第十話 「偽りの朝」

 怪物の襲撃などなかったかのような、すがすがしい朝が都に訪れた。

 空気はさわやかで、そよ風は若草と土の香りをそっと運び、朝日は希望に満ちた輝きを地表にそそいでいた。

 青年は窓辺に立って、身体の具合を確かめるように丁寧に手足を動かす。

 その時、下の玄関口で話し声が聞こえた。様子を見に青年が下りると、玄関口でイズミと店主がニシキと何か話をしているところが見えた。


「俺もさ、すまねえとは思うよ。でも、憲兵隊の命令なんだ」


 困り顔でニシキは言う。


「それでも納得できません。どうして、ご主人が連れていかれなくてはいけないんですか!」


「よしなさい、イズミ。私なら大丈夫だから」


 でも、とイズミは今にも泣き出しそうな顔をする。


「おいおいどうした。朝っぱらから穏やかじゃねえな」


「おお、天士の兄さん。ちょうどいい。兄さんからも言ってやってくれねえかい」


「言うも何も、まずは事情を説明してくれ」


「昨日の夜のことなんだが、自警団に憲兵隊から命令がきてな、この店の店主を連れて来いっていうんだ。ほら、昨日の件で店主は兄さんをかばっただろ。それがきっかけでまわりの連中も騒ぎ始めて、憲兵隊にあれやこれやと言っちまったじゃないか。だから憲兵隊は自分たちに歯向かわないよう、店主を処罰して見せしめにでもするつもりなんだよ」


「なるほど。それで、最初に乗っかったお前さんが、この汚れ役を押しつけられたってわけだな」


「すまねえことをしたとは思うよ。でも、悪気があったわけじゃねえんだ。それと、イズミちゃんにも命令が出たんだ。昨日の件の負傷者を救護するため社へ来いってさ」


「私はその命令には従います。でも、ご主人を連れていくことには従えません。見せしめにすることが目的だなんて、あまりにもひどすぎます」


「落ち着きなさい。まだそうだと決まったわけじゃないんだ。それに、命令に従わなければ憲兵隊は実力行使にうってでるだろう。そうなれば、お前も無事ではすまない」


「店主の言う通りだよ、イズミちゃん。最悪、その場で殺されちまうかもしれねえよ」


「イズミ。私ももう年だ。覚悟はできている。だが、お前はまだまだこれからじゃないか。昨日の件は私が勝手にしたことだ。お前を巻き込みたくはない」


 それでもイズミは首を横に振った。

 彼らの様子を見ていた青年は、やれやれとため息をつき、イズミに言った。


「連中だってバカじゃない。下手なことをすれば民心がますます離れていくことくらいわかってる。店主のジイさんも、命までとられることはないだろうよ」


 青年はニシキの方へ顔を向ける。


「連中に伝えといてくれ。ジイさんに何かあったら、俺の腹の虫が何するかわからねえぞってな」


「なるほど。食い物の恨みはおそろしいってことだね」


「そういうことだ。なにより気分が悪くて眠れやしねえ。俺から安眠を奪うってのは、命を奪うのと同義だ。それなりの報復は覚悟してもらわねえとな」


「わかった。イズミちゃんも、そう心配することはねえよ。天士の兄さんもこう言ってるし、そもそも自警団ってのは憲兵隊が信用ならねえからってできた組織だ。いよいよとなりゃ、店主を連れてどこへなりとも逃げおおせるさ」


 しかし、イズミの顔から不安は消えなかった。

 そんな彼女を励ますように、店主は彼女のほほに優しくふれる。


「大丈夫。私はきっと、もどってくるから」


 イズミは何も言わなかった。

 ただ、ひとつ、またひとつと涙の粒がこぼれ落ちていた。


「お客さん。イズミのこと、お願いできますか」


「任せろ。お前さんには一宿一飯の恩がある。それより、さっきの言葉はしっかりと守ってくれ」


「もちろんです」


 それでは、と店主は一礼し、ニシキと共に歩き出した。

 イズミは店主たちの足音が聞こえなくなったころに涙をぬぐい、顔を上げた。


「ご迷惑、おかけしました。私も社へ参りますね」


「そうだな。面倒ごとは早いとこ済ませちまうに限る」


 青年は店の外へ出る。イズミは「え?」と目を瞬かせた。


「どうした。行くぞ」


「あ……、そうですね。それでは、よろしくお願いします」


 イズミは青年に笑顔を向け、足早に彼の隣へ歩いた。

 青年はため息をつきたいのをこらえ、社へ向かって歩き出した。


 女の偽りの笑顔など、朝っぱらから見るものではない。



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