメラを構えて素早くシャッターを切る。俺は咄嗟にボールを描きいれる。どこかに落下したボールに向けて、少年たちが「すいませーん」と頭を下げる。

 スケッチブックの中で、野球ボールは歪に大きく存在していた。今まで少年野球を描き込むことはなかったからか、まるで手紙の中の書き損じみたいな異物感を孕んでいる。


「なにもない?」


 彼女が訊ねた。


「なにもない、と思う」

「私も」


 空は橙色に染まっていた。十五分が経っていたのだ。

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15分 @ZUMAXZUMAZUMA

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