第二十一話 「それは絆でもあり呪縛でもあり」
突如、橋の上に猛烈な風が吹き荒れる。
ただの風ではない。触れた瞬間に血が凍りつきそうな、おぞましいまでの殺気を感じさせる異様な風だ。
「うおっ!」
ニシキは声を上げる。その瞬間、彼の背後に人影のようなものが現れた。
青年の目は、その姿をはっきりととらえた。それは、青年が予想した通りのものだった。
ニシキもそれの気配を感じ、とっさに後ろへ振り向く。
人影はニシキを羽交い絞めにして、その首を食いちぎろうと牙を立てた。だがその腕はニシキの体には触れず、牙が傷をつけることもなく、血は一滴も流れない。
だが一連の出来事はニシキの注意を青年からそらせるには十分で、生じた隙を青年は見逃さなかった。青年はニシキめがけて駆け出し、彼が再び青年へ目を向けた瞬間、その顔面に拳を叩きつけた。ニシキは仰向けに倒れ、気絶したように動かなくなった。人影もいつの間にか姿を消していた。
「ジイさん。大丈夫か」
青年は店主の拘束を解く。店主は身をおこしながら、青年に言った。
「いけません。これは……罠です」
青年はニシキに目を向ける。すると倒れていたニシキの体は発光し、光の粒子となって消滅した。
「いやあ、驚いたよ。まさか眠っていた怨念まで操れるとは。兄さん、あんたタダモンじゃないねえ」
背後からニシキの声が聞こえ、青年は振り返る。
ニシキは、倒れているイズミのすぐそばにいた。
「幻影の術式か。一杯くわされたな」
「おたがいさまだよ。ま、これで俺の目的は果たせるんだけどさ」
ニシキは霊符を取り出し、イズミの頭に貼りつける。
頭の中へ取り込まれるように霊符が姿を消した後、イズミはゆっくりと立ち上がった。
「精霊の力を上書きしたのか」
「いや、俺の意識とイズミちゃんの体を結び付けたのさ。兄さんの精霊の力で眠っている状態のイズミちゃんの体を、俺の霊力で動かしているだけさ。兄さんが霊力で体の動きを強化してるのと同じ理屈だよ」
イズミは青年へ目を向ける。たしかに彼女の金色の瞳には意思が感じられなかった。
「さて、これで俺の目的は達成できた。あとはイズミちゃんとずらかるだけだ。その前に、兄さんには邪魔できないよう、少し眠っててもらうよ」
ニシキはイズミの背中を軽くたたく。イズミは青年と向かい合い、身構えた。
「殺しはしないから安心しな。天士を殺したとあっちゃ皇都に目をつけられて面倒だからな」
ニシキは景気よく手をたたく。イズミは青年めがけて走り、わしづかみにするように腕を広げ、その体に食らいつこうと大きく口を開いた。彼女は青年の目前にまで迫ってくる。
仕方ねえ、と青年は腕の傷をかきむしり、手のひらを血で染める。
その時、青年のそばにいた店主が、彼をかばうようにイズミに思い切り体をぶつけた。
イズミはわずかに体をよろめかせたが、すぐに店主を両手でおさえこみ、その首筋に食らいついた。
「――っ!」
一瞬、イズミの瞳にはっきりと意識の光がよみがえった。
青年はそれを見逃さなかった。
血に濡れた手でイズミの頭を素早くつかみ、神言を発する。
東の番人西の法官
暦失い興じるは
都崩しの駒遊び
青年の血を通じて精霊の力がイズミの頭へ流れ込む。
イズミの頭からニシキが用いた霊符が浮かび上がり、微細な光の粒子となって消滅した。イズミは再び意識を失い、青年はふらりと倒れそうになった彼女を抱きかかえる。
イズミは人間の姿にもどっていた。
しかしその口元は、店主の血で赤く染まっていた。
ニシキは短く口笛を吹き、手をたたく。
「いや、たいしたもんだね。俺の術式を破るとは」
「破ったんじゃねえ。永遠の眠りについてもらっただけさ」
「術式にそんなふうに干渉できるのかあ。おっかないねえ」
「さて、あとはお前を眠らせるだけだな」
「そうだろうねえ。いやあ、困ったなあ。俺は戦いには向いてないんだよなあ。まあ、仕方ないか」
ニシキは懐から霊符を取り出し、破り捨てる。すると今まで何の反応も示さなかった警邏の法石が一斉に警鐘を鳴らしはじめた。
「今回はここで幕引きだ。兄さんたちも早く逃げな。こんなところを憲兵隊に見られたら、面倒なことになるぜ」
ニシキの言うことは正しく、青年もここは退かざるをえなかった。
「野郎、覚えてろよ」
「はっはっは。兄さんよ、そりゃ悪人の捨て台詞だぜ」
ニシキは笑いながら橋の外へ飛び降りる。しかし水しぶきが上がる音は聞こえず、暗闇に飲みこまれたかのように彼の姿は消えた。
やれやれ、と青年はため息をつく。とにかくさっさと逃げなければならない。青年はイズミを寝かせ、店主の拘束を解いた。
「大丈夫か、ジイさん」
「少し噛みつかれた程度です。たいしたことはありません。それよりイズミを……」
店主は倒れているイズミをかつごうとする。
「無理するな。イズミは俺が連れていく」
「申し訳ありません。とりあえず、店へ戻りましょう」
「そうだな。それにしても、こんなに長い一日はひさしぶりだ」
青年はイズミを背負い、店を目指して歩き出した。
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