大人の時間

 3年4組の伴奏をする生徒が怪我をしたと聞いたとき、これは困ったと思った。しかしすぐに「怪我の心配をする方が先だ」と反省した。


 経験を重ねてもなかなか『学校の先生』になりきることはできないな、と玲子れいこは思う。


 今年は久しぶりに合唱コンクールが開催されて保護者も参観するので、クラス担任たちもあたふたしている。臨時講師の受け持つ授業も増え、彼女も前年より忙しい。


 そんななか、伴奏を担当していた子が怪我をしてしまった。


「すみません」と涙ながらに頭を下げる生徒を責めることなどできない。せっかく腕前を披露できる機会だったのに、この子だって悔しいはずだ。


 問題はそのあとに、「大丈夫大丈夫、代わりにできる子がいなかったら先生がやるから」と勢いで言ってしまったことだ。言った後に、4組の選択曲が伴奏が難しいことで有名なものだったと気付いた。


 そうして、他にピアノができる子はいなかった。


 別のクラスの子に伴奏だけ頼もうにも曲の難易度がそれを許さない。もう一人の音楽担当教師も自分の受け持つクラスで手一杯。


 最悪の場合はCDを流すことになるが、4組だけ伴奏がないというのはいかにも寂しい。何より怪我をした生徒を落ち込ませてしまう。保護者だって変に思うだろう。あの子のためにもそれは避けたかった。


 そうなると、もう自分が演奏せざるを得ない。


 とは言え、玲子はそもそもがギター奏者であって、ピアノは教養程度にしか勉強していないのだ。これまで似たようなことがあっても何とか凌いできたが、今回は付け焼き刃が通じるのか、全く自信がなかった。


 自宅のキーボードで運指練習はしているけれども、本物のピアノとは音も感触も違う。せめて本番と似た環境で練習しなければならない。


 学校と夫に頼み込んで、コンクールの間、放課後に音楽室を使う許可をもらった。遅い時間にしたのは、授業や吹奏楽部の邪魔をしないためと、3年4組の生徒たち、特に怪我をした子に気を遣わせないようにこっそり練習するためだ。余計なことを考えると合唱の練習にも身が入らない。


 11月も半ばを過ぎるとかなり寒い。無人の音楽室は暖房の効きも悪いし、温まるのに時間もかかる。それに、無理を言って借りているのでエアコンをつけるのには抵抗があった。だからといって暖房なしに演奏できるわけでもないので、別の部屋から灯油ストーブを借りた。これなら電気代と違って燃料費は自腹で出せるから、学校側に気を使わなくて済む。


「これは厳しいかなぁ」と、薄暗い音楽室で独りごちて、彼女はため息をついた。


 どうも左右の手を重ねるところでつっかえてしまう。5割程度はなんとか流して弾けるが、本番までに格好がつくのかはあやしい。今からでも知り合いのツテを使って個人レッスンを受けるべきだろうか。年末が近く、ふところも教室に負けず劣らず寒いのだが。


「先生って大変だな」


 鍵盤で冷えた指をストーブで温めながら、また誰ともなくつぶやいた。上手くいかないと独り言が多くなる。


 その時、音楽室の防音扉が開いた。


 彼女は驚いて顔を向けた。


「……藤原さん?」


 彼女が受け持っている、1年10組の女生徒だった。


「どうしたのこんな時間に。早く帰らないとだめでしょ」


「先生こそ、こんな時間にピアノなんて弾いたら幽霊と間違えちゃうでしょ」


 女生徒は少し唇を尖らせてピアノの前、彼女の隣までやってきた。


「さっきの手をクロスするところ、人差し指でやってないですか? それだと追いつかないから、動かしながら薬指で叩いた方がいいですよ」


 器用に手本を見せる。


「あら」


 玲子は驚いた。1年10組の伴奏をしているのは別の子だ。こんなに滑らかに指を踊らせることができるなんて知らなかった。


「あなたピアノやっているのね?」


「去年までやってました。いまはやってないです」


「勿体ない、すごく綺麗なのに」


「それは……ありがとうございます。でも、いまは科学の方が面白いです」


 そういえば3階の理科室近くで見かけた気がした。科学研究部に所属しているのだろうか。


「そう。残念」


「それで、どうしますか」


「どうって?」


「困ってるんでしょう? 私、その曲なら教えれます」


 玲子はまじまじと奏美を見つめた。意外な申し出に驚いたと同時に、なぜ困っているのを知っているのか不思議だったのだ。


「私、友達に名探偵がいるんです。それに、にさっき聞きました。怪我をした人の代理で演奏するために、こっそり練習しているんでしょう?」


 二重の驚きだった。彼女の夫のことを知っていて、どうやら裏取りまでしている様子だ。


「あらら、バレてたの。でも、誰にも言わないでね」


「言いません」奏美はむすっと答えた。子供だと思ってみくびらないでほしい、と顔が語っている。

「本当は確認だけって思ってたんですけど、練習捗ってなさそうだったし……。どうしますか」


「ありがとう。それじゃお願いしていい?」


 奏美は頷いて、玲子の隣に座った。


「あとで親御さんにちゃんと連絡して家まで送るからね」


「はい。ありがとうございます」


「こちらこそ。正直、とても助かるわ」


 奏美は鍵盤に指を置いたまま、玲子の顔を見た。だって? 大はずれじゃない!


「私、先生のこと誤解してました。てっきりもっと、その……怖い人かと」


 玲子はほがらかに笑った。


「授業するときはどうしても、ね。真剣にやらないと、真面目にやっている他の子にも失礼じゃない? まぁ私は見た目もキツく見えるらしいし……実は優しい先生だっていうのは、その名探偵も見抜けなかったかな?」


 奏美も笑顔になって返事をした。


「いえ……もう一人の探偵は見抜いてました」

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