蒼紅奇談
退魔師 凱
「いいかげんにしろ!」
吹く風が涼しくなった晩秋の日中のこと。紅くなった木葉が地面に積もり、風に吹かれてさらさらと音をたてる。
ある集落の丘の前だった。
そこには、若い女を人質にした鬼がいた。鬼と女の周りには人垣ができて、鍬をもった村人や鎌を構えた女が鬼を囲んでいる。
凱は紺色の着物の裾を大きく払って、手を腰の刀にかける。
鬼は中の食料を散々あさってむさぼり食った。村人から連絡を受けた凱は、そこを突き止めて集落の端にある丘の前まで鬼を追い込んだのだ。
鬼は人間とはまったく違う容姿で、顔中に皺が寄り、緑色をしていた。
そして、鋭い透明な爪を女の首すじへあて、凱をけん制していた。
「ちょっと食べ物を分けてもらっただけじゃないか」
鬼はくっくと笑うと、女の方へ向く。
「こいつも貰っていくよ」
「させるか!」
凱の口から経が流れると、懐から出した呪符が鬼へと向かって行く。それが鋭い刃になり、鬼の腕を切り落とした。
ごとりと音をたてて、腕は紅く色づいた紅葉の絨毯へと落ちる。
人質の若い女はこれ幸いにと、村人の輪の中へと駆け戻る。
そして、村の青年に抱きついて涙した。
「いってえ……!」
血を流して痛みで地面にのたうち回る鬼の胸を、凱はその足で踏みつける。
「鬼は滅する」
腰に佩はいた長刀を抜き取る。
りんと音がするような冷気に満ちたその刀が、鬼の前でひらめいたとき。
低く、強い声音がとどろいた。
「そのへんで許してくれや」
その声は上空からだった。
凱は鬼を踏みつけながら抜き身の刀をそのままに、はっと自分の上を見る。
そこには雲に乗った大柄な、人間みたいな鬼がいた。
筋肉の鎧で覆われた身体に、薄い上下の作務衣を着て、黒い腰帯でくくっていた。
手には大きな槍をもっていて、腰には青い模様の鞘に入った大きな剣がさしてあった。歳は三十を超えたくらいか。
顔にはわずかに皺がより、薄く笑った口元にも、細かい皺が寄っていた。
その大柄な体で、しかも雲にのる……。常人では考えられない現実に、退魔師の凱はハッとする。
ここらに出る鬼たちの総元締めである、むかし名を馳せた龍虎王の子だろうと。
子は二人いた。昔むかしの退魔師は、よりにもよって龍虎王の子を取り逃がしてしまったのだ。
名を蒼月そうげつと紅陽こうようといった。
兄の蒼月は名前の通り蒼い月のように冷たく、絶大な妖力を持ち冷酷で美しい姿なのだという。
弟の紅陽は頑健な体つきに力強く、兄に実直であり、剣や体術が得意なのだという。
二人に関する数少ない目撃情報から、この鬼は弟の紅陽なのだろうと凱は察しをつけた。
大物が出てきた、と身構えた凱の真上に、紅陽はずさっと降りてきた。
とっさに飛びすさって紅陽をかわす。
凱がたった今いたそこには、紅陽の腰の大剣が地面に叩きつけられていた。
「よけたか」
「当たり前だ!」
含み笑った紅陽に、凱は冷や汗を浮かべて叫んだ。
「お初にお目にかかる、退魔師よ。俺は龍虎王の子、紅陽という。この鬼を返してもらいに来た」
大剣を腰の鞘にしまいながら、紅陽は低くてよく響く声で凱に言う。
緑色の顔の鬼は、すでに紅陽の後ろである。
紅陽が緑色の鬼を肩に担いでまた雲に乗るのを、凱は黙って見ていることしか出来なかった。
「お前、強いな。こいつの腕を切り落とすことができるなんて」
「……」
「今日は様子見だ。また会うことになるだろう」
紅陽はにやりと笑いながら雲を上昇させて凱を睥睨する。
「様子見……? なんの……だ? なんであろうとそのときは、お前たちの最期のときだ。化け物め」
凱はありったけの憎悪を向けて、紅陽を見上げて睨んだ。
紅陽は皮肉気ににやりと笑っただけで、緑色の鬼を連れて雲にのり、あっという間に山の方へと去って行った。
龍虎山、鬼たちの城のある、雲がたなびくその山へ。
凱は自分の家に帰ると、その部屋の奥へと進み歩いた。黒塗りの木でできた凱の家は、かつて龍虎王を倒した祖父がたてた家だ。だからとても古い。
凱の父親も退魔師だった。そして凱も退魔師になった。
父親の方は力が弱く、あの紅葉と蒼月にはとても敵わなかったのだ。
蒼月と紅陽。その名はこの近辺で知らぬものはいなかった。
龍虎王のいた城の山は、その名にちなんで『龍虎山』と名付けられている。
その龍虎山にまた、彼らと鬼たちは住んでいた。
鬼たちは一様に鋭い角があった。そして、狂暴で人間の集落をよく襲っていた。
山賊よりもたちが悪い一族だった。
耐えられなくなった村人から凱は鬼退治を切望されていたのだ。
「おかえりなさい、あなた」
たおやかな声で凱を迎えたのは、妻のトキだった。
凱は返事をすると、トキの前に座り、とつとつと話を始めた。
「また村人から鬼退治をたのまれてしまった」
「まあ……。それでおやりになるの?」
「ああ」
凱に迷いはなかった。
「そうですか。気を付けていってらっしゃいませ」
トキは何事もなかったように凱に茶を淹れて、ちゃぶ台の上に置く。
「……反対しないのか?」
「したって、無駄なのでしょう? もう決めてしまったのでしょう?」
「……ああ」
「貴方はそういう人です。退魔師などやる人はきっとみんなそうなのでしょう」
村人が襲われるのを見て見ぬふりはできない。退魔師という、鬼を滅する力をもった自分にできることを、と。凱はいてもたってもいられなくなったのだ。
それをトキは分かっていた。なので止めなかった。
「あれを使って、近いうちに龍虎山に行こうと思う」
「おじい様が使った、あれですね」
「ああ。退魔香たいまこうと魔封香まふうこうをな。それで昔も龍虎王の一族を退治したんだ。それできっと上手くいく」
退魔香とは、鬼を眠らせる効果のある香のことだ。この香を焚くと煙を吸った鬼たちはみんな眠ってしまう。
魔封香とは、鬼がもつ魔力を封じる香のことだ。この香は、鬼が使う妖力が無力化される効果を持つ。
と言われている、凱の家に伝わる退魔師の家宝だった。
「これを使えば蒼月も紅陽もひとたまりもないだろう。城の鬼たちだってなんてことない」
「……ええ。あとは何を用意すればいいでしょう?」
「そうだな……あとは握り飯を」
「分かりました」
トキはにこりと笑うと、自分のためにもお茶を淹れて、凱と共にそれを飲んだ。
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