第323話

北野大茶湯、初日明けて翌日、豊臣家より開催の中止のお知らせが告知された。

肥後での一揆が原因という話だ。

肥後?地元で一揆?・・・確か内蔵助殿(佐々成政)が家に挨拶に来られたことを思い出す。

そう言えば、お猿さんの命で肥後国は内蔵助殿の預かる所になった。

彼とは今は亡き権六殿(柴田勝家)の所で兵法を教えていた時以来の仲で、細々とではあるが付き合いがあった。

就任当初に「儂に仕えて頂けぬか?」と打診されたけど、宮仕え無理と思っている俺は丁重にお断りした。

そして、それを聞き付けた旧主君家の相良の新お殿様こと宮内大輔くないのだいふ殿(相良頼房)が「交渉権は当家にある!!」的に言ったらしいが、肥後領主(佐々成政)によく言えたねと思うが、それだけ地元肥後では内蔵助殿は外様として見られており、影響力が弱かったんだろうと今なら思う。

これを聞き付けたお猿さんが介入して、俺に「御免状」を出した。

内容としては「丸目二位蔵人殿は天下の奉公人にて、大名諸中に仕える事罷りならぬ。仕えるは天子様のみとし、勧誘などもっての他、この旨、現関白・豊羽柴藤吉郎秀吉が保証する也」というものだ。

簡単に言うと、「勧誘禁止!!」というものだ。

有難いのでそのまま受けた。

地元大変そうだけど、報告では切原野一帯は平和らしい。

最近は神域的に取り扱われ、「攻めれば天罰が下る」等と言われているそうで、摩利支天様という戦勝の神を祀っているからなのか多くの神を祀っているからなのか、験担ぎでお参り来る武士も多いし、そんな所を攻めようとする者は居ない。

最近は現世の楽土等とも言われ始めているから何か怖いぞ。

さて、それらは置いておき・・・


「残り九日分の茶請けの材料如何するよ!!」

「どう致しましょうか?」


俺の叫びに答えるは莉里だが、ここに居る丸目家一同と藤林幹部の面々は頭を抱える。

1日約1,000食位(9日で約10,000食位?)の材料+回転焼きの為に用意した大量の小豆と生地の材料が大余りだ。


「取り合えず、今日の分が問題ですね・・・」


美羽が言う。

そう!既に仕込んでいるし、既に約1,000食位の茶請けの品々は完成している状態だ。


「よし!いっそのことあの場所買い取って茶店だそう!!」

「されば、取り仕切りをされておられます千様に確認を取り、そのように手配いたしまする」


俺の無茶振りにお金が即座に千宗易(千利休)との交渉をする為に座を去っていった。

そして、待つ事一刻程で交渉を纏めて戻って来た。


「許可が下りました」

「でかした!!お金!!」


そして、俺たちは昨日と同じように茶屋を開店させた。


「いらっしゃいませ~お二人様ですか?」

「お茶は何にされますか?」

「茶請けは何が宜しいでしょうか?」


茶宴中止を知らされて最初は客入りが悪かったが、午後以降は盛況で、多くの民衆が列を成して茶屋で午後の一時を楽しんだ。

夕刻前には全ての茶請けが完売してしまった程だったよ。


「蔵人様」

「何だ?お金?」

「この場所でこのまま茶屋を続けとう存じます」


お金が言うには情報収集が出来そうだという事で、藤林一門、特にくノ一衆での運営を考えていると言う。

その後、給仕の女性が美人揃いで、茶請けも美味しいと言う事で評判となり、京でも有名な憩いの場として名を馳せていく。


★~~~~~~★


2XXX年、某情報番組


「此方、丸藤茶房・北野本店は安土・桃山時代より続く老舗として有名で、京都で最も有名な喫茶店として知られております。創業は豊臣秀吉が行った北野大茶湯の時からと言われており、剣聖にして実業家として有名な丸目蔵人が興したと云われております」


女子アナウンサーの紹介でお店の様子が写される。

その日も客入りは盛況で、皆美味しそうに茶請けとして頼んだ食べ物に舌鼓を打っていた。


「この茶房は他にも一部の方々から世界初のメイド喫茶等とも呼ばれおり、給仕の女性たちに注目が集まる場となっております。今日は丸藤茶房・統括本部長の藤林さんお越しいただきました」

「宜しくお願い致します」


女子アナウンサーの横に立つ統括本部長は丁寧なお辞儀と共にお茶の間を騒然とさせた。

仕事の出来そうな雰囲気を纏いつつ、息を飲むような美しい女性で、観る者を魅了して止まないその美貌に加え、妖麗にも見える為、紹介されると同時にTV局に問い合わせが殺到し、丸藤茶房のHPが一時中々表示されなくなるという珍事が起こった程であった。


「藤林さんは何と丸目蔵人のご子孫とか」

「はい、丸目家に仕えていた関係で傍流の丸目家の方と藤林家がご縁がありまして」


日本を代表する喫茶店の雄の本店は時を超え人々の憩いの場として存在し続けているようである。

そして、丸目蔵人考案の焼き饅頭は「太閤焼き」と呼ばれるようになる。

当時の京の民衆は北野大茶宴で丸目蔵人の考案の茶店を楽しみにしていたのに急遽中止にされたことで残念がった。

その気持ちは丸目蔵人が茶店再開の知らせを聞き晴れたかと思いきや、当初、一部の者が「丸目蔵人が関白・豊臣秀吉を焼き討ちした如きことだ」等と囁きだした。

当初、その一部の者たちが「関白を焼き討ちした如き饅頭」という言う揶揄から「関白焼き」と呼び始める。

そして、数年後、秀吉が甥・秀次に家督相続の養子として関白職を譲り、太閤と呼ばれるようになると「太閤焼き」と名を変えた。

そして、そして、徳川が幕府を開く頃になるとその「太閤焼き」という名が普通に使われるようになる。

当初のネガティブな意味合いではなく使われたことで、他の太閤たちも黙認。

京を中心に畿内では「太閤焼き」の名で知られる伝統の和菓子と言う地位を確立していく。

時と共に縁起を担ぎ「太幸たいこう焼き」とも言うようになる。

焼く時に回転させる為、「回転焼き(回転饅頭)」と呼ばれたり、色々な名称で呼ばれることとなるが簡単に作れることから多くの地域で作られるようになる。

尚、丸目蔵人が正式に茶房を興すことを決めた際にラインナップとして、つぶあん・こしあん・白あんの3つを作り始めたという。

それにより、食の派閥が形成される。

つぶあん派が時代を超えて優勢ではあるが、最近は派閥も増えクリーム・チーズ・抹茶あん等々の派閥もあり、多くの論論争を生んでいるという。


〇~~~~~~〇


今回のうんちくは、勿論、「回転焼き」です!!

小麦粉、卵、砂糖を水で溶いた生地を鉄や銅製の円形に窪んだ焼き型へ流し込み餡を入れ、その金属製焼き型で焼成した和菓子ですが、江戸名物菓子で、当初は「今川焼き」の名で出回っていたようです。

江戸時代中期に考案された物で、考案したお店が今川何某さんという名主さんが架けた今川橋の近くに在ったことと桶狭間の戦いをもじり今川義元にちなみ、「今川焼き」と名付けたそうです。

作り方も簡単で美味しい事から急速に普及したそうで全国で作られ食べられました。

恐らくは知らない人居ないんじゃない?と思う程の定番のテイクアウト商品だと思いますが、和菓子の名称は全国的には統一されておらず色々な名で呼ばれます。

全国的には「大判焼き」と呼ばれることが多いらしいですが、私の住む九州では「回転焼き(回転饅頭)」と呼ばれることが多いです。

「太閤焼き(太幸たいこう焼き)」も実際に呼び名の一つで西日本を中心にそう呼ばれるそうです。

他にも、「大砲焼き」「満月焼き」「太鼓饅頭」「円盤焼き」「巴焼き」等々の名で呼ばれているようです。

その作り易さから日本以外でも売られるようになり他にも色々な名で呼ばれているそうですが、場所によっては「ジャパニーズケーキ」とも呼ぶそうです。

最近、インターネットで「ベイクドモチョチョ」という名を見たのですが、これも「今川焼き」の名らしいです・・・

見掛けた時に「・・・」になりました。

中身は小倉餡の粒あん・こしあんが主流で甘い物を入れることが多いですが、最近ではポテマヨとかハンバーグ・きんぴら等々の惣菜系も挟むらしいです。

そして、台湾とかではタロイモやカレーにキャベツの炒め物何かを入れることもあるそうです。

北野大茶湯はこれにて終了です。

次回は新展開?

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