善悪二元論的世界終末論
床豚毒頭召諮問
第一話 朝
「誠に、申し訳ありませんでした!」
朝早くから、小野田商事のオフィスではそんな声が響いていた。
「はぁぁ……うん…もういいよ。そんな言葉聞き飽きたからさ」
一人の社員が上司に向かって深々と頭を下げているが、上司の方はそんな言葉を聞き入れようとはしない。
「全くさぁ、人事の審査が甘かったんだなぁ。こーんな使えない奴は入ってくるとは思わなったよ」
オフィス中に罵倒が聞こえているはずだが、カタカタというキーボードの音は片時もやむどころか、淀む事は無い。このオフィスに居る誰もがこの光景を知っているし、もう慣れっこになってしまったからだ。呆然と、ただただ業務に打ち込み、他の事には一切注意を向けない。
業務が出来ない奴は上司からの罵倒を受ける。それが当たり前だったからだ。
出来ない奴が悪い。それがこの会社での常識だった。
「もうさぁ……辞めたら?もう皆、迷惑なんだよ」
上司による罵倒は、数秒の沈黙の後、堰を切ったかのように怒涛の勢いで叩きつけられた。いつもの流れであった。
ピ、ピ、ピ…………
その時、その場に居た誰もが気づかなかったが、そんな音が鳴った。
「あのね、うちだってね、お前みたいなの飼っとく余裕は無いんだよ!なんで出来ないんだよ?!皆出来てる!周り見てみなぁ?!もう少しさぁ、本気でさぁ、仕事しようよ?!ねぇ!どうなのぉ?どう思ってんの?今だってさぁ、かったりいなぁとか、早く終わんねぇかなぁとか、そんな事考えてんだろ?!あぁ?!どうなんだよ?!」
「こ、今回の事は……本当に申し訳ありません。私の確認不足で……本当に申し訳ありません……じ…次回からは…このような事は起こさないよう、再発防止に………」
「ハイ、先月も同じような事言いましたぁ!!その結果がこれですぅ!」
ピ
またもや、同じ音が鳴った。上司の叫び声にかき消されて誰の耳にも届く事は無かったが、その音は罵倒を受けている社員の右腕から聞こえてきているようだった。
「ねぇ!何回目?!何回目なの?!舐めてんの?!社会人として恥ずかしいよ!皆の迷惑になってるんだよ!お前一人のせいでぇ!皆のやってる事が止まるの!迷惑がかかるの!そういう事考えた事ある?!」
ドンッ!……ドンッ!…ドンッ!
上司が机を叩く度に、社員は、びくっと体をこわばらせた。
ピ、ピ、ピ、ピ……
またもや、音が鳴った。こちらの危機感を煽るような電子音で、先程よりも、大きく、そして、断続的になり始めた。
「おい、何鳴ってんだよ?携帯かぁ?」
今度ばかりは上司も音に気が付いたようだ。だが、それは決して事態を良い方向には向かわせなかった。
「た、たぶん、計測の………」
社員は体を起こして、右の手首を顔の前にやった。
「あぁ?あぁ、お前それ使って逃げる気?良いよ?別に。パワハラだとかなんとか言ってくれてさ。出来ねぇのはおめぇだからな?わりぃのおめぇだからな?!」
上司は部下の答えにすら、暴言を叩きつけた。
ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、 ピ、ピ、 ピ、ピ、ピ……………
「ピッピッピッピッピッピッピッピッ…うるさいんだよ!なんなんだよ!止めろよ!」
鳴り響く電子音は更に音量を増し、オフィス全体に響く上司の叫びに負けず劣らずの迫力を発揮しだした。それは上司の願い虚しく、さらにけたたましく鳴り続ける。さすがにオフィスに居る面々も動揺を見せ、ちらちらと社員の方を見始めたり、ガン見する者が現れ始めた。
「なんなんだよ!止めろよ!ほらぁ!何?!止まんないの?!ふざけんなよ!こっちはお前のせいで被害受けてんだよ!お前のせいなんだよ!辞めてくんねぇかな!本当にさ!!」
上司はさらに畳みかけた。取り付く島もないほどに、言葉を吐いて、社員を追い詰めていく。
「まだやんの?!迷惑かけながら仕事すんの楽しい?!お前が居なくなりゃ、もっと上手く回るんだよ!ねぇ!お前みたいな奴居てもすぐ窓際だよ?!早く辞めてくれよ!お前なんか居たら足手纏いなんだよ!お前なんか……………」
ピ、ピ、ピ、ピーーーーーーーーー!!!!!!
その瞬間、断続的に鳴っていた電子音が、いきなり、サイレンのように継続的な音へと変化した。
「負(ふ)情値(じょうち)が基準値を大幅に超えています。負(ふ)情値(じょうち)が基準値を大幅に超えています。直ちに現在行っている作業を中断するか、直ちにその場から離れてください。負情値が…………」
サイレンと共に、ボカロのような音声が再生され、何やら警告を読み上げる。だが、その場に居た全員が状況を理解できていなかった。
「何?どうなってんの?」「なんか…警告?ふじょうちって言ってるけど…」「なんか、テレビでやってたやつじゃないすか、なんか怪物になっちゃうみたいな」「えっ…何の冗談だよ?」オフィスに居た社員達は顔を見合わせ、二言三言会話したものの、自分達がどんな危険に曝されているか、理解できている者は居なかった。
「あぁ~それなんかあれだろ、メンタルが弱い奴がなりやすいってやつ」「怒られたりとか、喧嘩した時にメンタルやられて、それで怪物になるみたいな。Q世代特有の」「怪物になっちゃうってホントなの?あれ合成でしょ」「まだ真偽不明って感じじゃありませんでした?なんか腕輪みたいなやつ配られたけど、はめてる奴居たんだ~ははっ」それどころか、社員達は偏見にまみれた見識を口にしてしまった。上司のデスクの前で呆然と立ちすくむ若い社員は、嘲笑の目が自分の背に突き刺さっている事を振り向かずとも感じていた。彼の心臓の鼓動は、彼自身をさらに追い詰めていくように早鐘を鳴らし、彼の痩せた胸の筋肉を圧迫していく感覚が、彼の脳細胞をショートさせるのにさしたる時間はかからなかった。
ピーーーーーーーーーー
けたたましく鳴り響く警告音が、さらに大音量で響く。
「負(ふ)情値(じょうち)許容量を超えました。怪化します。怪化します。危険です。周囲にいる人は速やかにその場から離れてください。周囲に居る人は速やかにその場から離れてください。怪化します。怪化します。危険です。周囲に居る人は速やかにその場から離れてください。周囲に居る人は速やかにその場を離れてください。怪化します。怪化します……………」
バキッ
上司が思わず顔を上げて、その音がする方を見た。目に飛び込んできたのは、社員の胸の辺り、そこから黒い結晶のようなものが伸びて、社員の体を包むように、体の表面を覆っていく様だった。
「お、おい……」
少し上ずった声で、上司は社員に声をかけた。だが、もうすべてが遅かった。
バキバキバキッ…バキバキッ、バキバキバキバキバキバキッ!
胸から全身へと広がっていった結晶は、社員の体を飲み込み、異形の姿へと変えていた。怪物が誕生したのだ。
「…アアアァ…………」
社員だったものの口からそんな呻き声が漏れた。唯一、結晶に覆われていない目が自分を見ている。上司がそう悟った時には、ストッパーの存在しない怪物のゴツゴツとした棘のような突起の生えた腕は振るわれていた。
バアアアアァアアン!!!!
その音が響き渡る共に、上司の姿が消えた。上司のデスクは横なぎに振るわれた怪物の右腕に吹き飛ばされ、粉々に砕けて壁にぶち当たって無残な残骸と化す。その残骸に埋もれるように、上司の身体は壁に寄りかかりながらずり落ちた。
右腕の一なぎで身体中に、突起が付き刺さり、血を大量に吹き出しながら、壁に投げ飛ばされる形で、デスクの残骸の下敷きとなっていたのだ。
目の前に映る光景がとても現実的でなく、社員達は固まってしまった。いきなり同僚が黒い結晶に飲み込まれたかと思うと、自分の上司をデスクごと吹き飛ばしたのだ。一般人にそのような状況がすぐに飲み込めるはずがない。
「きゃあああああああああああぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
だが、女性社員が挙げたお手本のような悲鳴が、彼らの脳の思考回路を動かした。
「逃げろ!」
「やばいぞ!」
社員達は次々に立ち上がり、周りに呼びかけながら走り出した。
それを、怪物はゆっくりと振り向きながら、視界に捉える。
バキッ、バキバキッ…………バキッ…
怪物の背からは未だに黒い結晶のようなものが生えては、全身に棘のような、岩のような突起を作り出して、怪物の身体を形作っていく。
「アア…ァァァ…アアアアアアアァァァァ…………」
怪物はまたもや呻き、今度は重そうな足を動かして、逃げていく社員を追っていく。
ズッ…ズッ…ズッ…ズッズッズズッズッズッズッズズッズッズッズッズ……………
怪物は前かがみになりながら、自身の体重を上手く使い、追い縋る様に足を持ち上げて進んで行く。
対して、オフィスを出た社員達は廊下に出て、一目散にエレベーターへと駆け出していった。
カチカチカチカチカチカチカチカチカチ…………………
真っ先に到着した男性社員が、歯を食い縛りながらエレベーターの下三角のボタンを連打する。
「早く早く早く早く早く早く早く早く早く………」
後からエレベーターの前にやってきた社員の一人が祈る様に呟きつつ、エレベーターの所在を示す液晶を凝視する。液晶には4の数字が映し出されている。
エレベーターの前には、オフィスに居た全ての社員が集まってきていた。そのうちの一人が後ろを振り向き、恐怖の叫び声をあげる。
「ああぁ、来てる!来てるぅう!」
その声に、全員が後ろを振り向いた。すると、そこには身体中に結晶を生やした怪物が、どたどたと身体を揺らしながら、こちらに近づいてきていた。
その場に居た全員がエレベーターの所在を示す液晶へ目を走らせる。そこには非情に光る5の数字があった。今居る階は7階。怪物がエレベーターの前まで来るまでに、来てくれるかは怪しいところだった。
数人の社員が間に合わないと判断し、階段へと駆けていく。また一人、また一人と、社員達が逃げていく様子に、カチカチとボタンを連打していた社員がエレベーターを見限って、階段へと走ったのを見て、残っていた全ての社員が階段へと向かう。
しかし、その背には怪物が迫っていた。エレベーターか、階段か。そんなものは怪物にとっては、大きな違いは無かった。
バキッ、バキバキバキッ…………
不気味な音を立てて、怪物の突起がまた一つ二つと増えていき、身体がみるみるうちに膨張していく。そこに、人間としての面影は無かった。
パタパタパタ、パタパタパタパタ…………………
社員達は階段を駆け下りて、1階の出口を目指した。完全なるパニック状態に陥っていた彼らには、他の階の人々に危険を告げるという思考は失っていた。
バンッ!……バンッ!!………
何かは分からないが頭上より轟音が響き渡る。社員達には、その音を出すものが何なのか、論じずとも分かっていた。
6階、5階、4階……階を超える事に社員達の顔に光が戻っていく。大いなる危険に曝されながらも、生存への可能性が大きくなった人の顔とは、ここまで、切羽詰まっているようでありながら、満面の笑みを浮かべられるものなのだろうか。
「あぁ、1階だ!一階だぁぁ!」
一人の男性社員が歓喜の声をあげる。彼はエレベーターの前で液晶を凝視していた人物であった。その時とは打って変わって人生の喜びを分かち合おうとする彼は、間違いなく人生を生きる喜びを感じていたであろう。目の前の一筋の希望が、脆くも崩れ去るとも知らずに。
一階のエントランスが社員達の目に映った。外界の光が立ち込めた、至って普通の会社のエントランスに差す日光の光だが、命からがら逃げだしてきた社員達は、その光に「よくぞ生き残った」と言わんばかりの神々しさを感じていた。
階段を駆け下りるその一歩一歩は先程までなら、足の裏が痛くなるほど、階段を蹴っていたというのに、その瞬間だけは何も感じていなかった。
助かる。階段を降りてきた社員全員が心中で胸を撫で下ろしていた。
ドォォォォォォォォン!!!!
その時だった。粉塵と共に、何か大きくて黒いものが社員達の頭上に落ちてきた。先頭を走っていた社員数名が、大きくて黒いものの下敷きとなって姿が消える。
社員の一人が顔を上げると階段がいくつも連なって、大きな穴が開いているのが分かった。穴を開けられたというよりかは、階段そのものが粉砕されて、食い破られたかのように
突き破られ、一直線に一番下まで降りてきたようだった。では、それが出来たのは?考えるまでも無い。
黒くて大きい怪物はその鋭い眼光を、身体を向き直らせながら残った社員達に向けた。怪物は後ろを向いていたのだ。恐らく、始めは社員達をただただ追いかけていたのだろうが、途中で、階段そのものを壊す事に決めたようだ。もしくは標的を逃がす階段という概念そのものに破壊衝動を覚えたのかもしれない。どちらにせよ、そんな事はどうでも良かった。社員達の頭は、これから始まるであろう怪物による殺戮に対する恐怖で、真っ白になっていたからだ。
「ご、ご、ご、ごめんな……ゆ、ゆ、許してくれ………」
一人の男性社員がそんな事を口にした。身体中を震えさせながら、どもりつつ話す彼の様子は、先程まで、上司のデスクの前で立ち尽くしていた怪物と似て非なるものがあった。
だからだろうか、怪物は無慈悲に右腕を高く上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます