初恋を知った彼の愛は重め。

橘しづき

月乃の怒り

第1話 許せない状況



 こんな状況、許せるはずがなかった。




 私は拳を握りしめ、ぶるぶると震わせながら立ち尽くす。目の前には、目に涙をいっぱい溜めて俯いている同期の由真が座っていた。普段はきっちり結んである髪が、今日は無造作に広がっており、目も腫れぼったくなっている。彼女は無言でデスクに腰かけたまま、呆然としていた。


「なんで由真が……クビなの?」


 自分でも驚くほどの低い声が出た。


 これほどの怒りを覚えたのは初めてかもしれなかった。一緒にこの職場に入り、仲良くし続けた由真。お互い切磋琢磨し、気が付けば二十九歳を迎えている。どちらかと言えば私は気が強くて男勝り。一方由真はおっとりして可愛らしい感じ。パッと見正反対の私たちだが、とても仲がよかった。


 そんな由真が突然、クビ宣告をされた。


「何を言っても駄目なんだな、って……分かった。月乃はこれからも頑張ってね。社外でまたご飯でも行こう」


 そう悲し気に笑ったが、私は納得など出来ていない。


「部長は何してんの? ちゃんと話したんでしょ!?」


「話したけど……さすがに出来ることがないんだよ。部長も自分の立場があるだろうし」


「そんなのめちゃくちゃじゃん!」


 苛立ちを隠せず頭を強く掻いた。肩までの黒髪が揺れる。頭皮に痛みを覚えつつも、私は続けた。


「上司にもずっと相談してたじゃん! なのに何の対処もしなかった挙句、由真がクビになるなんて」


 そう声を荒げた時、背後からわざとらしい言い方で声が聞こえた。


「あれ~近藤さん、いなくなっちゃうんすかー。寂しいけど、まあしょうがないねー。その年だし、嫁ぐにしても今から必死になって相手探さなきゃだね?」


 振り返ってみると、にやにやした顔をした男が立っている。土井光孝だった。頬には大げさなガーゼが貼られている。その顔を見た途端殴りかかりたくなるのを、由真が小声で抑える。


「月乃! いいから、もうほっとこうよ」


「でも……!」


「こえー。暴力振るわれないようにいこーっと」


 土井は笑いながらそう去っていく。その後姿を見て、ただひたすら怒りに燃えた。





 数か月前、土井光孝が中途採用で入ってきた。私たちより確か三つ年下の二十六歳。


 噂によるとうちの社長の甥っ子だそうで、他の会社に就職していたものの、うちに転職してきたそう。理由は、あいつが問題を起こしただとか、単に仕事内容が気に入らなかっただからだとか、様々な憶測が流れていた。


 社長は自分の妹、つまり土井の母親には頭が上がらないとかで、その息子である土井もあまり敵に回さない方がいい、と言われていた。


 そんな土井は、本当に仕事をやる気がなかった。


 出来ない、じゃなくてやらないタイプ。少しでもめんどくさいものは周りに押し付けて、本人は遊んでいる。でも手柄だけは自分のものにしたいという、最悪のタイプだった。


 周囲のみんなはイライラを募らせたが、社長と血のつながりがあるということで、誰も何も言えずにいた。


 しかし土井のもっとも厄介な部分は、由真に目を付けたということだった。


 由真は女性らしくて明るく、誰にでも好かれる素敵な子だ。入って早々由真に話しかけ、執拗に食事に誘ったりしていた。でもあんな仕事ぶりの男に由真が惹かれるわけもなく、理由をつけては断り続けていた。


 だが、誘いはしつこく、次第に強引になっていた。『俺と付き合えば昇進するかも』『その年じゃ貰い手ないでしょ、年下の男と付き合えるってラッキーだと思わないの?』『素直になっておいた方がいいよ。伯父さんに言っちゃうかも』


 脅しともとれる発言が続き、私は由真と共に上司に相談した。上司は話を不憫そうに聞いてくれ、『注意してみる』と言ってはくれたものの、相手が相手なだけに、恐らくやんわりとした注意しか出来なかった。


 土井の行動は止むことなく、ついにはある夜、由真を待ち伏せしてホテルに連れ込もうとする。


 普段なるべく由真と帰るようにしていた私は、体調を崩して欠勤していた。いいタイミングだとあいつは思ったのかもしれない。


 当然由真は拒否。暴れるようにして土井を突き飛ばし事なきを得たが、その代わりあの男のとんでもない仕返しが待っていた。由真が解雇されたのだ。


 理由は土井に暴力をふるって怪我をさせたこと。あいつの頬には大きなガーゼが貼ってあるが、多分中身は猫に引っ掛かれた程度のひっかき傷ぐらいしかないと思う。


 こんなのめちゃくちゃだと周りの人たちも不憫がった。土井の言動はみんな気づいていたから。でもやっぱり、怖くてみんな動けないみたいだ。


 上司も結局、困り果てておどおどしたまま何もしてくれない。


「土井が社長に嘘並べたんだよきっと! 由真は完全に被害者じゃん! ちゃんと説明した方がいいって!」


「でも社長なんて中々会えないだろうし……言っても無駄な気がするよ。土井くんの話しか聞いてないのにすぐ解雇なんて出来ちゃう人だよ」


「それはそうだけど、このままじゃ!」


「いいよ。これで解雇が免れても、今後が怖いから。私は他の仕事を見つける方が平穏に済むと思うの」


 彼女の言いたいことも分かる。クビが撤回されたとしても、同じ職場に土井がいる限り嫌がらせは続くだろう。女性としてあまりに恐ろしい。本来なら土井を追い出せれば一番いい終わりなのだが、こんなめちゃくちゃな処分をする社長が、そんなことをしてくれるとは思えない。


 ……でも、


 黙っていられない。


 私が由真に背中を向けて歩き出そうとしたのを、彼女が腕を掴んで止めた。


「月乃、そんな顔してどこ行くの!」


「社長に直訴する。このままじゃあまりにひどい」


「気持ちは嬉しいよ。でもそんなことをしたら、月乃の立場が悪くなるだけだからやめなよ! 月乃はまだ働き続けるのに」


「そんなのしったこっちゃない!」


「わ、私が自分で」


「由真の話はきっとまともに聞いてくれないよ、はじめから嘘だって思われるにきまってる。第三者の私が言った方が聞いてもらえるかもしれない!」


 私が大きな声でそう言うと、近くから慌てた様子で駆けよる男性の姿が見えた。一つ上の先輩、春木先輩だった。


 普段から仕事も出来るし、優しくて頼りがいのある人で、よく話したりしている人だ。由真の相談にも乗ってくれたことがある。


 春木先輩は声を顰めながら私に言った。


「中谷! 落ち着け、怒鳴り込みにでもいくのか?」


「社長と話してきます」


「待て待て落ち着け。まず社長になんて俺ら平社員はなかなか会えない。それに、まずは冷静になるのが大事だ。怒るのはよく分かるけど、でも中谷の立場まで危うくなるかもしれない」


「だから何ですか? このまま黙って保てる立場ならいらないんです」


 私が低い声できっぱり言うと、春木先輩は黙った。私は由真の手も振り払い、そのまま走り出した。

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