ひかりにとける
祈
ひかりにとける
思い出す過去は色褪せて見えるなんていうけれど、私にとって高校二年間の記憶は、いつまでも眩い光を放って私の心を照らしているような、鮮やかで美しいものだった。辛いことがあった時はそうっと瞼を閉じて、心の奥深くまで潜っていく。どれだけ暗くて先が見えなくても、私には確かにその光があるから、また生きてゆけると信じられるのだ。
そしてその中でも一等輝いて見えるのが、木葉桜という少女との記憶だった。彼女は私にとってクラスメイトであり、図書委員会の仲間であり、秘密の共有者であり、親友であった。
桜は不思議な雰囲気を持つ少女だった。人生が楽しくて仕方ないとでも言いたげに無邪気に笑うくせに、たまに驚くほど寂しげな冷たい眼差しをする。いつだって人に囲まれているくせに、どこか周りから一線を引いたような態度をとる。小学生だって知っているようなことを知らないくせに、長生きした老人のようなこの世の全てを悟った物言いをする。
あのときだってそうだった。高校二年生の冬、私が転校することになったとき。
「ねえ、またいつか会おうね」
ぽろぽろと涙を溢しながらそう言った私に、桜はあの、冷たい瞳を向けて言ったのだ。
「ううん、私たち、きっともう二度と会うことはないよ」
私はその言葉にひどく傷ついて、彼女の前から去った。それが美しく輝く記憶の終わりだった。私は転校先の高校に馴染めず、友人もできず、不登校になり、高校生活を終えたから。
どうしてそんなことを思い返しているのかと言うと、私の元に高校の同窓会の知らせが届いたからだった。生徒数が少なく学年の生徒みんなが仲の良いのどかな高校だったので、途中で転校した私のことも覚えていてくれたらしい。それが嬉しくて、私はすぐに参加に丸をつけて葉書を送り返した。
もしかしたら、桜もいるかもしれない。そう思うと心が弾んで、記憶の中の笑顔がいっそう輝いた。十年前の別れの時は桜の言葉に傷ついたけれど、十年経ち成長した今となっては彼女にも何か事情があったのだろうと思えるようになっていた。そう思えるほどには私は桜のことが好きだったのだ。
会いたかった。
会って、話がしたかった。昔みたいに二人で笑いあいたかった。私たちはお互いが一番仲の良い友達だったから、きっとまたそんな関係性に戻れると信じていた。
けれども。
「ねえ、今日は桜は欠席なの?」
同窓会会場に桜の姿が見えないことに残念がった私の言葉に、幹事を務めている元学級委員長は不思議そうに眉を寄せた。
「誰、それ?」
「……え? 桜よ、木葉桜。私と同じ図書委員だった」
「そんな子いたっけ?」
最初は、彼女が桜のことを忘れただけかと思った。私は忘れるなんて酷いなあなんて呑気に笑って、周りにいた友人たちに同意を求めた。しかし彼女たちは皆一様に首を横に振った。
「えー、覚えてない」
「知らないよ。橘の勘違いじゃない?」
「え、桜よ? 木葉桜! 冗談やめてよ、みんな知らないなんてそんなはずないわ」
だんだんと、体の底が冷たくなっていくような感覚があった。何か恐ろしいことが起こっている気がする。私は急く心を必死で宥めながら会場内を歩き回り、一人一人に桜のことを聞いて回った。けれども、知っていると首を縦に振った人は誰もいなかった。誰も、桜のことを覚えていなかったのだ。
その衝撃たるや凄まじく、その後のことはあまり覚えていない。気がつけば会場から家までの帰路を、一人とぼとぼと歩いていた。
道の真ん中で立ち止まる。瞼を閉じて、ゆっくりと、心の奥深くまで潜っていく。そこに存在するのは、光を放って輝く、美しい記憶たち。これは偽物?
私はぱちっと目を開けた。きょろきょろと視線を上下左右に動かしながら歩みを進める。やがてとあるビルの看板に目当ての書店の名前を見つけると、私はそのビルに入り、足早にエレベーターに乗り込んだ。書店のある階で降りると、まっすぐ書店の純文学の本棚へと向かう。
目当ての本はそこにあった。タイトルと著者名が印刷された背表紙を人差し指の腹でなぞると、そうっと本棚から引き抜く。表紙をめくると、一番最初のページ、物語の始まりの文章の中に、桜、という文字が載っていた。この小説の主人公の名前だ。
「やっぱり、偽物なんかじゃない」
自分に言い聞かせるようにそう呟く。
その本は私が書いた小説であり、デビュー作だった。
とある新人賞を受賞し小説家としてデビューすることが決まったとき、表彰式で司会者に「受賞を誰に一番に伝えたいですか?」と聞かれた。そのとき一番最初に脳裏に浮かんだのは、桜の顔だった。
桜は私が初めて小説を読んでもらった相手だった。
それまで私は誰にも小説を見せず、授業中に教科書の下にノートを広げてこそこそと文字を書き連ねるようなことをしていた。私が小説を書いていることなんて友人の誰も、家族ですら、知らなかった。それを打ち明けるような機会もなかったし、何より私にとって小説を読んでもらうということは自分の心の中を見せることと同義で、なかなかに勇気のいることだった。
だから桜が私の書いた小説を読むことになったのは、全く私の意図するところではなかったのだ。完全に偶然で、予想外の、事件だった。けれども桜は私の小説を決して馬鹿にすることなく、むしろ目を輝かせて褒めてくれたので、彼女は秘密の共有者となり、その後も小説を書いたら桜に読んでもらうことが習慣となっていった。
「私のこと、主人公のモデルにしてもいいよ」
冗談めかしてそう言われたのを思い出したのは、桜と別れたあと、転校先の高校に馴染めず部屋に引きこもってひたすらに小説を書いていた頃だった。その頃の私は頻繁に美しく輝く過去を思い出し、その光にすがってはあの日々に戻りたいと涙していたので、せめて物語の中だけでも桜に会いたい、と桜をモデルにした主人公の小説を書いたのだ。そしてそれがデビュー作となった。
ぺらり、とページをめくり文字を目で追っていく。この小説を読むのは久々だったけれど、これを書いたときの記憶は鮮やかに蘇ってくる。そして芋づる式に、桜との思い出の数々も。
桜を探そう。私はそう強く決心した。
木葉桜は、私の親友は、確かに存在したはずなのだ。あの記憶が偽物であるはずがない。私の心を照らす光が嘘でできているはずがないのだ。
──きっともう二度と会うことはないよ
最後に会った時、桜が放った言葉を思い出す。あの時、私はただ、桜を冷たいやつだと決めつけた。けれども、本当はそうではなかったら? 桜に何か、事情があったとしたら? そう、例えば、この不思議な現象のことを、桜は予想していたとしたら?
あの冷たい眼差しの、本当の意味は?
知りたかった。
だから私は、桜を探すことにしたのだ。
しかし桜が存在していたことを証明するものはどこにもなかった。高校時代に書いた手紙、授業中の落書きが書かれたノート、修学旅行で撮った写真、その全てに確かに桜の痕跡があったはずなのに、すべてが綺麗さっぱり失われていた。ツーショットは別の友人が映っていたし、絵しりとりは一つずつ飛ばして絵が消えていた。同窓会で再会した友人に頼んで卒業アルバムも見せてもらったが(途中で転校した私は卒業アルバムを持っていなかったので)、クラスの集合写真にも、名簿にも、そのどこにも桜の存在はなかった。
それでも、私の心の中、眩い光の中に、確かに桜は存在した。私はその光を信じて、桜を探し続けた。
そしてそれから一ヶ月が経った頃。
ピコン、とメールが届いたことを知らせる通知音がパソコンから鳴った。
仕事を一時中断してキッチンでコーヒーを淹れていた私は、その音を聞いてマグカップを片手にパソコンの前に座った。マウスを操作しメールフォルダを開く。フォルダの一番上、未読を示す青い丸がついたメールをクリックすると、私は画面に開かれたメールの文章を目で追った。
それは、ちょうど最近よく思い出していた、十年前に通っていた高校からのメールだった。
「廃校……?」
そこに書かれていたのは、高校が廃校になるという知らせだった。少子化に伴う生徒減少が原因で、近くの高校と合併することになったらしい。次の春、最後の生徒が卒業した後に校舎は解体されるとのことだった。
そして本題はここから。どうやら、小説家という職についた私をゲストに招いて生徒に向けた講演会を行いたいらしい。
講演会、というものを、今までに何度か打診されたことがある。けれどもその全てを私は断ってきた。別に大した理由はない、ただ私が極度のあがり症であるというだけだ。昔から人前に立って話すことが苦手で、大人になった今でもそれは変わらない。机に向かって一人で原稿に向き合う小説家という職業に就いたのも、あがり症が未だに治っていない一因だろう。
今回も断ろうとした私は、ふと天啓を得てマウスを操る手を止めた。
高校に行けば、桜の痕跡が見つかるのでは?
卒業アルバムにも記録がなかった以上、高校に残っている記録にも桜の名前はないだろう。けれども、高校二年生の冬に私が転校するまでの二年間、あの校舎の至るところに桜との思い出がある。もうどんな些細な手がかりでもよかった。
私は藁にもすがるような思いで、了承のメールを返した。
そうして幾度かメールで打ち合わせを繰り返し、講演会当日。
十年ぶりに訪れた高校は、記憶にあるものとなんら変わっていなかった。校舎の少しくすんだクリーム色の壁も、食堂の日替わりメニューが貼られた玄関の掲示板も、庭に植えられた大きな桜も、全てが一瞬で私を十年前に引き戻す。
昔を懐かしんでキョロキョロと視線を動かしていると、校舎の中からスーツを着た男性が一人出てきた。私を視界に入れるとペコリと頭を下げる。
「こんにちは、佐々木先生。この度はお越しいただきありがとうございます」
「こんにちは。こちらこそ、講演会のお誘いありがとうございます」
私もお辞儀を返すと、「こちらです」という先生の案内に従ってその背中についていった。玄関でスリッパに履き替え、そのままリハーサルのために体育館へと向かう。今はちょうど昼休みの時間なのだろう、廊下には立ち話をしている生徒たちの姿が見えたし、グラウンドからは賑やかな声が聞こえてきた。
ふと、廊下の向こう側からこちらに歩いていくる二人組の女子生徒が目に飛び込んでくる。その片方の少女から私は目を離すことができなかった。
毛先がくるんとしたウェーブを描く、柔らかな癖毛。照明の光を弾いてきらきらと輝く大きくて丸い瞳。まだ大人になる前の少女特有の幼い顔立ちは、記憶の中にあるものと完全に一致している。ここ数ヶ月、私が探し続けた輝きがそこにあった。
桜だ。
桜だ!
間違いない。そう思う一方で、私の冷静な部分はありえないとその思考を否定する。そんなはずがない。目の前の女子生徒が桜であるはずがないのだ。だって、桜は私と同い年で、つまり今は二十八歳になっているはずなのだから。桜の子供であるという可能性も考えたが年齢が合わない。
けれども、他人の空似だと言い切るにはあまりにも顔立ちが似ていた。桜は一人っ子だと言っていた覚えがあるし、親戚か何かだろうか。
それでも、と私は一歩踏み出した。彼女はこの数ヶ月私が探し続けてしかし欠片も見つけることができなかった、桜への手がかりである可能性が高い。それを逃す手はなかった。
「こんにちは」
勇気を出して声をかけると、二人がこちらに視線を向ける。目を合わせると、やはり彼女は桜によく似ていた。
「ねえ、あなたの親戚に木葉桜という女性はいない?」
そう聞くと、少女は驚いたようにその瞳を大きく見開く。そのまま声を発さない彼女に代わって私の問いかけに答えたのは、彼女の隣にいた女子生徒だった。
「この子が桜ですよ。木葉桜」
「えっ」
今度は私が驚きに目を見開く番だった。同姓同名? そんな偶然があるのだろうか。
「……その人とは知り合いなんですか?」
それまで無言だった少女がようやく口を開く。私はその言葉に一つ頷いた。
「うん。私がこの高校に通っていたとき、親友だったの。……ねえ、本当に親戚じゃない? 私、彼女を探しているの」
「そうなんですか。残念ですけど、親戚ではないと思います」
「……そう。ありがとう」
彼女の言葉にがっくりと肩を落とす。ようやく見つけた手がかりだと思ったのに、振り出しに戻ってしまった。
それにしても、こんなにそっくりで苗字も名前も同じなのに赤の他人だなんて、そんなことがあるのだろうか。不思議な気持ちだったけれど、それきり彼女は何かを考え込むように俯いてまた黙り込んでしまったのでそれ以上は踏み込めなかった。
そんな彼女の代わりに、友人らしき女子生徒が口を開く。どうやら友人にそっくりだという存在に興味を持ったようで、好奇心に目が輝いていた。
「そんなに似てるんですか?」
「そりゃあもう、同一人物かと思ったくらいよ。そんなわけないのにね」
「えーっ、私も会ってみたいな。ね、桜」
「そうだね」
控えめに頷いた彼女の表情は見えない。
「私も会いたいなあ」
ぽろりと、そんな言葉が口から漏れる。口に出してみるとその思いはいっそう強まった。私、今とても桜に会いたい。
彼女がようやく顔を上げた。その丸い瞳と目が合う。ああ、やっぱり桜によく似ている。
「あの……」
彼女が何かを言いかけたのと、「何かありましたか?」と先生がやってきたのはほぼ同時だった。そういえば先生に体育館まで案内してもらっている途中だったのだ。
「すみません」
私は先生に謝ると、くるりと彼女たちに向き合った。
「じゃあ、話に付き合ってくれてありがとう」
そう手を振って、私は彼女たちと別れて体育館へと足を踏み入れた。
体育館はこれまた記憶にあるものと何一つ変わっていなかった。壇上で何度かリハーサルを行い、準備が終わると同時にチャイムが鳴る。私は壇上の隅、カーテンの後ろから、ぞろぞろと生徒たちがやってきて列を作っていく様子を見つめていた。
「緊張する……」
ぼそりとそう呟く。桜の痕跡を探すために勇気を出して講演会への参加を決めたけれど、今になって後悔の念が私を襲ってきた。
深く息を吸って、吐く。何度かそれを繰り返していると早まっていた鼓動も段々と落ち着いてくる。そんなことをしているうちに司会を務める先生に名前を呼ばれて、私は拍手に迎えられながら恐る恐る教壇の前まで歩いていった。
「は、初めまして、佐々木右近といいます」
未だに名乗り慣れないペンネームを名乗る。
「私は高校二年生の冬に転校したのでこの高校の卒業生ではありませんが、それでもここは私にとって母校と呼ぶに相応しい、とても重要な場所です。思い出す過去は色褪せて見えるなんていうけれど、私にとって高校二年間の記憶は、いつまでも眩い光を放って私の心を照らしているような、鮮やかで美しいものでした。小説家になりたいと思い始めたのもこの頃です」
それから十分ほど、私は壇上でさまざまなことを語った。高校在学中のこと、小説家になった経緯、今の生活、私を形作るもの。原稿用紙に記した台本やリハーサルのことを思い出して、幾度かつっかえながらもなんとか話し終えることができた。
はあ、と大きく息を吐く。背筋に一本通していた大きな柱が溶けていったように、身体中に入っていた力が抜けた。無意識のうちに少し猫背になって、慌てて背筋を伸ばす。
これで終わりではない。
そう、これからは質問コーナーなのだ。
私なんかに質問をしてくれる人がいるのか不安だったけれど、壇上から見るとちらほらと挙がった手が見えた。先生が生徒を一人指名をしてマイクを渡し、当てられた生徒が私に質問をする。高校生活でやってよかったことはなんですか、いつ小説を書き始めましたか、影響を受けた作家は誰ですか、小説家になって良かったことはなんですか……。その一つ一つに丁寧に答えていく。質問の内容もいくつか予想して答えを台本に書いていたのだけれど、幸いほとんどの質問が予想内のものだったのでそれほど迷わずに答えることができた。
「じゃあこれで最後にしましょう」
先生がそう言ってマイクを渡した女子生徒には見覚えがあった。先ほど話しかけた、桜によく似た女子生徒だ。
「これからやりたいことはありますか?」
その質問もまた、予想内のものだった。台本にだって書いてある。こんな話を書きたいだとか、こんなところに行ってみたいだとか、そういうありきたりな答えもちゃんと考えた。それなのに、気がつけば私の口からは用意してきた答えとはまったく別の言葉がこぼれ落ちていた。
「私には……親友が、いました」
彼女は桜ではない。それはもうわかっているのに、どうしても桜に聞かれているような気がして、気がつけば言葉が口からぽろりとこぼれ落ちた。思考を巡らせたり言葉を選んだりしていない、私の心のままの言葉だ。だって、桜はあまりにも私の心の深いところに居場所を持っていた。
「実は、私のデビュー作の主人公は彼女がモデルなんです。彼女と別れた後に書いたものなのでまだ感想を聞けてなくて。だから、その子にはもう十年ほど会えていないんですけど、もし会えたらその感想を聞いてみたいです」
少しでも気を抜けば声が震えてしまいそうで、私は何度も言葉を止めて、深く息を吐いた。ぐっと涙を堪える。質問をしてくれた子の顔は見れなかった。だって、どうしても桜のことを思い出すから。
無性に桜に会いたかった。ああ、本当に、どこにいるの。どうしてどこにもいないの。
その質問を最後に講演会は終わった。私は拍手の雨の中で一度深くお辞儀をして、カーテンの裏へとはけていった。
体育館の後片付けを済ませると、聞きたいことがあると言って校長室を訪れた。質問はもちろん桜のことだ。
「先生は、木葉桜という女子生徒を覚えていますか?」
「ああ、それならうちの三年生に……」
「その子じゃなく、私と同学年だった子です」
そう言うと、校長先生は頭を傾げてしばらく考え込んだあとに、「すみません、記憶にないです」と答えた。予想できる答えだったとはいえ、やっぱりだめか、と肩を落とす。
気がつけば時計の針は午後四時を指していた。もうホームルームも終わり下校するところなのだろう、校長室の前の廊下を歩く生徒たちの賑やかな声が室内にまで届いてくる。
「少し校舎内を見てまわっても良いですか? 懐かしくて」
桜の存在を証明する痕跡を探したい、と言う本来の目的はぼかしてそう尋ねると、校長先生は「もちろん良いですよ」と笑顔で快諾してくれた。
「ありがとうございます」
校長室を出る。すると校長室の前、廊下の壁にもたれかかった女子生徒の姿が目に飛び込んできた。先ほども会った、桜によく似た少女だ。その隣に友人はおらず一人だった。
どうしたのだろうと目を瞬かせていると、私が校長室から出てきたことに気づいた彼女が顔をあげる。
「橘」
そう、名前を呼ばれる。まるで友人の名前を呼ぶかのような軽い口調で。
「木葉さん」
私に何か用だろうか。それを聞こうと口を開いて、しかし私は言葉を発する事なく止まる。
私は彼女に名前を名乗っただろうか? 彼女は今、ペンネームではなく本名で私を呼んだ。彼女はそれを知らないはずなのに。
戸惑う私に、彼女はもう一度、「橘」と私の名前を呼んで笑った。
「昔みたいに桜って呼んでよ」
「えっ」
彼女の顔を見つめる。かつての親友と同じ名前を持ち、同じ顔立ちをした少女。
「桜……?」
「うん。久しぶりだね、橘」
そう言って、彼女は笑った。
その笑顔は、この校舎と同じように、記憶の中にあるものと何一つ変わっていない。
どういう魔法かは知らないけれど、目の前にいる彼女はどうやらよく似た他人ではなくかつての親友本人であるらしかった。
「とりあえず落ち着いて話ができるところに行こう。十年ぶりに会うんだし」
混乱する私の手をとって、彼女──桜が向かったのは校舎の隅にある図書室だった。二年間図書委員を務めていた私にとっては馴染み深い場所だ。そして、この校舎の中で最も桜との思い出がある場所でもあった。
ガラリと扉を開くと、私たちと図書室特有の静謐な空気が出迎える。どうやら室内には誰もいないようで、桜は好都合だとずんずん中に入っていった。
図書室までの道のりを歩いている間にいくらか落ち着いた私は、ようやく疑問を口にする。
「ほ、本当に桜なの?」
「そうだよ。覚えてるんでしょう? 私のこと」
その言葉が何を指しているかはすぐにわかった。私以外誰も桜を覚えていない、不思議な現象のこと。
「ええ。桜はずっと、私の心を照らしてくれてるわ」
深く頷いてそう返すと、桜は「なにそれ」とおかしそうに笑った。
「ねえ、これ見て。図書室に橘のコーナーを作ったの」
そう言って桜が指差した本棚に視線をやると、そこには確かに【卒業生 佐々木右近先生の著書】と大きく書かれたポップが貼られていた。途中で転校したから卒業生ではないんだけどな、と思いつつ、そうやって名前を書いてもらえることに悪い気はしない。
「橘が夢を叶えて小説家になったって知ったとき、嬉しかった。今までに出版された小説は全部読んだよ。私が昔読ませてもらったものもあったね」
「桜には、私が書いた小説も読んでもらってたものね」
「そう! 懐かしいなあ、覚えてる? まさにこの図書室だったよね」
「もちろん覚えてるわ。私も桜も図書委員で、毎週水曜日の放課後はカウンター当番だったから、カウンターの中で二人で原稿用紙を広げて話してたよね」
校舎の最上階の隅にポツンと位置する図書室は、その立地のせいか在校生であっても場所を知らない生徒がいるほど利用者が少ない。そのためカウンター当番の私たちしか室内にいないことも多く、いつの間にか放課後の図書室は私と桜の秘密基地のようになっていた。
「そういえば、今日はカウンター当番はいないの?」
空っぽのカウンターを見てそう聞くと、桜がカウンターの中に入り、両手を広げてにっこりと笑った。
「今日は私がカウンター当番なんだ」
「今も図書委員をやってるの?」
「うん。委員会は全部経験したんだけどね、やっぱりこの図書室の雰囲気が一番好きだなあと思って、ここ数年は図書委員ばっかりやってるの」
橘も来なよ、と手招きされて、私はカウンターの中に足を踏み入れた。机の上に置かれた、当番の人が日付を入れ替えないといけない卓上カレンダー。全校生徒分の貸出カード。そのカードに押すための判子と朱肉。その全てが記憶にあるものと変わりない。窓からカウンターに差し込む放課後の静かな夕日でさえ。
促されるがままにカウンターの椅子に座って、そっと夕日に照らされる桜の横顔に視線をやる。懐かしいでしょと笑う彼女の姿はやっぱり記憶の中の姿そのままで、この懐かしい空間の中にいるとまるで十年前にタイムスリップしたような気分に陥る。あの美しく輝く記憶の中にいるのではないかと錯覚してしまう。
けれどもそんなことはあり得ない。あの美しく輝く青春の日々から時間は流れ、私はもう女子高生ではなくなった。本棚に貼られた【卒業生 佐々木右近先生の著書】のポップがその証だ。
じゃあ、桜は?
聞きたいことはたくさんあった。けれども、何から聞けば良いのか、どう聞けば良いのか、何一つわからなかった。わかることは、私の想像の外側にあるような現象が桜の身に起こっているのだということだけだ。
結果としてただ無言で桜の横顔を見つめていた私に、桜は視線に耐えられなくなったのか苦笑してこちらを向いた。その瞳はまるで、疑問だらけの私の心を見透かしているようだった。
「聞きたいことがたくさんあるって顔だね」
「そうね。聞いたら教えてくれる?」
「もちろん! 橘が知りたいこと、なんでも答えるよ」
そう言うなら遠慮はいらない。何から聞こうかとぐるぐると頭の中に疑問を巡らせて、私はその中の一つを掴み取って口から言葉にして出した。
「桜は、今何歳?」
「うーん、初っ端から難しい質問だね」
「私は今二十八歳よ。桜と最後に会ってから十年が経つわ」
それを聞いた桜は、どこか遠くを見るように目を細めた。
「そう。もうそんなに経つんだね」
「そうよ。それなのに、あなたは今も十八歳みたい」
「そうだね。今高校三年生だから、十八歳になるかな」
「私が桜と初めて会った時も十八歳だったの? あなたはずっと、十八歳のまま?」
「うーん、半分正解で半分違う」
どう話せばいいかな、と桜は腕を組んで首を捻る。
「私は、この高校が創立された時に庭に植えられた桜の木の精なの」
そしていきなり突拍子もないことを言い放った。
「……え?」
「最初は誰からも見えない透明な状態で、桜の木の上から生徒たちを見守ってた。青春の日々を過ごす彼らはみんな楽しそうで、私もあの中に混ざりたいなと思ってたら、人間の姿を取れるようになったの。それ以来ずっと、ここで生徒として過ごしてるんだ」
桜の口から次々と飛び出してくる言葉はすぐには理解のできないことばかりで、私はなんとか言葉を聞き取るので精一杯だった。頭の中がいっぱいでパンクしてしまいそうだ。それでも、きっと聞き逃してはいけない話だとわかっていたから、私は桜の言葉を一つも聞き逃すまいとずっと彼女の瞳を見つめて耳を傾けていた。
「橘と初めて出会った時、私は正しく十五歳の高校一年生だった。それからちゃんと成長して、十七歳の高校二年生の冬に橘と別れ、十八歳の高校三年生になって、高校を卒業した。みんなと同じようにね。みんなと違うのは、卒業したらまた十五歳に戻って、また高校一年生として入学すること。だから永遠の十八歳ではないよ。永遠の女子高生ではあるけどね」
私たちを静寂が包み込む。どこか遠くから、吹奏楽部の演奏や陸上部のかけ声が響いてくる。だから、私がごくりと唾を飲み込む音もよく聞こえた。
それは、とてもこんなにあっさりと教えて良い秘密ではないように思えた。
「良いの? こんな、大切な秘密を私に教えて」
そんな私に、桜はすぐに頷いた。
「もちろん。他の誰でもない、親友の橘だもん」
「でも、ずっと高校生を繰り返していたのなら、私以外にも親友がいたでしょう?」
「そうだね。もう何度繰り返したかわからない青春の中で、親友と呼べる存在は何人かできたし、恋人がいたことだってあるよ。……でも、みんな、卒業したら永遠にお別れだから」
「どういうこと?」
「そのままの意味だよ。この高校を卒業したら、みんな私に関する記憶を失うの。そして私はまた一年生として入学して、新しくできた友人たちと三年間青春を送り、卒業して、また入学する。ずうっとその繰り返し。その中で私のことを覚えていた子は一人だっていなかった。だから、誰にもこの秘密を教えたことはなかったの。でも……橘は違った」
そう言って真っ直ぐに私を見る桜は、あの、驚くほど寂しげな冷たい瞳をしていた。その瞳に滲む深い孤独に、私は十年経った今ようやく触れられたような気がした。
「今日、橘に声をかけられたとき、すごく驚いた。まさか私のことを覚えている人がいたなんて!」
「どうして最初は知らないふりをしたの?」
「なんて言ったらいいか、わからなくて。私のこの長い高校生活の中でも、こんなことは初めてだったから」
「じゃあ、どうして言ってくれる気になったの?」
「橘がさっきの講演会で言ってたでしょう? 私に会って、小説の感想を聞いてみたいって。それを聞いて私も思ったの。橘と会って、小説の感想を言いたいって」
おもむろに桜が立ち上がって、カウンターから出ていった。突然の行動に目を丸くしながらその背中を見つめていると、私のポップが貼られた本棚から一冊取り出して戻ってくる。それは桜をモデルにした主人公が出てくる、私のデビュー作だった。
「初めてこれを読んだとき、私、泣いちゃったの。もう橘は私のことを忘れていて、主人公の名前が桜なのは偶然かもしれない。でももし、橘が私のことを忘れる前に私をモデルにしてこの小説を書いてくれたのだとしたら、それは私がこの世界に存在していた証明になる。橘が私のことを忘れても、世界中の誰もが私のことを忘れてしまっても、この小説は残り続ける。それがなにより嬉しかったの」
桜が嬉しそうに微笑みながらそんなことを言うものだから、私は思わず叫ぶように言った。
「桜のことを忘れたりなんてしない!」
木葉桜。私の親友。彼女と過ごした青春の日々を忘れたことはない。それでも、この記憶が嘘なのではないかと疑ったことがある。明日朝起きたらこの記憶を忘れてしまうのではないかと怯えながら過ごした夜がある。それを知らないから、桜はそんなことを言えるのだ。そんな簡単に、私が桜のことを忘れるなんてことが。
思わず泣き出しそうになった私に、桜は眉を下げた。
「ごめんね」
「酷い、私のことを疑うなんて」
「でも、忘れてないほうが不思議なの。どうして、橘だけが私を覚えていたんだろう」
「今までにこういうことはなかったの? 本当に、私だけ?」
「うん。例外はないよ」
それは、すごく寂しいことだと思った。
美しく輝く記憶の欠片が、心の底から次々と溢れ出して私たちを取り囲んだ。この静かな、夕日のさすカウンターが輝いて見える。思い出の場所。私たちの秘密基地。
私と桜の、思い出。
水曜日の放課後、図書室のカウンターの中で二人で読んだ原稿用紙。休み時間によく食べていた食堂のポテト。授業中にノートの端に書いた絵しりとりの数々。修学旅行先の神社でおそろいで買ったお守り。日向ぼっこが好きで校舎内のお昼寝スポットに詳しい桜と二人で昼寝をして、五時間目の授業に遅刻したことだって、全部覚えている。転校して遠く離れても、それから十年経った今でもずっと、そしてきっとこれからも、思い出は心の中で光となって美しく輝き続ける。
もしかしたら桜にとっては幾度となく繰り返した青春のうちの一つにすぎないのかもしれない。でも、私にとっては、それがすべてだった。
だから私は、桜に言い聞かせるようにもう一度言った。
「私は、桜のこと、忘れたりしない。ずっと覚えてるわ。これからもずっとよ」
その孤独に寄り添いたいと思った。十年前、幾度となくその冷たい瞳を見ていたのに、どうすることもできなかった。けれども今は違うから。
私たちを取り囲んでいた煌めきのうちの一つが、どこかにふわりと飛んでいった気がした。なんとなくそれを目で追いかけていくと、私の名前が書かれたポップの前で弾けて消える。そこに書かれた【卒業生 佐々木右近先生の著書】の文字が目に飛び込んできた瞬間、私の中である仮説が立てられた。
「わかったわ。私が転校したからよ」
「えっ?」
「卒業したら桜のことを忘れるって、さっき言ってたでしょう? でも私、高校二年生の冬に転校したから、この高校を卒業してないわ。だからきっと、桜のことを覚えているのよ」
私は興奮していた。世界の秘密を一つ解き明かしたような気分だった。
何度か瞬きをして私の言葉を理解した桜は、「なるほど!」と顔を輝かせた。
「それは考え付かなかったなあ」
「探せば他にも桜のことを覚えている子がいるかも」
転校する以外にも抜け道があるかもしれない。そうすれば、桜があんな寂しい瞳をすることもなくなるかも。そう思って提案すると、桜は緩やかに首を横に振った。
「いいよ。橘が覚えていてくれれば充分」
「そう?」
「うん。だから、探してくれなくて大丈夫」
「……わかった」
桜がそう言うなら、と渋々頷く。
それから、私たちは雑談に花を咲かせた。何しろ十年ぶりだ、話題はたくさんある。
どれほどそうしていただろう。キーンコーン、とチャイムが図書室内に鳴り響いた。壁にかかった時計を見ると、針は七時を指している。完全下校の時間だ。
「帰ろっか」
「うん、帰ろう」
私たちは十年前のように、手を繋いで図書室を出た。くだらない話で笑い合って、早足で廊下を駆け抜ける。もうほとんどの生徒が帰ってしまった校舎はとても静かで、私たちの笑い声がよく響いた。すっかり暗くなった窓の外で、葉を落とした桜の枝が揺れている。
正門の前まで来ると、桜が突如立ち止まった。繋がれた手が引っ張られて私も彼女にならうように足を止める。
どうしたの、と聞こうと振り返って、しかしそれが声に乗って発されることはなかった。
桜はあの、静かな瞳で、真っ直ぐに私を見つめていた。
「橘に言わないといけないことがあるの」
「なに?」
「この高校が廃校になることは知ってる? 校舎が解体されることは?」
「知ってるわ」
「私もね、それと一緒に切り倒されることになったの」
その言葉を、咄嗟に理解することができなかった。
「……え? それって、どういう」
「次の春で、私の長かった青春はおしまい。私は物言わぬ木材になる」
「そんな……!」
ようやく再会できたのに、そんなことってない。私は桜の両手を握りしめた。
「私、校長先生に切らないでくださいって頼みに行く」
「橘、そんなことしなくて良いよ」
「なんにも良くない。桜がいなくなることは、そんなことじゃないわ」
じっと、見つめ合う。握りしめた桜の手のひらからじんわりと熱が滲んできて、ああ、生きているんだなと思った。桜の精だなんて言われても、私にとって桜は、共に青春を過ごした親友で、今目の前で生きている一人の人間なのだ。
「……私は、桜に生きていて欲しい」
心の底から搾り出したその声は震えていて、風に乗ってかき消えてしまいそうなほど小さい。けれども桜の耳にはきちんと届いたようで、桜はそんな私の腕をそっと優しく引き寄せた。抵抗せずに引かれる力に身を任せると、そのまま彼女の腕の中で抱きしめられる。制服の赤いリボンが結ばれた胸元に耳を当てると、とくりと心臓が動く音がした。
「橘がそう言ってくれて、すごく嬉しい。でも私、この終わり方にすごく満足してるの」
「満足って?」
「私は、この高校が建てられた時からずっと見守ってきた。だから、この高校と共に命を終えられるなんて、これ以上ない幕引きだよ」
そう言われてしまえば、もう私は何も言えなかった。桜がもう数え切れないほど繰り返したであろう青春を、そして幾度となく親友や恋人に存在を忘れ去られた桜の心を、そしてあの冷たい眼差しに滲む孤独のことを思えば、私に言えることなんてなかった。
だから、私は何かを言う代わりに、そうっと両腕を桜の背中に回して彼女を抱きしめた。全身に彼女の熱を感じる。じわりと涙で視界が揺らいで、頬をつたい桜の制服に染み込んでいった。それでも私たちは離れようとはしなかった。
どれほどそうしていただろう。
やがてゆっくりと体を離した桜が、「ちょっと待ってて」と言ってどこかへと駆けて行った。それから待つこと一分ほど、戻ってきた彼女の手には一本の枝が握られている。
「これ、もらって欲しいの」
その言葉と共に差し出されたのは、薄いピンク色の蕾がいくつかついた木の枝だった。
「これって」
「私の──桜の枝だよ。きっと、美しい花を咲かせる」
そうっと、宝物を扱うような丁寧な手つきでその枝を受け取る。無造作に手折られたのであろうそれは、けれども今までに見たなによりも美しかった。
「最後に、橘に会えてよかった」
「うん」
「次に卒業したら、今の友達も私のことを忘れる。そうしたら、もう私のことを覚えてる人なんて世界中に一人もいなくなると思ってた。でも、違った。私には親友がいた」
冷たい風が涙で濡れた頬を撫でる。
「私のこと、忘れないで」
桜はまっすぐに私を見つめていた。その瞳に、もう孤独は滲んでいない。
「あなたが私のことを忘れないでいてくれたなら、私は大丈夫。安心して最後の時を迎えられる。だって、卒業してみんなが私のことを忘れてしまっても、桜の木が切り倒されてこの体が消えても、私はあなたの中で光となって生きている。記憶は美しく輝き続ける。それって、すごく素敵なことだよ」
「忘れない……! 忘れないわ、永遠に!」
嗚咽を漏らしながら、私は深く頷いた。何度も、何度も。その勢いで涙が飛び散って、月光を反射してきらきらと輝く。桜もその瞳から涙を流して、「約束だよ」と笑った。
「じゃあ、今度こそ本当にお別れだ、橘」
「うん。さようなら、桜」
さようなら、私の親友。
もう一度優しく抱き合って、私たちは別れた。それが永遠の別れだった。
最後に見た桜の笑顔が、ゆっくりと光の中に溶けていった。
それからしばらくして、春になった頃。
ピコン、とメールが届いたことを知らせる通知音がパソコンから鳴った。高校から送られてきたメールには、最後の生徒たちが卒業したこと、校舎の解体が始まったこと、そして桜の木が切り倒されたことが綴られている。
そのメールを読み終わった私は、窓際に置かれた鉢植えに目をやった。窓から差し込む日に照らされた鉢植えの中で、枝についた桜の花が美しく咲き誇っている。
桜は今日も、私の心の奥、光の中で、美しく輝いている。
ひかりにとける 祈 @inori0906
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