第9話 うるさいけど心地いい
「社長!」
慌てたような声がする。頭がふらふらするが、目はちゃんと見えている。中谷が、自分の体を支えて覗き込んでいるところだった。
「大丈夫ですか!?」
「ああ……ごめん。ちょっと、体調が」
大声を聞いて異変に気付いたのか、扉が開いて東野が飛び込んできた。床に倒れこんでいる俺を見て、東野がすぐに駆け寄ってきた。
「社長!」
「あー大丈夫。ちょっと眩暈」
「だから働きすぎですよ! ここ最近、あまり寝ていないでしょう? 病院へ」
「大丈夫、多分横になれば治る。申し訳ないけど東野、家まで送ってほしい」
「それはもちろんですが……」
そこまで言いかけて、彼が黙り込む。そして、そばにいた中谷へ声を掛けた。
「中谷さん、もう今日は上がる予定でしたか?」
「え? はい。帰りに社長室に寄ってきたんですが」
「丁度良かった。社長の家へ付き添いを頼めますか」
「え!?」
驚きで声を出したのは自分もだ。東野には送るよう頼んだが、彼女には何も言っていない。なぜそうなるのか。
だが、東野は当然とばかりに答えた。
「社長は後部座席に横になってもらいます。私は運転をしなくてはならないので、その間急変しないか、誰かに見ていてもらわないと」
「ああ、なるほど。そういうことでしたら、大丈夫ですよ。私が付き添います」
「ありがとうございます。すぐに車を回してきます」
東野は俺の体を起こしながら、そう言った。
自分が暮らすマンションに入り、寝室のベッドに転がる。中谷が落ち着かない様子でそわそわしていた。そりゃ、自分が働いてる会社の社長の家に入る機会なんてそうそうない。しかも、男の一人暮らしだ。珍しい出来事に緊張もするだろう。
その時遠くから、東野の声がした。
「あ! またちゃんとした食事も取ってないでしょう! 冷蔵庫が空っぽですよ。社長はご自身のことを後回しにするんだから……」
ぶつくさそう文句を言った後、ひょこっとこちらに顔を覗かせた。
「申し訳ありませんが中谷さん。私は食べ物などを買ってきます。こちらで社長を見ていて頂けますか。帰りは家までお送りするので」
「はい、私は構いませんが」
「ありがとうございます。すぐに戻ります。社長、気分はどうですか」
「今は落ち着いた」
「よかったです。適当に何か買い込んできます」
東野はそう言い終えた後、どこかにやりと笑った……気がした。そのまま彼はマンションから出て行ってしまう。残された俺と彼女は、やや気まずい沈黙を流しながらも、静かに会話を交わした。
「えっと社長、着替えますか? 今辛いなら、とりあえず上着だけでも」
「ありがとう。そこの隣がウォークインだから、適当にかけておいて」
素直に上着を脱いで彼女に預けた。そして自分はまたベッドに横たわる。眩暈は一時的なものだったようで落ち着いているが、腹部に痛みを感じ、そっと手のひらを置いた。
「お腹が痛むんですか?」
そんな声がしてぎょっとする。小さな動きだったのに、しっかり見られていたようだ。中谷は俺の手を見ている。
「ああ……でも大丈夫。原因は分かってるから」
「何か食あたりでも?」
「違う。……子供のころから、ビーフシチューを食べるとお腹が痛くなるんだ。昨日は大丈夫だったから、もう症状は出ないかと思ってた」
苦笑いをして言った。言うのが恥ずかしいと思った。
原因は分からないが、昔からそうだった。味もあまり好きではないし、そういう体質なのだろうか。ビーフシチュー以外ではそんなことはないのだが。
中谷は目を丸くして訊いてくる。
「じゃあ、何で食べたんですか?」
「……せっかく用意してもらったから」
「……ふふっ」
小さな笑い声がしたのでそちらを見ると、彼女が目を細めて笑っていた。だがすぐに、慌てた様子で口を閉じる。
「すみません。あの、社長って結構いい人なんだなって思って。正直、先日公園で会った時はあまりいい印象を抱いてなかったんです」
「ほんとに正直だね」
「ご自分でも見下してた、っておっしゃってたじゃないですか。伝わってきてましたよ。他人のために後先考えず上司に突っかかって、職を失った愚かな人間だなって思われてるなーと」
「……ははっ」
今度はこっちが笑う番だった。全く間違えていない。だが普通、上司相手にそうも正直に言うだろうか?
ならばこっちも正直に言う。そう思って答える。
「正解だね。まさにそう思ってた。大事な友人がいるのは素晴らしいことだけど、普通あんな言動はしない。血のつながりもない人間を、よくそんなに大切に思えるね?」
「どうしてですか? 人を大切に思うのに血のつながりなんて関係なくないですか? 血がつながっていたって無関心な人はいるし、そこは重要じゃないと思います」
不思議そうに返してきたのを聞いて、一瞬呼吸が止まった。
あまりに正論だった。でも今までその正論を言ってきた相手はいなかったし、聞きたくないとも思っていた。
ーー子供がビーフシチューで体調を崩すことすら知らない親だって、この世にはいる。
好きの反対は嫌いではなく、無関心なのだと、どこかで聞いたことがある。
そうか、俺はだからこの人を雇ったのか。単に眩しくて珍しかったのだ。誰かのことを想い、自分の立場も考えずに守ろうとするその姿勢が。
「それより社長、お忙しいのは分かりますが、きちんと食べて寝ないと! 寝てない上に、普段はちゃんとした食事もせず、その上体に合わない料理を食べるだなんて、倒れるに決まっています。さ、寝てください。起きたら東野さんが買ってきてくれる差し入れをちゃんと食べるんですよ! 神園を立て直した凄い人が、こんな風に倒れるなんて。あと寒くなってきましたからあったかくするんですよ。普段、シャワーばっかりじゃなくて湯舟に入ってますか?」
口うるさく小言を並べる。その姿は部下というより、一般的に見る母親や、近しい友人、はたまた恋人のような姿に見えた。眉尻を下げて延々と説教を垂れるその姿を見て、なんだかおかしくなりまた笑ってしまった。
うるさい。めちゃくちゃうるさい。でも不思議と心地いい。
なぜかは分からないが、その声はまるで子守歌のように穏やかな気持ちになった。まだ会って間もない、さらにはお互い印象は決して良くなかったはずの相手なのに、なぜこんなことになっているんだろう。
だが自分はすぐに、考えることを放棄した。いつの間にか瞼が閉じ、夢の中へと入って行ってしまったからだ。
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