アオイさんのノート④
翌日、午前七時前。部活動の朝練もない日曜とあって、椰子木高校はひっそりと静まり返っていた。ぶううん、と遠くでバイクが走り抜ける音がやけに大きく聞こえる。
正門はチェーンと南京錠で施錠されたままだが、その脇の通用門は開いていた。当直の先生が開けたのだろう。早朝のひんやりとした空気の中、俺たちは校内に足を踏み入れた。
「あれェ? 白蔵……と、隠神? どうしたのキミら、休日だってのにこんな朝早くからさァ」
今日の当直はユーラ・レイバーン先生だった。空気を入れ替えようと校舎の窓を開けて回っていた彼を見つけ、俺は「レイバーン先生に会いにきました」と伝える。
隠神は黙ってレイバーン先生を睨みつけていた。その瞳には明らかに怒りの色が滲んでいる。俺が話すから余計なことは言うな、とあらかじめ言い含めておいたので隠神は黙っている。
しかしこれだけ露骨に敵意を向けられれば、レイバーン先生にも不穏な空気は伝わってしまう。彼は明らかに警戒しながら「オレに用事?」と眉を顰めた。
「先生が一番恐ろしいと言っていた百鬼椰行……"アオイさんのノート"の件で」
そう告げると、レイバーン先生はピクリと反応した。怖がっている、というよりも不愉快そうな表情だった。
「……まァ、キミらの用事っていったらソレだろうねェ。それで?」
「結論から言います。"アオイさんのノート"にまつわる悪い噂はデタラメです。呪いなんて存在しません」
レイバーン先生は表情も崩さず、「ふゥん? なにを根拠に?」と返してきた。想定内だ。彼はきっと、決定的な証拠を突きつけるまで納得してはくれないだろう。
しかしあるのだ。こちらにはその"決定的な証拠"というやつが。俺はリュックから"アオイさんのノート"を取り出してみせた。表紙にサインペンで「伊江尾 葵」と書かれた、あのノートを。
「なッ……」
瞬間、レイバーン先生が明白に動揺した。瞠目し、唖然とし、凍りついている。
「な、なんで、それを、キミが持ってる……!?」
「生徒会活動の一環で中庭の整備をしていたら"偶然にも"タイムカプセルを掘り当ててしまいまして。持ち上げようとしたら"計らずも"蓋が取れてしまい、"たまたま"このノートが入っていたんです」
ハリボテの建前だ。信じてもらえるわけもない。叱られたって仕方ないと思っていたのだが、レイバーン先生はどうも説教どころではなさそうだった。
彼は目を泳がせ、じりじりと後退していく。"アオイさんのノート"が一番怖い、という話は本当だったらしい。いつも自若としているレイバーン先生がこうも動じた姿は初めて見る。
「怖がる必要なんてありませんよ。言いましたよね、このノートに呪いなんてかかっていません」
"アオイさんのノート"の呪いは中庭に立ち入るだけでも発生するものだ、と百鬼椰行では論じられていた。無論、ノートそのものを掘り返したり、素手で触るなんて以ての外だ。
ところがそのタブーを犯した俺たちが怪我に見舞われることはなかった。呪いの条件を満たしてもなお健在の俺と隠神こそ、呪いが存在し得ない証拠。隠神の狙い通り、俺たちは"アオイさんのノート"を掘り出すという荒療治によって、その呪いの存在を完全否定してみせたのである。
「それでも……レイバーン先生は、このノートが怖いですか?」
「怖い」
「どうして」
開け放った窓から、じぃわ、じぃわ、と春蝉の鳴き声が空っぽの校舎に流れ込んでくる。その大合唱に掻き消されそうなほど小さな声で、レイバーン先生は呟いた。
「怖いんだ。そのノートの内容を知るのが」
「呪いではなく、内容が怖いんですか?」
レイバーン先生は額に汗を滲ませ、震える声で「そうだ」と答えた。
百鬼椰行によれば、伊江尾 葵はこのノートの最後のページにびっしりと恨み辛みを書き残していたのだという。
「レイバーン先生は、伊江尾 葵さんと面識が?」
「あァ……アオイのことはよく知ってる。底抜けに明るくて、イイ奴だった」
それを聞いて、隠神がギッと歯をくいしばった。相当、苛ついているようだ。
「『イイ奴だった』? どの口が言ってんだよ」
隠神はそう吐き捨てた。怒りに囚われ、いつもの真面目ぶった口調が剥がれ落ちてしまっている。
「待てって隠神」
「和泉ちゃんは黙っててよ」
俺の制止もきかず、隠神はレイバーン先生に詰め寄った。
「先生はさ……伊江尾さんが学校に呪いをかけた、なんて馬鹿げたウワサを信じてるんだろ? 口では『イイ奴だった』なんて言ってても、本心では呪いをかけるような陰湿野郎だと思ってたわけだ」
「隠神、それは、違う。オレはなァ……そのノートに書かれている内容が怖くて」
「同じことだろ。ようはアンタ、伊江尾さんを信じられなかったんだ。うわべじゃ明るくても、裏がある男だと思ってたんじゃないか」
「……違う」
「なら、どうして信じてやらないんだよ!」
「…………」
「アイツは人様に呪いをかけるような奴じゃないって! アンタが信じてりゃ、こんな与太話に怯える必要はなかっただろ!」
隠神は俺の手から伊江尾 葵のノートをひったくって、最後のページをレイバーン先生の眼前に突き付けた。
「これのどこが恨み事だ! こんなものの何が呪いだ! 根も葉もない噂で人を馬鹿にするのも大概にしろ!」
恨み辛みで黒く塗りつぶされたようになっている、と噂されていた伊江尾 葵のノート。しかし事実は異なっていた。
ノートの最終ページには、ただ一言。伊江尾 葵のものと思しき筆跡でこうあったのだ。
――椰子木高校が世界で一番楽しい学校であり続けますように!
伊江尾 葵がどのような想いでそれを書いたのか、今となっては誰にもわからない。
でもきっと、そこには母校への怨嗟など欠片も込められていない。カラッとしたその一文は、底抜けに明るくてイイ奴だった、という伊江尾 葵の人物像をそのまま物語っているような気がした。
レイバーン先生はゆっくりとノートを受け取り、しばらく無言でその短いメッセージを読んでいた。
やがてレイバーン先生の目が潤み、ノートにぼたぼたと大粒の涙が零れ落ちる。
「あァ……あァ……そうだよな、アオイ……誰よりも学校が大好きだったお前が……恨み言なんて、書き残すわけないよなァ……! 信じてやれなくて……ごめんなァ……!」
伊江尾 葵のノートを胸に抱えて、レイバーン先生はその場に座り込んだ。堰を切ったように涙を流し。何度も、何度も、謝罪の言葉を口にしながら。
今度は春蝉の声にも掻き消されない声で、レイバーン先生はひとしきり泣いた。それからぬっと立ち上がり、真っ赤な目をして「……少し、歩こうか」と言った。
レイバーン先生を先頭にして、俺たちは閑散とした校舎内を歩く。休日の校舎内はがらんどうで、レイバーン先生の鼻をすする音が反響していた。
「……アオイはさ、人を笑わせるのが好きな奴でねェ。ふざけてばっかで、優等生ってワケじゃあなかったケド。誰からも好かれる人気者だったよ」
隠神が「どうしたらそんな人が呪いのノートなんか残すと思えるんですか」とレイバーン先生の背中に問いかける。語気はまだ強かったが、口調は元通りになっていた。
「手厳しいねェ、隠神は」
「私、根も葉もない噂が大嫌いなので」
タイムカプセルを掘り当てた俺たちは、あらかじめノートの内容を確認していた。恨み辛みで埋め尽くされていると言われていた"アオイさんのノート"。その噂が事実無根であると知ったとき、隠神は激昂した。
謂れのない噂によって不当に評価を下げられた誰かがいる。隠神にはその事実が我慢ならなかったのだ。"アオイさんのノート"は隠神が最も嫌悪するタイプの怪談だった。
「レイバーン先生はさっき『ノートの内容を知るのが怖い』とおっしゃってましたよね。呪いではなく、内容が、と」
俺がそう聞くと、レイバーン先生は振り向きもせず「そうだねェ」と言った。
「……このノートはさァ、アオイのロッカーに残されていたものなんだ。彼のクラスメイトが見つけて、タイムカプセルに入れることになったって聞いてる」
「当時、レイバーン先生は現物を見ていなかったんですか?」
「オレはアオイの担任ではなかったからねェ。遺品のノートをタイムカプセルに入れるとは聞いてたケド、書かれてる内容までは知らなかった」
百鬼椰行では、ノートに関わった者が立て続けに不幸に見舞われたとある。しかし実際には、伊江尾 葵のノートはなんのトラブルの種にもならなかったらしい。
ノートはごく平穏に発見され、なにごともなくタイムカプセルに封入された。悪意ある噂がゆるやかに事実を捻じ曲げていくのは、その後だ。
「アオイが亡くなってから数ヵ月ほど経った頃かなァ。一部の生徒の間で、アオイのノートには恨み言が書かれていた、なんて変な噂が流れたんだ」
ある者は、伊江尾 葵のノートには恨み言が書き殴られていたらしいと言う。それを聞いたある者は、ノートがタイムカプセルに入れられたのは"封印"のためだったのだと言い出す。
いいかげんな憶測は、じわりじわりと広がっていった。百鬼椰行"アオイさんのノート"の原型は、伊江尾 葵の死から一年にも満たない頃に芽を出した。
「こっちが注意しても、よくないウワサは広がるばかりでねェ」
「そういう噂って、無理に隠そうとすると逆に広まりますからね」
「そうそう。先生は何かを隠してる、なんて言う子らも出てきちゃってさァ」
「じゃあ、先生はノートの呪いなんか最初から信じていなかったんですね」
「呪いはね。ケド……ノートの中身は見てないから、恨み言が書かれてた、ってウワサまでは否定できなかった」
表向きは元気で人当たりのよかった伊江尾 葵にも、人には見せない裏の顔があったのではないか? 鬱屈とした想いや、抱えきれない闇があったのではないか?
生前の彼を知っているはずの教師陣にさえ、不気味な噂と共に疑念が侵食していった。そしてレイバーン先生もまた、疑念に囚われた一人だった。
「アオイのノートには、本当に恨み辛みが綴られていたんじゃないか。アオイが何かに苦しんでいたなら、オレは教師としてアイツのSOSに気づいてやるべきだったんじゃないか。もしも気づいてやれていたら……なにかが変わっていたんじゃないか。とか、そんな不安が拭えなくなっていったよ」
「それでレイバーン先生も"アオイさんのノート"の噂を信じるように?」
「オレだって、アオイがそんなコトするワケないって信じたかったさ。ケド、それじゃあ結局アオイに理想像を押し付けているだけなんじゃないかって。そう思う自分もいた」
真相を確かめようにも、伊江尾 葵のノートはすでに土の中。
教師の一存でタイムカプセルを掘り返すわけにもいかず、レイバーン先生は悶々としたまま教師生活を続けてきた。
「もしかすると自分だってアオイを追い詰めた側の人間なのかもしれない。いつからか、そんなふうにも思うようになった」
レイバーン先生が恐れていたのは、呪いや怪奇現象ではない。教え子が抱えていたかもしれない闇、かつての自分が犯していたかもしれない過ち。それらと向き合うことが怖かったのだ。
"アオイさんのノート"はレイバーン先生にとってトラウマの塊だった。知らなかったとはいえ、俺たちがズカズカと踏み込んでいい領域ではなかったと今さらながらに後悔する。
「……すいません、そんな事情があったとは知らず。俺たちが無神経でした」
「いや、キミらにノートの話をしたのはオレだしねェ。それに……肩の荷が下りたよォ。アオイは、やっぱりアオイだった」
振り向いたレイバーン先生の顔は優しくて、目には涙が浮かんでいた。
「まァ、いち教員としては、勝手にタイムカプセルを掘り返したキミらを叱らなければならないんだけどねェ」
「それは……その、中庭に花壇を作ろうとしていたら偶然掘り当ててしまったということでひとつ……」
「ハッハッハ、そういうことにしておいてあげようか」
校舎内を歩くこと数分。特殊教室が集まるC棟の三階、もうすぐ放送室が見えるというところで、レイバーン先生がポケットからキーチェーンを引っ張り出した。
「……お礼、というのとは少し違うけど。隠神が知りたがっていたこと、教えるよ」
レイバーン先生が放送室のカギを開け、ドアノブを回す。キィィと小さく呻いた扉の向こうには、無人の放送ブースがあった。
入り口すぐ脇の壁を手探り、パチ、という音と共に灯りがともる。そうして隠神に向き合ったレイバーン先生の表情には、どこか翳りがあるように見えた。
「少し、話をしようか。DJユウレイ――伊江尾 葵について」
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