血脈のカタルシスト 運命のカナリア編 (パイロット版)

冬夜ミア(ふるやミアさん)

モノローグ 1.216

運命とは何か?

 ふと『運命』とは何かと考え込んでしまうときがある。少なくとも自分が十歳にもなるころには、その命題について多くの時間を割いていたと思う。


 そしてまた、性懲りもなくその命題について考えているところを鑑みるに、自分の諦めの悪さが透けて見える。


 それで何か得るものがあったかと訊かれると、正直、言葉に詰まる。


 なにせ、『運命とは何か』という見つかるはずも無い概念に対して、答えを持つ存在に出逢ったあとの道すがらだからだ。


 その日が来るまで『運命』という存在は、誰かが決めた不可知な雛形であって、決して戻ることも変えることも適わない不可逆的な概念であると捉えていた。


 勿論、その命題に散々時間を費やしてきた立場として他にも解釈はある。例えば、運命というものは実際には存在しておらず、人が持つ一種の病的な妄想の産物であるとか。人間関係、特に異性との関わりによって生じる因果律ではないか等と、稚拙ながらも真剣に考察や思案をものだ。


 研究職をしている人ほど理解できると思うが、確かな答えがあると信じて突き進んでいる時は、たとえその先が過程が無駄の多い道中であると解っていても、好奇心の推進力は止められず、心に灯った火は消える様子を見せない。


 探し求め答えが奇跡的に見つかったとき、探求者は「やっと見つけた!」と拳を突き上げるほどの喜びが滾る反面、その後に訪れる「ああ、もうこれで終わりなのか」と、これまでの過程を思い出し、どこか遠い日を想うような哀愁の念に襲われ、しばらくの間その余韻に心酔させられる。それは悩みに悩み抜いた時ほど余韻は続き、覚めたころには新たな道に進みだす。


 考える人間にとってはとても健全な反応といえる。


 しかし世の中には、既に判明している事象もなかなか多く、まるで子供のころに抱いていた唯一の妄想が、大人になって再び学ぶとき、既にその発想がどこかのメディアに記されていて、ガッカリするなんていうことはよくあることだ。


 それは言ってみれば、地上からずっと狙い続けていた獣が、突如現れた猛禽類にその獲物を掻っ攫われ、飛んで行ってしまったときのような喪失感と諦めにも通ずる。


 確かに可憐で魅入ってしまう光景ではあるものの、追及する機会を奪われた立場としては不愉快極まりない。


 ただ自分の場合、その猛禽類が偶然にも美味しいところだけ食べて、終わったものを自分の巣穴の目の前に放置してくれたから、まだ運が良かったところ。通常であれば、原型が解らないほどに啄まれた骨付き肉を惨めに、噛み締めることになっているところだったのだから、そこまで執拗に恨む事ではない。


 皮肉というべきか、そのお陰でこうして『運命』について傍若無人に綴ろうとしているんだ。そう悪いことばかりでもない。 


 そんな惨めな獣だからこそ、語らねばならない。『運命とは何かという青写真』と『運命(人生)』とは一体何なのかという自分なり結論を。そして、かつて月の明星と呼ばれた星の最期を語るためにも――――。

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