二章 がんばれ!ミケくん!
二章 がんばれ!ミケくん!
1
「お疲れ様です」
猿内エンはテレビ局の受付のおばさんにいつも通り挨拶をして、テレビ局を出た。既に日は暮れている。時計を確認すると午後七時四十五分を指している。仕事の疲れで凝り固まった肩を撫でながらエンは歩き出す。
「エンさん、一緒に帰りましょう」
後ろから話しかけてきたのは後輩のアシスタント、熊岩ツキ。ツキは名前の通り、熊なのだが、そこまで大きくはないので、エンと大して身長は変わらない。ただ、馬鹿力なのは局内でも有名で、そこは流石クマだ。
「エンさん、今日ちょっと噛んでましたよね。緊張でもしたんですか。そういえば一昨日も噛んでましたけど」
「まあ、疲れだ、疲れ。明日は休みだし、ゆっくり休むよ」
エンは笑って返事をした。しかし、最近噛むことが多くなっているのは注意力が散漫になっているからに他ならない。そして、その理由は、今世間を騒がしている事件の一つに関連する重大な証拠となるものを目撃してしまったからなのである。
エンは仕事がない日は絶対に一時間は走る、ということを自分の中に義務付けていた。ニュースキャスターという職業は体力も必要な仕事で、健康にもいいためである。そのため、エンは仕事がない日は〈マンション202〉付近の歩道を走るようにしているのだ。そして、あの事件のあった日も同じように走っていた。
全ては偶然なのだ。本当に偶然、〈マンション202〉の方を見上げた時、あれを見てしまったのだ。その瞬間は、エンにとっては驚きでしかなかった。しかし、半分信じておらず、また一方で、これをもっと調べればいい特集になるのではないか、などと陽気にも捉えていたのだが、その日の夕方、ニュースで事件のことを知って青ざめた。時間帯からも、エンが目撃したあれは、確実にこの事件の謎、いや全貌を明らかにするだろう。エンはその時はどうしたらいいのか全くわからなかった。すぐに警察に届けようとも思ったが、警察が信じてくれなければ意味はない。とりあえず、黙って、なかったことにすることにした。
しかし、ついついTwitterではその興奮を抑えきれず、重要な証拠を手にしたことを仄めかす発言をした。
それが偶然、優しそうな警察の方の目に止まり、明日、あれを全て話しに行くことになった。あの警察の方なら信じてくれるはずだ、というどこから湧いてくるのかもわからない確信がある。
「ぼーっとして、どうしました? 帰りましょうよ」
ツキが不思議そうに首を傾げている。
「ごめん、つい」
と笑って、また歩き出す。ついつい考え事をしてしまった。だが、あれを明日警察に伝えれば、また依然通り吹っ切れて仕事ができるはずだ。
「うん?」
突然隣を歩いていたツキが突然足を止めた。
「どうした」
「いや、あれ」
ツキは前方を指さしている。だが、暗さのせいで、前方に何があるかははっきりと見て取れない。
「あそこに何かあるのか」
「あそこに、誰か」
エンは目を凝らして、その誰かを見ようとした。
見えた。ツキの言う通り、前方に誰かがいる。顔に覆面を被った、いかにも怪しい見た目の、誰かが。
「どうしたんですか?」
エンは何者かに向かって優しくそう尋ねた。すると、その「何者か」は返事もせず、こちらへ走ってきたのだ。
エンは突然の出来事に、唖然とするばかりだった。ただ、彼から発せられるなんとも言えない危険なオーラは確かに感じられた。しかし、逃げられない、そんなエンの元に「何者か」が駆けてくる。
「あ」
目の前まで「何者か」が迫った時、初めてエンは「何者か」の目的を理解した。月明かりを受けて「何者か」の手に握られている鋭利なものの刃が光る。ナイフだ。
「やめろ」
こいつが、例の事件を起こしたんだ、エンは咄嗟にそうわかり、逃げ出そうとした。しかし、恐怖で足がすくむ。
「おい、やめろ」
目と鼻の先まで迫り、ぎりぎりのところで、ツキが「何者か」を取り押さえた。ツキは「何者か」の腕を物凄い力で捻り、「何者か」は断末魔の唸り声を上げている。エンはほっとしてため息をつく。隣に彼がいてよかった。
「エンさん大丈夫ですか?」
ツキは「何者か」の両腕を捕まえたまま言った。
「ああ、大丈夫だ」
エンの心臓はまだどくどくと強く拍動している。本当に死を覚悟した。だが、危機一髪助かったせいか、もう緊張感はなく、エンは自分を襲った者の正体を確認するべく、ツキが捕まえた「何者か」の覆面を脱がそうと、近付いた。深い意図はなく、興味本位だ。
誰が自分を殺そうとしたのか。なぜ殺そうとしたのか。つい興味が湧いてしまう。
だが、その動きがエンにとっては完全に余計な動きだった。とりあえず、警察を呼ぶか、テレビ局を出たばかりなのでテレビ局の警備員を呼びに行くのでもよかったのだ。
エンが「何者か」に近付いたその一瞬を「何者か」は逃さなかった。有り余る精一杯の力でツキを蹴飛ばして、ツキの捕捉を逃れ、そして、そのままナイフをエンの首に突き刺した。ナイフはエンの首に刺さり、そして、貫通した。エンは悲鳴も上げられず激痛に顔を歪めた。しかし、一瞬で痛みは消えて、脱力感に包まれる。しかし、脱力しながらもエンは立っていた。いや、立っていたと言うよりは、刺さったナイフを持つ「何者か」に支えられて立たされていたというのが正しいかもしれない。
「何者か」はそのナイフを抜く。堰を切ったように一気に血が吹き上がり、エンはぴゅうぴゅうと血を吹きながら、崩れ落ちた。ツキは恐ろしさのあまり硬直してしまう。
「何者か」は事を終えて、そのナイフを手にしたまま立ち去っていく。
ニュースキャスター猿内エン、死亡。第二の事件発生。
2
「つまり、〈ズーの日常垢〉、いや志々田ゼラさんの首に刺さっていたナイフには別の者の血液も付着していた」
ニャンは緊急捜査会議の場でそう告げた。
「そして、その血液はQTVの局前で殺された猿内エンさんのものと一致した。つまり、両被害者は共に、同じナイフで殺された」
ミケはニャンの声を聞きながら、俯く。重要な情報提供者が両方とも殺されたことで、今後の捜査が行き詰まる事を嘆いているのではなく、善良な市民が、情報を握ってしまった故に殺された、このことに強い恐怖と無力感を覚えたのだ。
「また、事件が起こった時刻は、志々田さんの事件は十九時五十五分。猿内さんの事件は十九時五十分。そして、この二地点間の距離はおよそ二十キロ。この事実が示すことはわかるだろう」
ざわめき。ミケの隣に座る刑事も悩むように耳の裏を掻いた。
「また、両者は伝えた通り、「蛙池氏惨殺事件」の捜査に大きな進展をもたらすかも知れない情報を持っていた。そのため、蛙池氏を殺した何者かが、口封じのためにこの事件を起こした可能性が極めて高い」
ニャンはこの事件の概要を淡々と語っている。
「この事件と「蛙池氏惨殺事件」の関連が全くない可能性は当然、あり得ないとは言えないが、蛙池氏の事件同様殺害方法が見えにくい点でも、同一犯と考えるのが一番納得がいきやすい」
捜査の資料を読み終え、暇だったのでミケはぼんやりとニャンの方を見ていると、ふと、ニャンの表情に彼らしからぬ違和感があることに気付いた。どこか、いつもと違って弱々しく見える。なんだか、頼りない様子なのだ。
ミケはそれを疑問に思い、彼の腕に目を向けた。
捜査資料を握るそのがっしりとしていた腕が震えている。ミケが前の方の座席に座っているからくっきりと見えるのだろう。更に、彼の目はずっと、泳いでいるようにミケには見えた。
しかし、ニャンに何かやましいことがあるはずはない。だが、その様子は明らかにいつもとは違うのだ。
「現在、猿内さんと共に襲われたという熊岩ツキさんがこちらに向かっている。彼は一時的に襲ってきた者を捕まえていたということで、特徴などを詳しく知っている可能性が高い」
ああ、ネコじゃなくてクマが警察やればいいのに。ミケは話を聞きながらそう思う。自分は、体がすくんで、志々田さんを助けることもできず、見ているしかなかった。そんな無能な自分じゃなくて、一時は返り討ちにできたかもしれないという彼が警察をやればいいのに。そもそも、ネコは力の弱い生き物なんだ...たまにニャンのように力の強い種類もいるが、少なくとも弱いネコは警察をするべきではない。
「では健闘を祈る」
「はい」
刑事たちの威勢のいい声が会議室に響く。それがまたミケを惨めな思いにさせる。
「どうした、熊岩に話を聞きに行くぞ」
ニャンがミケの肩を叩いて言う。
「何沈んでんだ。常に堂々としとけ。舐められるぞ」
「どうして落ち着かないんですか」
ミケはついついそんなことを聞いてしまう。そんなことを聞いたら怒らせてしまうと分かっているのに。
「俺に言ってるのか?」
「会議中ずっと、手が震えてましたよ」
「そんなことはない」
「目線も何だかおかしかったですし。何か心配事があるなら教えてください」
「ない、行くぞ」
ニャンはきっぱりとそう言って、会議室を出て行ったが、ミケにはそんなニャンの様子も何だか違和感に覚えて仕方がなかった。
「どうしたんですか、ミケさん」
ニャンとミケが喧嘩していると思ったのか、クロが心配げに声をかけてきた。
「特にどうもしていないけど」
「さっきニャンさんと揉めてましたよね」
「いや、ただの話し合いだ」
ミケは被害者の写真などが張り出されたホワイトボードを見つめ、考えているふりをする。
「志々田さんを助けられなかったことを気に病んでるんですか」
「そんなわけ。ただ、申し訳ないとは思っている」
「ミケさん力弱いんですね」
彼女はどんどんミケの気にしている点を突いてくる。ミケは額に手をあてて、やれやれと首を振る。
「見たらわかる通り」
女性刑事にそんなことを言われると恥ずかしくて仕方がない。
クロは突然メモ帳を一枚丁寧に破り、胸ポケットからボールペンを取り出すと、素早く何かを書き記し、ミケに差し出した。
「はい、電話番号」
「え?」
「これ以上被害者を増やさないためにも、もし力仕事が必要となれば私を呼んでください」
「君も女だろう...」
「あなたのお母さんと同じぐらい優秀です。喧嘩も強いです。柔道段位取得者です」
そう言われてもミケはどんな反応をするのが良いかわからず、適当に頷く。
「何故そんな。君も忙しいだろう」
「私のことを変な目で見ない刑事に久々に会いました。あなたのもとで事件捜査をしたいです」
こいつは何を言ってるんだ、と戸惑いながらとりあえずミケは電話番号だけ受け取って取り調べ室に向かった。
ミケが取り調べ室に着くと、ちょうど、前方からガタイの良い大きなクマが歩いて来るのが見えた。あれが、熊岩ツキという男なのだろう。彼の前を歩く刑事の二、いや三倍ぐらいはあるだろうか。目は涙ぐんでいるように見える。仕事友達の死を目の前にしながら防げなかったことで、悲しみに打ちひしがれ、その悲しみをなかなか消化できずにいるのだろう。
たまに肩を震わせているあたり、まだ泣き止んでから間もないようだ。こんな巨体に泣かれたらたまったもんじゃないが...。
「とりあえず、襲ってきた者の様子を教えてください」
明らかに自分が小さいことを実感しながら取り調べ室にて、ミケは取り調べを始めた。ガラス越しに廊下からニャンがぎろりと見ていることも、依然の犬内ドクの取り調べの際の説教を思い出してしまい、緊張させられた。そういえば彼はどうなったのだろう。いや、釈放されたはずだ。事件発生時、彼は、刑事たちによる取り調べに遭っていたのだから。
望まれない形で、志々田ゼラの願いは叶ったのか...とミケは感傷的になってしまう。
「大きめのオーバーコートを着ていて、顔は覆面で見えませんでした。それと...」
彼はゆっくりと、記憶を辿るようにして思い出しながら言う。
「手袋はつけてたはずです。体型は...オーバーコートのせいでよく見えませんでした」
ミケは、彼の語る特徴と、自分が見た時の特徴を重ね合わせながら彼の話を聞く。
「あいつの姿が見えたと思ったらすぐ、あいつは、走って襲ってきて。首一点を狙っていたように見えました...それで、急いで止めたけど...結局...」
ツキは、エンのことを思い出し、嗚咽した。ミケは気まずくなって彼から目を逸らす。
「他に何か覚えてる点はありますか。例えば、そう、声とか」
ここでできるだけ情報を仕入れなければ、とミケは珍しく粘る。
「何も喋ってなかったと思います。いや、呻き声は聞こえました」
「どうでした? 声は低かったですか、高かったですか。女の声でしたか? 男の声でしたか」
「低くて、男の声、のような感じでした」
彼は思い出しながら答える。
「他に、彼の名前を確認できるものを彼が身につけていたとか、そんなものは」
「なかったです」
わかった情報は、性別は男だと推測される、というぐらいか。しかし、意図的に低い声を出した可能性や、呻き声が低い女である可能性も否定できない。これ以上聴取するのも、彼の精神面的に厳しいと感じたミケはここで聴取を終えることにした。
そのタイミングで、ツキは絞り出すように言った。
「あ、でも。あいつの腕は腫れてるはずです」
「腫れている?」
「腕を捻ったんです。ナイフを取り落とさせようとして。流石にナイフに直接手を伸ばすのは危ないと思ったんで」
つまり、現在上がっている容疑者の腕を調べていけば特定に至るかもしれない、とミケは考えながら彼の話の続きを聞く。これは捜査に大きな進展だ。どうやら、ニャンも同じことを考えたようで、ガラス越しに見える廊下のニャンが、別の刑事に指示を出していた。
「エンさん...猿内さんが覆面を外そうとしたところ、あいつは突然暴れ出して。多分、余る力を全て使い果たして、僕の拘束を逃れて...それで、僕が気付いた頃には...あぁ」
また彼が嗚咽する。力は強いが、とても純粋で優しい青年のようだとミケは好感を覚えた。
「我々が必ず捕まえます」
ミケはどうにか彼を励ましてやりたくて、そんな勇ましいことを口にした。
「でも、エンさんはもう帰ってこないんです」
彼は悲しげにそう言った。その言葉がミケに深々と突き刺さった。もう帰ってこない。死者は蘇らない。警察として働いてきてミケは何回この言葉を聞いただろうか。しかし、特にミケには気にならなかった。初めて聞いた時は、遺族での同情の念に駆られたが、それも長くは残らなかった。
今、ミケは目の前で救えたかもしれない命が失われ、ついに、死者は蘇らない、という言葉の真意を理解した。どうにか時を戻すことが出来ればよかったのに、思い残すことがある、ということを悔いる言葉だったのだ。ミケは俯いたまま、言葉も聞けなかった。しかし、心優しい彼はそんなミケに話しかけたりはせず、取り調べ室にて一匹と一頭は悲しみと、無念に暮れた。
3
「犬内は釈放した。あいつは一連の事件にはどうやら関与していないようだ」
ミケが重い足取りで取り調べ室から出てくるなり、ニャンが言った。
「今刑事たちに方々に出向かせて、全ての容疑者たちの腕を確認してもらっている」
彼はやっと事件が解決しそうだ、といった口調だったが、ミケにはそれは誤りであると思えた。
「何も解決しません。説明できない謎が、あからさますぎるぐらいに残っているでしょう。あれをどう説明するんですか」
彼が会議でも言った最大の謎。どうやって、二十キロ近く離れたこの二つの事件現場間を、数分の間に移動したのか。使われたのは同じ凶器なのだ。共犯説も立てづらい。
「一つ考えられるのは...普通のナイフを持って猿内さんを襲った〈覆面A〉と、猿内さんの血液をあらかじめつけておいたナイフを持って、志々田さんを襲った〈覆面B〉がいたということだな」
「でも、志々田さんが襲われた時、ナイフには血なんてついてませんでしたよ」
「見間違いかもしれないだろう」
「そもそも、共犯だと仮定すれば、我々の事件解決にかかる手間は増えますよ」
「事実は事実だ。これしか考えられないだろう」
ニャンのこの発言もミケに違和感を抱かせた。以前、真実か真実でないかは関係なく兎に角早期解決することが俺らの仕事だ、と熱弁していた彼がなぜ急に、手間がかかっても問題ないと考えるようになったのだろう。何か動揺している、あるいは隠していることは間違いない。
ニャンがまさか事件に肩入れしている? しかし、あの実直で裏のない彼がそんなことするはずが...。あるいは、誰かを庇っている? 誰? そして、何のために?
「とりあえず、調べたいことがあるので失礼します」
「何を調べるんだ」
「被害者たち、つまり、猿内さんと志々田さんのSNSを調べ尽くします。もしかしたら、何かしらの情報が見つかるかもしれないですし」
「またSNSか」
ニャンは吐き捨てるように言った。
「そのSNSのせいで、今日二つの命が失われたんだぞ」
「しかし失われていなければ、とても重大な情報を聞き出せたんです。SNSは効果があります。誰もが自由に発言できるからこそ。二つの命を失ったSNSには、今後の事件を防ぐぐらいしてもらわないと気が済まないですしね」
「わかったわかった」
ニャンは頷くと、そそくさと廊下を歩き去っていった。ミケはスマートフォンを取り出して、Twitterを開く。
早速、「#猿内エン」がトレンド入りしていた。有名キャスターの死は大きな反響を呼んだようだ。ネットニュースの速報がこの悲惨な事件を早速報じたのだろう。
〈まじか。猿内さんの声聞きやすくて好きだったのに〉
〈怖い事件だな。猿内エンさんのご冥福をお祈りします〉
〈猿内エンさん、前ツーショット撮ってくれて、すごい親切でいい方だっただけにむちゃくちゃ悲しい〉
というツイート。そして、勘のいいネット民たちによる考察。
〈猿内エンさんが殺された理由って何なん?〉
〈数週間前の首切り事件が関連しているってま?〉
〈【考察】猿内エンさんが殺された理由。実は、数週間前に発生した「西磐市首切りジャック」としても話題になった事件と関連している。『#西磐市首切りジャック 重要な情報を掴んでしまったかも』という過去の猿内エンのツイート(現在はアカウントが非公開になっているため閲覧不可)がそれを示唆している。情報を握ったことで、口封じに殺されたと見える〉
などとご丁寧に分析しているツイートもある。その考察が完全に間違えているわけでもないということは、やや不愉快だったが、志々田さんの事件がこの事件に関連しているとメディアに伝えたりしたらもっとネット民は湧き面倒なことになっていただろう、とミケは憶測し胸を撫で下ろす。
色々考えると、下腹部が痛くなってきて、そのまま眠気に襲われ...。
4
「お前は眠ってばっかだな」
ニャンに頭を叩かれ、ミケは目を覚ます。ニャンの隣には数匹の刑事がいる。その中にはクロもいた。
「ああ、すいません」
ミケは寝ぼけたままぼんやりと返事をする。
「今九時だ。廊下で立ったまま寝るとは大したもんだ」
「昨日、廊下で、ああ、そうだった」
ニャンと別れたミケは眠くなって、廊下で立ち寝してしてしまったのだ。エゴサしながら立ち寝したから、スマートフォンを落としていないかと不安になり、ポケットを探った。スマートフォンはポケットに入っていた。
「しかも、今九時。つまり、俺と別れた直後に寝たなら九時間近く寝てることになる。さらに、こいつらが突いても突いても起きなくて、困った結果俺を呼んだらしい」
「すいません、疲れが溜まってて。お腹も痛くて」
適当に言い訳をする。まだ寝起きで頭が働かない。
「お前の苦労も分かっている。昨日は色々あった、それで心理的にもしんどかったのだろう。ただ、もう十分寝たな。なら、働いてもらおう」
「事情聴取ですか」
「俺は今から瓜内トンの所に、腕にあざがあるかの確認を含めて行ってくる。だから、お前は被害者猿内エンの自宅に行くんだ。できる限り調べ尽くせ。怠るなよ」
「終わったら瓜内のところへ行ったらいいですか」
ミケはあくびを噛み殺しながら尋ねる。その様子を見て、ニャンの後ろにいる刑事は不安そうにミケを見ている。クロは呆れた様子で溜息をついていたが、目は笑っていた。
「いや、今日は自宅調査だけで切り上げていい」
「わかりました」
素直に頷いたが、これにもミケは疑問を覚える。今までは共に行動することが多かったのにも関わらず、今のこのあからさまな単独行動、これもミケに色々な憶測をさせる。
ミケは、昨晩からのニャンの様子について考える。
先ほどのこともそうだ。瓜内のところに行くと伝えておいて、実はまた別のどこかに行くのか。そこで、何か、何かはわからないが隠さなければならないことをするのか。ミケにはニャンがそんなことをするようには依然思えなかったが、何か裏があることは見えている。そこで、被害者の自宅調査は別の刑事に委託して、ミケはニャンの後をこっそりとつけることにした。一度瓜内の家に行ったことがあるので、道に迷うこともないだろう。
ミケは、ニャンと時間をずらして西磐中央駅に向かった。意外とニャンは足早で(その様子が尚更、ミケに疑いを抱かせるが)、西磐中央駅のホームでやっとニャンの後ろ姿を確認できた。ミケはニャンがぎりぎり見える位置を探して、ニャンより一車両後ろの車両に乗り込む。冷房が丁度よい温度で効いていて、ミケは眠たくて仕方がなかったが必死で睡眠欲に抗う。
当初は宇貝駅までSNSでいつものごとくエゴサをする気だったミケだが、そのままうとうとして眠ってしまうわけにはいかないのでエゴサは我慢する。
モニターに表示されている時事ニュースには、エンの殺害事件のことも報じられていたが、報じられていることは大体察していたので、特に見る気にはならなかった。
しょうがなくつまらないので、ミケはこの事件を改めて振り返る。まだ見えていない事件の様相があるような気がして仕方がないのだ。
まず、蛙池ヒキ氏殺し。第一発見者は蛙池氏の息子ゲロとその友達コビ、そして医者ファン。捕まったのは犬内ドク。他に瓜内トンも容疑者だった。
現場は二重密室。この密室を破れるのは、窓から脱出できるものに限られるが、鳥類の確認もなく、現場は二十二階だ。
そして、首を切断されていた。
二件目は、志々田ゼラ氏と猿内エン氏の事件。両者ともに同じ凶器によるもので、目撃された者の覆面にオーバーコートという服装も同じ。同一犯であるとみて問題はないだろう。
二十キロ近く離れた二地点でのほぼ同時殺害という謎。
そして、首を一突きに殺害という殺害方法。
殺された理由は、多分口封じだろう。こつまり、猿内と志々田の両者が情報を握っていると知っている者が怪しい。しかし、それは誰だろう。ミケのようにじっとエゴサーチをしている者だろうか。あるいは...。
ミケの頭にぼんやりニャンの顔が浮かんできて、ミケは唸る。否定できない。警察関係者も当然知っているはずだ。
そして、この二つの事件には共通点がある。重大でないように見えて実は重大でありそうなものが。
それは殺害方法の「首」だ。
被害者三名は全員首を攻撃されてそれが原因で亡くなっている。この首への執着はどうしても気になってしまう。なぜ首なのだろう。なぜ他ならぬ首なのだろう。そもそも首に執着する理由が、ミケには数えるほども浮かばなかった。
一つ考えられるのは、何か別の事件、あるいは事象のオマージュであるということだ。そのある事件を模すために首に狙いをつけて殺している。しかし、そのある事件とは何なのだろうか。どのような事件で、誰が殺されたのか、ミケには見当もつかない。そして、事件を模倣する理由もいまいちわからない。誰かにある事件のことを思い起こさせたいがために、首を狙っているのだとすれば、その誰かとは誰なのか。
もう一つは、ある意味を持って首を襲っているということ。例えば、誰かに伝える暗号、あるいは脅し。あるいは、何かの印。いずれにせよ、そういった符号性のものが根底にある可能性。
では、どちらが現実的か、とミケは考えてみて唸らざるを得ない。どちらも浮かばない。
もしかしたら、意味があるように見せて警察の捜査を撹乱しているのかもしれない。
しかし、何か意味があるようで仕方なく、ミケはそれを考えながら、ニャンの後をつける。
ニャンは宇貝駅で電車を降りた。ここまでは、ニャンの行動に嘘はないし、ここまで嘘がなければ、瓜内トンの家を訪れることは確定的だ。つまり、「瓜内トンの家を訪れる」ということとはまた別の嘘をついている、とミケは考え、ニャンへの信頼との間に葛藤しつつ、こっそりと彼の後を追う。
彼は後を追われているとは思っておらず、まっすぐに歩いていく。アニメであるように、ちらっと後ろを向いたりすることはなかった。出来るだけ足音を立てないようにミケも細心の注意を払う。古風な田んぼの風景は、以前来た時と変わっておらず、都会で日々刑事などというしんどい仕事をしているミケの体を少なからず癒してくれる。遠くからは蝉の鳴き声も聞こえる。
そして、歩いて行くうちに、少しずつ家のような民家が見えるようになってきた。ここら辺まで来ればあと少しで着くはずだ。田園風景もいいが、やはり、建物が見えてこないとどこか不安になってしまう。まるで、この世に自分しかいないような陰惨な気分になる。
「おはようございます。またこんな不便な土地までご足労で。さ、中入ってください」
事前にニャンは連絡を入れていたのだろう。瓜内トンの家の前でトンが待っていた。ミケは、ニャンに見つからないように物陰に隠れる。ニャンは無警戒なまま、トンの家へと入って行った。流石にトンの家の中まで後をつけることは難しいので、トンの家からニャンが出てくるのを待つため、ミケはトンの家の横にある倉庫に隠れた。倉庫にはトラクターなどの農業機械や、ドライバーやペンチといった作業道具が並んでいる。そこに血のついた刃物なんかがあれば事件解決だが流石にそんなことはない。
ミケの憶測ではニャンは数十分で家から出てくるはず。ニャンはトンへの事情聴取を素早く済まして、すぐに別の目的に移るはずだ。
十分経った。さすがにニャンは出てこなかった。ニャンはある程度しっかりと事情聴取を行っているのだろう。
二十分経ったが、彼は出てこなかった。ミケは眠たくなってきて、この二十分の間に何度も欠伸をした。
三十分経っても出てこなかった。どうやら、ミケの憶測は外れたようで、ニャンは事情聴取をしっかりと行なっているようだった。
一時間経って、ようやくニャンが出てきた。ミケは暇しすぎて、ついついうたた寝をしていた時、入り口の戸が開き、ニャンが出てきたのだ。
ニャンは礼をして、トンの家を立ち去ると、真っ直ぐ宇貝駅まで歩いて行く。ミケは慌ててそれを追った。
結局、ニャンは真っ直ぐ宇貝駅に向かい、西磐中央駅で降りた。どうやら、ニャンは別にこれといった異なる行動を取るつもりはなかったようだ。ここでようやく、ミケのニャンへの疑念は晴れた。元々、晴らしたかった疑念だけに晴れたおかげで、ミケの気分もどこか清々しかった。
ミケは早歩きで裏道を通り警察署に、ニャンより先に戻った。
欠伸を噛み殺しながら入り口で待っていると、ニャンが帰ってくる。
「ミケ、どうだったか」
ニャンは腕を組んで、険しい顔をしている。
「自宅調査の方は別の刑事に頼んでいて」
「なんだと? じゃあお前は何やってたんだ」
警察署の入り口で怒鳴るので、入り口番の警官がビクッと肩をすくめる。
「別にやることがあって」
「なにをやっていた」
「テレビ局の方の犯行現場の調査をしていました」
「なぜそんなことを。そんなことする必要はない」
ニャンはキッパリとそう言う。これは彼の言う通りで、ミケも仕方なくこの嘘を選んだ。先に嘘を考えておけばよかった。
「すいません。勝手な行動をとって。ところで、瓜内トンの方はどうでした」
なんとかミケは話題を変える。
「腕に痣があるかは確認できなかった。あいつは、畑仕事があるから、腕に結構痣や傷があって素人の目ではどれが直近のものかなど判断つかずだ。だが、アリバイはあった。犯行時刻は会社の同僚と酒を飲んでいた、と」
「彼の証言の裏付けは取れたんですか」
「ああ。取れた」
つまり、瓜内トンは白寄り、とミケは頭の中のチェックシートに書き込む。
「犬内も違う、瓜内も違う、となるとこの事件、なかなかわかりませんね」
「容疑者を探すなら一件目の事件を参考例とするのが一番だろう。なので、とりあえず、一件目の事件を中心に捜査を続ける」
ニャンはそう言ったが、ミケにはやはりまだ見落としている点があるように見えた。
「とりあえず、中に入りましょう。中で話を」
炎天下で尚且つ、蒸し暑いのでお互い汗が滴り始めた。そのため、ミケはそう勧め、警察署内の小さめの会議室で続きを話すことにした。
ミケは会議室の椅子に座った時、ポケットの中に何かが入っていることに気がついた。
「そういえば、気になるものがあったんですが」
ミケはゴソゴソと自分のポケットを漁って、気づいて言った。そう、初日に拾った毛玉だ。ミケは集中しすぎてその毛玉の存在を忘れていた。
「この毛玉、何かヒントである気がしてならないんですが」
ミケは、ピンク色の毛玉をポリ袋から取り出して見せる。ニャンは何かはっと気づいたような顔をしたが、すぐいつものしかめっ面に戻って
「ヒントか。うむ」
と考え込む。
「被害者が落として行ったとか。もしかすると、現場を密室にする際に使われた何かなのかも。あるいは」
「何かの証拠である可能性は確かに高い。どこに付着していた?」
「蛙池氏の家の壁にかかっていたタペストリーです。タペストリーの色からも、この毛玉は、タペストリーの一部では無いと思われます」
「これはまだ科捜研に回していないのか」
「ええ。お恥ずかしいことに、これを拾ったことを今更思い出したので」
毎日うとうとしていたせいで、完全に忘れていた。
「成程」
「どのように事件に関わっているかはわからない。だが、事件に関わっている予感はするし、事件に関わっている可能性があるなら調査はするべきだ。俺が科捜研に回しておく」
「ありがとうございます」
ミケはニャンにポリ袋ごと渡す。
「ピンクの毛玉か。何に付着していたものか。事件とは何ら関係ないものであるような気はするがな」
「でも、もしこれが密室作りに使われた何かだとすれば事件の捜査に大きすぎる進展をもたらしてくれるはずです。あの現場にピンク色の毛玉が使われているように見えるものは一切ありませんでした。なので、他から持ち込まれたものである可能性が高いです」
「とりあえず、科捜研の返答待ちだな」
ニャンはそう言って、科捜研に渡すため会議室を出て行った。ミケはニャンが完全に出て行ったのを見計らって、ポケットからピンクの毛玉が入った先程と似たような見た目のポリ袋を取り出す。ミケは、ニャンをまだ信頼しきっていなかったので、毛玉を二つに分けておいたのだ。
もし、ニャンがこの事件に悪い意味で関与しているなら、この毛玉を科捜研にはとどけず、破棄する可能性がある。毛玉がどのように犯行に絡んでいるかを彼が知っていたにしろ、知らなかったにしろ、証拠はないに越したことはない。彼は確実に処理する。或いは、虚偽の報告をするか。
だから、ミケは改めて後でこの片割れを科捜研に届けるつもりだ。今のニャンはやはりミケにはどうにも怪しく思えて仕方なかったのだ。
ニャンへの疑いは、先程一時的に払拭されたが、ミケの中には拭い去ることのできない強いニャンへの違和感が残っているまま。
とりあえず、昨晩は満足してベッドで寝れなかったし、今日はぐっすり寝よう、とミケは帰宅した。
家で、ぐっすり寝ようとは思ったものの、ミケは一応頼りにする医師の元を訪ねることにした。昨晩ちょっとした腹痛もあったので、念のためだ。
医者に診てもらうことが、ミケには自分の体調が大丈夫だという自信にもなる。
「久々ですね。あの事件の日以来」
「そうですね」
ファン医師は笑顔でミケを出迎えてくれた。この前の厳しい聴取で不快に思ってないかとミケは不安だったがここは快い様子で胸を撫で下ろす。
「まさかあんな事件に遭遇してしまうなんて私も思っていませんでした」
「本当に災難でしたね...。あのことがトラウマになったりはしてないですか」
「ご心配ありがとうございます。まあ、医者という職業柄、グロテスクなものには見慣れてましてね。とはいえ外科ではなく、内科医ではあるんですが。いやでも、結構ビビりましたけど」
ファン医師はそう言って笑う。
「まさか、私の心理状態のことを心配して、わざわざ予約してうちに来てくれたんですか」
「ああ、いえそういうわけじゃないです。普通に診察してもらいたくて」
「どのような症状ですか」
ファン医師はキーボードに手を置いて尋ねる。
「最近例の事件のこともあって、仕事の方が忙しく、疲労が結構あって。警察という職業のせいですが、色んな場所を駆け回ったり、頭を使ったり、取り調べをしたりと。ただ、眠る時間も殆どないんですが、一応、何か体を壊しているとかだったら不安なので」
「そういうことですか。今吐き気や眩暈はないですね」
「はい、そこら辺は大丈夫です」
「腹痛とかはありますか」
「定期的に。熱はないんですが」
「胃カメラとか撮ります?」
「やめときます。簡単な検査だけ幾つかお願いします」
胃カメラなどしたら、更に体調を悪くしかねない。
「こんな大病院に、こんなことで来てすいません」
「いえいえ、病気は早期発見がとても大事です。病気の治療も大事ですが、病気の可能性がある方の診察も同じくらい大事なんですよ」
「ありがとうございます」
ミケは頭を下げる。
「あの、もう一ついいですか」
ついでに、昨晩のアリバイも聴いておこうと思ったのだ。ファン医師は一応一件目の事件の容疑者だ。十分なぐらいに捜査しておいて損はない。
「ええ」
「昨日の午後七時ごろのアリバイをお聞きしたいんですけど」
「午後七時ごろ? そういえば、何か事件が起きてましたな。あれが私と何か関係あるんですか」
「一応、蛙池さんの事件と関連性がある可能性もあるので、先生のアリバイを確認できたらなと」
こんなに温厚で親切な方にアリバイを尋ねるのがなんだか申し訳なくなってきたミケだったが、ファンは丁寧に答えてくれた。
「その時間なら、普通に診察がありましたね。高熱の方の診察です。その後、手術もありましたかな。一応、証拠として、その際のカルテの更新日付をお見せしましょう」
そう言って、ファン医師はパソコンで、ファイルを開く。その後、更新された日付が書かれている場所をズームした。
「成程。わかりました。診察は何時から何時ぐらいまででしたか」
「六時五十五分から七時十分か十五分か。それぐらいです。帰りに受付の方に聞けば確認できると思います」
「いや、そこまでは大丈夫です。了解しました」
ミケは手帳にアリバイの時間をメモして、ファンアリバイあり、と記す。
その後は、簡単な検査などを受けた。簡単な検査だったので結果はすぐに出たが、異常なしだった。それですっきりしたミケはファン医師に頭を下げて、病院を出て、寄り道せず家に帰る。家に帰るなり真っ先に床に寝転がり、眠りについた。健康な睡眠ほど気持ちいいものはない。
5
「ニャンが? いいえ」
顔に元気はもう見られない老カンガルーはバインダーの用紙を捲りながら、首を振った。来てなかったのか...疑念がいよいよ強くなってくる。
翌日、ミケは科捜研を訪れていた。
サイズの合わない大きな白衣を袖に通し、バインダーに挟まり切る限界まで挟まれた大量の紙を、丸い大きな眼鏡を使って見つめている彼は、中央警察署の科捜研で最もベテランで、最も賢い科学者だ。
彼、翔屋ジャン率いるこの科捜研が、ここの警察署内で猫以外の職員に会える唯一の場だ。ここに勤めるのは皆、科学者なので、刑事ではなく猫ではないのだ。
なので、ミケが刑事になった当初、猫ばかりの環境にうまく馴染めず、よくここを訪れていた。ミケとジャンはその頃からの知り合いで、ミケはジャンのことを親、先生のように慕っている。
「本当に来てないんですね?」
ミケは念の為、再度確認する。
「本当だ。しかし、何かあったんかい?」
「いえ、そのー」
ミケは言い訳を必死で考えたが、浮かばず、とりあえず話を変えることにした。
「とりあえず、これを調べてもらいたいんですが」
ポケットからポリ袋を取り出し、彼に渡す。
「成程、毛玉か。なんの変哲もなさそうですな。色は淡紅色といったところか。おーい、君?」
ジャンは近くで別の作業をしていた若い女性のラマに声をかけた。
「これを調べておいてくれ」
「わかりました」
ラマの女性は快活な返事をして、ジャンからポリ袋を受け取り、早速顕微鏡を取り出して調べ始めた。
「昔よりも若い方が増えてますね。ここは将来が有望で、いつも安定していて頼りになります」
「君もそうだっただろう」
ジャンは上目遣いにミケの方を見てくる。
「いやいや、そんな。若かっただけですよ」
「若い者は、皆、将来有望だ。有望でない者などいないだろう? 可能性があるのが若いものだ。まさかお前は未来でも見通しているのか。見通すことなどできていないだろう? 若い者は未来がある」
「まるで自分にはもうないような言い方ですね」
「当然、私はもう来年で退職だ。未来などない」
「退職した後があるでしょう。それは未来じゃないんですか」
ミケが尋ねると、ジャンはにこりと笑って
「歳を取れば自ずと未来は見えてくる。もうとっくに、人生は折り返されているんだ。ここまでで積まれたものを消化していくのが余生だ。だからな、まだ未来が見えていない年寄りは皆若いようなもんなんだ」
と言った。
「じゃあ、ニャンさんはどうですか。彼は自分の未来が見えているでしょうか」
確かニャンはジャンと数歳しか歳が変わらず、ジャンの働き盛りに最もジャンと親しかったのはニャンだと聞く。
「あいつは沢山の経験を積んだ。お前とは違ったタイプのやつだが、あいつはお前と同じく結局目の前のことをひたすら必死でこなしているんだ。あいつはまだ若い」
「ニャンさんはまだ若いですか」
「あいつは兎に角家族のために働いているんだ。家族を愛している。本当は刑事なんてやりたくなかったのかもな」
その言葉は妙にミケには響いた。
「未来が見える、のいい例が死だ。死ぬ間際、走馬灯が見えるというが、死はわかるんだ。死ぬ時になればわかる」
「死はどのようにわかるんですか」
刑事という職業柄、死はミケにとって近いもので、怖いものであり、興味のそそられるものでもあった。
「私はまだ死んでないからわからん。だが、今まで死にかけている者を何匹も、何頭も見てきたが、皆、死を悟っていたように見えるんだ」
「検査結果が出ました」
ラマがジャンの話を遮り、肩を叩く。
「見せてくれ」
ジャンはラマに渡された資料にじっくりと目を通す。
「成程。ありがとう」
ラマは頷き、ミケの方にも小さく頷くとまた別の作業を始めるために、作業机の方へと行ってしまった。
「優秀な若者が多いから、最近は私は最終確認だけをやっているんだよ。本当に助かるが、ちょっと寂しいな。で、渡された毛玉だが」
「はい」
「ほんの少し、肉眼では見えないレベルの大きさの綿が付いていた。白色の綿だ。そして、淡紅色の毛玉の染料はベンガラですな」
「ベンガラ?」
聞いたことがない名前だ。
「酸化鉄です。優しい色合いが特徴の染料です。綿っぽい方はポリエステル繊維ですな」
「ちなみに、これは何の一部だと思います?」
ミケはジャンの持つ資料を覗き込む。
「まあ色々と考えられるけどな。例えば、枕とか布団とか。座布団とも考えられる」
「今日はありがとうございました」
ミケは頭を下げて、そのまま早歩きに立ち去った。
この毛玉も何かのヒントになるのかもしれないが、それよりも今はニャンを問い詰めなければならない。彼は確実に何かこの事件の核心に近いものを知っていて、それを隠そうとしている。ミケの目にはそうとしか見えない。
そして、その核心に近いものをなぜ隠すかは明確だ。彼もこの事件に大きく関与している。問い詰めて、教えてもらわなければ。事件を解決させることができない。
「ニャンさんが今どこにいるか知らないか」
ミケは廊下ですれ違った刑事たちに聞いて回り、二、三匹目でニャンの居場所を知っている刑事に出会えた。
「今は家で休んでいるはずだ」
ミケはそれを聞き、ニャンの家へ直行した。全て教えてもらう、力尽くでも。
6
「何しに来た?」
「ちょっと内密な話を」
いきなり強気に出るのは得策ではなく、そして今日はあくまでミケはニャンを追求しに来たのではなく、事件を解決するためにきたのだ。
「話? わざわざ来なくても電話でやればいいだろう」
ニャンは二匹分のコーヒーをプレートに乗せて、持ってくると、大きい方のカップをミケの前に置いた。
「美味い豆だぞ、飲め」
「あんまり、コーヒーを、豆の味で見たことないんで。コーヒー本体の味しか感じられないんで」
「まだまだ若いな。あー、散らかってて済まない。お前が急に来たもんだから」
ニャンは申し訳なさそうに後頭部を掻く。確かに散らかっているし、ニャンの私服はしわしわだったが、それでもどこか厳格さを感じさせられた。多分、彼の持つオーラのせいなのだろう。
「いえいえ、こちらこそ。ただ、電話で話せるような話題ではなく」
「ほう? 恋バナか? お前まだ未婚だろ、そろそろ...」
「違います」
ミケはキッパリそう言った。
「他に聞かれちゃいけない話なのか?」
「いや、そんなことは。いや、でも」
「さてはお前、幼い頃の黒歴史でも話に来たな?」
ニャンがそう言って笑う。うまい具合に場の雰囲気が和んできたところで、ミケはここぞとばかりに意を決して言った。
「仕事の話です」
「お前のキャラに合わないな。どうした」
「ニャンさん、僕に嘘つきました?」
「ん?」
パッと、ニャンの表情が変わる。ミケは目の前に座るニャンの顔を、出来るだけ強く睨み返して
「昨日の事件現場から採取した毛玉ですが」
と切り出した。
「それが...どうした」
ニャンは感情を表情に出してしまうタイプだ。ニャンの目が一瞬焦りに変わったのを見たミケは更に攻める。
「科捜研に持って行ったんですよね」
「うん? ああっと」
ニャンは答えをはぐらかす。目も泳いでいる。
「実はあの毛玉、もう一つ持ってるんですよ。だから、昨日、そっちの方も検査してもらうために、科捜研に行ったんです。でも、ジャンさんに聞いたら、ニャンは来ていない、と」
「それは」
ニャンは立ち上がって、ミケの方を睨みつけた。
「嘘ついたんですね。僕には持って行くって言ったのに。でも、どうして嘘をついたんですか。というか、ずっと様子が変です。何かあったんですか。いや、何かあったんでしょう! この事件に、あなたも絡んでいるんですか。どれぐらい絡んでいるんですか。何があったんですか。僕でよければ話しを聞きます。だから」
ミケはまだどこかにニャンは何も悪くないのではないか、と思うところがあった。当然、ここまでのニャンは怪しいし、何か隠しているとは思う。だが、百パーセントそうか、と聞かれたら頷くことはできない。確信は持てない。
だからこそ、ニャンを責め立てるのは辛かった。もし、本当にあらぬ疑いだったとしたらそれは失礼極まりないことだということは承知していたから、もし彼が本当に事件に大きく関与しているなら、それは、もうミケにはどうすればいいかわからなかった。
「あ、ああ、すまない、俺のミスだ。昨日渡そうと思ったんだが、忘れていてな」
ニャンはそう言って笑ったが、ミケはそれには乗せられない。彼の表情はまだ恐怖と怒りに支配されたままだ。
「普段からそういうミスをしないようなあなたが、ですか。しかも、ここまで迷宮入りしそうな事件においての少ない証拠を、ですか。らしくない。もしミスなら、今もあなたが持っているんでしょうね? まさか捨ててないですよね」
「それは」
ニャンは言い訳をしようとしたのだろうが、そこで黙ってしまった。
「あの重要な証拠を捨てたんですか」
「それは」
ニャンの声が消え入るように小さい。こんな彼をミケは一度も見たことがない。いつも大声で指示を出し、後輩を叱り、厳しい口調で取り調べや事情聴取を行う彼が、ここまで弱気であることはさらにミケに違和感を覚えさせ、彼への疑念を確信へと変えさせる。
「僕はあなたを疑っているのでも、責めたいのでもなくて。その...」
必死で訴えるがニャンは答えてくれない。黙ったまま、唇を振るわせ、時々目がちらちらと動くだけだった。ミケはそれでも諦めず続ける。
「教えてください、何を知っているのですか。何があったんですか。僕はニャンさんを最高の刑事だと正直に思っています。堅実で、必死で。だからこそ、教えて欲しいんです、あなたは何を恐れているんですか。助けられるなら助けたい。そして、この事件を解決させたい。これは被害者のためでもあるんです。長く刑事をやっているあなたならわかっているでしょう。だから、教えてください」
これは全てミケの本音だった。ニャンに事実を述べさせるために言った嘘では決してない。彼は兎に角誰かを逮捕すればいい、そうすれば世間は安心する、と言っているが、その考え方も間違いではない。警察の仕事は国民を安心させることであることに間違いはないのだから。
ニャンは返事をしなかった。ミケにとってもニャンにとっても気まずい時間が流れる。ミケは、ニャンと目を合わせるのが怖くなり、ニャンの背後にある写真立てを見つめた。ニャンの妻と子供、そしてニャンが三匹で写っている。そして、その写真立ての横のカレンダーの数日前から今日にかけての日付には『ミーとサヤ、旅行』と書かれている。そういえば、彼の家族が家にいなかったのはそういうことか。
「死ねえええええええええ」
その声が聞こえたのは突然だった。ミケは本能的に身構えたが、カレンダーの方に注意がいっていたせいで身構えるのは遅かった。ニャンの太くて、力強く様々な危険な犯罪者たちと争ってきたその奇跡を感じさせられる腕がミケの喉元に当てられた。
ニャンはそのままミケの首を絞める。ミケは必死で苦しみ悶えるが、到底ニャンに勝てそうにない。
段々、ミケの意識が遠くなっていく。ミケも抵抗する気がなくなってきて、ぼんやりと首を絞めてくるニャンの顔を見つめた。今まさに殺しを行おうとしている者の形相というのは、職業柄興味をそそられるところがあったからだ。
だが、ニャンの顔はどこか寂しげだった。彼の目には溜まった激しい罪悪感が充満していた。そして、彼の表情には、ミケへの憎しみは一才なかった。彼の表情は、これも同じく罪悪感で満たされていた。ミケはニャンの目をじっと見つめた。
「あ、あああ」
ニャンと目が合った。ミケの喉元ばかり見ていたニャンの目がふとミケの方を見たのだ。目が合った途端、ニャンは声にならない叫び声をあげてミケを離した。ミケは突き飛ばされるようにして解放され、その場に倒れたまま咳き込む。ニャンは顔を押さえて、唖然としていた。ミケは流石にこれ以上ニャンに関わるのはお互いのためにも良くないと考え
「また明日、警察署で会いましょ。お互い落ち着いて、冷静に、その」
その、の後、何か気の利いた言葉を言えれば良かったのだが、生憎ミケはそのようなことが苦手で、そこで言葉を切り、ニャンの家を後にした。喉元に痕がついていたら、後で厄介なので、汗を拭くふりをして首を抑えながら家へと帰りながら、ミケは自分に嫌気がさして仕方がなかった。結局、ニャンを助けるつもりで行ったのに、さらにニャンを追い詰めてしまった、ミケは自分の無能っぷりを痛感する。
7
ミケが家に帰り、一息つくとすぐスマートフォンの着信音が鳴った。もう誰とも連絡せず、このまま寝てしまって今日を終えたかったミケはイライラしながら応答する。電話をかけてきたのは、ブチという後輩の刑事だった。彼もこの事件の捜査を行なっている。
「ニャンさんの居場所知りませんかね」
「見てないなぁ」
ミケは嘘をつく。流石に本当のことは言えない。
「困ったなぁ」
「どうしたんだ?」
「いや、猿内さんと志々田さんの家宅調査を終えたんですけど、その報告が」
ミケは本来自分がするべきだった家宅調査を彼に押し付けていたことを思い出した。
「ああ、それなら僕に言ってくれれば。何か見つかったかい?」
「電話で話すのも面倒なので、手数ですけれど、署の方まで来てくれません?」
ああ、せっかく帰ってきたのに、とミケは肩を落とす。ミケが寛ごうとするといつも邪魔が入る。
「わかった。すぐ行く。何か物凄い情報でも手に入ったのか?」
「物凄い情報ではありませんが」
「なら行かない」
ミケは即答した。ブチは困ったように
「来てくださいよぉ」
と溜息をつく。
「そうやってサボるからなかなか昇進できないんですよ」
ミケにグサリと刺さる。
「昨日も廊下で立ち寝して倒れてたらしいじゃないですか。みんな、笑い者にするとか、馬鹿にするとかじゃなくてひいてましたよ。何やってるんですか」
またグサリと刺さる。
「ええと、具体的に何が見つかったんだ?」
都合が悪いので、ミケは話を変える。
「猿内の日記です」
「日記!」
興奮した調子で言った。
「それで、事件のあった日のページ以降にいくつか気になる記述があって。来てくれませんか」
「写真で送ってくれ」
あくまで動くのは面倒臭いというのがミケだ。
「ええ。面倒臭いなぁ」
「そんなんじゃ昇進できないぞ」
そっくりそのままお返しされても言い返せないようなことを平然とミケは言う。ミケは別に自分が怠け者であることをいけないこととは思っていない。
「わかりましたわかりました。送りますよ」
ブチはそう言って電話を切った。その後、ミケにラインで写真が数枚送られてきた。一枚目からミケは目を通していく。
『さっき、ジョギング中に妙なものを見た。確か〈マンション202〉の前を通った時だ。気のせいなのだろうか。それとも疲れているのだろうか。ただ、冷静に考えてそんなことあり得るはずがない。仕事で疲れているのだろう。昨日も一日中、夕方まるっとニュースとクイズ50の司会で時間を奪われた。今日はゆっくり休もう』
これが蛙池氏の事件当日の日記。『さっき』という言い回しをしているということは、ジョギングを終えて帰って来てすぐのことなのだろう。帰って来てすぐに日記に書きたくなるということは、よっぽど驚くものを目撃したのだろう。これは、事件が起こったことを知らない時点での記述だろう、とミケは推測しながら、次の日付を読む。
『昨晩、ツイートしたけどまだ、気分が落ち着かない。誰かに全て話さないと気が済まない。警察にでも言おうか、でも警察は信じてくれるだろうか。誰か探偵に言えば信じて捜査をしてくれるだろうか。昨日通った〈マンション202〉では殺害事件が起こっていた。ということは、もしかして、あれが事件に関係しているのだろうか。今日の仕事中も気になって仕方がなかった。集中しないと。一回忘れよう、このことは』
続いて、ミケは次の日記も読む。写真なので、影で見にくいところもあったが、拡大しながら一言一句逃さず読んでいく。
『警察の方がツイートを見て、信じてくれた。ただ、実際に言った時信じてくれるのだろうか。でも、言わなければまず自分の気がすっきりしない。とりあえず、言おう。信じてくれてもくれなくても』
送られて来た日記の写真はこの三枚だった。ミケはそれぞれを読んで、まず明らかに妙なところに気がついた。
「もしもし、ブチ?」
ミケはブチに電話をかける。
「読みました?」
「日記三ページ写真撮るのも面倒で、僕を呼ぼうとしたのか」
「こっちも忙しいんすよ。何しろ、この事件迷宮入りするって噂されてますしね。謎だらけ、全く訳がわからない。突破口がまず見えない。ニャンさんももう諦めてるんじゃないかって言ってる奴もいるし」
「で、日記なんだけど」
ブチと世間話をしていたら、自分の寝る時間が減ってしまうので、ミケはすぐに本題に入る。
「どうですか」
「気になる点もあるし、結構重要そうな点もあるな。これ、例えば、この日記でとても気になる点が一箇所あるんだけど」
「一切、猿内さんが目撃した何かに関する情報が書かれていないということ、ですね。なぜ、猿内さんは目撃した何かのことを隠しているのだろう」
ミケが言うまでもなくブチは気づいていた。彼が言う通り、目撃したことは何度も書かれているのに何を目撃したのか書かれていないのだ。自分だけが見る日記だ、本来、隠す必要は、ないはずなのに。
「どう思う?」
ミケはブチに尋ねる。
「隠す理由がないですし。もしかしたら、その何かを日記に書くことで、自分が不利になってしまう、とか」
「日記なのに? あの日記は誰かに見せるつもりで書かれたようには見えないけれども」
「ですよねぇ」
ブチは黙り込んでしまう。
「ただ、一つだけ考えられる筋がある」
「教えてください」
「猿内は、鮮明にその何かのことを覚えていなかった、のではないか」
ミケにはその可能性しか考えられなかった。
「曖昧にしか覚えていないから記述することができなかった、と。成程。流石、ミケさん」
電話越しに音割れした拍手の音が聞こえる。ミケはイラっときてムッとする。
「おちょくるな」
「おちょくってるんじゃないです、煽ってるんです」
「は?」
「もし、そうだとしたら、なぜ警察に言うんですか? 鮮明に覚えていないのに、あんなに勿体ぶって言うことはないでしょう」
「それは...そうだな」
悔しいが、彼の言う通りだ。つまり、曖昧にしか覚えていないという説は薄い。
「ちなみに、お前はどう思う?」
「さあ。全くわからないっす」
「だと思った」
ブチは基本閃くことはなく、他者の閃きの中から有り得るものを抽出するのが得意なのだ。だから、結構色々な刑事から忌避されることが多い、ただ、ミケからすれば、閃いて本能的に動く自分にとって、ブチは最高のパートナーで、彼のことをとても信頼している。
「とりあえず、何か思いついたらまた電話ください。僕は資料の整理が忙しくて」 ブチはそういう性質が故に雑用係に回されがちなのだ。
「じゃ、お疲れ様」
ミケはそう言って電話を切った。そして、そのままベッドに飛び込む。果報は寝て待て、がミケの座右の銘である。
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