平和な復讐

森本 晃次

第1話 時代ごとの問題

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年11月時点のものです。


 今年、35歳になった刑部雅人は、会社では主任となり、今までの第一銭で先陣を切ってきた仕事もこなしながら、部下を意識しなければならない年齢になってきた。

 同僚からの信頼も厚かったので、主任になっても、今までと変わらずに仕事ができるだろうと思っていたのだったが、実際に部下というものを持ってみると、思ったよりも、大変そうだということが分かってきた。

 あまり、気にしなければいいだけのことなのだろうが、刑部は神経質なところがあった。それもいい意味での神経質も、悪い意味での神経質も、両方が混在しているので、自分でも混乱してしまうことが多かった。

 そういう意味で、昨年、会社の近くに引っ越してきたのだが、前、住んでいたところから会社までは、結構な時間が掛かり、電車の乗り換えも頻繁だったこともあって、正直通勤だけで疲れていた。

 残業などをすると、帰宅するのが、夜の10時以降などということも頻繁で、腹が減ると、どうしても、先に食事をしてから帰ろうと思うと、終電手前になることも少なくなったのだった。

 20歳代の頃まではそれでも、別によかったのだが、30代になると、どうにも落ち着かなくなってきた。最初は、

「何が違うのだろう?」

 と思っていたが、最近は、その理由が分かってきたのだ。

「ああ、終電に近くなればなるほど、電車が混んでくるんだ」

 ということに気づいたからだ。

 20代の頃までは、それほど、電車の混み具合を気にすることはなかった。

「座ってはいけるんだから、問題はない」

 と思っていたのだ。

 だが、30代にあると、どうにも電車の中のせわしなさに気づいてしまうと、苛立ちを抑えられなくなるのだった。

 気が付くと、電車の中のマナーの悪さが目に付くようになった。

 本来なら、別にマナーが悪いわけではないことまで、煩わしく感じられるようになると、自分の中での、

「マナーというルールに引っかかるんだよな」

 と思うようになっていたのだ。

 マナーが悪いからといって、別に犯罪ではない。警察につかまったり、処罰されたり、罰金を取られるわけではない。だから、それだけに、マナーの悪い連中は、それが分かっているから、あざとく感じられ、いかにも、

「確信犯」

 に思えてくるのだった。

 そう思うと、それまで、気にもしなかったことが気になってくる。特に、電車の中で多く散見され、次第に、街を歩いていても、

「どいつもこいつも」

 という印象になってくるのだった。

 特に、道を歩いている時のマナー違反は、目に余るものがある。

 確かに、マナー違反くらいであれば、別に、

「人に迷惑をかけている」

 というだけで、犯罪として扱われない。

 むしろ、

「まわりが我慢しなければいけない」

 などという、とんでもない理屈となったりしているのだった。

 特に歩道などというところは、法律的には実に曖昧なところだ。

 実際には、確固たる法律はあるのだが、ほとんど認識されていないといってもいい。被害に遭っている方だって、それがただの迷惑行為でしかないと思っているのだから、そもそもの教育がなっていないということになるのだろう。

 それが、

「歩道による自転車走行」

 という問題だった。

 自転車と車の関係は法律でも明確になっていて、認識もかなりのものがあるだろう。

 というのも、自転車よりも、何かあった時に一番立場が弱いのは、自動車だからである。もちろん、

「立場が自転車よりも弱い」

 という意味では、バイクも同じことだが、ここでは、自動車として、一括りにしてもいいだろう。

 道路交通法も、毎年のように改正されていたりして、正直、自転車の走行も、昭和の頃に比べて、かなり変わってきたことだろう。

 何といっても、昔は、ヘルメット着用義務もなければ、横断歩道の右折も、車のようにできた。今のように、信号に正対しての走行でなければいけないということはなかったのだ。

 ただ、これは、自転車に限ったことではない。車においてのシートベルト着用、さらには、小型特殊の運転の厳しさなどである。

 昔は、曖昧だったこともあって、倉庫内であれば、フォークリフトも、運転免許証がなくても、誰でも乗れた。今はヘルメット着用も義務だし、教習も受けなければいけない時代になってしまった。

「世知辛い世の中だな」

 ともいえるだろう。

 しかし、実際に、道路交通法は、明文化されていることを、実際に誰も知らなかったり、勘違いをしていることが結構多かったりする。

 それは、特に自転車において多いのではないだろうか?

「自転車は、どこを走行すべきなのか?」

 と聞かれて、

「歩道を走行」

 と答える人も少なくはないだろう。

 何しろ、自転車に乗るのに、運転免許証がいるわけではなく、講習を受ける義務もない。学校などで、講習を行うところもあるだろうが、小学生であれば、どこまで理解できるというのか、

「自転車は、歩道を走るもの」

 と真剣に思い込んでいる人はかなりいるのではないだろうか?

 正確には、

「自転車は、車道を走らなけれはならない。車道の一番左側を走行し、車の走行を妨げてはいけない」

 ということになるのだろう。

 だから、車道を走ることは許されない。

 許される場合もあるにはあるが、次の四つの場合しか、できないことである。

「自転車走行可」

「13歳未満の児童や、70歳以上の高齢者」

「身体障害者」

「客観的に見て、車道を走行することが困難な場合」

 という時に限られる。

 最後の、

「客観的に見て」

 というのは、あくまでも、自分勝手な判断ではなく、誰が見ても、困難な場合に限られるということである。

 前述のような、走行してもいい場合でも、歩道は、

「絶対的に歩行者優先」

 本来であれば、運転してはいけないところを、

「運転させてもらっているのだから、当然、肩身が狭いのは当たり前。しかし、実際には、我が者顔で運転しているのだから、たちが悪い」

 といってもいいだろう。

 それだけ、歩行者と自転車の間では、走行についての温度差があるということだ。

 特に最近は、

「食事の宅配という感じで、まるで、

「ここは俺の道」

 と言わんばかりの我が物顔走行をしていると、本当に事故だって起こっていることだろう。

 数年前に、ワイドショーなどで取り上げられはしたが、しょせん、その時だけのことで、放送局側も、

「やりっぱなし」

 ということであった。

 どうせ、放送局側も、

「記事になりさえすればそれでいいんだ」

 と、どっちでもいいとでも思っていることだろう。

 だから、結局は、

「やりっぱなし」

 で、もし、対策を真剣に考えていて、マスコミと一緒になって、歩道の安全を守ろうとしている団体がいたとすれば、完全にマスコミに踊らされただけになってしまう。

 要するに、

「しょせん、マスコミなんてそんなもの。だから、マスゴミと四湯されるんだよな」

 ということである。

 自分たちが売れさえすれば後はどうでもいいんだ」

 とでも思っているのだろう。

 それこそ、

「どんな汚い手を使ってでも、依頼人の利益を守る」

 という弁護士という仕事と似ているのであろう。

 どんなに、世の中が同情的に見ていたとしても、やつらの正義は、

「依頼人の利益を守る」

 ということが絶対なのだ。

 たとえ、人殺しであっても、法律の、

「抜け目」

 を探して、

「いかに無罪に持ち込むか?」

 というのが、弁護士の仕事である。

 刑事もののドラマなどで、弁護士というと、えてして、

「悪者」

 というイメージで描かれている。

 皆が皆、そうだとは限らないが、弁護士に弁護を依頼する時点で、刑事告訴の対象になっている容疑者以上だというのがほとんどなのだ。

 どんな理不尽な犯罪であれ、本当は犯罪を犯しているということが、明白であったとっしても、

「大丈夫、私に任せてください」

 と胸を張り、依頼人を安心させなければいけない立場なのだろう。

 それを考えると、

「人間の皮をかぶった悪魔」

 とまで言われることを覚悟して、仕事をしなければいけない。

 もちろん、弁護士になろうと、司法試験の勉強をしてきたのだから、そんなことは最初から分かってのことに違いはないだろうが、実際に弁護士として職務につくと、それ以外でも、検察や刑事を敵に回すということで、ある意味、孤立無援だといってもいい。

 検察側には、警察組織という、国家権力がついていて、捜査権も、警察にかなうものはない。

 弁護士は、まわりに戦ってくれる警察のような配下があるわけではないので、ある意味、検察の方が圧倒的に有利だろう。

 そういう意味では、

「憎まれ役」

 を甘んじて受けなければならず、しかも、孤立無援という弁護士も、そうやって考えれば、実の虚しい職業だといえるのではないだろうか?

 弁護士も気の毒でありながらの、甘んじて憎まれる商売ではあったが、マスゴミの場合はそんなことはない。

 完全にあいつらは、利益主導主義であり、

「売れさえすれば、報道の自由を盾に、最近ではプライバシー保護というものがあるが、そこに抵触さえしなければ、報道が許される」

 と思っているであろうから、

「世間を敵に回しても、結局、記事に興味があれば、新聞や雑誌を買ったりするのだ」

 ということで、営利企業として、

「売れることが至上主義なのだ」

 といえるだろう。

 そんな時代において、マナーを守らないやつが、相当に増えてきた。昭和の頃であれば、

「まわりの目があるから」

 といって、自重していたことも、今では、

「どうせ、何かをいう人もいないだろう」

 ということで、何も言われないという意識が強かったりした。

 そうなると、やりたい放題ということになり、下手をすれば、

「無法地帯」

 ということになる。

 昭和の頃は、何かあったら、

「長老」

 のような人がいて、他人の子供であっても、悪戯をしていれば、普通に叱られたりした。

 長老でなくとも、人によっては、迷惑を掛けられたりすれば、

「ボク、やめなさい」

 といって、注意をしたものだった。

 言われた子供も、言われたことを真摯に受け止め、反省をする。

「人から注意を受けることは、恥ずかしいことだ」

 ということを理解しているのだ。

 だから、人から注意を受けないようにしようとして、どこまでが大丈夫なのかということを、子供心に見分けられるようになる。それが大人になってからの判断力の育成に役に立っているのだから、

「子供の頃の悪戯は、しょうがない」

 といえるのだ。

 ちゃんと、見極めができるようになるから許されたことであって、今は、別に許しているわけではなく、

「子供を叱りつけて、逆恨みでもされたりすれば、相手が子供でも、殺されかねない」

 という時代である。

 だから、大人も迂闊に注意もできないし、まだ、その子の親が、

「うちの教育方針にケチをつけないで」

 というのであれば、まだマシなのに、実際には、子供のことをまったく考えておらず、あくまでも、

「大人の都合」

 あるいは、

「自分が、ひどい目に遭いたくない」

 というだけで、人の子供に説教をする大人がいなくなったのだろう。

 今の親は、きっと、自分の子供が他の大人に注意されているのを見ても何もしないだろう。

 その人が偏屈だと思うので、

「そんなややこしい人とトラブルになるのが嫌だ」

 ということで、厄介な話をすることもないに違いない。

 子供というのは、そんな大人の都合など、知る由もない。だから、

「親や、他の大人から叱られることはない」

 と思って成長する。

 中学生以上になると、学校でも、まず注意を受けることはない。

 ちょっと注意したり、昭和時代のように、宿題を忘れたからといって、廊下に立たせたりすれば、

「体罰」

 として、一絡げにされて、

「体罰教師」

 のレッテルを貼られ、下手をすれば、保護者の前で、校長、教頭、下手をすれば、理事長列席の上で、平謝りをさせられるのがオチである。

 これが、平成の頃であれば、また事情が違っている。

 昭和の終わり頃から徐々に増えてきたのが、いわゆる、

「校内暴力」

「登校拒否」

 というものであった。前からあったのだろうが、学校の勉強が、昭和40年代くらいから、戦後が終わり、日本が急成長する中で、それを担う次世代たちの、

「学力の底上げ」

 という問題がクローズアップされた。

 その頃になると、いわゆる、

「受験戦争」

 というものが、主流になってきて、そこで出てきたのが、

「詰込み教育」

 だったのだ。

 詰込み教育というものは、何を生むかというと、

「学力の差」

 であった。

 これは、民主主義、資本主義における弊害ともいわれる、

「貧富の差」

 と似たところがある。

「学力の低い人たちを何とか底上げしようとすると、せっかく学力の高い人の意欲と、やる気を止めてしまうことになる」

 となると、今度は、

「学力の差で、クラス分け」

 という考え方になるのだろうが、そんなことをしてしまうと、さらに、できる人と、できない人の差は、決定的なものになるだろう。

 民主主義の最大の課題と言われ、それを克服するためということで考え出された、共産主義や社会主義というもの。学力の差を縮めようとして、何かを考えると、

「教育における社会主義」

 なるものが生まれてきて、

「そもそも、資本主義、民主主義の考え方を植え付けるのが、教育だ」

 ということから考えると、

「学力の差を埋めようとする考え方は、本末転倒ではないか?」

 ということになる。

 しかも、勉強についていけなかった連中は。

「落ちこぼれ」

 と言われ、当時は、そんな言葉も選ぶという時代ではなかったので、

「あの子は落ちこぼれだから」

 などと、名指して平気で人の悪口になるようなことを言って、親が、

「あんな落ちこぼれの子と、仲良くなんかしちゃダメですよ」

 と子供に言い聞かせていた時代だった。

 だから、子供の世界でも、差別が当たり前ということになり、大人からだけではなく、子供の間でも宙に浮く形になった落ちこぼれたちは、

「どこにも逃げ場がない」

 ということになったのだ。

 そこで育ってきたのが、

「不良」

 というものだ。

 ストレスの持っていき先が分からずに、学校で暴れたりする。

 登校拒否の生徒がいたり、校内暴力といって、学校の窓ガラスが全部割られているような光景は、当時は珍しくもなかった。

 学校の窓ガラスが割られていることにどんな意味があったのか分からないが、そんな学校が全国にどんどん広がっていったのだ。

 卒業式の時など、先生たちに、

「お礼参り」

 と称して、リンチにするということも結構あった。

 だから、学校によっては、卒業式には警官隊が配備した状態の、重々しい雰囲気で卒業式が行われるという時代があったのだった。

 そんな時代においては、生徒同士のトラブルは、なかったとは言えないが、大きな問題にはなっていなかった。

 昔からの、

「いじめっ子、いじめられっ子」

 というものは、次第に減っていった。

 しかし、時代が進み、いつの間にか、

「苛め」

 というものが起こってきた。

 苛めというものは、精神的なものから、肉体的な苛めなど様々であるが、下手をすると、取り返しのつかない、

「引きこもり」

 であったり、

「自殺」

 あるいは、

「苛めが行き過ぎての殺人」

 ということにありかねないのだ。

 実際に、苛めというものから、精神疾患を患ったり、そのトラウマから、人間恐怖症、異性恐怖症になったりする人も少なくない。

「一体どうしてそういう苛めが起こるのか?」

 というのは、さまざまな問題があるだろう。

 ただ、大人の世界の問題が、子供に対して、親などが自分のことしか考えず、子供を無視したり、子供に悪いことをさせてみたりすることで、まだ判断能力が身についていない頃から、精神的な感受性が欠如し、感覚がマヒするようになったことから、

「人を人とは思わない」

 という感覚になるということも少なくはなかったことだろう。

 それを思うと、

「そんな時代になるということを誰も想像できなかったのだろうか?」

 と考えるが、大人ですら、まわりに対してどう接していいのかということが分かっていないのだから、子供に判断させるのは難しいことだろう。

 そういう意味では、

「当時の社会情勢が悪い」

 ともいえるのだろうが、それで解決できることであるならば、何も、警察はいらないとでもいえばいいだろう。

 社会情勢というのは、

「大人だけの問題ではなく、子供世界にも大きな問題を孕んでいる」

 ということは、そのまま、

「日本の将来に直結している」

 といってもいいだろう。

「苛め問題をどうやって解決すればいいのか?」

 を考える人は考えていたのだろうが、結果、今のような時代になってきた。

 苛め問題や教育問題だけが原因ではないのだろうが、1990年代には、大きな問題として、

「ストーカー問題」

 というのが起こってきた。

 一人の人を、追いかけまわすというのがざっくりとした言い回しであるが、誰かに恋愛感情を抱いたが、告白もできず、昔であれば、

「いじらしい」

 という言葉で片付けられたものだが、その頃から、陰湿になり、

「尾行をしたり」

「無言電話を掛けてみたり」

 あるいは、

「脅迫まがいのことを、誰がしているか分からない形で行う」

 などということで、相手に精神的な苦痛やダメージを与えるのだ。

 本人は、そのつもりはないのだろうが、やられた方が溜まったものではない。ノイローゼになったり、対人恐怖症になったり、いわゆるトラウマが身体の中にしみこんでしまい、

「一生消えない傷」

 として、残ってしまうことになるのだ。

 一種の、

「苛め」

 の延長であろう。

 しかし、たちが悪いのは、ストーカー行為をしている人は、

「自分が悪いことをしているという意識がないことだ」

 ということであった。

 今のように、ストーカーというのは犯罪だとして認識されるようになると、少しは違うのだろうが、当初のストーカーというのは、

「僕がこれだけ、君のことが好きで、ここまでするだけたまらなく好きなのに」

 という感覚である。

 相手に対しての押しつけが、

「本当は愛情なんだ」

 と、自分が思い込んでいる。

 他の人は全員、

「これはストーカーだ」

 と思っていたとしても、本人が、

「愛情表現だ」

 と思っているのだから、始末に悪い・

 だから、警察も迂闊に入り込めないのだ。

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