小説『消えてなくなれ』

@kumogawa-tetsuo

消えてなくなれ


九月七日木曜日


「おーい、チャイム鳴ってるぞ。席に着けー」

夏休みも終わり、夢のようだった長い休暇を恋しく思う九月上旬、担任の長谷川先生が教室に入ってくるとクラスのみんなに席に着くように呼びかけた。

学校全体に響き渡るチャイムが昼休みの終わりを告げ、友達との談笑を続けていた生徒は「はー」と溜息をこぼしながらぞろぞろと自分の席に戻っていった。

「気にすんなよ。お前のせいじゃないと思うぜ?じゃ、また後でな」と言い残して親友の大沼康太も自分の席へと戻っていく。

康太は中学の時に同じクラスで、好きな映画や漫画の趣味で意気投合し、仲良くなった。高校一年生になった今でも同じクラスなのは何か気持ち悪いほどの縁を感じるが、こいつと一緒じゃなかったら高校生活も今頃は楽しくなかったかもしれない。あの一件があったから。

長谷川先生は手に持っていた英語の教材とプリントの束を教卓の上に置き、みんなが席についたことを確認すると「よし、号令」と学級委員の松田里香に号令をかけるように促した。

起立、礼、着席という毎授業恒例の所作を終え、席に着く。

「はい、まあ昼休みも終わってきついと思うけど頑張っていこうね。そしたら…」

先生が両手を合わせてパンッと音を鳴らすと共に授業を始める。

ただ僕は、学校が始まってからというもの、あまり授業に集中できずにいた。それもあの一件のせいだ。僕は彼女の横顔を見つめた。廊下側の一番端の列の前から二番目の席に座っている池本渚。彼女こそがどうしても授業に集中できない要因だった。綺麗な鼻筋に、クリッとした目、長い髪を後ろで束ね、夏休みの部活もあってか少し小麦色になっていたその顔はまさにモデルのようだった。

彼女と僕は先月の八月十八日まで交際しており、恋人関係にあった。しかしその日、突然NINEで“お別れメール”が届き、そのまま一方的に破局に向かってゴールテープを切られてしまった。NINEの文面には『もう別れよう。さよなら』と一文送られてきただけでそれ以来連絡は取り合っていない。訳を聞こうとメールを送っても、未だにメールは返信されておらず、彼女がなぜ彼女が別れを切り出したのかは不明のままだった。もちろん、電話もかけたし、始業式を終えてから彼女に話しかけにも行った。しかし、渚からは「もう話しかけないで」の一点張りでその顔にはまさに”鬼”が宿っていた。初めて見るその顔に何か狂気じみたものを感じ、僕はそれ以来渚に話しかけていない。破局後、すぐに康太にそのことを伝えると、それ以来「大丈夫。お前は悪くない。理由も告げずに別れるなんて最低な女だな」と気を遣って慰めてくれている。

そして学校が始まってからというもの、こうして彼女が先生の話を聞きながらシャーペンを動かしている様子を窓側の一番後ろの席からただじっと眺めて自分の何がいけなかったのかと自問自答しているのだ。

それで答えが分かるわけでもないのに。

長谷川先生はみんなの前で何かを伝え終えると、プリントの束を取って、それを廊下側の列から配っていった。

「いいか、しっかり勉強しておけよ」

僕は渚に夢中で話を聞いていなかったので、とっさに前の席の吉原茜の肩をトントンと叩いてあの紙は何?と聞くと、どうやら単語テストを来週あたりにやるらしく、テストに出す単語をまとめた紙を配っているらしい。

そして長谷川先生は中央の席の右列の前に立つと、「休んでる人のところには机の中に入れておいて」と言って一番前の席の佐々木にプリントを渡した。

そのプリントが順番に後ろの方に流れていくとその列の最後に受け取った斎藤さんが立ち上がって一つ後ろの遠藤華凛の机の中にそのプリントを入れた。

「遠藤さんって何があったか知ってる?」

吉原は僕の方に顔を振り向かせて小さい声で聞いてきたが、僕は渚のことを見ていることをバレないようにするために早急に顔を吉原の方へ向けた。吉原は僕の様子を見てどうかした?と聞いてきたが僕は何事もなかったように「確かにね。遠藤、どうしたのかな」と吉原に合わせて小さい声で返した。

 ちなみに僕と渚が付き合っていたことを知る人物はごく僅かしかいない。付き合ってるなんて学校で知られればサルどもが餌を持ってこられた時のように集まって絡んでこられるからだ。いつも話さないような奴らが急にその話題を持ち掛けてきて僕と渚が一緒に居るだけで何話してたの?とか言って絡んでくるので、仲のいいやつにしか話しておらず、僕であれば康太、渚であれば本田みきや河合桜にしか教えてない。

それに、このことが噂好きの吉原なんかにでも知られたりしたらそれが瞬く間にたくさんのやつの耳に情報が入り、面倒なことになってしまうので彼女には特にバレてはいけなかった。

すると吉原は、僕が渚の方を見ていたことよりも遠藤の話題の方が気になっていたのか、「私、二組の子から聞いちゃったんだけどさ——」と話の舵を戻し始めた。

僕は何気なく遠藤の席を見つめた。

遠藤華凛。眼鏡をかけていて、いつも堅い表情でどことなく暗い雰囲気をした人だ。クラスメイトからは少々敬遠されいて、あまり目立つ方ではなかった。その原因としては遠藤が人と会話するときの態度にあった。前に班活動として机をくっつけなければいけない時に、このクラスの問題児である宮島琉斗と遠藤が同じ班で琉斗が興味本位で彼女に話しかけてみると、まるで容疑者に尋問している刑事かのように鋭い目つきで話していたのを覚えている。過去に野口さんが遠藤に話しかけたところ、とても冷たく、必要最低限の返しをしていたので、“遠藤は少しコミュニケーションが苦手”というのが、このクラスの暗黙の共通認識だった。

しかし、そんな彼女にも朗らかな人柄が垣間見える時がある。それは彼女の幼馴染である一年二組の大原楓と話している時だ。お互い分かり合える部分があるのだろう。昼休みなんかは二組で一緒に弁当を食べている姿をよく見かけていた。その時の遠藤は、一組で見せるものとはまるで別人で一組ではあまり見せない笑顔を見せていた。恐らく彼女にとって大原さんは唯一心を許せる人なのだろう。そんな様子を見る限り、学校生活に問題はなさそうだった。しかし、遠藤は、学校が始まってから学校には顔を出しておらず、欠席状態が続いていた。彼女になにかあったのだろうか。

吉原が僕に話しかけようとすると、僕らの列にもプリントが回ってきていて、吉原は前の席の田中望海からプリントを受け取って、はいと僕に渡してきた。

「でね、遠藤さんって嫌がらせ受けてるらしいの」

「嫌がらせ?誰から?」

吉原は周りの様子を伺い、より小さく、囁くような声で僕に喋った。

「渚ちゃん」

僕は耳を疑った。でも吉原の言うことだ。所詮単なる噂話に過ぎないだろうと吉原の話を半信半疑で彼女の話に耳を傾けることにする。再度渚の方に視線を戻すと、後ろの席の宮島琉斗と笑顔で楽しそうに何かしゃべっていた。心臓がギュッと締め付けられる。。

まさかもう他の男に目をつけているのか。少し複雑な気持ちになってしまっていた。落ち着け、俺。別れを告げられた理由が分からない今、そのモヤモヤした気持ちがストレスになり、渚と仲良く話している琉斗に腹が立ってしまうのかもしれない。でも癪に障るのは相手が不良の宮島琉斗だからだ。僕なんかよりも遥かにろくでもない人間だ。先日も他校の生徒と公園でタバコを吸っていたところを近所の人に発見されて学校に苦情が入り、生徒指導室に呼び出されていた。

一番渚に関わってほしくない人物である。それに金持ちの息子だというのもなんか鼻につくし、そういうのも相まってあんなろくでもない人間になったのだろうと思う。僕以外の人に恋したとしても彼だけはやめてほしい。

すると、長谷川先生は「はいはい、喋るな。喋るな」と両手をパン、パンと叩いて静かにするように促し、改めて単語テストについての説明をし始め、吉原は喋り足りなそうに渋々前を向いた。






チャイムが鳴り響き、退屈な五十分の授業の終わりを告げた。

次の時間は美術の授業だったのでクラスのみんなは筆記用具と美術のテキストをもってぞろぞろと出ていっていた。僕は、二つ隣の列の前から二番目の康太の席に行って、行こうぜと活力ない、疲労に包まれた声で声をかけた。こんな声になってしまうのは次の授業が面倒くさいからではない。彼女の知りたくない部分に足を踏み入れてしまったような気になってしまっているからだ。半信半疑でありながらも頭にまとわりついてくる吉原の話や琉斗ともうできているのではないかという不安、僕が彼女に何をしでかしてしまったのかなど様々なことで思考が巡ってしまい、頭が爆発してしまいそうだった。康太と僕は廊下へ出て右に曲がり二階の美術室まで向かった。

僕は一応吉原から聞いたことについて彼にも話した。

「嘘だろ…マジで言ってんのか。本当にクソ野郎だな」

「でも流石に噂話に過ぎないよな」

「でもさ、いじめはあり得なくもないと思うぜ?」

「なんでそんなこと言いきれるんだよ」

康太は少し窓の外の空を見上げた。

「だってあの遠藤だぜ?目つき鋭くて愛想よくねえしさ。シャーペン落としたの拾ってあげてもお礼の言葉一つ返さないようなやつだぞ」

確かに康太の言うこともわかる。僕も二ヶ月ほど前に遠藤が大量のプリントを職員室に運んでいた時に手伝おうかと声をかけたがスルーされてしまったことがある。

多分悪い人ではないと俺は思っている。彼女と本屋で偶然出くわして話したが何ら変哲もない普通の人だった。ただ、単純に人と関わるのが苦手なんだと思う。

僕は普通に返せばシリアスな空気が流れるだけだと思い、「お前のこと苦手なんじゃねえの?」と冗談交じりに言うと、康太は笑いながらふざけんなと返して、僕たち二人は美術室に入った。





授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り響き、僕は席から立ち上がって康太の席へ真っ先に歩いて行った。康太と目が合うと彼は口を開いた。

「なあ思うんだけどさ」

突然の康太の言葉に耳を傾ける。

「ちゃんとお前ら話し合った方がいいと思うぜ?」

核心を突かれ、心臓がドキッと鳴った。確かにそれが一番手っ取り早い。それは百も承知だ。だけど、僕は彼女から「もう話しかけないで」と言われたあの日から気まずくて何も話せなかった。夏休みが開けたら話そう、そう決めていた。しかし話しかけた結果、あんな返しをされればこっちだって彼女とは話す気にはなれない。それに彼女が琉斗にすでに恋焦がれている可能性だってある。何なら別れを告げられた理由も琉斗を好きになったからかもしれない。しかもあの宮島がその好意に気付いて両想いにでもなったりしたら尚更僕はいろんな人から敵視されてしまうだろう。

元カレである僕は邪魔でしかないのだから。

僕は、康太に返す言葉を少し考えたあと「考えとく」と建前で返し、「行こうぜ」と言って歩き始めてその場を忍んだ。でも、この心のモヤモヤを抱えてるくらいなら渚としっかり話した方がいいのかもしれない。

康太は何も言い返さず「そういえばさ、『ドミネーター』の最新巻読んだ?」と僕と康太の間でブームになっている漫画について話し始め、なんとか話題が逸れた。

恐らく僕に気を遣ってくれたのかもしれない。

そこから教室に戻り、掃除時間の始まりを知らせるクラシックの音楽が校内に流れ始めた。班ごとで掃除場所がそれぞれ割り振られているので僕と康太は別々の場所だった。

僕の班は下駄箱前の廊下掃除。渚の班の掃除場所は一階、職員室前の廊下で、彼女は颯爽と教室を出て行った。恐らく掃除場所に向かうんだろう。僕の班の掃除場所である下駄箱前の廊下を真っ直ぐ行って右に曲がればそこは職員室だ。向かう方向は僕と一緒。そして、気づけば僕は、それを追いかけるように早歩きで教室を出た。

もう決心はできていた。彼女としっかり面と向かって話をしよう。

そして別れを切り出した原因を聞き出そう。そして元通りになろう。僕に至らぬところがあったならすぐに直す。しっかり定期的に話し合わなければいけなかったんだ。

意を決し歩くスピードを徐々に早めていき、二階へ続く階段へ降りようとしたとき、中間踊り場から下りようとしている彼女と目が合ってしまった。

僕は何か言葉を探して何かを発そうとするが不思議にも何も言葉が思い浮かばなかった。

何を聞きたかったんだろうか、なんで彼女を追いかけたのだろうか。彼女の顔を見た瞬間に構築出来ていた覚悟もふっと抜けていってしまったようだった。

「渚…」

流石に気まずくなり苦し紛れに名前を呼んだが彼女は僕から目線を逸らしていた。

何か言わなきゃ…。

すると彼女は重い口を開いて言った。

「前に言ったよね?話しかけないでって」

その声には明らかに僕に何か怒りの念を持っているようだった。そして、彼女は眉間に皺を寄せ、鬼の形相で階段を足早に下りて行った。

「でも…」

あまりの彼女の気迫に何も言い返せず追いかける気力もなかった。

俺は何をしてしまったんだ。

階段を一段一段踏みしめながら考えてみるがやっぱりわからない。一気に脱力感に包まれる。はーっと溜息をこぼして過去を想起した。何がトリガーとなったのだろうか。

もしかしたら夏休み前に電車に乗ってショッピングモールに出掛けに行った時のことだろうか。でもあの時はいつも通りのデートだった。何も問題はなかったし、もめるようなこともなく楽しく終えた。それか塾の夏期講習があり、夏休みにあまり遊ぶ時間を設けれなかったことだろうか。でもそれだけで別れを切り出すだろうか。渚の心情が全く掴めない。

下駄箱前の廊下に着くとそこにはまだ誰も着いておらず自分が一番乗りだと分かった。少し早く来すぎたか。僕はなんとなく窓の外を見て憂鬱に空を眺めた。流石の渚ももう掃除場所の職員室に行っているようだ。僕はふと窓の外に浮かぶ青々とした綺麗な空がなんだか僕のことを無理に勇気づけてきてる気がして嫌な景色に思えてしまった。まずい。これはだいぶ心が疲弊している証拠だ。

「篠原、大丈夫?」

ハッと僕は声のする方へ振り返ると、そこには年季の入って古びている箒を持った吉原茜が立っていた。

「何が?大丈夫だよ。っていうかもう来てたんだ。早いな」

僕は焦った様子で返してしまう。窓の外を眺めていたこと気持ち悪がられたかもしれない。こいつは空を眺めて青春に浸り、ポエムを頭の中で思い浮かばせるような痛いやつだと。

噂好きの吉原にこのこと広められたらさすがに僕の学校生活も危うい。

彼女は少し笑いながら返してきた。

「まあね。私、優等生だから。ってか、空なんか見てどうしたの?なんか悩み事?」

痛いやつと思われてはなさそうだが彼女の予想は図星であった。僕は悟られないように「なんか最近天気いいよなーって」と適当に返した。

「たしかに、そうだよねー。あ!みき~箒取っといたよ」

会話に終止符が打たれたことを皮切りに僕は下駄箱横に置いてある雑巾を取りに行った。というのもこの掃除時間で厄介なのは本田みきがいることだった。彼女は渚のグループの中の一人でもあり渚が怒っている理由も知ってるのだと思うが、僕はあまり彼女と話したことがなかったので今のところはほぼ友達の友達状態でなにも聞き出せずにいた。正直、渚のグループの一人である河合桜も同様だ。

すると、ぞろぞろと班のメンバーが揃い、僕らの掃除顧問でありクラスの副担任である体育教師の佐々木先生もやって来た。佐々木先生は三十代の若い男の先生で大学卒業後にここの高校に赴任してきてもう四年目になるそうだ。大学生時代は、陸上の大会で全国に行くほどの選手だったらしく、現在では陸上部の顧問を務めている。普段は非常に温厚で優しい先生だが、怒ると内に秘めている凶暴性が顔を出すときがある。五月に琉斗が校内でタバコを吸っていることが発覚したとき、普段見せない鬼の形相で彼に対して教室で怒鳴り散らしていたのは生徒全員を震撼させたほどだ。それ以来琉斗は、佐々木先生の前ではあまり下手な行動をせず佐々木先生に対して少し腰が低くなっている。しかし、その甘いマスクからたくさんの女子生徒から人気で、あの吉原はタメ語で話すレベルだ。ルール違反は嫌いだが、礼儀などに対してはそこまでうるさくない人だったこともあり人気なのだろう。琉斗も今では彼に対してタメ語でラフに話している。

「それじゃ始めようか。今日の箒は吉原と田中と本田だな」

「先生~私のこと茜ちゃんって呼ぶ約束じゃーん」

と吉原が返すと「うるさいな~体育の成績下げるぞ」という先生のノリの良い返しに僕も少し笑ってしまい賑やかなムードで掃除が始まった。

箒担当と雑巾担当は、男女が日替わりで交代することになっている。今日は女子が箒で男子が雑巾の担当だった。

僕は箒担当の女子三人が廊下を掃き終わるのを待った後で僕の隣の席の木原とともに女子三人の後を追うようにして雑巾を横にスライドさせて拭きながら後退していく。下駄箱前の廊下はたくさんの人が通るので廊下の幅が広い。僕は真ん中から左のスペースを担当し木原は右のスペースを担当した。僕はゆっくりゆっくりと四つん這いで後退しながら拭き進めていた。丁寧に掃除をしたかったわけではない。渚を怒らせた原因を再度考え直したかったからだ。

「はあ明日も学校だるいなー」と窓ふき係を担当していた有働が呟くと、僕の横で一緒に雑巾で床を拭き進めていた木原が「だよなー。今年も来ないかな。爆破予告」と言っていると佐々木先生が少し語気を強くして「おい。縁起でもないこと言うな」と木原に注意した。

「でも先生、ここ二年連続で爆破予告届いてるんですよ?しかもこの時期に。去年は木山高で一昨年は新海高。ここが狙われないとは限らないですよ」

それは懐かしいことでもあり、僕らからすれば“プレゼントのようなもの”だった。そういえば確かにこの時期であった。事の始まりはちょうど二年前の九月のことだった。夏休みが終わって間もないころ、市内の不良が集まる高校として知られている新海高校の郵便ポストに”今日中に市内の高校を爆破させる”という紙が投函されていたことから教育委員会は市内の小・中・高を休校にしたが結局どこの学校からも爆発物は見つからず、誰かがいたずらで書き込んだんだろうと当時学校の友達と話したのを覚えている。そして去年の木山高もまったく同じようなケースで爆破予告が行われたが、どこの学校も爆破されなかったことから同一犯である犯行であったと考えられていて誰も傷つけず、僕らに休校を与えてくれることから“休校サンタ”という愛称で中学の時に一時期話題になっていた。

すると、木原の発言に対して有働が返した。

「でもその二校は偏差値低いヤンキー高校だぜ?誰かが恨みあってやったんじゃねえの?」

「爆破予告送られてない市内の高校は、水野高校とここだけだ。恨みとかじゃなくて愉快犯とかの可能性もあるし、今年か来年にどちらにせよここも狙われるよ」

「おい!もういい加減掃除に集中しろ」と佐々木先生は怒号を浴びせ、その声に女子たちも驚いていた。木原と有働は黙って掃除を再開し始めた。確かに木原の言う通り、狙われるなら残るはここ日野ヶ丘高校と水野高校だけだった。もし今年爆破予告を受けたとしても犯人は本当に爆破させるわけじゃない。別に危害を加えないし、なんなら僕たちに休みを与えてくれる。だから“休校サンタ”。正直なことを言えば、心を休める時間、渚のことを考えないで休める時間が欲しかったため、心のどこかでいっそ休みになってくれないかと密かに願っている自分もいた。


程無くして掃除の時間も終わりに差し掛かり、佐々木先生は僕らを集めて明日は僕と木原と有働が箒担当であることを伝え、解散という声と共に僕らは階段を上がった。僕はまた渚とのことを考えながらゆっくり階段を上がっていっていると後ろを歩いていた吉原が僕の様子をみて「やっぱりなんかあった?篠原」と聞いてきた。「階段のほこりが気になってね」と苦し紛れに返すと吉原が「篠原って綺麗好きなんだね」と返してきたので僕はなんとかそれをきっかけに話題を変え、なんとか話を逸らすことができた。






教室に鳴り響いたチャイムがHRの終わりをつげ、僕は学校のバッグに教科書や参考書を入れていると「あー疲れたー」と気だるそうに康太が僕の席へとやってきた。

渚が学校のバッグを背負って教室を出ていくのを確認すると、僕は康太に先ほどの階段での渚との出来事を話した。

「なんだよ、それ。じゃーお前がなんかして怒らせたってこと?」

「多分。明らかに顔が怒ってたんだよ。けど癪に障るようなことしてないはずなんだ」

「んーでもわからないぞ。お前そういうの鈍感だから知らぬ間になんかしちゃってんじゃないの?」

そう康太に言われて、改めてザッと考え直してみる。彼女が別れを告げたのは八月のことだ。そして、八月に会って遊んだ回数は二回。その二回の中で何かやらかしてしまったのかもしれない。一回目は四日にショッピングモールに遊びに行った。二回目は十四日でその日はボウリングをしに行ってそのあとは映画館で映画を見た。しかし、彼女を怒らせるようなことはしなかったはずだ。それにもし一回目でなにかしでかしていたら二回目のデートには誘われないだろう。ということは二回目のデートで何かやらかしたに違いない。何が彼女の気に触れてたんだ。その答えを持っているのは悲しくも渚だけ…、いや違う。

渚の仲の良い女子グループの誰かに勇気を出して聞けばいいんじゃないだろうか。正直この件に関してはもうお手上げだ。渚と仲の良い本田か河合桜。いやでも待てよ。少なからず河合桜と本田みきは渚の味方だ。ということは僕が何か渚についての話を持ち掛ければそれがすぐグループ内に伝播し僕は悪者として扱われるのではないか。

「まあでももう忘れちゃえばいいんじゃね?別れたんだからさ、もういいじゃんか。まぁとりあえず帰ろうや」

「ちょっ、おい」

康太はこの話題にもう嫌気がさしたのか、話を切り上げて教室をそそくさと教室を出ていった。僕が康太を呼び止めようとしたのは話の続きをしたかったからじゃない。今から行けば渚と駐輪場で鉢合わせることになってしまうからだ。

はぁーと溜息を吐いて康太を追いかけようと教室を出たその時、「篠原」と背後から誰かに声をかけられた。


僕は誰だと思って振り返るとそこには河合桜が立っていた。周りの女子よりも背が高く、174cmほどあるため167cmの僕は屈辱にも少し顔を上にあげて返事を返す。

「どうした?」

僕はこの時まずいと思った。なんて馬鹿なことをしてしまったのだと。渚がいなくなって安心しきってしまい、渚の話を康太にしていたが、もしかしたらそのことを桜に聞かれてしまい、何か忠告でもされるんじゃないかと思った。女子グループとは感情を共有するものだ。彼女も渚と同様冷たい目つきで見て僕をあしらうのだろう。そう思ったがすぐにそれは違うとわかる。河合桜怒っているような表情というよりも真剣な表情をしていたのだ。その眼差しはとても真っ直ぐで凛としていて僕も目を逸らしてしまうほどだった。

僕も彼女の会話の温度に合わせる。

「ちょっといい?」と言って桜は廊下に出ていったため僕は「うん」と言って彼女の後ろをついて行った。何となく雰囲気から渚の話だろうと察しはつく。彼女が僕に話しかける理由はそれぐらいしかないだろう。彼女は隣の棟に繋がっている廊下へと曲がり、真っ直ぐ歩くとさらにその廊下の突き当たりを右に曲がった。その後を追い、歩き着いた先は三階B棟の物置にされている教室の前だった。

昔は生徒数が多かったのでここも教室として使われていたが、今では物置部屋兼女子更衣室としてしか使用されていない。なので、体育の時や行事の時以外はその教室は鍵がかけられていて普段生徒は入室できなくなっている。

B棟の三階の廊下も同様でいつも通る人が少なく、廊下は掃除や雨の日の部活で運動部が室内練習で使うこと以外では、ほとんど誰も立ち入らない場所だった。

桜は周囲を見回して誰もいないことを確認すると、僕の方へ振り返った。

「あのさ…」

彼女はなぜか気まずそうだった。窓の外を見たり床を見たり、体全体をふらふらさせながら話し始めた。明らかに落ち着きがない。

すると、右手の手のひらをうなじに当ててピタッと体の動きを止めた。

「聞きたいことあってさ」

「うん。どうしたの?」

彼女は改めて周りに誰もいないことを再確認して僕の顔をしっかりと見て口を開いた。

「率直に聞くけどさ…」

何を聞かれるのだろうと僕は息をのんだ。

「篠原って遠藤さんと浮気してた?」

「はっ!?」

予想もしていなかった桜の発言に思わず声が出てしまった。しかし、ちょっと待てよと僕は考えた。桜がそんなことを言ってきたということは、もしかすると渚が僕に対して遠藤との浮気を疑って僕に別れを告げたのだろうか。けど、証拠もなしに勝手に浮気をしてたと決めつけ、別れを告げるのもどうかと思う。

「浮気なんてするわけないだろ!」

僕はまるで無罪を主張する犯人のように弁明しようと必死になり、つい大きな声で桜に叫んでしまった。

「はぁ……。誰が言ったんだよ。そんなこと」

僕は思わず顔に手を当てて呆れたような声で返した。

桜は「やっぱりそうか…」と一つため息を吐いて改めて僕の顔を見た。そうだよねと呟くと「じゃあ、遠藤さんとは何もないんだね…?」

「あーそうだよ。なんか証拠でもあるのかよ」

僕がそう言うと桜は急にスカートのポケットからスマホを出して、何やらいじり始めた。

まさか証拠があるのか…?いや、でも僕は断じて浮気などしていない。本当に言いがかりもいいところだ。ただ出すにしてもどんな証拠だろうかと彼女のスマホをじっと見つめた。

「これ…」

桜は自身のスマホをこちらに向けると、僕にとある一枚の写真を見せてきた。

そこには本棚の前で僕と大きいスーパーの袋を持った遠藤が二人並んで喋っている様が写されてる。しかし問題なのは、僕たちの恰好は制服で学校指定の白く中央に日野ヶ丘高校という文字が縫われているスクールバッグが写っていた。僕はなんとなくだが、この時のことを覚えていた。学校で実施される英検準二級の対策のための単語帳や参考書、そしてその日に発売された僕と康太の好きな漫画の最新巻を買いに行こうと学校帰りに本屋に立ち寄ったのである。田んぼが至る所に広がっているような田舎町なので、市内にある本屋はそこしかない。親友である康太と一緒だったらその漫画の話ができたのに、あいにくその日康太体調不良で休みだったので一人寂しくその最新巻を買いに行かざるを得なかったのである。

本屋に入って真っ先に高校参考書と書かれた本棚のところに行こうとするとそこでたまたま遠藤と鉢合わせてしまい、話しかけないのもどうかとも思ったので話題作りのために「何の参考書がいいかな」と話しかけたのを覚えている。

つまりこの時、二人でどの参考書にしようかと話し合いながら選んでいるところを誰かに撮られてしまったのだ。

「あとこれも」

桜が写真を横にスライドさせるともう一枚の写真が出てきた。なるほど。これを見て浮気を疑ったのか。

そこには僕と遠藤が自転車に乗って並列走行しながら帰っている様が写されていた。

僕の自転車の籠に遠藤が持っていたスーパーの袋を入れている。遠藤が持っていた袋の中は食材やなんやらでパンパンだった。確か親にお遣いを頼まれたと言っていた。学校帰りでスクールバッグも持っていて彼女の自転車の籠の中には入らないようだったので僕は、彼女の家までその袋を届けてやることにしたのだ。そしてその様子も撮られてしまったのだろう。

「これって遠藤さんと浮気してたわけじゃ…ないよね?」

「当たり前じゃん。終業式のHRで先生がみんなに英検受験してもらうから単語帳とか参考書とかで勉強しとけって言ってたでしょ?それで本屋に寄ったら、たまたま遠藤と居合わせたんだよ。それで遠藤が大きい買い物袋持ってたから、ほんの親切心で遠藤の家まで届けてあげたんだよ」

桜は僕の話に小さく数回頷いた。

「やっぱりそうだよね。変なこと聞いてごめん」

いろいろ聞きたいことは多かったが僕は真っ先に脳裏に浮かんだことを質問した。

「もしかして…渚ってさ、俺が浮気したって思いこんでるの?」

「うん…そうなんだよね。でも、私言ったんだよ?もうちょっといろいろ確認したほうがいいって。私は、篠原は浮気なんかする人じゃないと思って何回も言い聞かせたんだけど、渚が全然聞かなくてさ。それに最近、私たちとの付き合いも少し悪いし」

その時の桜の顔はより一層暗くなったように感じた。言われてみればそうかもしれない。桜のSNSにも渚と一緒に遊んでいるストーリーは最近なく、むしろ本田みきと一緒に写っている写真が上がっていたように思える。前ほどの頻度では遊んでいないのだろう。なにかあったんだろうか。

「そうなのか。最近遊んでないとか?」

「そう…なんだよね」

僕はその時ある疑問が浮かんだ。この写真は誰が撮ったんだろうか。少なからずこれを撮った人物は僕と遠藤が交際していると勘違いして撮ったのだろう。いわば週刊誌などでよくある飲み会終わりにコンビニでいろいろ買いに行ったらその様子を撮られて○○と○○が不倫という風に記事を書かれるようなものだ。そう考えれば僕の目の前にいる桜が撮ったのではないとわかる。桜が撮ったならば浮気してたかなんて聞いてこないはず。いったい誰が……。

「この写真さ、誰が撮ったの?」

そう僕が言うと桜は困った表情をした。少し間があってから「あの…」と分が悪そうに細々と声を出した。そして先の言葉を出し渋っているのか、また体をぎこちなくふらふらと動かし始めた。彼女は突然黙り込み、僕の目を見ると

「その子の名前は言うけど、誰にも言わないでほしいんだ。このことは秘密にしてほしいし、問い詰めないであげないでほしいの」

こっちは浮気の疑惑をかけられ、それが原因で破局までに至っているんだと大声で怒鳴りつけたかったがその条件を飲み、僕は一つ頷いた。

「ごめん、本当に。その写真はね…、みきが私たちのグループに送ってきたんだ」

僕は驚いた。さっきまで掃除時間に一緒に居た本田みきがそれらの写真を撮ってたなんて。しかし、それならぼくは夏休みから今まで彼女が撮った写真に嫌になるほど振り回されていたことになる。そう思うと腹が立って仕方ない。

「いやでもさ、さすがに本田に謝ってもらわないとこっちの気が済まないよ。僕はそれが原因で渚と別れたんだよ?」

「わかってる!わかってるよ…そんなこと。でもみきも勘違いで撮っちゃったと思うから」

「ふざけんなよ!」僕は桜に怒鳴ってしまった。さすがの彼女の態度に腹が立ち、怒りの沸点を超えてしまった。けど、それは本田みきへの怒りでもあった。友達がやったことだから大目に見てなんて言われてそう簡単に許せるものか。

「ごめん…」

僕が怒鳴ってしまったのもあってか、彼女は少し委縮してしまった。気まずく重々しい雰囲気になり、沈黙が流れる。

「でもさ——」

すると、彼女は喋るのをやめた。というのも、僕たちがさっき通ったA棟からB棟へ向かう廊下から誰かの足音が聞こえてきたからだ。やばい。さっきの僕の怒鳴り声に反応して見に来た人がいるのかもしれない。こんなところを誰かに見られたらたちまち噂が広がって後々面倒くさい。桜もその足音に気付いた様子だったので、苦し紛れに僕らは窓の外を眺めて平然としたふりをすることにした。

タンッタンッタンッと足音がこっちに近づいてきてその音が次第に小さくなる。するとなにも音がしなくなり、足を止めたのが分かった。

桜は気になってその廊下の方へと顔を向ける。僕も気になって少し顔をそちらへ向けると廊下の突き当たりから髪の長い誰かが少し顔を出して覗くように僕らの方を見ているのが分かった。それは見たことある顔、いや、さっき見た顔だった。

「みき」

桜の言葉で確信に変わる。そこに立っていたのは本田みきだった。本田はゆっくりと出てきて桜の顔を見て弱々しい声で聞いた。

「ねぇ…桜。もしかして話しちゃったの…?」

渚、桜、本田の間でこのことは言ってはいけないという約束を事前に交わしていたのか、それを聞かれた桜は少し動揺してしているようだった。本田が察するのも当然だ。あえて人がいないこの場所を話しの場に使っていること、そして桜の話している相手が渚の元カレである僕であること、それらを考えればその言葉が間違いなく出てくるし、僕らも言い訳のしようがなかった。

「いや…その…」

「もういいから、部活行こう」と本田は桜の手を取り、僕の顔も見ずに足早に僕の前を通り過ぎようとした。その時の本田はまるで罪を認めず、その場から逃げ去ろうとする犯人のようだった。

「おい、待てよ。本田」と僕は本田と写真のことについて話そうと彼女の前に立つと、彼女は下を向いた。明らかに動揺している様子だった。すると、彼女はとても微小な声で「ごめん」とつぶやいて僕の横を突っ切って廊下を駆けていった。

僕はあとを追いかけようとすると、A棟からB棟の連結廊下で誰かが桜たちを避けて呆然とその様子を見ていた。状況を確認するようにこっちを振り向いたとき、その人物が康太であるとわかった。

「篠原!なんかあったのか」と言って駆け寄ってくる。

僕はなんだか疲れてハァーとため息を吐き、下を向いた。




僕は康太に先ほどあったことを説明し、そこから駐輪場へと移動した。康太もさすがの彼女たちの行動に「最低な女だな。もうお前関わらないほうがいいぞ」と言ってきた。

彼女たちにはさすがに呆れた。まさか女子に怒鳴ってしまうのは自分でも驚きだったが、渚のことをちゃんと思っているからこそ勝手に浮気を疑われて怒りの念が沸騰したように湧き出てきたのだ。

なんだかどっと体が重くなったように感じて駐輪場に着き、自転車のカギを解錠して重々しく動かした。体重を乗せて校門の方へ自転車を押していると、それに康太は気を遣って声をかけてくる。

「いいか、篠原。お前が原因じゃなかったって証明できるじゃんか。それをわかってもらっただけども十分だよ。選択する権利はお前にあるし、これからのことはお前が決めていくべきなんだけど——」

「康太」

康太は僕の声を聞いて話をやめた。その時、僕は決心していた。

「俺はちゃんと渚と話をするよ」

そう覚悟を決めて康太に話すと「まあそうだよな」と返し、僕たちは自転車に乗っていつもの帰り道を走った。

「明日話すのか?」

「そうだな。とりあえず今日桜にメールして誤解を解く手伝いをしてくれるように言うよ」

「それって本当は英検の参考書買いに行ったら、たまたま遠藤と鉢合わせたって説明させるってことか」

「うん。けど、なんで浮気なんか疑われたのかな…」

はあーと康太は呆れた様子で

「お前さ、よく考えてみろよ。もし宮島が渚にそんなことしてたらお前どう思うよ。しかも、お前が送った相手はあの変人の遠藤だぞ」

僕は遠藤が変人だという言葉に言い返してやりたかったができなかった。もし宮島がやっていたらという言葉でなんとなく渚の気持ちが分かった。確かに僕も同じように写真を送られてきて渚が浮気してると言われたら信じてしまうだろう。誤解させるような行動をとった僕も悪いと思い、しっかりと彼女に面と向かって謝ろうと決めた。

「確かに俺もよくなかったな…」

「だろ?真の悪は篠原だな」

「はあ?だけど本田も本田だろ」

「まあな。でも、お前芸能人なら今ごろ干されて謝罪会見だぞ」

「だな。ハッハッハッ」

僕は康太の言葉に疲れが解れたのか、悩みから解放されたのか、なんだか暖かい気持ちになり、久しぶりに心の底から笑えた気がした。

十五分ほど自転車を漕ぐと、康太の家の近くの交差点まで来て自転車を止め、「じゃあな。明日頑張れよ」と言って康太は信号が青に変わるのを待った。

「おう、じゃあな」と僕が進む方向の信号が青になっていたので、彼に別れを告げて自転車を漕ぐスピードを上げた。


それから五分ほどして家に到着し、ただいまと一言言って、真っ先に自分の部屋がある二階へと上がると、階段で姉と鉢合わせた。

「おかえり、壮太。充電器貸して」

「いや、いいけどさ。なるべく早く返せよ?」

「へいへい」と適当な返事を返され、相変らずの姉のおっさんじみた口調に少し腹が立つ。

うちの家族は四人家族で、お父さんお母さんと僕の九つ上の姉ちゃんとで暮らしている。

姉は大学卒業後に東京の大手化粧品メーカーに入社したが一年ほどで会社を辞めて実家に帰省した。今は無職を楽しみながら、職探しをしているところである。

僕は部屋に入り、バッグを放り投げ、ベッドに飛び込んだ。今日一日疲れて今にも寝てしまいそうになる。心も体も重くなっていたので今にもこのベッドに沈んでしまうんじゃないかという気持ちにさえなってくる。

そこで僕は桜にメールを送らなければいけないことを思い出し、横たわった状態でベッドの端まで体を動かしなんとかバッグに手を伸ばし、こちらの方へとひきずり寄せてバッグの中にある小さいポケットの中に手を忍ばせてスマホを取り出した。

スマホをタップし、誰かから通知が来ていないかと確認すると、桜から何か長文のメッセージが見えたのでそれをタップし、トーク画面を開くと画面の下の方に、

『篠原、今日はごめん。ちゃんとみきとも話して、渚にもしっかり篠原が浮気してなかったってメール送った。今回のこと、本当にごめん』

そうメッセージが綴られていた。

僕はなんだか肩の荷が下りた。体がより一層ベッドに沈みこむ。明日渚と前に見たいに話ができること、また前みたいに恋人に戻れること、ただただそんな願いが頭に浮かびながら、僕はゆっくりと目を閉じ、眠りに落ちてしまった。


九月八日金曜日 午前一時四分


目が覚めると辺りは真っ暗であれから寝落ちしてしまったのだと察知した。スマホで時間を確認すると、01:04と待ち受けに表示された。そんなに寝てしまったのか。あと六時間もすれば学校に行かなければいかないのかと憂鬱な気持ちになった。とりあえず喉が渇いたので一階に下りて、リビングの扉を開けると暗がりの中、姉がテレビの前のソファに座って映画を見ていた。

「お、起きたか。そこにあんたのごはんあるから温めて食べな」

僕は寝ぼけ眼で台所前のダイニングテーブルの上に視線をやるとそこにはオムライスとみそ汁がそれぞれラップをして置いてあるのがわかった。

「うん」

姉ちゃんはソファから顔を出し、僕の方に体を向けた。

「あんた明日大丈夫?学校早いっしょ」

「姉ちゃんが学校行ってよ。俺ら似てるから何とかなるよ」

「私が連行されるわ。母校とはいえ、さすがにダメだろ」

僕は冷蔵庫の中からオレンジジュースを取り出し、コップに注いで一気に流し込んだ。そして僕はその時に、そういえば桜とのトーク画面を開いてから何も返してなかったのを思い出して、僕が既読無視をしていると勘違いされたんじゃないかと思い、ポケットに入れていたスマホを取り出してトーク画面を開いた。

トーク画面はさきほどの桜のメッセージで終わっていた。僕は『わかった。でも桜は何も悪くないから気にしなくて大丈夫だよ。渚に伝えてくれてありがとう』と返信した。

「これ、明日の朝食べるよ」

オムライスを冷蔵庫の中に入れ、みそ汁を鍋の中に戻し僕はそのまま風呂場の方へと向かい、追いだきのボタンを押して、姉ちゃんが見ていた映画をダイニングテーブルの椅子に座って見てお風呂が沸きあがるのを待った。

何となく、夜のこの静けさの中でゆっくりと映画を見ている姉をうらやましく思った。

「無職っていいな」

何となくそんな言葉が考えなしに口から出ると、

「煽ってんのか。てめえ」と返される。

正直それは本音でもあった。心の底から人間関係というものが面倒くさいなと思っているし、明日の学校も面倒くさいなと思ってしまっている自分がいた。いっそ誰かに変わってくれないだろうかとどこか願ってしまっている自分がいた。

「姉ちゃんって高校生の時、学校毎日ちゃんと行ってた?」

「ハハハ。私は正直ひどかったかもね」

「行ってなかったの?」

「まあ少し不登校気味だったかな。行ってたっちゃ行ってたけど度々休んでたね。学校の先生がめちゃくちゃ嫌いでさ。なんて言うのかな。学校とか会社とかもそうだけどさ、白い花があっても先生がそれは黒い花だって言ったらみんなそれに従わなきゃいけないみたいなことがあるのよ」

僕はその意味がよくわからなかったので「それってどういうこと?」と聞いた。正直、寝起きだったので頭が働いてなかった。

「要は理不尽なこと言われてもそれを受け入れて従わなきゃいけなかったりするってこと。それが憂鬱でよく授業サボって学校近くの公園で遊んでたんだ」

姉の意外な一面に少し驚いた。姉はこんな感じだが結構勉強できて、時には頼りになるようなやつだ。そんな姉が嫌いになり学校をサボるレベルならよっぽど理不尽な教師が多かったんだろう。

「特に加藤とかめちゃくちゃうざくてさ。女子のスカートの長さにいちいち口だしたり、確認してきたりして、すげえ気持ち悪かったんだよね」

「加藤って今校長先生の?」

「そうそう。まじでなんであんなやつが校長に?って思うよ」

「そんなに?」

「そうだよ。みんなから嫌われてたしね」

そうなのか。まあ確かに少し面倒くさそうな人だなというのは全校集会の話の時に薄々感じていた。いつも睨んでいるような鋭い目つきをして話をするが、その話が毎回つまらなく、寝てしまう人も続出するほどだ。過去にはあのまじめな学級委員の松田里香でさえ寝ていたほどである。あの松田を寝させるなんて相当の話術だ。

退屈した生徒が、私語をしていると指をさして「立っとけ」と言って全校集会中に立たせたこともあった。姉の言っている通り、面倒くさい人なんだろう。

「追いだきが終了しました」という知らせで僕は風呂場に向かう。服を脱ぎ、洗濯籠に入れ、一日の疲れや辛さを風呂で流し込む。恐らく社会人であれば、ここで一杯やるだろうなと何となく妄想する。

今日一日の出来事が脳内に自然と流れてくる。渚が怒る原因が単純な誤解だったということに安心したが、僕が軽率に遠藤を家まで送ったのはよくなかったなと思う。そりゃ、そんな風に誰かに盗撮されてしまうなんて思わなかった。それがしかも、こんなことに発展するなんて。いや、でもあれは、勘違いした本田が悪いと思う。近くにいて僕らの行動を監視してたなら、遠藤のあの重そうな袋も見えていたはずだ。それに本田が本屋で僕と遠藤が二人並んでいる写真を撮ったということは、あの時点で浮気と勘違いして撮ったということだ。僕にはどうもその点が引っ掛かった。

僕と遠藤はその日のHRで長谷川先生から英検のことを知らされ、本屋に直行してたまたま鉢合わせたのだから、なんとなく意見交換をしてどの参考書を買おうか選んでいるんだろうな、と思わないものなんだろうか。

まあでも、本田ももしかしたら参考書を買いに来て、たまたま僕らが選んでいるところを見てしまい、二人で買いにきた=浮気という風に考えてしまったのかもしれない。

そんな誤解をされたことには腹が立つが、桜が二人に話してくれたんだ。これで誤解も解けるだろう。

明日はしっかりと渚に謝ろう。

僕はシャンプーをして髪を洗い、それから少しして風呂場を出た。

ジャージ姿に着替えて姉に「おやすみ」と一言言おうとしたが、姉は寝てしまっていた。僕は黙って二階へ上がり、再度自分のベッドに身を委ねた。



午前七時十五分



目覚まし時計のアラームが鳴り響き、僕は右手で思いっきりバンっと押す。んーと言って体をゆっくり起こすが、一生寝ていたいと思い、またベッドに体をうずめる。

しかし目の前の現実を受け入れてまた体を起こし、扉を開けゆっくりと階段を下りてトイレへと向かった。

用を足して台所へと向かい、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してコップに注ぐ。姉はソファの上でこれまた腑抜けた表情をして寝ていた。なんとも情けない顔だ。

しかし、こんな姉でも花の都、東京で一人暮らしをして就職までしたのである。

一年前のお盆休みに姉は久しぶりに帰省してくると「ただいま」とドアを開けた瞬間、お母さんに子供のように泣きついたのを今でも覚えている。職場での人間関係や多忙な日々に疲れていたらしい。それもあって辞めたのだろうが、それでもよく一年も頑張ったなと思う。姉が辞めて実家へ帰ってくると、いつもの能天気な姉に戻っていて、僕も少しホッとしたのを覚えている。人間関係という鎖でこうも人が変わってしまうのだと思ったものだ。

僕は一気にオレンジジュースを喉に流し込んで、制服に着替えるためにまた二階へと上がった。すると階段の音で起きたのか。母が寝室から出てきて「おはよう、壮太。すぐ朝ごはんするからね」と言って颯爽と下りて行った。僕はそれに「おはよう」と振り向いて返す。

僕は今日彼女と話さないといけない。しっかり面と向かって。僕はなんだか緊張していた。それもそうだ。ちゃんと話すのは一ヶ月ぶりだし、昨日は彼女に「もう話しかけないで」とも言われた。それを考えれば無理もない。

しかし、今日はさすがの僕も勇気を出して話さなきゃいけない。

僕の行いも悪かったのだから。ちゃんと誤解させてしまったことを謝ろう。

部屋の中に入り、クローゼットを開け学校の制服に着替えてスマホを手に取った。通知を確認すると、桜からの返信はなく、ニュースアプリの通知だけが来ていた。“令和の殺人鬼 野村浩平容疑者 事件の真相”そんな通知が届いていたが僕は気にも留めず、スマホを制服のズボンのポケットにしまった。

それから今日授業で使う教材をバッグの中に詰め込み、それを一階のダイニングテーブルに持っていく。これがまさに僕の朝のルーティンというやつだ。いつもどおり、お母さんがオーブントースターでパンを焼き終わるのを、朝のニュースでも見ながら待つ。いつも通り、先日のバラエティで大学のミス何とかのグランプリを取ったとかの話をまんざらでもない顔で語っていた筧美奈アナウンサーが「続いてのニュースです」と原稿を読み上げていた。

「先日、女性六名を殺害し、遺体を自宅に遺棄した容疑で逮捕された野村浩平容疑者は取り調べにて犯行動機を尋ねられると『コレクションを集めたくてやった』と供述しました。警察の調べによると野村容疑者は——」

「この子、確か死刑になったんだよね」

お母さんが僕に話しかけてきた。

「まあ六人も殺してるし、その上死体遺棄もしてるからね。本当恐ろしい事件だよね」

すると、テレビの音で起こしてしまったのか。姉がんーっと言って体をゆっくり起こした。髪の毛はボサボサで、無職が故のだらしなさがそこに表れているようだった。

「沙也。あんたもご飯食べる?」

「私はいい。二階でもう一眠りする」

と言って立ち上がり、すたすたと扉を開けて二階へと上がっていった。

「ほら、壮太できたよ」

僕はソファから立ち上がり、ダイニングテーブルの方へ向かい、椅子に座ってイチゴジャムがかけてあるトーストのパンを食べた。

「お父さん、まだ寝てんのかしら」

とお母さんは言うと、扉を開けて二階へ上がっていき、寝室のドアを開けて「お父さん、お父さん」と言って体をゆすって起こす声が聞こえてきた。

僕は先ほどのニュースが気味悪かったので、テレビの前のローテーブルにあるリモコンを手に取り、違う番組に変えたがどこの局もそれを扱っていたのでテレビを消してダイニングテーブルへと戻り、パンを食べた。

ふぁーと欠伸をしながらお父さんが下りてくると僕はトイレの前の洗面台で顔を洗い、歯磨きをしているともう家を出なければいけない時間だったので僕は足早に学校のバッグを持ち「いってきます」とお父さんとお母さんに言って家を出た。

早朝はちょうどいい温度で非常に心地よかった。自転車を出してまたがり、康太と合流するためにいつもの待ち合わせ場所である交差点へと向かう。五分程こいでいると交差点に着いたがまだ康太はついていなかった。僕は信号が変わるのを何も考えずじっと眺めたり、五分ほどスマホをいじっていると向こうからリンリンと音が鳴り、康太が来たことを察する。ちょうど信号が青になったので横断歩道を渡ってこっちの方に来ると、「いやぁ、ごめんごめん」と謝ってきた。

こいつまた…と思ってしまう。

「お前また牛乳こぼしたんじゃないだろうな」

「あ、やっぱバレた?」

「今回はちゃんとふき取ったか?」

「いや今回はバッグにはついてない。ただ床にこぼしちゃって、綺麗になるまで掃除させられてた」

康太は背が伸びるようにと毎日欠かさず牛乳を飲んでいる。昔から康太はしっかり時間を守る方だが、遅れたときは大体牛乳をこぼしてしまって掃除させられているのでもうわかりきっていた。

「それにしても懐かしいな。俺バッグにこぼしちゃってシミになったっけ」

「そうだよ。まだ入学式から一週間ぐらいしか経ってなかったのに。小さいシミ出来ててさ」

僕と康太は前にあった話をしながら学校へと自転車を漕ぎ始めた。

「まあでも取れたから、よかったじゃん。なんか白く残ってたけど帰る時間の時には取れてたもんな」

「あれはさすがに驚いたね。あれお母さんにバレてたら、めちゃくちゃ面倒くさいことになってたと思うわ」

「お前のお母さん、綺麗好きだもんな」

何気ない会話が続き、もういっそのことこのまま学校にはつかなくていいやとさえ思っていた。やっぱり康太との話は現実を忘れさせてくれたし、なにより心が落ち着いた。

自転車を漕ぎながら、最近出た漫画の話とかニュースになっていた荒川修平の話をしているとあっという間に学校についてしまい、夢のような時間は終わってしまった。

校内に入ると、僕と康太は自転車を押して駐輪場へと運んだ。

「そういえば今日話すんだろ?」

康太に言われて改めて覚悟を決める。

「うん、そうだな」

深刻そうな声色になった僕の顔を見て

「大丈夫だって。絶対元通りになれるよ」と康太から背中を押され少し心が落ち着いた。

自転車を止めて鍵をかけ、僕と康太は下駄箱へと向かった。靴を入れてスリッパを取り出し、履き替える。よしっと心の中で改めて覚悟を決めて階段を上り、三階へと向かった。


午前八時五分


この時間帯にもなると渚はもう学校に来ている。

桜にはちゃんと話を通してもらえてるので渚と話せるのは話せるだろう。

教室に入って開口一番に話そう。

すると、康太が僕の背中をドンッと強く叩いてきて「それじゃ、頑張れよ」と言ってきた。

おそらく僕に喝を入れてくれたんだろう。ここまでいろいろ話を聞いてくれた康太には感謝している。だからこそ、しっかり向き合って話すという覚悟をより一層決めて一年一組の教室の前扉から入っていった。康太は気を遣ってくれたのか、教室の後ろの扉から入っていった。

扉を開けてすぐ渚の席を確認する。やっぱりバッグが置かれていたが、肝心の渚は席にはいなかった。だいたい朝はそこが渚たちのグループの溜まり場になっているのだがやはり付き合いが悪いのもあるのだろうか。

すると後ろから声をかけられた。

「壮太」

僕を名前で呼び、尚且つ女子の声だった。

久しぶりのその声に僕は少し目頭が熱くなる。ここまでずっと疑われていたからであろう。僕はいわば冤罪が証明された被告人のような気持ちだった。僕の心の中はすでにスーツを着た人が走ってきて習字の紙をパッと開き、判決結果が無罪と出たような気持ちだった。

振り返るとそこに立っていたのは無論、池本渚だった。

「おはよう。なに?」

僕は少し緊張気味で白々しい返しになってしまう。渚の表情は、昨日のような怒り顔ではなく、少し後悔の念に満ちたような顔だった。

しかし、何となく彼女の言いたいことが伺える。

「放課後、話できる?」

「うん。いいよ」

多分、僕も渚もお互いに声をかけて話があることを伝えるというのがゴールだったため、そこからの会話の展開がなく、少し沈黙ができそうなタイミングで僕は

「髪型変えた?」

「そう。へへ、気づいた?そりゃ久しぶりに話すから、ね。」

その言葉に胸が熱くなり、にやけてしまいそうになる。一ヶ月ぶりのその感覚に、何だかホッとする。渚はいつもの長髪を結ばず流しているが、今日は何だか普段あまりしないツインテールの結び方になっていてとても似合っていた。

葛藤した、本当に辛かった一ヶ月だった。これだったら、もう本田の謝罪もいらないかもしれない。そんなことを思いながら、「じゃー、放課後にね」という返しをしたあと、渚も「じゃ」と笑顔で返し、僕は少し弾んだように歩いて自分の席へと向かった。

康太が渚から見えないように手を出してきたので、僕は思いっきりその手をパチンと叩き、康太と勝利のハイタッチを交わした。

僕はそれからHRが始まるまで四限の数学の課題であるワークに取り掛かった。

安堵したこともあり、ワークのページを開いて宿題に取り掛かった最初の三分間は全く集中できなかった。何ならまたにやけてしまいそうだったが、太ももをつねって何とか自分の表情を制御した。


いつものごとく、二十五分に担任の長谷川先生が「はい、おはようー」と言って入ってきて、その後に副担任の佐々木先生と野木先生も入ってきた。それに伴って教室の席もだんだんと埋まってきていた。朝のHRが始まる。

すると、二十九分に宮島琉斗が教室に入ってきた。

しかし、何かあったんだろうか。彼の様子が少しおかしかった。ホラー映画の登場人物のように恐怖心や不安感に駆られているようで、顔は強張っており、教室全体をキョロキョロと見ながらバッグを床に慎重に置いてゆっくりと席に座った。

そのタイミングで、HRの始まりを告げるチャイムが学校全体に鳴り響く。

「はい、それじゃー松田号令」

と長谷川先生はいつも通り松田里香に号令をかけるように促し、「起立」と言うと、僕らもその号令に合わせて動く。礼をして席につくと、先生が喋り始める。

「えーみんなも知ってるだろうと思うけど、来月には文化祭があります。今日のHRで一年一組が文化祭で何をするか話し合って決めるので、各々何するか考えておいてください」

まじか。あまりにタイミングが悪い。

初めての日野ヶ丘高校での文化祭ではあるけど、中学の時みたいに、誰も案を出さないで話し合いが進まなければ、決まるまで居残りさせられる可能性もある。渚との話もあるし、出来るならHRの時間帯で終わってほしい。まあ今日中に決めなきゃいけないわけじゃないんだろうが、少し不安だ。

「あと校長先生がこの教室はとても綺麗だとお褒めの言葉を頂きました。教室掃除の人は細かいところまで隅々やっていて素晴らしいと仰っていたので、今後も継続してやっていくように。やったな、康太」と教室掃除の担当である康太の班の掃除が褒められ、話を盛り上げるためか長谷川先生は康太に名指しで声をかけた。康太も「おう」という返しをしたのが、みんなの笑いを誘い、平穏なムードに包まれた。

「まあでも伝えていた通り、来月は英検とか定期テストで忙しいです。忙しくなるからこそ、来月になって慌てて勉強に取り掛からず、今のうちに対策しておこうな。よーし、もう話すことないし、これにて解散!」

あまりに早すぎるHRだったが、長谷川先生が生徒から人気なのはこういうところでもあった。無駄を作らない。周りの担任のおじさん教師よりも断然早くHRの話を切り上げることから、二組、三組からは羨ましがられるほどである。“話の時間”というのは生徒からすれば結構重要で好感度とも比例してくる。例えば、一つの連絡事項を三十分かけて話すような先生もいてその先生は基本嫌われている。それに昨日の深夜の姉の話によれば、話の長い校長先生も姉の代の生徒からはだいぶ嫌われているようだったし、話の長さと好感度の比例関係は間違いなく正しいだろう。どこかの学者に研究してもらいたいものだ。

右斜め前の本田の席の前を通り、康太の席へと向かって、トイレへ行こうと言い、二人で用を足しに向かった。

正直言えば、ここまで追い込まれたのだから本田からの謝罪の言葉ぐらい欲しい気持ちがだんだん心の中で浮上してきた。

「ごめん」とか「悪かった」とかたった一言でいい。確かに僕が浮気を疑われるような素振りをしてしまって勘違いしたのかもしれない。けど、少しぐらいは…。まあしかし、朝の渚との会話を経て僕の中では終わりよければ全て良しとどうでもいい気持ちも半分あったので、あっちが僕を呼び出して謝ってくるなら謝罪の言葉を聞こうと思っている。

何もそんな素振りがなかったとしても僕から彼女に対して謝罪を強要するつもりはない。

「あー眠い」

康太は大きく欠伸をして、そんなことを言ってきた。

「牛乳飲めば起きるんじゃね」

「また掃除しなきゃだろ」

「ハッハッハッ、だったらもう飲むなよ」

僕と康太は、はぁーとため息を漏らしながら洗面台で手を洗い、廊下を歩いて教室へと戻った。授業が始まるまで少し雑談をしようと、僕は康太の机に寄りかかり、チラッと渚の席の方を見たが、彼女はいなかった。窓側の一番後ろに渚の姿が視界に入ったので、河合桜の席で話しているのがわかった。

何気なく本田の席の方を見ると、彼女は机に伏していて、明らかに喋りかけないでオーラを放っていたので、もしかしたら彼女たちの間に何か溝が生じているのかもしれないと感じた。

「ってかさ、バックトゥーザフューチャーって見たことある?」

と康太に話しかけられたのでそれに答え、雑談を続けているとあっという間に一限が始まる時間帯が迫ってきてしまい、僕は康太にじゃあなと告げて自分の席へと戻った。

一時限目は、化学だったので吉原の溜息がはぁーと聞こえる。

僕ももう一度溜息をつきたかった。その理由は一限の先生の授業にあった。化学の鈴木先生は七十代前半ぐらいのおじいちゃん先生で、これまた話が全く面白くないのだ。オヤジギャグをちょくちょく挟んでくるのだが、それがあまりにつまらないので、たまにボケなのかマジで言っているのか判別つかないことがあり、こちらは毎度反応に困っている。それに鈴木先生はよく自分の発したボケに一人で笑っている。生徒にウケていないことに気づいてないのだろうか。悪い人ではないが、こちらとしては辛い一時間なのだ。

すると、チャイムが鳴り、授業の始まりを告げた。



一限目の授業が終わり、すぐさま僕らは現代文の教材を準備する。

と言っても二限目の現代文も少し厄介な先生だった。佐藤先生。さっきから吉原や康太が溜息をもらしていたのはこの授業のせいでもあった。鈴木先生であれば、オヤジギャグを耐え抜けばいいものの、佐藤先生は人間性が腐っているのでそれ以上に厄介だった。佐藤は四十代ぐらいのメガネをかけたおばさん先生でやけに俺たちへの当たりが強い。問題を間違えるぐらいは何の問題もないが、教科書に書いてある漢字を読み間違えたりすると、理不尽にキレてくるタイプの先生だ。前にはそれで琉斗と佐藤先生が言い合い状態になり、たまたま教室の前を通りがかった佐々木先生から生徒指導室に呼び出されて、琉斗が説教をくらったこともあった。それに関してはさすがに、琉斗が可哀想だったが、僕たちが先生に対して思っている不満を吐露してくれたので、あの時ばかりはみんな心の中でやれやれ!と心の中で応援していただろう。

そういえば、琉斗は大丈夫だろうか。琉斗の席の方へ視線を移すと、琉斗は机に伏せていた。やっぱり佐藤先生のせいかと最初は思ったがHRの時からもう浮かない顔をしており、周囲を警戒しているのがとても印象強く残っていたため、やはり家や友達の間でなにか嫌なことがあったんだろうと思う。人間関係でのトラブルでもあったのだろう。



着々と時間は進んでいき、地獄の現代文の授業も終わった。少しの解放感に包まれる。みんな各々席から立って体を伸ばしていた。

そして次の時間は長谷川先生のコミュ英だった。確かにHRは早めだが授業はしっかりやるタイプなので、たまに眠くなってしまうことがある。若い先生だからというのもあってか僕らが寝るのには結構寛容だが、あまりにあからさまにいびきをかいて寝ていると流石の長谷川先生も怒る。

長谷川先生が教室に入ってきたタイミングでチャイムが鳴り響く。号令の所作を終えて、席に座る。

もう面倒くさい。そんなことが頭をよぎっていると、いつものように教科書を一斉に開いて宿題として出されていたページの問題解説をやっていった。

早く渚と喋りたい。そんなことを脳裏でずっと考えながら一分一秒が過ぎていく。

僕は何気なく彼女の方に視線をやった後、遠藤の机へと視線を移す。

ふと思った。吉原が言っていたことは本当なんだろうかと。僕は都合の良いようにしか考えたくなかったのかもしれない。大事なことをできるだけ僕は見ないようにしていた。それは遠藤の問題である。渚はおそらく僕の浮気相手だと思って遠藤に嫌がらせをしていたのかもしれない。ただ、僕は彼女にその話もしなければいけないと思っていた。確かに今、彼女とは良さそうな雰囲気になっているが、僕は放課後に遠藤のことについての話もしようと思っていた。多分空気が悪くなるだろう。でも、彼女が渚の誤解を受けて学校に来ていないんじゃ、流石にこちらとしても心が痛い。僕にも悪い点はあったんだ。遠藤が来ていない原因がそれなら二人で遠藤の家に謝りに行こう。詫びを入れよう。そう決めていた。一番遠藤に謝らなければいけないのは、勘違いで写真を撮った本田だろうとは思うが、この騒動に発展してしまったのは僕らのせいでもある。ちゃんとこの件を渚に話そう。


でも、その日の放課後、僕たちは会えなかった。それは突如として起こった。

授業が始まって二十分ほど経過した時、突然ピンポンパンポンと放送が流れるチャイムが学校中に響き渡り、マイクのノイズ音がジリジリと鳴っていた。放送のスピーカーに皆が注目する。僕もスピーカーの方に目をやった時に、本田が何やら下を向いて貧乏ゆすりをしているのが視界に入った。トイレに行きたいのを我慢しているのだろうかと少し失礼なことを思ってしまった。それにしても授業中に放送なんて珍しい。誰か先生の呼び出しだろうか。それとも…。

「えー授業中失礼します。職員の方々は至急、職員室に集まってください。職員の方々は至急、職員室に集まってください。緊急の職員会議を行います。繰り返します。職員の方々は至急、職員室に——」

と教頭先生の声が教室に響き渡った。

学校の先生全員が職員室に集まらなければいけない。しかもこの時期に。みんなはもう既にわかりきっていた。僕の隣の席の木原がなんとなくニヤッと笑ったような気がした。

恐らく、昨日掃除の時間に木原が話していた予想は当たっているかもしれない。わざわざ授業を中断させてまで学校職員全員を職員室に集める。大体この手のことは、学校が突如として休校になる。二年間も同じ流れを経験しているのだからなんとなくわかる。

長谷川先生は慌てた様子で、「まじか。えーじゃー、みんな自習しててな。くれぐれも静かにやるように」と言って教室を出て行った。

そして、この休校になる流れの時には、決まって先生の言葉とは裏腹に男子が騒ぎ出す。案の定、先生が出て行ったタイミングで教室全体がざわつき始め、木原が僕の方を向いて「絶対爆破予告あったんだよ」と少し自慢げな顔で言ってきた。

それに対して、木原の前の席の有働が「かもしれねえな。まあ帰る準備でもしとくか」と筆記用具やらコミュ英の教科書や机の中の教材を次々とバッグの中に入れ始めた。

「流石に気が早いだろ」と僕は笑った。

廊下を二組か三組で授業をしていたんだろうと思われる化学の鈴木先生がまるで競歩でもしてるのかと思うほど、早歩きで歩いて我々一組の教室の前を通り過ぎて行った。

その様子を見た有働が僕らの班だけに聞こえるぐらいの声で「頑張れー」と言うと、その発言で班全体が笑いに包まれた。しかし、本田みきを除いて。

彼女は放送があってからずっと様子が変だった。日頃あまり貧乏ゆすりなんてしないし、先ほどからずっと下を向いている。なんだろうかと思い、さっきは気づかなかったがよく見ると、本田は机の引き出しの中の何かにじっと視線を落としていた。

スマホでも見てるのか?そんなことを思ってると、彼女は徐にその引き出しの中の何かを取り出し、それをポケットに入れた。その時、それが彼女のスマホであることが視認できた。

すると本田は突然、席を立ち上がり、廊下側の列の一番後ろの席である河合桜の席へ向かった。僕はなんとなくそれを目で追っていると、本田は何かを必死に桜に訴えかけているようだった。教室全体がざわざわしているせいで何を言っているのか聞き取れない。

すると、本田は桜の腕を引っ張り、強引に席から立たせようとした。

何をしてるんだ?

桜は非常に困惑しているようだった。

すると、その様子を見て心配した渚がそこに駆け寄っていって桜の話を聞いた。

さすがに、桜の席周辺の人間は彼女たちを訝しそうな顔でその様を見つめる。

すると突然、自分の訴えを聞き入れてくれない桜と渚に腹が立ったのか、彼女たちに涙交じりに大声を出した。

「だから、本当に爆発しちゃうんだって!」

その発言に教室全体が本田に注目した。

あまりにその声が不安や恐怖に駆られているような震えた声だったので桜の周りに座っていた女子や僕の前の席の吉原も心配して彼女に駆け寄った。

すると、木原が「何言ってんだ、あいつ」と笑いながら言うものなのでそれに釣られて有働も「やばいよな」と少し嘲笑気味に返した。

すると、琉斗が突然席からバタンッと立ち上がり「お前なんでそのこと知って…」と意味深に本田に言った。そしてその時だった。

バンッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ‼‼

と鼓膜を破ってしまいそうなほど大きな爆発音が鳴った。

その音と同時に教室全体が、一時的に地震が起こったように少し揺れ、みんな反射的に机の下に隠れた。女子生徒のキャーーーー!!!と言う叫び声が教室に響き渡る。

「おいっ嘘だろ…」と木原が言った。揺れが収まると、みんなが動揺して周りをキョロキョロと見回していた。まさか本当に爆破させたのだろうか。休校サンタは本当にこの学校に爆弾を仕掛け、爆発させたのだろうか。

やばい、逃げなきゃ……。殺されてしまう…。頭が回らない。逃げないと…。逃げないと…。

すると、揺れがなくなったことを察した木原が、「みんな逃げるぞ!爆弾だ!逃げるぞ‼」と大声で叫んだ。

その声と同時にクラスのみんな教室のドアを開け、廊下へと走って出て行った。渚たちのグループも後ろのドアを開けてそこから走って出ていく。僕もここから出なければいけない。徐に康太の方へ行き、「行くぞ!」と言って前のドアから木原や有働の後ろに続いて出ていく。

僕は教室を出て一瞬だけ、どこが爆発したのか把握しようと窓から外の景色を見ようとしたが煙が立ち込めてきていて何も見えなかった。

「袖で鼻と口塞げ!」と誰か男子生徒の声が聞こえてきて、周りの生徒は袖やハンカチで言われた通りに塞いだ。

僕たちは不幸にも三階の教室のため、当然だが、下りる階段の段数が多い。ほぼ怪我を覚悟で、足早に階段を下りていき、二階に着く。すると、二年生の先輩たちが次々に階段から下りていく。あまりにごった返していて僕らは進むスピードを減速させながらも何とか階段を下りていった。二階から一階への階段からはやけに人が多かった。階段は生徒で埋め尽くされていて動けないようだった。何しているんだ。下の階を見ようとすると、煙が二階にまで上がってきていた。もしかすると一階で爆発が起こったのかもしれない。

すると、全校集会で見たことがある二年二組の学級委員である谷口翔太先輩が「みんな!ここはダメだ!上に上がれ!窓からでもなんでもいい。とりあえず外に出れるところから躊躇わず出ろ!」とそこにいる全員に呼びかけていた。

ここから下駄箱への道が閉ざされてしまった。どうすればいい。回らない頭で必死に考えた。すると、他の二年生らしき先輩が「そうだ!体育館。体育館から抜け出そう!三組が使ってたから空いてるはずだ!」となかなかいい案を出した。

二階は体育館へと繋がる通路があり、そこから体育館の玄関へと向かえば外に出ていけるはず。僕たちがいる二階階段からだと十秒もかからない。

僕は階段の列の後ろの方だったので、真っ先に左の角を曲がり体育館への通路を走った。体育館のドアは開いている。僕らは必死に走って体育館の中に入った。そのドアのすぐ隣のドアから白の体操服を着た生徒たちがぞろぞろと出て行っていた。体育館の玄関はそのドアの先にあるので、「こっちだ!」といって体操服姿の二年生たちに続いていくと、玄関の扉が開かれている状態になっていた。そこへ走っていくとやっと外へ出ることができた。その時点でもう安心だった。体育館下の駐輪場へと続く階段を足早に降りると、

「急いでグラウンドに走って!急いでグラウンドに走ってください!」と三年生の生徒会長である河野碧がみんなに呼びかけていた。いつも温厚な河野先輩が語気を強めて僕らに叫んでいる姿に違和感を覚えたが、それだけ緊急事態下にあり、本当にこれは現実なんだと改めて認識させられる。それにしてもグラウンドなんかに集合して大丈夫なんだろうか。他にも爆弾がある可能性は高い。下手したら地雷もあるのではないかと不安になってしまうが、言われた通りグラウンド中央の方へと走っていくと学ランを着たたくさんの生徒が確認できた。はぁはぁはぁと息が切れながらゴールテープを切るようにグラウンド中央に着くと、やっと落ち着くことができた。とりあえず安堵から僕は息を整わせた。初めて命の危機を感じて走った。しかし、どれもこれも顔を見ると名前はわからないが三年生の顔ぶれが多く見られた。はぁはぁはぁと息を吸って吐いてを繰り返し、息を整わせようとしていた。足を抑えている人や「大丈夫だ、大丈夫」と言い聞かせ、ハンカチを怪我人の負傷部にあてている人があちこちにいてその場は騒然としていた。

三年の教室がある一階の窓を見ると、全部開けられている状態になっていて三年の先輩が一人一人窓から出るのを、手を貸して補助してあげていた。

すると、「壮太!壮太!」と誰かが人混みの中をかき分けて僕の方に近づいてきた。僕はその姿を見て一安心した。その声の主は渚だったのだ。助かってよかったと安堵したが、僕は真っ先に引っかかっていること彼女に尋ねた。それは教室にいた時からずっと引っかかっていたことだ。

そいつと話さなければいけない。僕はより一層真剣な顔になり、渚に尋ねた。

「渚、本田はどこにいる」




渚は小さく吐息をこぼした。

「今は喋れる状態じゃない。ずっと泣いてる。色々聞くのは後にしよう」

僕は頷いた。なぜ本田と真っ先に話をしたいか。それは言うまでもなく、彼女の教室での発言がずっと引っかかっていたからだ。なんで彼女が爆発することを知っていたのか。

本田は、木原の都市伝説じみた面白がるような言い方ではなく、明らかに爆破されることを知っていたようなシリアスな言い方だった。事前に知らされていたのではないか。知っていたならなんで堂々と言わなかった。なんで、渚と桜だけで逃げようとした。彼女に対する不信感が心の中でどんどん強くなっていく。

「みんなは無事かな…。茜ちゃんとか」

「わからない。だけど、それにしても先生は?」

不思議にも、この緊急事態にも関わらず、先生の顔は誰一人として見当たらなかった。

すると、僕らの後に続いてきたのだろう、一年一組のみんながぞろぞろと走ってきてその中には渚が心配していた吉原の姿も確認できた。吉原は僕と渚を見つけるとこちらの方に走って渚の肩に手を置いた。

「マジでやばい。はぁ…ん…はぁ…マジで死ぬかと思った…」

吉原はそう言うと「桜とみきは無事?」と息を切らしながら聞いてきた。

うんと渚が頷いて返す。

すると、生徒会副会長の毛利優奈さんが「それぞれのクラスで集まってください!それぞれのクラスで集まって列作って!いつもの全校集会の並びで並んで!学級委員の人、居たら列作らせて!」とみんなに呼びかけていた。するとすぐにそこにいた全生徒が一気に動き出した。全校集会の並びでは毎度、一年生が左側、二年生が真ん中、三年生が右側で列を作っている。僕らも並ばなければと思い、校舎から向かって左側の方へと移動する。

「篠原」

僕は後ろを振り返るとそこに立っていたのは康太だった。

「康太、大丈夫か?怪我とか」

「大丈夫、大丈夫。それよりお前が話してる間に俺三年生が話してるの聞いたんだけど、職員室で爆発が起こったらしいぞ」

「マジかよ…」

先生が全くグラウンドに来ていないのもそのせいか。

だから、一階には煙が充満していたのかと合点がいく。三年の先輩の怪我人が多かったのはおそらく爆発による衝撃波によってやられたからであろう。

三年の教室の前で補助をしていた先輩たちが窓から出てきた人の体を支えてこちらの方に向かって来ると、「一組はもういない!大丈夫だ!」と毛利先輩に叫びながらこっちにきていた。

二組と三組の補助をしていた先輩たちも教室から出てきた最後の人をおんぶしたり、怪我人の腕を自分の肩に回してこっちに来るとお互いに顔を見合わせて、うんと頷き合い、「もういない!大丈夫!」と叫んでこっちにきた。

すると、校門の方からサイレンの音が聞こえ、消防隊や警察が来てくれたことを皆が察知し、少しだけ安堵の雰囲気が流れたような気がした。

松田里香が副学級委員の後藤と共に「一組、ここに列作ろう!出席番号順ね!」と声をあげて皆を誘導していた。僕らはその声に従い、全校集会の時のそれぞれの定位置へと動いた。

番号が早い渚と康太は列の前の方へと移動して行き、僕たちは別れた。






副会長の毛利先輩が、職員室で爆発が起こったことを通報時に消防に伝えていたことから消火活動はスムーズに進んだ。それから警察の爆破処理班が、学校内に他にも爆発物がないか、くまなく捜索したところ何も発見されず、現場に安堵の空気が流れた。生徒の方は、怪我人はちらほらいたが、ほとんどの生徒が無傷で逃げ出すことができた。しかし、先生たちはどうなんだろうか。心配だ。

次々と先生たちが救急隊の担架に乗せられ運ばれていく中、メガホンを持った三十代ぐらいの強面な警官がやがて僕らの方へ来て、

「みなさん、混乱されているとは思いますが落ち着いて聞いてください。今から救急隊が負傷された方の処置にあたります。残りの方は今から警察官が今回の事件についてお伺いしていきます。混乱しているとは思いますが、どんな些細な事でも構いませんので情報提供の方にご協力お願いします。では、まずは三年生の方から行っていきます」と言うと警官十名ほどの人数で一クラス一クラスに聞き込みを始めていった。

ドラマや映画で見るような世界が目の前に広がっていて本当に現実か?と疑ってしまうほど目の前の光景は非現実的だった。

まさか犯人によって僕らの学校が狙われてしまうとは。なぜ今年になって爆破を実行したのだろうか。もしかしたら木山高と新海高、水野高も爆破されているのではないだろうか。

やがて、グラウンドの外や校門には高校近くに住んでいるおじいさんや生徒の中の誰かのお母さんがやって来ていて、彼らが校舎内に足を踏み入れようとするのを警官が「生徒さんは安全ですので」と必死に侵入を阻止していた。

爆発があった職員室はB棟の一階にあり、中庭を介して職員室の正面に位置しているのはA棟の一階である三年生たちの教室だったため、爆発時の状況については生徒会長と副会長の二人によって伝えられた。

そのほかの生徒たちは、爆発の瞬間に不審な動きをとっている者はいなかったか、自分たちのクラスや他クラスでいじめがなかったか、またその情報を聞いたことはあるかなど様々なことを聞いていた。

すると、二年一組のとある女子の先輩の聞き込みをしていた警官が、ちょっと待ってくださいとその人に待つようにジェスチャーし、別の警官へ何か話をしにいっていた。それを見たメガホンを持っていた警官もその話の輪に合流した後、顔を歪ませて無線機を取って何か話していた。何かあったのだろうか。

それから僕らのクラスにも警官の方々がやってきて一人一人が事情聴取をされた。十名の警官に対して生徒十名が呼ばれ、マンツーマンで質問される。

最初の十人である、有働や渚や康太が呼ばれ警官の元へ行き、警官からの質問に対して三分から長ければ十分ほどで答えていた。しかし、このクラスで不審な行動をしていた人物、その質問に対しての答えは満場一致だった。

本田みきである。

本田は桜に連れられて列には並んでいたが、ずっと下を向いてうずくまっており、誰も彼女に対して話しかけなかった。

その様子を見た木原は我慢できなくなったのか、突然立ち上がって本田の元に近づいた。

その姿を見た警官が木原に

「君、順番が来るまでは座ってて」

と注意したが、それも聞かずに彼女の元へ行こうとしていたので僕らは彼を座っていた位置に連れ戻そうと木原に声をかけようとした時、木原が口を開いた。

「おい、本田…。お前が一番警察に話さなきゃいけないんじゃないのか」

その言葉を聞いて僕らは彼に対して何も声をかけなかった。木原の言うことは的を射ていたからだ。そしてそれはみんなの心の中で思っていたことだった。

すると最初に行った十人のほとんどから本田みきについての発言があったのか、聞き込みをしていた警官が、僕らの列の見張りをしていた警官に何か話しながらちらちらと本田のことを見ていた。

そしてその警官は本田の元へと近づいていき、彼女の目の前でしゃがんで「ちょっといいかな」と言うと警官は何かを話して、本田とともに立ち上がり、彼女を連れて僕らのところから少し離れたグラウンドの隣にある剣道場前へと移動していった。

僕の前に座っていた佐々木も自分の前に座っている坂井に「あいつ、犯人に加担してるのかもな」とひそひそ話しているのが耳に入った。

確かにその可能性は否めなかった。「だから、本当に爆破されちゃうんだって」と本田が叫んだ後に本当に爆発した。まるで爆発することを知っていたかのような口ぶりだった。何かを知っていないと、犯人と繋がっていないと、あんな発言はできない。


すると、程無くして康太たちの十人がこちらの方に歩いてきて、「じゃ―次の十人。前に来て」と言われ立ち上がった。

前に向かって「君、こっちに」と三十代前半の男性の警官から手招きされ、そちらの方へと向かった。

「ごめんね。色々大変だったと思うけど爆発した時のことを教えてね。その時、何か不審な行動をしていた人はいたかな?」

手帳をペラっとめくり、彼はそう言った。

「はい。まずはみんな言ってると思いますけど、あそこにいる本田みきです」

と言って剣道場前に警官に話しかけられている彼女の方を見て言った。

そこから爆発前の彼女の行動を思い出しながら警官に喋った。

「爆発の前になんかスマホを見ていたと思います。僕の席は本田の席から左斜め後ろなんですけど、スマホを触ってから、ポケットの中に入れて席から立ち上がって、河合桜っていう本田さんが仲良くしている子の席に行って一生懸命腕を引っ張って教室を出ようとしてたんです。だけど、桜さんが動かないことに怒ったのか、『爆発するんだって』みたいなことを叫んでいたんです」

僕の話を聞いて警官は手帳に黒のボールペンで書き記していった。

「本田さんが何をスマホで見ていたかわかりますか?」

「いえ、見えなくてわかりませんでした」

「でしたら、スマホを見ていた時の本田さんの様子は?」

「んー、確か浮かない顔をしていたと思いますね。貧乏ゆすりもしていてなんか焦っているようにも見えました」

どんどん細かく話していき、思い出していると、もう一人不審な行動をしていた人物を思い出し

「あっ」

と声が出てしまう。

桜に叫んでみんなからの注目を集めていた本田のことで頭がいっぱいで少し忘れかけていた。もう一人について話さなきゃいけないじゃないか。

「どうかした?」

警官が僕の声に反応して聞いてきた。

「もう一人います。怪しかったやつ」

新たな情報を聞き出せたと感じたのか、警官は勢いよく手帳のページをめくり、より僕の話に聞き入ってきた。

「聞かせてくれるかな?」

「あの宮島琉斗っていう子なんですけど」

そう言うと警察は再度手帳に僕が言うことを書き留めていった。琉斗の行動も振り返れば、不可解な点が多かった。教室に入ってきたときなにか周りを気にしていて、明らかに挙動不審だった。その後も本田の発言に反応したりしていて明らかに怪しい行動をとっていた。僕がそのことを警察に伝えようとしたその時だった。

五人のスーツを着た人たちが校舎からグラウンドの中に入ってきて真っ先に一年一組の生徒が並んでいる列の方に歩いてきた。なんだろうと思い、それを見ていると彼らは下を向いていた琉斗の前に立つと、琉斗はその人たちの顔を見上げた。すると彼らは、「宮島琉斗、威力業務妨害及び爆発物使用容疑で逮捕する」と言って、琉斗の体を持ち上げて立たせた。みんな突然のことに状況を飲み込めていなかった。琉斗は腕を後ろに回され、手首には手錠がかけられた。

あまりの光景に僕は言葉を失った。周りのみんなも困惑している様子だった。

琉斗は特に抵抗せず、ただ下を向いて校門の方へと連れられて行った。嘘だろ…。琉斗が犯人だったのか。あいつが爆弾を仕掛けたのか…。あいつが先生たちを殺そうとしていたのか。

あまりの出来事にクラスのみんなは騒然としていてショックを受けている様子だった。

二年生や三年生たちもその様子を見てさらにざわざわし始める。

すると、その様子を見た強面な警官がメガホンをもってみんなの前に立ち、「みなさん、落ち着いてください!お静かに願います!聞き込みの最中ですのでお静かに願います!」

と言って呼びかけていた。

「それでは続けて」

と僕は警官に言われたが同級生が目の前で逮捕された衝撃で何も言葉が浮かばなかった。学校生活を共に過ごしてきたやつが爆弾を仕掛けて人殺しを試みていたという事実に僕は絶句していた。十秒ほど沈黙し、気持ちを落ち着かせていると「ごめんね。動揺してるよね」と警官は気を遣って声をかけてくださった。

僕も力のない声ではあったが「いえ、大丈夫です」と返すと再度爆発前の琉斗の行動や言動について話をした。

僕は先生たちの安否が気になり、「先生たちは大丈夫なんですか?」

「明日あたりに報道が出ると思います。でも、佐々木先生、安藤先生、吉田先生は無事でした。それ以外の先生は怪我を負っていて…。中には意識不明の方もいらっしゃいます」

ほとんどの先生が助からなかったのか…。警官も僕の気持ちを汲んでくれて無理に励ますようなことはしなかった。

僕が大丈夫です。すいませんと言うと、本田と琉斗の一日の行動について重点的に聞かれ、僕はそれに対して琉斗が学校に来た時間や朝から浮かない顔をしていたことなども事細かに話し、五分ほど経ったところで警察の方から「ありがとうございます」と会釈されると、僕は振り返って座っていた位置に戻った。

列に戻っていくと皆、琉斗の話で持ちきりだった。「あいつなんかおかしかったか?」「先生たちを殺そうとするなんてな。やべえよな」と日頃、彼に対して鬱憤を抱えていた後藤や田口たちが彼の悪口を言い始めた。

僕は自分の位置に戻り、胡坐をかいて座った。

よくよく考えれば今朝の琉斗の行動をよく考えると琉斗が犯人だと容易に考えることができる。

周囲のことを警戒しながら教室に入ってきたのも、これから大罪を犯すために挙動不審になり、誰かに怪しまれていないかと無意識にやってしまった行動だろう。いくら喧嘩が強かったとしても、その心情は行動に現れてしまう。

本田の発言に反応したのも自分が爆弾を設置したのを本田が知っていたことに驚いたからだ。もしかすると、本田は琉斗が爆弾を設置したところを見てしまったのかもしれない。つまり、彼の犯行は本田にバレていたのだ。

しかし、やはり先ほどの疑問が心をもやもやさせる。それは彼女が、爆弾を設置されていたのを知っていたなら、なぜすぐに僕たちに言わなかったのかという点だ。

もし、あらかじめ知っていたのなら僕らに対して知らせるだろうし、そもそもその時点で警察に連絡するだろう。何より気になるのはなぜ大人しく授業を受けていたのだろうか。そして本田はこの事件にどう関わっているのだろうか。



それから約三十分経ち、全員の聞き込みが終了した。待機していると、さっき僕らが下りた体育館の階段横から誰かジャージ姿をした人や眼鏡をかけた人などが警官の方々に連れてこられるのが見えた。

そしてその先生の姿を見て少し安心した。先ほど警察の方が報告してくれた佐々木先生、安藤先生、吉田先生の三人の先生が僕らのもとにやってきた。

それを見た二年生の女子生徒が「佐々木先生、生きてたんだ…」と涙ぐむ姿も見られ、佐々木先生がどれだけ生徒に慕われているかを改めて実感する。

しかし、その間本田の聞き込みはずっと続いており警官が四人ほど集まって話を聞いていた。やはり、今回の事件で最も重要な情報を握っていると思われるからだろう。

そして後から消防隊の方々が僕たちの荷物をぞろぞろと持ってきて、それぞれのクラスの列の前に広げたブルーシートの上に置いていった。

僕たちはその後、警官の方々から今後の動きを説明された。SNSで事件のことについて情報漏洩しないことや帰り道は親御さんに迎えに来てもらうようにすること、もし迎えに来れない場合は友達のお母さんに乗せてもらうか、それができないのであれば警察車で送り届けるということ、絶対に一人で帰らないようにとのことだった。

生徒全員がその場から解放され、みんな自分の荷物を取りに行った。僕は康太と合流し、家で暇にしているだろう姉に電話をかけて車で迎えに来てもらおうとすると、慌てたような声で「もう向かってるよ、コンビニで待ち合わせね」と返ってきた。僕たちはすぐさま荷物を取り、渚にそれじゃと告げ、本田のことを横目に校門の方へと向かった。警官の方々が道の脇に並び、その間をぞろぞろと生徒たちが通っていき僕らもその流れに乗って校門から出ていっていると、やはりたくさんの近隣住民の方々やカメラを持った報道関係者のような人たちがいたので話しかけられそうになったが、僕と康太はなんとか人ごみの間を抜けて出ていき、コンビニへと歩いた。康太の両親は仕事で今は家におらず、迎えに来るまで僕の家に一緒に居ることになったのだ。コンビニの方へ向かって歩いているときにふと肩の力が抜けた。はあーと溜息を吐くと「琉斗が犯人だったなんてな…」と康太が深刻な面持ちで呟いた。

クラスメイトが爆弾で人殺しを図ったんだ。こんな空気にもなる。二年前からの爆破予告もあいつがやったんだろう。

「でもさ、なんで今年やったと思う?」

僕の問いに対して康太は顎に手を当て真剣に考え始めた。少し今回のことは謎が多かった。何か確信づいた証拠があって警察は琉斗の逮捕に至ったのだと思う。しかし、琉斗はなぜ中学生のときから高校に標的を定めて爆破予告を送っていたんだろうか。職員室を爆破したのも先生に恨みがあってのことだろうか。自分がなにかやらかして毎回叱られているから腹いせに殺そうとしたのだろうか。普通の状態ではないから殺そうとしたのだろうが、なんだか琉斗が犯人というのがなんだか腑に落ちなかった。

康太も、んーと考えたが返ってきた言葉は「わからない」だった。

やがて目的地のコンビニに着くと、白のボクシーから姉ちゃんが降りてきて僕の元へ走ってくると「本当に大丈夫?けがしてない?」と体の節々を触られたが、僕は大丈夫だよとその手をどけて助手席に乗った。康太は、お世話になりますと言うと後部座席のドアを開けて乗り込み、それに続いて姉ちゃんも運転席に乗ってパーキングからドライブに切り替え、車を駐車場から出した。

車の中では案の定、姉からの質問攻めにあう。

僕らは恐らく家に帰ってからもいろいろ聞かれるだろう。考えを整理することも兼ねて姉ちゃんからの質問に対して答えていった。

「どこで爆発あったの?」

「職員室」

「だからあんたたち無事なのね」

「けどさ、宮島琉斗って奴がいて、そいつが爆弾仕掛けたらしくって捕まったんだよね」

「え!?」

姉は助手席の僕の方を見て分かりやすく驚く。

「前に言ってた不良でしょ?問題児の」

姉には過去に何回か宮島琉斗についての問題行動を話したことがある。タバコを吸ったり、先生に反抗したり、他校の生徒と喧嘩したり、何かと中学の時も問題行動を起こしていたことなどを話した。それに、姉が高校生の時に一個下の学年に琉斗の兄もいたらしく、その人も問題児だったという話もしていた。

すると、少し元気がないように見えたのか康太に気にかけるようにバックミラーを見て話しかけた。

「康太、大丈夫…?」

康太はそれに反応し、「ん?大丈夫ですよ!」と明らかに声のトーンを無理に上げていたが姉は気を遣って無理にそれ以上は聞かず、そうかそうかと頷いていた。

「けど、今日のことってやっぱ気がかりなことが多いんですよね」

「気がかりなこと?」

「さっき篠原とも話してたんですけど、不可解な点が多いというか、矛盾が発生するというか」

「なんだか名探偵みたいだね」

車の中の雰囲気を良くしようとしたのか、少し彼に対して洒落を言った。

康太はそれを聞いて少し笑い交じりで「そうかもですね」と返す。

「けど不可解な点って何なの?」

僕と康太で姉に対して爆発時の状況や宮島琉斗と本田みきの行動、逃げたときにどんなことがあったのかなど姉は聞き上手なところがあるので気づけば僕たちはペラペラとしゃべっていた。

家に着いて話を聞きながら姉は車庫に車を駐車させた。

康太が本田の話をしていたが車が駐車されたことを皮切りに話を一時的にやめて、荷物を持って家のドアの前へと歩いた。

それに続いて僕と姉も降り、姉がジーパンのポケットから鍵を取り出してドアを開けると周りをキョロキョロと確認しながら入っていった。

僕らも家の中へと入ったが、姉の行動が気になり「どうしたの?」と聞くと「真犯人が追ってるかもでしょ」と姉は僕らの話を聞いてか、そんなことを口走ったが、そもそも僕ら生徒を殺したいのなら教室に仕掛けるだろう。そう彼女に言おうとしたが、家に帰ってきた安心感でその言葉は心の奥に引っ込めた。




僕と康太は昼休みに食べるはずだった弁当をソファに座ってつまみながら爆破事件に関する情報を集めようとテレビをつけた。

しかし、どの番組も旅番組や昼のワイドショーなどで僕らの学校に関するニュースについてはまだやっていなかった。

スマホを取り出し、SNSで検索をかけてみるが

『日野ヶ丘高校ででかい音したけど大丈夫?』

『日野ヶ丘高校で爆発事件あったらしいな』

『母校爆発したらしい。マジ怖い』

という書き込みばかりで事件の詳細については誰も書いていなかった。ニュースアプリなんかに速報で出ていないかと確認したがそういったニュースは見当たらない。

これは夕方のニュースを待つしかないようだ。

「琉斗は先生たちになんか恨みでも持ってたのか?」

「まあ前に佐々木先生からタバコ吸ってるとこ見つかって怒鳴られてたしな」

「けど基本的に周りの先生から可愛がられてただろ?」

確かに康太の言う通りだ。琉斗は学校の先生には問題行動を起こしてよく叱られてはいたが、それを除けば彼は学校の先生たちから可愛がられていた。

コミュニケーション能力がそもそも高いし、相手の懐に入るのも上手い。そんな彼がなぜ先生を殺したかったのだろうか。渚の気持ちさえわからなかったのに、僕からすれば犯罪者の心理なんてより推測し難いものだ。

「でもさ、あいつ二年前から殺しを計画してたってことだろ?」

二年前からの爆破予告。つまりそれは、必然的に中学生の時から犯行を企てていたということになる。ということは、俺たちは今まで犯罪者と一緒に授業を受けていたということになる。僕はだんだん琉斗のことが悪魔のような存在に思えてきてしまう。とても恐ろしい凶悪な存在に。

「ん?でもさ、おかしくない?二年前なら宮島くんは中学二年生だよね?前の爆破予告って確か高校に送られてなかった?」

姉ちゃんはみんなが疑問に思ったであろうことを僕らに問いかけた。たしかにそうだ。学校の先生に恨みがあるんだったら琉斗がその当時通っていた日野ヶ丘中学校に爆破予告を送るはずだ。なのに、なんで彼は新海高校や木山高校に送ったんだろうか。

「そこがわからないんだよな。けどあいつは逮捕されたってことは警察が何か証拠を掴んだってことだしな」

「本田の行動も明らかに何か知ってる感じだったし…なんかもうわけわかんないな…」

考えれば考えるほどわからない。琉斗の犯行には不可解な点が多すぎる。

「なぁ…」とひっそりとした声で康太が語りかけてきた。

康太の方へ顔を向けると、何か恐ろしいことに気付いてしまったような様子だった。

「もしかしてなんだけどさ、本田って…共犯者なんじゃないのか…?」

突飛な彼の発言に驚いた。しかし、確かに思えばそうかもしれない。

「確かに、本田の行動はおかしかったし、あの時スマホを見てたのも、琉斗と交わしていた爆破計画のやり取りを消すためだったんじゃ…」

「琉斗を裏切ったのか」

しかしそんな推理を展開させようと疑問はまだ残る。じゃあなんで彼女は共犯者になったんだ。本田と琉斗はそもそも互いに別の中学出身だし、二年前から加担していたなんてまさに妄想じみた空論だ。余計にわからなくなる。

すると、「ちょいちょいちょいちょい」と姉ちゃんは両手を四回叩きながらダイニングテーブルの椅子から立ち上がった。

「なんだよ」

「警察が色々やってくれるんだから、あんたたちが推理なんてする必要ないでしょ?それに、憶測で共犯者だなんて勝手に疑われる子の気持ちにもなってみなさいよ。心が痛いわ」

珍しく姉から説教を食らい、僕と康太は黙りこんでしまう。

確かにそれもそうだ。僕らが色々考えたところで何になる。それに誰かから自分のことを疑われたら僕だって不快になる。本田だってただ純粋に心配性でここから抜け出そうと言った結果、本当に爆発したという可能性もなくはない。それにいつもと違って僕と康太には何だか重々しい空気が流れてたので何か話題を変えなきゃなと思った。

とりあえず弁当を食う気になれなかったので、二階の自室へ行き、私服に着替えるとした。一階のリビングのドアを開け、廊下へと出たところで、俺と康太がよく読んでる漫画の最新巻を前に買ったことを思い出し、「康太、『ドミネーター』の十六巻あるぜ」と声をかけたが「そうか、俺も行こうかな」と草臥れた声で言ってゆっくりソファから立ち上がった。

あんまり気乗りしてないようだったが、康太が元気じゃないとこっちも何だかエンジンがかからない。

そして、僕らは階段を上がり僕の部屋へと入った。

すると、康太は少し姉ちゃんの前で気を遣っていたんだろう。僕の部屋に入ると、はあーーーと長いため息を吐きながら僕のベッドへ飛び込んだ。

「おい、やめろ」と言ったが先ほどのシリアスな雰囲気から少しだけ空気が和み、康太の無邪気な一面が久しぶりに戻った気がして、僕は康太に枕を投げつけた。

「いてぇな」

「生きてるって証拠だよ。まず、そもそも俺らが今生きてるのは本当に奇跡だよ」

「本当に俺、琉斗に恨み買うようなことしなくて良かったわ」

さすがに不謹慎だと思ったが僕は何も返さなかった。彼に対して失望したからじゃない。ここで変に指摘して、また空気を重くしたくなかったからだ。

「ほら、十六巻」

僕は最近、漫画業界で注目されている『ドミネーター』の最新巻を康太に渡した。

「今回すげえぞ」

「なんかあったのか」

「読んでみ」

何とか自然な流れで話題を切り替えることができた。少し楽しげな話を欲していたので『ドミネーター』には助けられた。毎巻毎巻、絶妙なところで話が終わるので康太と僕にとっては待望の最新巻だった。

それから康太はその十六巻を開いて読み始めたが最後、集中して読み進め始めた。僕は他の漫画を何となく手に取り、読み進めていると、十五分ほど経った時に康太のスマホから着信音が鳴った。康太は電話を取ると、そのまま廊下へ出て行った。

一分ほどして帰ってくると、「それじゃ、俺帰るわ」と僕に言って一階へ下りて行った。

僕もそれについて行き一階へと下りると、家の外から車のエンジン音が聞こえ、康太の親御さんが迎えにきたことがわかった。

康太はリビングのドアを開けて学校のバッグを背負うと「また来るからその時に読ませてくれ。じゃあな」と僕に背を向けて「お邪魔しました」と言って出て行った。

僕はその後ろ姿に「じゃあな」と言うと康太のお母さんが家のドアから顔を出して「あ、壮太くん、ごめんねー。ありがとうねー」と声をかけて僕の後ろにいた姉を見つけ、「どうも、すいません。息子がお世話になりました」と何度も頭を下げると、僕に「じゃあね、ゆっくり休まやんよ」と言って玄関のドアをゆっくり閉めた。

今日一日は本当に人生の中で一番ハードな日になっただろう。流石に非現実な世界だった。逃げ道を間違えれば死んでいた可能性もある。康太に言ったが今生きていることは本当に奇跡みたいなものだ。琉斗の逆鱗に触れるようなことがあれば僕らの教室も爆破されていたかもしれない。


夕方五時に差し掛かってくるとお父さんとお母さんが帰ってきた。僕が生きていることを目の前で確認してホッとしたのか、お父さんとお母さんは僕のことをギュッと抱きしめた。不思議にもいつも買ってこない寿司やアイスなどを買ってきていて、まるで僕が病人であるかのように優しい声で「好きなもの食べていいぞ」といつもはしない振る舞いをしてきた。

それからこれまたお父さんとお母さんからの質問攻めにあい、姉ちゃんに話したようなことをまた一から説明した。

すると、テレビでそのニュースが報道されており、アナウンサーが一礼をして原稿を読み始めた。

「今日午前十一時ごろ、福岡県水野市の日野ヶ丘高校で生徒が仕掛けた爆弾により、校舎が爆破されました」

映像が切り替わったが、突然職員室裏の中庭の映像が流れてきた。画質が荒いので、防犯カメラの映像なんだなと容易に考えることができた。いつも通りの平穏な中庭で三秒ほどは何も流れなかったが、次の瞬間に僕らが聞いたバンッッッッッッ!という爆発音がなると職員室の窓が全部割れ、三年生がいるA棟一階の窓も全て割れてしまい、それからは煙が立ち込めていて辺りが見えないようになった。

「また被害を受けた学校教員の話によると、午前十一時に職員室に何者かから学校を爆破させるというファックスが届き、職員会議を開こうと教師全員が集まった際に、爆発が起こったようです。なお、警察が生徒たちに聞き込みを行ったところ『朝六時ごろに、白いバッグを持って入っていく男子生徒を見た』という目撃情報が入り、防犯カメラの映像を確認したところ、日野ヶ丘高校の生徒が犯行に及んでいる様子が収められており、警察は男子生徒を威力業務妨害及び爆発物使用容疑で逮捕しました」

と言うと、また映像が切り替わった。すると、今度はまた中庭の映像だった。先ほどの映像をリピートさせているのかと思ったが次の瞬間にそれは違うものだと分かった。

映像の中に学校の制服のシャツの裾を出し、黒いズボンを履いている生徒が映った。顔にはモザイクがかけられていたが、白のナイキのハイカットシューズで琉斗だとすぐに察知できた。手には先ほどアナウンサーが言っていた白いバッグを所持している。

本当に彼が犯人だったんだと改めて認識する。僕は何だか恐ろしいものを見ている気がして心臓を少しギュッと握られたような感覚だった。

琉斗は早朝に職員室にいる先生にバレないように職員室の窓の下を屈ませながら歩いて行き、校長室と職員室の真ん中あたりにある室外機の横に白いバッグをそっと置くとまた慎重に屈んで戻って行き、防犯カメラの画角から外れて行った。

「これにより、警察は生徒が爆破予告を送ったと見ていますが、容疑者である高校生はこれに対して否認しています」

アナウンサーは原稿を読み終えると、次のニュースにいき、最近話題になってる野村浩平のニュースについての原稿を読み始めた。

「絶対ファックスも送っただろ」

お父さんはそう言った。

「そうよね。何でここまできて否定するのかしら。もう犯人だっていう証拠もあるのに」

「本当にやってないからでしょ」

姉ちゃんがお母さんたちに返した。

僕はふとあることが浮かぶ。午前十一時、あの時琉斗は僕らと一緒に教室にいたじゃないか。僕の中で事件に対する見方が変わった。

「本当にやってないからでしょ。琉斗は十一時には教室にいた。ファックスってコピー機とか電話機とか使わないと送れないよね?」

すると、お父さんが斜め上を見ながら

「いや、えーっとね、確かパソコンとかスマホとかからでも送れるだろ?最近は」

フーンとお母さんはいくらの軍艦を食べながら頷いた。

僕は嫌な予感がした。やっぱり共犯者がいるんじゃないか。その共犯者はスマホを触ってファックスを送ったんじゃないのか。

「本田…」

すると、姉ちゃんも康太と僕が言っていたことが当たっていたと感じていたのか、目を少し見開いて顎に手を持ってきて考え始めた。

僕は徐に「ごちそうさま」と立ち上がってローテーブルの上に置いていたスマホを取ってリビングを出て階段を上がり、自分の部屋へと駆けた。

康太に電話しないといけないと思い、NINEをタップし『ドミネーター』の主人公のアイコンにしている康太のアカウントをタップし、電話をかけた。

「ん…んん…なぁに…?」

明らかに寝起きの声だったので起こしてしまって申し訳なく思ったが、そんなことよりも本田のことについて彼に告げることにした。

「康太、やっぱり俺らが言ってたこと合ってたんだよ!本田は共犯者なんだ!あいつがファックス送ったんだよ!」

「おいおいおい、ちょっと待てよ」

明らかに僕の意見を否定してくるような口ぶりだったが康太はひとまず僕の意見を聞くことにした。

「まあいいや。何で改めて本田が共犯者だって確信したんだよ」

「さっきニュース見たんだよ。そしたら十一時ぐらいに爆破予告のファックスきたらしいんだよ。おかしくないか?琉斗は教室にいたし、俺らと一緒に居た。それにスマホも触ってない。ファックスを送れるような機械に触れてない。だけど、本田はスマホ触ってた。スマホでもファックス送れるから、やっぱりあいつが共犯者だったんだ」

はぁーと康太は明らかに僕に呆れているようなため息を吐いた。

「俺も冷静に考えたけど、やっぱりそれはおかしいよ」

「は?」

「冷静になればわかることだよ。何で本田が琉斗に協力する必要がある?それにあの時本田が琉斗を裏切ってたとしたら、なんで琉斗は本田を売らなかったんだ?恋人関係にあったからか?恋人だったとしてもあの場だったら真っ先に仲間を売るだろ。それに共犯者が学校関係者だとは限らない。琉斗のことだし、他校の不良とも関わりだってあるだろ」

僕の先走った考えに対して康太は持論を展開していった。まるで陰謀論者に現実を突きつけるように、説得するように建設的に理由を並べ始めた。

「それに、俺が気がかりなのは何で捕まった時に琉斗は抵抗しなかったかってことだよ。逃亡するって選択肢もあったのに何で大人しくあの場にいたんだ?」

確かにそうだ。刑事四人に連行されたとき、何も抵抗しなかった。犯人とバレたなら逃げるべきだし、喧嘩っ早い琉斗が抵抗しなかったのは確かにおかしい。校内でタバコを吸っているのを佐々木先生にバレた時には先生に殴りかかったらしいが、そんな人間が重い罪を犯したのにも関わらず、あの時抵抗もせず逃げなかったのは何か気にかかるものがある。恨みを晴らすために警察に捕まってもいいからと捨て身でやったのだろうか。なんだか今日の琉斗は僕らが知っている琉斗と人格が違う気がした。僕らの知らない琉斗が顔を出したのかもしれない。そして彼をそんな風にしてしまった何か暗い過去があったのかもしれない。

「それに本田の様子見ただろ。泣きじゃくってたし、何かに怯えてる感じだった」

「たしかにそうだな…」

僕はなんて阿保らしい推理を展開してしまったのだと恥ずかしくなった。康太が電話の向こう側でどや顔になっている気さえしてくる。

「な?おかしな点が多いんだよ」

康太と僕の考えはまた振出しに戻ってしまった。これでは埒が明かない。

「そういえばさ、もう渚とは仲直りしたんだよな」

「うん」

「だったら渚に本田のこと聞いてくれないか。俺は渚のNINE持ってないからお前から聞いてくれ」

それは早い段階から浮かんでいたが、僕は事件の後なので彼女たちに気を遣い、連絡を取らないようにしていた。

「でもあんなことがあった後だしな…。明日でもいいんじゃないか?」

「明日でもいいよ。とにかくなんかモヤモヤするんだ。状況が訳分からな過ぎて。まあとりあえず聞いといてくれ。もう俺は寝るわ」

「わかった。あ、明日なんだけどさ——」

それから僕と康太は明日の昼頃にビデオ通話で事件のことに関する情報を集めるための会議を開くことにした。康太が早く電話を切りたがっているような様子だったので、僕は起こしてしまったことを詫びて電話を切った。

一階へと下りて気晴らしにバラエティ番組を見ながら食事をとった。

今日の事件があったせいか、このいつも通りの“日常”が、価値のある大事な事なんだと改めて実感することができた。



九月十日 午前七時十二分



「壮太ー、壮太ー、壮太!」

僕はどうやらソファで寝てしまったようで、なぜだかわからないが姉から叩き起こされた。

「なに…、なんだよ」

カーテンの隙間から日差しが目に映り、とても眩しかった。

「なんか渚ちゃんって子が来てるよ。あんたに用があるって」

僕はその姉の言葉を聞いて耳を疑ったが、飛び起きて急いでぐしゃぐしゃになった髪の毛をごまかすために明らかにこの時期には合わないニット帽を被った。

下の寝巻のズボンを黒いジーパンに履き替え、最低限の身なりを整えた。

一目散に玄関へと向かい、ドアを開けた。

「あ、壮太。ごめん突然」

白のロンTに黒いズボン姿の恰好をした渚がそこに立っていた。彼女が僕の家に来るのは久しぶりだったのでなんだか過去の思い出が蘇ってくる。

「どうしたの?」

「今から話せる?」

「わかった。ちょっと待ってて」と言って、僕はすぐに二階の自室へショルダーバッグに財布と家の鍵とスマホを入れた。

突然渚が早朝にここに来たということは、事件のこと、本田に関することであることは何となく察することができた。

「ごめんごめん、じゃあちょっと歩こうか」

僕は特にどこかに向かおうという事もなかったので、とりあえず近くの河川敷の方向へと足を向けた。彼女もそれを察して僕の横を歩く。

「本当ごめんね、朝早くに」

「いやいや全然。っていうかなんか今日寒くない?」

「そうだね」

昨日の今日なので何とか重い雰囲気にならないように慎重に言葉を選んだ。気温の話から入るなんてなかなかにベタではあるが、寝起きということもあって頭が回らず、うまく話題作りをすることができなかった。

「なんかここ最近で一番寒いな」

と言ったが、会話を展開させる言葉が何も浮かばない。

そんな僕を見て彼女は「壮太半袖なんだもん、そりゃ寒いよ。ロンTとか着てくれば良かったのに」とアシストしてくれた。ハハハと僕らは笑い合って次の話題をと思ったが、やはり脳裏には昨日のことしか浮かんでこなかった。

渚もやはりこれといった話題がなかったのか、会話に沈黙が生まれてしまう。

しょうがない。どちらにしろ、昨日の話は避けられないと、意を決して彼女に聞いた。

「話って昨日のことだよね?」

彼女はうんと頷いて返した。

「なんかね、みきの様子がおかしかったんだよね。まあみんなから見ても一目瞭然だったけどさ」

本田に対する疑いが僕の中で微小に残っていたこともあり、渚の気に触れてしまうことを承知で本田に関する質問を投げかけた。

「なんかさ、爆発することを事前に知ってたような感じだったよね?」

「そうだね」

渚は落ち込んだように言った。確かに渚からすれば、親友と言ってもいいほど仲の良い本田を守りたいのはわかる。しかし、爆発時のあの反応は、流石の渚も本田に対して何か複雑な気持ちを持たざるを得なかったようだ。

「本田とあの後話せた?」

「ううん。学校に警察が来てからは何も。ずっと泣いてたから」

昨日の本田は確かにそうだった。完全に自分の世界に入ってしまっているようだったし、普段教室で見せている本田みきではなく、心が完全に堕ちてしまっているような様子だった。

「けどね、ずっとなんか言ってたの。『私が悪いんだ。私が悪いんだ』って。なにがあったの?って聞いてもなかなか答えてくれなくてさ」

これは非常に有力な情報だ。これは本当に共犯者であることに間違いないかもしれない。

途中でやっぱり琉斗を裏切ったんだ。

そう確信した時、僕は昨日康太に論破されてしまったことを思い出した。良くない。良くない。昨日言われたじゃないか。早とちりして推理を展開させ恥をかいたではないか。先走らずに慎重に話を聞かなければ。

「何かあったんだろうな、爆発前に。じゃないとそんなこと言わないよな」

「うん。あのね、私が壮太に今日会いに来たのはそれについて壮太から聞きたかったからなの」

「え?」

あまりに唐突だったので僕は素っ頓狂な声を出してしまった。

僕も知らぬ間に本田のことで関与しているのか。心臓を握られているように心がギュッと締め付けられ、変な冷や汗が出てくる。もちろん僕は彼女に対して何もしていない。

その時、脳裏に一昨日のことが浮かんだ。もしかしてその時のことだろうか。

「みきが言ってたのはそれだけじゃなくてね、なんか壮太のことも言ってたんだ。『篠原にバレたから、あいつはやったんだ』って。ねぇ、やっぱりあのことだよね?」

渚の言う“あのこと”の意味が分からなかった。僕と渚がこうなった原因がふっと脳裏に浮かび合点がいく。僕が遠藤と浮気していたと疑われた件だ。

「そっか。桜から聞いたんだよね」

「うん…。ごめん、本当に。勘違いしてて」

渚は俯き気味で言った。その口調には後悔の念が表れていた。確かに浮気疑惑について僕からも改めて説明しなければいけなかった。そして彼女に謝罪をしなければいけない。昨日はあんな事件があって話すタイミングがなかった。今がその時だ。

「ごめん、ちゃんと話できなくて。そう疑われてしまうような行動をとってしまったことは本当に申し訳ないと思ってる。本当にごめん」

僕はしっかり渚に対して頭を下げた。この問題は僕の責任でもあるからだ。

「いや、いいよ。っていうか私の方こそあんな態度して…」

「いやいやいや」と僕らは互いにサラリーマンのように謝罪の言葉を交わしあうと、話は本題へと移った。

「けどさ、俺にバレたらいけないって何があったんだろ。俺に秘密にしていたとしてもあんなにヒステリックになるかな」

「壮太」

渚は急に立ち止まり、僕の顔を真剣な眼差しで見てくる。しかし、その眼は僕からすれば疑いの眼差しのようにも見えた。まさかそんなことはないだろ。そう思ったが、次の言葉で僕はそれを確信した。

「あの子になんかしてないよね?」

何を言っているんだと少し溜息を漏らしそうになる。まさか僕が学校を爆発させるなんぞ言って本田を脅した、とでも言いたいのだろうか。何ならこっちは本田のことを疑っているのに。一ヶ月前まで仲睦まじく付き合っていた元カノから浮気を疑われた上に事件の犯人としても疑いをかけられるとは。昨日姉が言っていた『憶測で疑われた人が可哀想だ』という言葉が身に染みて分かった。

「なんもしてない、というか本田とはまともに話してないよ。一昨日に桜から渚が浮気の件で怒ってることを話した時に本田が覗き見てたんだよ。そのまま本田は桜の手を引っ張って逃げて行ったけどさ、それからは一回も話してないよ」

「そうか。まあそうだよね、壮太あんまり関わりないしね、ごめんごめん」

彼女の表情に柔らかさが戻った。疑われたのは少し気がかりだったが、そもそも僕は本田のようなテンション高めの女子は少し苦手だった。それを察してそんなわけないかと話を引いたのだろう。

やがて河川敷に着き、僕と渚は川辺に置かれているベンチに腰掛けることにした。あたりは早朝ということもあって非常に静かだった。犬を連れて散歩しているおじいさんもいて、昨日の爆発が夢だったのかと紛うほど非常にのどかだった。

しかし僕は、そんなこととは裏腹に、渚に対して込み入った質問をしなければいけなかった。そしてそれは、今後関わっていく上でもちゃんと明らかにしておかなければいけないことだった。

「渚、俺からも質問いいか?」

「何?」

僕が深刻な面持ちだったこともあってか、楽し気な話ではないことは彼女もなんとなく察しているようだった。

僕は彼女の顔色を窺うように言葉を紡ぐ。

「失礼を承知で聞くんだけどさ、遠藤に嫌がらせしてるって噂聞いたんだけど、本当なの?」

すると渚は眉間に皺を寄せて

「え、誰が言ってたの、それ。私そんなことしてないよ」

その言葉の語気が強かったので少し驚いたが、誰でもこんな疑惑を持たれれば怒りの念が湧いてくるのは当然だ。

「はぁ…」

呆れたような溜息を吐いて、彼女はゆったり流れる川を見つめた。

「一回、八月の出校日にさ、華凛ちゃんに壮太との事で問い詰めたの。ちょっと私もカッとなってその時なんか強く言っちゃってさ。それを見た人が嫌がらせしてるって誤解して噂を広めちゃったんだろうね。それから華凛ちゃん学校来なくなっちゃったし。でも、壮太も見たと思うけどあの写真がみきの勘違いだったってわかってから、華凛ちゃんにちゃんと謝りに行ったよ」

「そうだったのか。端から見れば嫌がらせしてるように見えたんだろうな」

結局この問題に関して悪いのは誰もいないのかもしれない。確かに、本田から謝罪の言葉をもらってないのは少し引っかかるが、本田もまた勘違いしてしまった一人なんだ。大切な友達の彼氏が、友達のことを裏切った。そう思えば、誰もがそんなやつとは関わらない方がいい、別れた方がいいと思う。それで本田は、自身の正義を貫き、渚を説得したのだろう。

この件に悪い人は結局一人もいない。そう思えた瞬間、なんだか僕の心はすっきりした。

ただ、遠藤も学校があんな事態になって驚いているだろう。本当に昨日は、来ていなくてよかったと思う。

すると、渚は立ち上がって、あることを提案してきた。

「壮太、行きたいとこあるんだけどついて来てくれる?」

彼女の急な提案に「どこに?」と返したが、そこは僕たちがもっとも今この事態の状況を知る鍵となる人物だった。

「みきの家」








渚と話し、ここから本田の家へはバスを使って行くことになり、僕たちは五分ほど歩いてバス停へと到着し、バス停横にあったベンチに腰掛け、バスが来るのを待った。

「ねえ、昨日の放課後に話そうと思ってたことなんだけどさ」

昨日の放課後に話そうと思っていたこと、僕はすっかりそのことを忘れてしまっていたが何とか記憶を辿り、彼女から放課後に話そうと言われたのを思いだした。

僕はあたかも忘れてなかったよと言わんばかりに何食わぬ顔で返す。

「うん」

「私たちさ、また戻れないかな」

僕はその言葉に心臓が波打った。

いや、昨日はその言葉を待っていたと言っても過言ではないじゃないか。僕の頭の中であのなんとも表現し難い、彼女への特別な淡い愛情が久しぶりに胸の奥を熱くさせた。

もちろん僕の返事は、

「俺もそう思ってたよ」

渚は体を恥ずかしそうに縮こませ、その顔には笑みが浮かんでいた。僕もなんだかうれしくなり二人で顔を見合わせて照れ笑いして喜んだ。

誰もいない田舎景色。朝日が眩しく僕らを照らしつける。気分が少し晴れ、あんなに憂鬱に映っていた空の青も今では綺麗な景色に思えた。それほど僕の心は疲弊しきっていたのだと思う。今の唯一の幸せは彼女との関係が戻ったことだった。昨日から少し落ちていた気持ちが少しずつ正気に戻っていっていく感覚があった。

心の中がポカポカしている。

「言っておくけど、誓って俺は浮気なんてしないからな」

「ごめんって」

「一昨日に階段で会った時の渚の顔すげー怖かったよ」

「もーごめんって、忘れてよ」

ハハハと笑いながら彼女との会話を楽しんでる内にバスがやってきた。渚の話によれば、本田の家はここから五つ先のバス停で降りればすぐだという話だった。

ショルダーバッグの中に入れていた財布からニモカを取り出し、読み取り機にかざした。

ニモカのお金は、夏休みの終盤に康太が映画館に行こうと誘ってきたので、僕は前日にわざわざニモカをチャージしに行ったら翌日の朝に急に来れなくなったと言われ、このカードにチャージしたお金も使う機会があまりなく空しくほったらかしの状態になっていたのでこの機会に使えて助かった。

早朝ということもあって乗っている人も三人ほどしかいなかったので迷わず僕らは一番後ろの席へと座った。こんな時間にバスに乗るのは初めてだ。本田のもとに行くということもあり、これから容疑者の家に突撃するような臨場感を感じていた。バスの扉が閉まり、運転手さんが発車しますとアナウンスするとバスがガタンと動き始めた。

「一応昨日の夜にみきにNINE送ったんだけどさ、五時ぐらいにメール返って来て」

僕にはアポも取らずに家に来たのに?と少し思ったが今はそんなことどうでもいい。

「え?何時に送ったの?」

「昨日の夜7時14分、ほら」

渚からスマホの画面を見せられたが確かにそこには、『午後 07:14 みき大丈夫? なんか相談したいこととかあったら言ってね?』 と渚から本田へメールを送っていた。するとその下には、『午前 5:06 家に来てほしい』と返信されていて渚もそれに『おっけ。今から向かうね』と返信していた。

「これってさ、俺が来ること知らないんじゃない?」

渚は素っ頓狂な顔をして「大丈夫大丈夫、みきは寛容だから。壮太だってみきの言ってたこと気になるでしょ?」と返した。確かに気になりはするが、もし僕のことを見て怒り狂ったらどうしようかと考えてしまう。ただでさえ、B棟で桜と話していた時もあの反応だったんだ。今回は事件絡みのことだし、気が立っているに違いない。昨日の本田の表情を思い出すと何となくそんな気がしてくる。

「何か心配だな」

「大丈夫、みきなら受け入れてくれるよ」

渚は非常に冷静で落ち着いていた。やっぱり日頃からよく関わっているからだろうか。もしかしたら本田は琉斗の爆破の手立てを手伝ったのかもしれないというのに。

「大丈夫だよ」彼女は僕と、はたまた自分自身に言い聞かせるように窓の外を眺めながら、そう呟いた。

「日田町。日田です」というアナウンスと共にバスが停車した。気づけば僕らが乗ったバス停から三つ目のバス停に到着していた。もうすぐだ。

何か起こってしまうんじゃないかというハラハラした気持ちに包まれる。これから何が起きるかわからない。

それに『篠原にバレた』という発言。

浮気疑惑の写真を渚や桜に送ったのが本田だったということは、僕には決してバレてはいけなかったのか。しかしそれが昨日の爆発と何が関係あると言うんだ。まあいい。もう少しすれば本田から話が聞けるんだ。全部聞き出して康太にも収穫できた情報を報告しよう。

四分ほどして四つ目の停留所にバスが停止した。誰も乗ってこず形式上停車しているといった感じだった。前方の席に座っていた長い髪をした女性の方が降りていき、バスの扉が閉まると僕らの目指す目的地へとバスが動き始めた。次のバス停だ。

渚が降車ボタンを押すと運転手さんが「ありがとうございます」とマイク越しに話す。なんだか心臓の鼓動が早くなっていた。

だんだんと事件の真相に足を踏み入れている感じがして気持ちが高ぶると同時に緊張感に包まれた。

四つ目のバス停からは思っていたよりもすぐに目的地のバス停に到着した。席から立ってニモカを運転席横の読み取り機に押し当てその反動でバスを降りる。すぐに目に映ったそこは住宅街のようだった。家々が軒連ねていて、いかにも外国のようなお洒落な住宅街だった。僕は「こっち」と言う渚の後ろをついて行く。住宅街に入っていくと「ここだよ」と言われてそっちの方を見た。白い外壁で何とも築年数がまだそんなに経っていない新築の家のようだった。庭には色とりどりの花が並んでいたことから本田のお母さんが家庭菜園好きなのかなと何となく察することができた。まさに絵にかいたような素敵な家。

渚は玄関の扉へと歩いていき、インターホンを押すのは迷惑だと思ったのか、本田にNINEでメールを送った。というかこんな時間に来て迷惑じゃないんだろうか。

すると、中からドンドンドンと階段を下りてくるような音が聞こえてくると、扉が開いた。扉の隙間から顔が出てくる。本田だった。渚は本田のことを確認できると「みき」と言った。すると渚の姿を見た本田は安心したのか、下を向いてポツポツと涙を地面に落とした。

渚が扉を開けて本田のことを抱きしめ「大丈夫、大丈夫」と頭をさすった。僕は何もしてあげられず、ただ呆然と立ち尽くしてその様子を見ていることしかできなかった。

本田が少し落ち着いたのを確認すると渚は「あのね、壮太も連れてきたの」と言って僕のことを話した。最初は僕を見て少し驚いた様子だったが、うん、わかったと頷いて「とりあえず上がって。親は今寝てるから気にしないで」と言われ、家の中に入った。

靴を脱いで揃え、家に上がらせてもらうと本田は、入ってすぐにある階段を上がっていき、渚もそれについて行った。僕もそれについていく。

すると本田が「昨日は大丈夫だった?」と聞いてきた。こちらからすればむしろ心配なのはそっちだよと返したい気持ちだったが、僕と渚は「うん、大丈夫だよ」と返した。

「本当にやばかったよね。ビックリした」

と本田は階段を上がってすぐ左にあるドアを開けて入っていった。僕らもそれに続いて入っていった。しかし、そこは不気味な雰囲気だった。本田の部屋はカーテンを完全に締め切ってシャッターも下ろしていた。間接照明の光が部屋の中を照らしていて何とか部屋の中は見える。そしてとても奇妙だったのは部屋の壁に“あんたのことを友達にバラす”と書かれた一枚の紙が貼られていたことだ。

何をしているんだ…。

渚はそのことを気味悪く感じたのか、

「あのさ、みき、昨日のことなんだけど…」と本題に入ろうとした。

しかし、その時だった。

「本当に焦ったよね。死ぬかと思った。あ、そういえばさ、二人とも怪我なかった?」と言いながら、とあるノートを取って開き、僕らに見せてきた。

「私さ、ここ擦りむいちゃってさ」と会話を続けた。

何をしてるんだ?

僕と渚は唐突な彼女の行動に動揺したが、そのノートに注目すると彼女の行動の意味が理解できた。ノートに左端にでかでかと赤い文字でこう書かれていた。


”この会話は犯人に盗聴されてる 私との会話は普通に続けて ノートに書いてあることを読んでいって”


僕らは顔を見合わせた。突然のことに何も声を出せずにいた。

しかし、本田が“話して”と口パクで伝えてきた。

渚はなんとかそのノートを見て「私もちょっと擦りむいたぐらいかな」と返した。僕もそれに便乗して「俺はないかな、っていうか…焦ったよ。なんていうか、そう…俺も本当に死ぬかと思ったし…」と苦し紛れに返した。

内心はとても驚いて、はっ!?と声を出したいくらいだった。しかし、昨日の爆破事件の後なので本田が遊びなんかでやっているのではなく、本気でやっているのが彼女の真剣な眼差しから伝わってくる。

ノートにはその赤い文字の下に何か書かれていたので、僕は本田のノートをそっと手に取り読んでいった。「篠原ってさ、どこから逃げたの?」と会話が続いていたので顔を上げて「あー体育館の玄関口からだよ。本田は?」と返す。

「私はね—」と本田が話している間に僕は書かれている内容にざっと目を通したが、驚くべきことが書かれていた。


” 私は犯人に脅されてたの。前に私は渚と篠原を別れさせようとしたけど、あれは犯人からの指示。『この写真を池本渚に見せて別れさせろ』って篠原と遠藤華凛が写ってる写真を渚に送って別れさせるように、インスタでEってやつからDMがきたの。

無視しようかとも思ったんだけど、『そうしないと家族を殺す』って脅された。

あいつは私の行動を監視してる。

友達との会話の内容とか帰り道に桜と帰ってることとか、家の中でのお母さんとの会話、いろいろ把握されてた。

確認のために部屋の中にこうやって紙を貼り付けても何もメール送ってこられてない。

だから、多分だけど、正確には盗聴されてるみたい。

でも盗聴器らしきもの家中どこ探しても見当たらなかったの。だからどうやってこっちの行動が把握されているのかわからない。けどこの紙に反応してないってことは盗聴器を使ってるんだと思う。

私が思うに犯人は多分学校の人間。だけど、篠原と渚が付き合ってること知ってたから、私たちと関わりが深い人間だと思う。

犯人は琉斗じゃない。犯人は別にいる。琉斗も多分そいつに脅されてやったんだと思う。”


情報が混雑していて、驚きのあまり言葉も出なかった。その様子を見た本田は沈黙をごまかす為に「聞いてる?篠原。渚のこと見すぎじゃない?」と少し冗談交じりのことを言われ、「……そんなことないよ」と返した。苦し紛れに言葉を出したがあまりに不自然な言い方をしてしまった。

僕は冷や汗をかきながらもノートを渚に渡し、「そういえば学校ってどうなるんだろうね」と言った。なんとか会話のキャッチボールを続かせることができた。「あーたしかにね」と渚は言って、ノートに視線を落としその本田の訴えを読んだ。

「でも、工事とかこれからあるよね?どのぐらい休校になるんだろう」

本田はそう言いながら渚の反応を窺うように見ていた。渚はあまりに内容が衝撃的な事だったからだろう、目を見開いて、本田と僕の顔を見てきた。目の前のことを受け入れるので精いっぱいなのだろう。何度も何度も文章を読み直していた。

すると渚は、徐にスマホを取り出してメモアプリに”じゃあ警察には話してないの?”と打ち込んで見せると、うんと頷いて返した。

僕は本田に対して申し訳なさを感じた。僕と渚が別れたのは八月十八日。つまり、彼女はEという名の真犯人と一ヶ月間ほど連絡を取り合っていることになる。犯人からの脅威に耐えながら今日までやってきたのである。そんな状況だったなんて……。僕は本田に対して尊敬の念さえもふつふつと心の中で沸いてくる。

「っていうか、琉斗が犯人だったなんてな」と僕はなんとか長い会話が続きそうな話題に転換させて会話の継続を試みた。

僕も本田に聞きたいことをスマホのメモアプリに書くことにした。


“今もEとはやり取りしてるの?”


本田は手を出して渚にノートを返すように指示するとズボンのポケットの中に入れていたシャーペンを取り出し、何か書き始めた。

「うん、それはびっくりしたな私も」と渚は返しながら本田の様子を見つめていた。

「なんで職員室なんか狙ったんだろうな、本当怖いよ」

本田は書き終えると、ノートをまた見せてきた。


“渚と篠原が別れた時にEにそのこと報告して以来メールはきてない。けど実は、昨日の爆破予告なんだけど、職員室に送られてきた時、私のスマホにも送られてきたの

『これからお前の高校を爆破する』って”


なるほどと合点がいく。点と点が線で結ばれた感覚だった。三限の途中で本田がスマホに目を落として、渚たちに声をかけていた行為、あれは先生たちと同時に爆破予告を知らされていたからだったんだ。真犯人からの一か月前の指示から犯人は学校の中にいると思い、身の危険を感じながらも、大切な友達ぐらいは救おうと桜や渚に声をかけたのだろう。


「家帰って何してた?」渚が質問を本田に投げかけた。僕はその間に新たな疑問をスマホに打ち込む。

「昨日はショックな出来事だったから眠れなかったな。不安だったから今日渚に来てもらおうって思ったの。篠原も来てくれてありがとう」

「いやいや全然。心配だったからね」


“琉斗が犯人じゃないって証拠は何?”


僕の中にはまだ少し疑いの気持ちが残っていたので胸の内のモヤモヤを収めるために僕は聞いた。琉斗がEだったという可能性はある。犯人として逮捕された琉斗が、突然犯人じゃないと主張されても、簡単に頭の中で考えを変えることはできなかった。疑り深いのはわかってる。ただこの心を収めるには、もう一押し何か弁護が必要だった。

「だよね。それにしても学校どうなるんだろうね」

本田は僕への返事をノートに書き終えると、「当分はないよね」と言ってノートを見せてきた。


“琉斗のフォロワーにKっていうのがいるから探して”



すると渚はスマホでインスタを開いた。自身のフォロワー欄の検索バーにRyuと打つとRyutoというユーザー名のアカウントが出てくる。アイコンには暴走族でよく見られる改造バイクの写真が載っていて一目見ただけであの不良少年の琉斗のアカウントだとわかる。そのアイコンをタップしてフォロワーの検索バーにKと入力すると複数のアカウントが出てきた。それを本田に見せると、“これ”と上から四つ目に出てきていたアイコンの写真が設定されていないアカウントを指さした。

僕は思い出したように「でもまた夏休みぐらいの休みくるかもね」と不自然な会話にならないように返した。危ない危ない。変に沈黙を作ってしまえば犯人に本田が奇妙な行動をとっていると怪しまれる可能性がある。

渚はKのアカウントをタップした。一見それは何の変哲もないどこにでもあるようなアカウントだった。何も投稿していなければアイコンの写真も設定していない。興味本位でSNSを始めた人にはありがちなアカウントだ。しかし、アイコンの隣に表示されているフォロー数が実に奇妙だった。フォロワー数は0と、ありがちと言えばありがちな数字だがフォロー数には1と表示されていた。ということは、無論、このKというアカウントは琉斗だけをフォローしていることになる。

まるで、標的を定めるように。

それから渚が本田のアカウントのフォロワー欄からEというアカウントを探し出すと、Eも同じように本田のアカウントだけをフォローしていた。

すると、本田がノートになにか書き記して「渚は夜眠れた?」と言いながらノートを僕たちに見せてきた。しかし、そこには驚くべきことが書かれていた。


“犯人の目途はついてるの”


渚が不安そうに“誰?”と口パクで聞くと、本田はノートを逆に折って書きやすいようにし、シャーペンで記して僕たちに見せてきた。しかしそこには僕の疑いたくなかった、犯人だと考えたくなかった人間がノートに書かれていた。


“遠藤華凛”


遠藤華凛、その文字を見て咄嗟に『いやそれは違う』と強く否定したかったが、グッとこらえた。それは彼女を疑いたくはなかったからだ。

しかし、犯人候補の一人として疑っていなかったかと言われれば、それは嘘になる。頭の片隅には浮かんでいたが、まさかそんなわけ…と考えないようにしていた。

僕からすれば彼女を疑うのはとても心が痛まれるからだ。遠藤が来なくなった原因は紛れもなく僕らのせいでもある。(主には問い詰めた渚だが。)事を整理すれば、渚の友達である本田が、遠藤が僕と浮気していると思い込み、写真を撮った。それが渚に伝わり、渚が彼女を問い詰めた。遠藤に関してはまったくの被害者なのだ。

それなのに、そんな彼女を疑うなんていうのは、まさしく人道に反していることだと思い、康太と話しているときにも共犯者候補には挙げなかった。しかし、正直よくよく考えれば、遠藤が犯人というのも正直言ってあり得なくもない話だった。あの爆破予億が職員室に送られた時間帯、学校におらず、人の目を気にせずにファックスを送れる人物、それは昨日休んでいた遠藤華凛ぐらいだからだ。

僕は一応本田に”なんでそう思うの?”とスマホに打ち込んで画面を見せた。

本田がノートを書き終わるのを待つ。ただ僕はあまりに沈黙が続いていたことに気付いて慌てて「先生たちってどうしてるのかな」と言葉を発した。

渚は思い出したように「あ…、そういえば七人ぐらいの先生が死亡確認されたって。それに搬送されたほとんどの先生が重症らしい。だけど佐々木先生と安藤先生と吉田先生は無傷だったって」

「そうなのか……」

あまりの意図していなかった衝撃的な知らせに絶句した。

すると本田が書き終えて、ノートを見せてきた。


”一番の理由は、アカウントの名前。EとKだった。あれは遠藤のEと華凛のK。それに私にあの写真を遅らせたのはもしかしたら本当に篠原のことが好きで、渚と別れさせたかったのかもしれない。それに昨日いなかったでしょ?だからあの時間帯にコンビニからファックスを送れるのはあの子だけなんだよ”


本田が書き記している通り、ユーザー名のことまでも考えると、もう遠藤が犯人としか考えられなくなってくる。ダメだ。そんなことはありえないはずだ。遠藤が人殺しなんて…。

これには強い反論を用意した。

「長谷川先生も重症なのか?」

”遠藤が犯人だとしてもあの写真を撮った協力者がいるだろ”

「なんかそうらしい。他のクラスの友達から聞いてさ。本当に先生たち、気の毒だよね……」

情報があまりに混雑していたので脳内で処理しきれず、渚のその言葉は宙に消えていくように僕の頭には入ってこなかった。

“絶対犯人だよ。誰かと協力して、渚と篠原を別れさせようとしたんだよ。もしかしたらだけど、協力者は二組の大原 楓かもしれない”

確かにあり得なくもない話だ。

流石に僕が遠藤に好意を抱かれていたという話は定かではないし、むしろ明かされないままでいい。しかし、遠藤と仲の良い大原楓と協力しての犯行の可能性も考えられる。僕は何だかこのディベートに負けたような気がした。それにアカウントは二つ存在していた。よく考えれば、EとKは遠藤のEと楓のKなのではないか。そう考えれば本当にあり得なくもない話しなのではないか。

何となく僕は腑に落ちてしまっていた。

もしかすると僕らは今、事件の奥深い部分に手が届いているのかもしれない。

するとその時だった。

突然、ブーッブーッと渚のスマホが鳴り始めた。渚はそれに視線を落とすと、僕らにスマホの画面を見せてきた。そこには“お母さん”と表示されていた。彼女のスマホに彼女の母親から電話がかかってきてたのである。もしかすると、爆発事件があった翌日にもかかわらず家を出ていることに心配してるかもしれない。「ごめん。ちょっと出てくる」と言ってドアの方に歩いて行った。スマホを耳に当てて、「もしもし」と言いながらドアを開け、部屋から出て行った。渚は一応盗聴されている可能性を考えてこの家から出た方がいいと思ったのか、階段を一段ずつ降りていき、ガチャと玄関の扉が開く音が微かに下から聞こえてきた。

部屋には僕と本田がポツリと残された。僕は先ほどから気になっていたことを本田に質問した。

“そういえば、ご両親は大丈夫?犯人から何かされてない?”

すると本田はうんと大きく頷いた。

だが、これについては正直まだ油断できない問題だった。

なぜなら、本田がEとの約束を破ったという事実は変わらないからだ。僕に知られてしまったということ、それは犯人からの条件である『渚と桜以外には誰にも知られてはいけない』を破っているということになる。もしかすれば、学校の先生たちを狙ったのは、次はお前の家族だという見せしめとしてやったのかもしれない。

すると突然、階段からドタドタと急いで階段を上がってくる音が聞こえてきた。

ガチャッとドアが開くと渚が血相変えて

「警察がみんなの家に家宅捜索しに行ってるって」

と僕らに言ってきた。

え?

何事だと思い、僕らも帰った方がいいのかと思う。というか、警察が来るなら家に帰らないといけないかもしれない。そうだ。家に電話を入れよう。そう思った時、ピンポーンとインターホンが鳴り響いた。

時刻は午前八時四十五分。渚の話から察するに、来客は警察と見て間違いない。本田はインターホンの映像を確認しに一階へと下りていくと「なんかやばいことになってきたね」と渚が言ってきた。なぜ僕たちの家に警察が来ているのだろうか。それとも情報集めのための聞き込みをしにやってだろうか。

「俺たち帰ったがいいかもな。一応下に下りておこうか」

渚と共に部屋を出て一階へ階段を下りていく。

すると本田が「はい…わかりました、今開けます」と言ってリビングから出てきて玄関の方へと歩いて行った。僕らの方を見て状況を伝えなければいけないと思ったのか、再度リビングの方に戻っていき、小さいメモ帳とペンを持って戻ってきて、なにか書き始めた。

書き終えてメモ帳を見せてくる。


“盗聴器を見つけるって”


本田はメモ帳をズボンのポケットにしまうと、玄関のドアの方に歩いていき、鍵を開けてドアノブを押した。

するとそこには、スーツ姿で、綺麗な七三分けのガタイのデカイ四十代ぐらいの男性がドアの隙間から見えた。本田に対して軽く一礼すると、白い手袋をはめて

「学校のリュックはどこにある?」

と聞いてきた。開口一番何を言ってるんだと困惑したが、本田は戸惑いながらも「二階にあります」と玄関の靴置き場を上がり、僕らに「ここにいて」と言った。

警察も玄関で靴を脱いで廊下に足を踏み入れた。鑑識官やガタイの大きいスーツ姿の男性もいた。スーツの男性の腕には捜査一課という腕章がつけられていたので、その人が刑事だと認識できた。刑事さんは僕らの顔を見ると僕らの顔に指をさした。

「友達?」

「そうです」

すると、刑事さんは後ろで靴を脱いで上がろうとしていた若い刑事に「おい斉藤、この子達お願い」と声をかけると「はい、わかりました」とまるで自衛隊のようなキリッとした声で言って、僕らのもとにやってきた。

そして、強面な刑事は「ごめんね。ちょっとの間ここにいてね」と僕らに言って、「ご両親は今いらっしゃるかな?」と本田に話しかけながら本田の後に続いて階段を上っていった。

「君たち日野ヶ丘高校の生徒だよね?ここで何してたの?」と若さ故なのか、それとも僕らが高校生だからなめているのか、斉藤刑事は先ほどのお堅い態度とは裏腹に馴れ馴れしく聞いてきた。

僕は一応先ほどの一連の出来事を斉藤刑事に話した。


「そうなんですか…」と彼は僕が伝えたことを手帳に書き記していった。

 そして僕らが事情を説明している最中に本田のご両親も本田から起こされたようで、二階から状況説明している刑事の声が聞こえてきた。

すると、横から渚が「あの、急に家に来られるなんて、何かあったんですか?母から家宅捜査に来たと聞いたんですが」と不安そうに警官に尋ねた。

「実は、君たちのクラスメイトの宮島琉斗君のスクールバッグから盗聴器が見つかったんだ。それで他の生徒のバッグにも仕掛けられてる可能性があるから各家に訪問して、見つけ次第回収してるんだよ」

スクールバック…?

背筋を悪寒が駆けていく。

中に仕掛けられていたんだろうか。

しかしつまりそれは、本田のバッグにもそれが仕掛けられているということになる。それにスクールバッグならみんなが共通して所持しているものだ。それに仕掛けることができる人間は、明らかに学校の人間。それに琉斗と本田の二人に仕掛けていたことが確定している。とすれば、犯行を行えやすいのは一年一組の誰かだろう。

事件の当事者である琉斗のバッグから盗聴器が出てきたということは、本当に琉斗は犯人じゃなくて、ただ指示されていただけだったということが確認できて、少し安心した。

ただもし犯人が、遠藤であるならば、彼女はなぜここまでやるのだろうか。遠藤が犯人じゃないとしても犯人の狙いは何なのだろうか。それになぜ二年前から爆破予告を送っていたのだろうか。謎はあまりにも多い。

「じゃあ琉斗も盗聴されてたってことですよね?事件の被害者ってことで、保釈されるんですか?」

渚が咄嗟に質問した。斉藤刑事は、虚空を見つめて考え、

「いや、それはまだこれからだね。犯人でありながらも、盗聴器を仕掛けて被害者を装っている可能性も考えられるし」

二階の本田の部屋から騒がしく物音がした。恐らく一応ほかにも盗聴器がないか、部屋中をくまなく探しているのだろう。

斉藤刑事はそれに気にも留めず、話を進める。

「それに新たな容疑者が捕まってね。多分今日のニュースで出てくると思うよ」

「えっ⁉そうなんですか?」

僕は思わず大きい声が出てしまった。なぜこのタイミングで…。脳裏には先ほど本田と交わしたやり取りが浮かぶ。もしかして警察が遠藤のことを疑って逮捕に至ったのだろうか…。

僕は恐る恐る斉藤刑事に聞いた。

「それって誰…なんですか?」

斉藤刑事は、左腕に身に着けていた高級感のある銀色の時計で時間を確認し、二階の様子を少し窺った。

「新海高校と木山高校の子たちだよ。知らないかな?日頃から琉斗君と関わりがある不良グループの子たちなんだけど」

あの不良グループが…。驚きと同時に琉斗に慈悲の念が湧いてくる。

確かに琉斗が他校の不良とバイクを乗り回したりして警察のお世話になったという話は耳にしたことがある。康太が言うには、琉斗のインスタのストーリーで、金髪の人やここらへんで一番喧嘩が強いと名高いヤンキーとタバコを吸ったりしているのを見たことがあるということだった。夜な夜なそういう野蛮なやつらと関わっていて、なにかトラブルに巻き込まれたのだろうか。

「今頃君たちの家にも警察が向かってると思うから、後で君たちのことは僕たちが責任もって家に送るよ。っていうか、本当は君たち家から出ちゃダメなんだよ?生徒たちは自宅待機ってことになってるんだから。メールきてたでしょ?」

僕と渚は、すいませんと少し頭を下げた。正直メールが来たことは知らなかったが、何となくダメなのは察していた。親に叱られてもいいと思い、家を出たが、これはあとで本当に両親からのお叱りを受けることになるだろう。

「でも、新たに犯人捕まったんだから大丈夫なんじゃないんですか?私たち自分で帰れますよ」

「まあそうなんだけどね、まだわからないんだよ」

斉藤刑事の曖昧な回答に渚は「どういうことですか?」と返した。

「その子たちのことで分かってるのは、去年と一昨年に新海高校と木山高校に爆破予告をしていた犯人が、その不良グループの子たちだったってことなんだ。悪戯で学校のポストに入れたらしいんだけどね」

二階からドンッと衝撃的な事実が発覚したことを表す効果音のような物音がした。

ということはそいつらの犯行と見て間違いない、そんな野蛮な奴らだからこそやったんだ、教師たちに恨みを持って犯行に及んだんだと一瞬そう確信しかけたが、ある疑問に駆られる。

彼らが悪戯で殺人を犯したり、誰かに爆弾を仕掛けさせるような真似をするだろうか。

それに知り合いであるならば、彼らは確かに琉斗のインスタアカウントを知っているだろう。そして琉斗のフォロワーから本田のアカウントを探すことはやろうと思えばできる。それに、僕と渚が付き合っていることも盗聴器で把握できるだろう。しかし、なぜだろう、なにかが心に引っかかる。

「まあほとんどその子たちの犯行と見て間違いないんだけどね…。ただ、さっきの君たちに話しかけた怖いおじさん刑事が引っ掛かってることがあって…」

斉藤刑事は顎に手を当てながら言った。

「“ただの悪戯程度で盗聴器を仕掛けるなんて大がかりな事までやるのか”ってね」

すると、僕のポケットに入れていたスマホが突然ブーッと振動した。基本的にNINE以外のアプリからの通知は切っているので誰かがメールを送ってきたのだとわかった。恐らく母親だろうと思いながらも一応スマホを確認する。

そのメール送り主は康太だった。

メールの内容を確認すると、

『やばいやばい。警察が家に来て学校のバッグから盗聴器出てきたわ。篠原の方はどうだった?』

と送られてきていた。

嘘だろ…。康太も仕掛けられていたのか……。

「渚…、これ」

渚にスマホを見せると、顔を歪めて戸惑っているようだった。渚はスマホをポケットの中から取り出し、急いでパスコードを解いてNINEのアプリをタップした。一瞬だけだが、NINEの緑のアイコンの右上の赤い丸の中に通知数が表示されていたが、そこには104と表示されていた。一瞬見間違いか?と思ったがすぐにそうではないことが分かる。

彼女のスマホでトーク履歴の一番上に出てきていたアイコン、それは僕たち一年一組が六月に行われた体育祭の閉会式の後に撮影した集合写真だった。そのトークに異様な数の通知が届いていた。

一年一組のグループチャットだ。

黙々と増えていく通知数に一年一組のクラスチャットでみんなが動揺しながらやり取りしているのがなんとなく伝わってくる。

渚はそれをタップすると、下へスクロールして「あっ、これ」と言って画面を見せてきた。


『みんな大丈夫?私のバッグの中から盗聴器見つかったんだけど』


『やば。俺もだわ』


『え?俺もなんだけど。マジで怖すぎ』


『あかねのバッグからも見つかった。え?待って、これみんなのバッグにあるんじゃない?』


『マジで琉斗怖すぎ…。俺らのこともいずれ殺そうとしてたんじゃないの』


と皆のバッグの中から次々と発見されていき、動揺しているのが見て取れた。

なんなんだ…。。何が起こってるんだ…。何で僕らを狙ったんだ…。

犯人は自身が脅迫した奴だけではなく、僕たちのバッグの中にも盗聴器を仕掛けていたのか…。

犯人の存在に恐怖心が胸の中で暴れ出していた。心臓の鼓動が渚にも聞こえているのではないかと思うほど、激しく波打っている。

ということは僕らの家での会話も学校での会話も何もかもが盗聴されていたんだ。

恐らく僕らのことを把握するために。

さらに、渚から見せられたスマホ画面の一番下に送られていたメッセージがふと目についた。


『本当に布地の裏に仕込まれてた…。多分これだよね?』


僕もスマホでグループチャットを開いてそのメッセージを確認する。

そのメッセージに辿り着き、下にスクロールすると、そこには一枚の写真が添付されていた。恐らく、まだ警察が到着しておらず、独自に取り出したのだろう。写真には、学校指定のバッグであるボストンバッグの中が映し出されていた。バッグの中の側面の布地の中に“それ”があったのだろう。自身のカッターかはさみかを使ったのか、布が引き裂かれていた。あまり乱雑に破かれていることもあり、恐怖心に駆られて急いで切ったことがなんとなく伝わってくる。

そしてその布地の裏には何やら黒い機器があるのが見えた。手のひらに収まるほど小さく、四角くて薄い、まるで板チョコの一欠片のような機器だ。どんなにバッグのことについて知らない人間でもこれがバッグを作る際の必需品ではないことくらいは分かる。明らかにそれは異様だった。僕や渚、そして本田のバッグにもこれがあるのか…。

すると、二階から階段を下りてくる音がした。咄嗟に階段の上の方を見ると先ほどの強面な刑事だった。それに続いて鑑識も下りてくるが、その手にはポリ袋を持っており、その透明な袋の中には先ほどスマホで見た“それ”が恐ろしくも入っていた。

いざそれを目の前にすると、犯人の存在を近くに感じる。

流石にこれは悪戯にしてはやりすぎだ。精々、爆破予告までに留めておくだろう。タチが悪すぎる。

その不良たちが僕らのことを深く知るためにやったのか、先生たちに自分たちの人権を主張するデモ紛いのことを行いたかったのだろうか。でも、だとすれば、なんでうちの学校を狙ったんだ。犯行動機とは全くわからないものだ。

もしかしたら、不良グループの中に裏切り者が居て、本当に人を殺そうという意思を持った奴がいて、そいつが琉斗にDMを送り、犯行に至らせたのかもしれない。ここらへんで警察のお世話になっているようなやつらだ。そんな野蛮なことをしようとする奴がいてもおかしくない。

「発見した。行くぞ」

先ほどの強面な刑事がそう言うと「はい」と斉藤刑事は返事を返した。

「それじゃ、行こうか」

斉藤刑事は僕たちを家に送るために、本田の家の前に止めていたセダンに乗るよう声をかけた。

本田と本田の両親も階段を下りてきて僕と渚に会釈すると、別の車に乗るように誘導された。これから署で詳しく話を聞くためだろう。

「みき」

渚は本田に駆け寄って「じゃあね」と抱きしめた。

本田の表情は先ほどと比べて少し柔らかくなった気がした。彼女に憑りついていた何かが取り祓われたようだった。犯人とやりとりもし、その上、盗聴器で本田の私生活を把握され、脅迫もされていたのだ。その恐怖から逃れようと彼女はそれをくまなく探しても、見つからなかったんだ。行き場のない恐怖が彼女の心を蝕んだだろう。盗聴器をあんな場所に隠されれば、独自に発見することは困難だ。普通そんなところに隠されているなんて誰も思わない。そんなに身近な物に仕込まれていたなんて。

すると、僕のスマホがブーッブーッと鳴った。取り出してみると、そこには“母”と表示されていた。母親からの電話だった。僕は「すいません」と画面を見せて斉藤刑事に言い、トイレに駆け込み、通話ボタンを押した。母からの電話は案の定、僕の家にも警察が来たという内容の電話だったが、その声は今にも怒号を浴びせて来そうなほどのシリアスな声量だった。これは、帰ったら確実に説教をくらうだろう。

電話を切ってトイレから出る。

斉藤刑事が「大丈夫かな?」と出発する準備ができているか確認してきたので、僕は頷き、渚と共に車の後部座席に乗せられた。

何事だと近所の人たちがこちらの方を不安そうに見ていた。警察が近隣の家に突然訪れれば、誰しも何事かと思ってそういう風に見るだろう。会話の内容は聞こえてこなかったが、昨日の出来事もあるので、「ほら、あの子日野ヶ丘高校だから」「あー」とでも言って会話してるんだろうなと容易に想像できる。

斉藤刑事は運転席に乗り、シートベルトを締めた。恐らく歳が一番下の人間ということで運転を任されているのだろうと思う。助手席には、いかにも警察ドキュメンタリーなどで鋭い分析などで様々な犯罪者を逮捕してきたかのようなベテランの雰囲気を漂わせた四十代後半あたりの刑事が乗車してきた。

「シートベルトしてるかな?」とその刑事は、僕らのことを今にも取り締まりそうな低く重みのある声で僕らの方を確認してきた。さすがに警察の前でしないわけがない。

はいと答えると、グローブボックスの中から紙を取り出し、胸ポケットに掛けていたボールペンを取り出してカチッと押すと「えーっと二人とも名前は?」と尋ねてきた。

「篠原壮太です」

「池本渚です」

生徒名簿を見ているのだろう。紙の上から下に目を通し、僕と渚の名前が記されている箇所にアンダーラインを引いた。

目の前にあった無線機を手に取って「A班、B班。こちらE班です。A班、B班、こちらE班です。応答願います」と言うと「こちらA班、こちらA班、どうぞ。」と返ってきた。そのあとすぐにB班からも返される。警察の無線での会話を始めて目の当たりにするので見入ってしまった。

「池本渚さんと篠原壮太君は、本田みきさん宅にいましたので今からそちらへ送ります」

「はい、了解しました」

「了解です」

無線機を戻すと、斉藤さんにその紙を渡し、、僕らの住所を伝えた。はいと言ってエンジンをかけ、車を後退させて僕らの家へと走らせた。

「ちょっと二、三質問してもいいかな?」

助手席のベテラン刑事が後部座席に首を振り向かせた。

「本田さんからいろいろと話は聞いたんだよね」

「はい」

「それじゃ、EとKのアカウントについて何か覚えはあったかな。どこかで目にしたとか、誰かから聞いたりしたとか」

「いえ、僕はさっき知りました。というか友達がそんな状況に追い込まれていたこともさっき知って…」

刑事はボールペンを走らせ、僕らの喋っていることを書き記していき、顔をあげて渚の顔を見た。

「池本さんは?」

「私も同じです」

「さっきこのお兄さんから話は聞いたんだけど」

とペンで運転席の斉藤刑事を指した。

「池本さんは、本田さんの言動が気になって、篠原君を呼んでここに来たってことで間違いはないかな?」

「はい」

んーと溜息交じりの声を出しながら、また手帳に記していく。

「あのね、君たちは知らなかったのかもしれないんだけど、教育委員会の方から各家庭に、ほとぼりが冷めるまで生徒さんたちは家から出ないようにと要請がしてあるんだよね。だから、もう次からはこういうことがないようにね。親御さんも心配するから。いいかな?」

僕たちはすいませんと言って頭を下げた。

本当はこんなことがよくないのは十分に理解している。しかし、僕らが来たことで、一人で抱え込んでいた本田は以前よりも少しぐらいは、肩の力を抜いて生活できるのではないだろうか。

犯人と思われる不良グループは逮捕されたんだ。これで事態は一件落着だ。

それからの道中は琉斗と不良たちの関係について詳しく知らないかとか、友達からEやKのような怪しいアカウントから連絡があったと聞いたことは?など様々な質問をされた。

力添えになれないと感じながらも質問に答えたが、渚が突然突飛なことを口にした。

「多分…ですけど、そいつらは犯人じゃ…ないと思います」

その発言を聞いた刑事は一瞬顔をしかめた。彼女の発言に困惑しているようだったが、警察としての立場もあるのか、冷静を装った様子で改め、渚に聞いた。

「何か心当たりでもあるの?」

文字で一杯になった手帳のページをめくり、次のページにボールペンを当てる。

「いやさっき、本田さんも言ってたんですけど…、遠藤華凛って子が怪しいと思います」

「遠藤…華凛…」

と先ほどの名簿の紙を上からボールペンでたどって探していき、

「確か、ここ最近不登校だった子だよね?」

と返した。

「はい」

「何かクラス内で問題でもあったのかな?」

吉原が一昨日言っていたように渚が遠藤に嫌がらせをしているというのを警察は恐らく昨日の聞き込みで情報を得ているはずだ。

そして刑事は渚の顔をより真剣な眼差しで見て、体の細かい動きを見るようにじっくりと見ながら話を聞き出そうとしていた。しかし、その時車が減速し始めた。あたりを見渡すと、そこは僕の家の前だった。あまりに緊迫した鋭い空気が流れていたので気づかなかった。玄関付近にはスーツを着た男性や鑑識が屯していて家の前にはセダンが二台ほど停まっていた。

玄関の前に立っていた捜査一課の腕章をつけている三十代ぐらいの刑事がこちらに気付いて歩いてくる。

すると斉藤刑事が、気を利かせて頭を下げながらその刑事に手のひらを見せて、『ちょっとだけ待ってください』と示した。

渚は先ほどバス停で僕に伝えた事を刑事に話した。

「不登校になったのは、私のせいだと思います。実は私と壮太は付き合ってるんですけど、夏休みの時に一回別れたんです。その原因がみきから送られてきた写真なんですけど——」

とスマホの画面を開いて、前に学校で河合桜が僕に見せてくれた、僕と遠藤が映っている例の写真を見せた。

刑事はちょっとごめんねと渚のスマホを受け取り、まじまじとその写真を見つめた。

「この写真で私、壮太と華凛ちゃんが浮気してるって思って夏休み中の出校日の放課後に華凛ちゃんに執拗にそのことを聞いちゃって…。それから遠藤さんは来なくなっちゃったんです」

うん…と刑事は吐息をこぼし、手帳に線を引いて何か書くと僕の顔を見て、

「わかりました…。でも篠原君は浮気してなかった、ということでいいよね?」

「はい、そうです」

「池本さんは篠原さんが浮気してないって事はどうやってわかったのかな?」

「仲のいい友達で、河合桜っていう子がいるんですけど、その子から一昨日NINEでメールが送られてきて、みきが勘違いして撮ったって言われたんです。仲の良い友達の言うことだし、みきもそのあとメールで謝ってきたので、私も受け入れたんです」

今思えば、桜が仲介に入ってくれていなかったら現在のこの関係もないなと思う。それを思えば、桜には感謝してもしきれない。

「けど、みきもその写真はEから脅迫されて私たちに送ってきたらしくて」

「なるほど…」

刑事さんは眉間に皺を寄せて絶句した。ペンを手帳の上にのせたままで、書く手を止めていた。思考を巡らせているようだった。それもそうだ。写真を送って別れさせるという行動には犯人の意図は見えてこない。なぜそんなことをする必要があったのだろうか。

それに脅迫を受けて指示されたのは生徒なのに、狙われたのは学校の先生である。

しかも、僕らのバッグの中にも盗聴器が仕掛けられていた。あまりに奇妙な犯行だ。

ただ確実に今断定できることは、これは緻密に練られた計画的犯行だということだ。当然だが、一時の感情に任せてやったことではない。ということは、何か人に対してなんらかの恨みを持っていた人物が犯人だと思われる。それを考えれば、やはりその一人しか浮かばない。

“渚に追い詰められて不登校になった“遠藤が犯人だというのが、だんだん現実味を帯びてきているように感じる。

「それもあって…華凛ちゃんが犯人だと思うんです。あの日、自由に動けたのは学校を休んでいた彼女だと思いますし」

僕も正直に「僕も少し遠藤さんのことを疑っています」と返した。

「わかりました。ありがとうございます」

話が終わると、斉藤刑事が運転席を下りて後部座席のドアを開けてくれた。

「送っていただきありがとうございました。渚、またね」と一礼をして玄関の方に向かう。

すると、ふと目に映った“それ”に鳥肌が立った。

玄関の扉から出てきた鑑識官の手に握られていた例の盗聴器の入った透明な袋に。

僕はそれを目の前にした時、日常という淡い空間に鋭い刃を突きつけられているような感覚を覚えた。

本当に遠藤が犯人だったらどうしようか。その時、真の悪は彼女を追い詰めた渚になるんじゃないだろうか。

今でも僕たちの行動をどこかから見ているんじゃ…。

悪寒がして、あたりを見回した。

僕の家の周りには近所の人たちが集まっていた。その中に紛れているのではないかと不安に襲われ、辺りを凝視した。しかし、そこに彼女の姿は見当たらなかった。



—二日後—



あれから、警察の方々から事情を伝えられ、スクールバッグと盗聴器は押収された。

僕は母からこっぴどく叱られ、外出禁止命令を下されてしまった。

学校関係のメールは母親が管理していて、一昨日の早朝は渚が来て颯爽と出て行って母親と会っていなかったこともあり、後になって分かったことだが、どうやら水野市教育委員会から最低でも学校を一ヵ月ほど休校にするという連絡がきていたらしい。市内の高校、小学校や中学校も今回のことで、一週間ほどの臨時休校措置が取られたようだ。

中学の時の同級生からは『大丈夫か?』との生存確認のメールが山ほど送られてきて、僕はまるで報道記者からの質問対応でもするように、それらに返信していった。

ニュースでは、琉斗が関わっていた不良グループの人間が一昨年と去年の九月に各高校に爆破予告の紙を学校のポストに投函していたことが判明し、警察が逮捕に至ったことが報じられた。

不良グループの供述によれば、『夏休み明けで学校が面倒くさかったので、休みになればと思い、悪戯感覚でやった』とのことだった。

さらに康太の話によれば、恐らく逮捕されたのは木山高からは三年の笠井凌馬、小野田浩平、新海高からは二年の吉田悠斗、田原陸翔、そして一年の伊藤晴樹らしい。確実な情報ではないが、そいつらは琉斗と同じ中学の出身らしく、その時から関わりがあるらしい。後先考えずに犯行に至ったのだろう。アホなことをやったものだ。呆れて溜息すら出てしまう。

ああいうやつらはなんでこうなることを考えないのだろうか。

二年間逮捕されずに済んだからと、今年もと味を占めてやったのだろう。

と思ったが、どうやら今年は違うらしい。

斉藤刑事が言っていたように不良グループは、今年の爆破予告は自分たちではないと否認しているようだ。

しかし、彼らが嘘をついてないと今はそう断言できる。彼らは、言い逃れしているわけではなく、本当にやっていないのだろう。

彼らが琉斗を貶めるためにこんなことをしたのか、そう考えることもできた。

しかし、それは違う。

この爆発事件はあまりにも計画的に練られていて、確実に人を殺すために綿密に練られた犯行だからである。

その理由として、もっとも引っかかるのはスクールバッグの中に仕掛けられた盗聴器だった。あんな行為はさすがに学校外部の人間でも厳しいだろう。まるで異国に薬物を違法に持ち込むために旅行バッグに細工するように、僕らのスクールバッグの側面の生地の中に仕込まれていたからである。そんなことをたかだか一端の不良が仕掛けるというのはあまり考えにくい。可能性がないとは言えないが、ここまで大事な事はやりたがらないだろう。それにもっとも引っかかるのは狙われたのは一年一組だということだ。他のクラスに中学の同級生がいるので聞いてみれば、バッグの中に盗聴器は仕掛けられておらず、その子の友達に確認してもそういった機器は見つからなかったらしい。他にも情報を集めてみると一年生の三クラスの内、やはり一クラスだけ。つまり、狙われたのは一組の生徒のバッグだけだった。

盗聴器や不良の逮捕、学校爆破に関する報道が連日されたこともあってか、SNSでは日に日に日野ヶ丘高校の爆破事件が世間に注目されていった。

つい昨日あった有名な昼のワイドショー番組でも扱われてはいたが、犯人を不良グループだと決めつけて報道していた。僕は思わず溜息をこぼした。

なぜ犯行に及んだのか、どこでどう道を誤ったのかと、コメンテーターとして出演していた最近巷で話題の人気俳優が、『昔自分も悪いことしてたのでわかるんですが、彼らは誰かに認めてほしいんだと思います。心の拠り所を求めてるんですよ。自分を認めてくれる環境が家庭ではなく、こういった“族”にあった。しかし、ここで“すごいやつ”と皆が慕ってくれる、認めてくれる基準は何か野蛮なことをやって度胸があるやつと認められることだった。だからこそ彼らは一時の感情、いわば“承認欲求”に駆られて犯行に至ったんじゃないかなと思います』と今回の事件に対してコメントしていたのだ。

彼らのことをよく知りもしないのに。この事件の全貌を目の当たりにしてもいないのに。



九月十一日 午前五時二十七分



中々寝付けずに気づけばこんな時間になってしまった。夏休みのように喜べるような休暇でもないし、外出禁止令を下されてしまったのでなにもやることがない。ただひたすら、何かに憑りつかれてしまったようにスマホで事件のことを調べていたが、次々と出てくる記事の情報に書かれていることは同じで、特に事件についての最新情報はなく、僕はまるで試験の結果発表を待つように新たな一報を待っていた。どこの媒体も不良グループの仕業として報道しているがやはり事件の当事者である僕らからすれば腑に落ちない点が多い。遠藤が犯人だと出てきてくれれば僕もそっとこの思考のモヤモヤを消すことができるのに。そんな考えが無慈悲に頭の中を巡ってしまう。そんなことはない、と建前の感情で心底に押し込み、僕は一階に下りた。

気分転換になにか映画を見よう。そう思い、テレビのリモコンを持ったのも束の間、ポケットの中に入れていたスマホが突如振動した。誰かからメールが送られてきたのかと思ったがその読みは違った。

Twitterからの通知だった。

あなたへのおすすめと書かれたその下には

【福岡県の公立高校爆破事件 爆破予告は犯人に脅迫された女子生徒が原因か】

と書かれていた。事件のことについて調べていたからおすすめされたんだろうが、長らく待ちわびていた最新情報に驚く。

“脅迫された女子生徒”

本田の顔がよぎるが、すぐに彼女のことではないとわかる。もしそうであるなら本田の部屋に入った時に彼女は僕らに伝えてくれていただろう。

であるならやっぱり…。

通知を開くと、ニュースアプリで有名なワンデイニュースというアカウントのツイートが表示される。その見出しの下には記事につながるURLと日野ヶ丘高校の校舎の写真が添付されていた。

URLの下にはなにか文章が記されていた。

“警察の情報によると、日野ヶ丘高校の生徒の一人はSNSで『日野ヶ丘高校に爆破予告を送れ、従わなければお前の家族を殺す。お前の行動は監視している』と犯人から脅迫され、コンビニで爆破予告をファックスで送信したのだという。なお、女子生徒は事件当日学校を欠席していた。”

まさしくその脅迫の仕方は本田がEにされたのと同じやり方だった。

“当日欠席していた”という文章からその女子生徒が誰なのか、簡単に理解することができた。もう一度そのツイートに目を落とす。僕の見間違えなんじゃないかと確認するが、やはりその呟きにはそう書かれていた。自然と表情が歪んでしまう。

爆破予告を学校に送ったのは遠藤だったのだ。

恐らく、僕らが彼女を疑い、警察に申し出たことで警察が彼女の家に赴いた際に彼女に聞き込みをし、浮き彫りになってきたんだろう。遠藤もまたEから脅されていた。彼女は容疑者ではなく、本田や琉斗と同じ単なる被害者の一人なんだ。

その真実が明らかになり、僕は己のことが恥ずかしくなった。『疑われた子の気持ちにもなって見なさいよ』あの時、姉が言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。でも仕方がなかった。遠藤を疑わないわけにはいかなかった。渚が問い詰めてしまったこと。遠藤がそれによって学校に来なくなったこと、そして、ここ二年間でされた爆破予告とは犯人が違ったこと。それらを考慮すれば、遠藤を疑ってしまうのも無理はないじゃないか。そう自分を正当化しようとしたが、冤罪の人間を犯人として考えてしまったことは恥ずかしくも事実だ。僕は、遠藤に謝らなければいけない。

ただ、遠藤が犯人ではないとわかった今、新たに真犯人が存在しているということだ。その人間は今も捕まっていない。あからさまな手の汚し方はせず、人を脅して自分の計画を手伝わせている。

じゃあなんでアカウント名をEとKなんかにしたんだ。単純に他の人物なのか。自分の名前のイニシャルなのか。しかしなんで遠藤華凛のイニシャルであるEとKをアカウント名にしたんだ。いや、そもそもそんな意図はなく、単なる僕の考えすぎか。

頭の中で独自の推理を展開してしまう。いかん、いかん。僕の脳内が事件のことでいっぱいいっぱいになっている。

とりあえず記事の内容を読んで渚と康太と情報を共有するためにこのツイートを送って眠ろう。

布団を被って暗がりの中でスマホを見た。

青く表示されたURLをタップすると、詳細な内容が記されていた。

“九月十日に福岡県の水野市にある公立高校の職員室が何者かによって爆破された。同日午前十一時頃、爆破予告のファックスを同高校の女子生徒がコンビニから送付したことが新たに判明し、その生徒はSNSで犯人とみられる不審なアカウントに脅迫されていたことが明らかになった。また爆発物を仕掛けたとして逮捕されていた生徒も同アカウントに脅迫されていたようだ。しかし、その生徒は二年前から相次いで行われた水野市市内の高校に対する爆破予告に加担していたことが判明し、再逮捕されたようだ。そして現在警察は、不審なアカウントに関してSNSの運営会社に連絡し、犯人特定に努めている”

遠藤は犯人ではなかったのか。

恐らく彼女のスクールバッグの中からも盗聴器が発見され、その際に正直に警察に話したのかもしれない。爆破予告という一枚の紙を送ったのが自分だという事実が明らかになるのも時間の問題だったから。それか僕らが彼女に対して疑念を持ち、警察に報告したことで調べが入り、明らかになった可能性もある。いずれにせよ、重要な真実が明らかになった。これで警察も犯人逮捕に向けて大きな一歩となったはずだ。

それに琉斗に至ってはは再逮捕されてしまったのか。もしかしたら、犯人は琉斗が二年連続で行われた爆破予告に加担していたことを警察に明らかにさせるために敢えて琉斗に爆弾を仕掛けさせたのかもしれない。

ということは、実際に犯人が学校を爆破させるために関与させたのは遠藤と琉斗ということになる。

ともなれば、やはり犯人は敢えて自分の身代わりを用意して操ることで自身の殺人計画を実行したのだろう。極めて卑劣で外道な犯行だ。

僕は、NINEを開いて渚と康太にもツイートのURLを共有した。

『やっぱり遠藤が爆破予告送ってたっぽいけど、本田と一緒で犯人から脅されてたみたい』

というメッセージを添えて送信ボタンを押す。

スマホの左上に目を移すと、五時三十一分と表示されいた。さすがにもう寝よう。スマホのブルーライトの影響で目が疲れてしまったので一旦スマホをそばにある充電コードに接続して、布団に包まった。

ダメだ。スマホの明かりで脳が覚醒してしまっている。まずい。これではさらに眠れない。目を閉じて夢の中へと無理やり足を運ぼうとするが、そうするほど余計に寝付けない。何もない天井をじっと見つめていても眼を閉じてもただ空虚感に襲われるだけなので、もう一度スマホに手を伸ばし、気晴らしにユーチューブを開いた。

眠れない夜はお笑い芸人のラジオの切り抜きを聞くので、あなたへのおすすめに出てきた最近話題のコンビである『のらりくらり』のラジオの切り抜き動画を押して睡眠BGMにする。

スマホを改めて傍らに置いてそっと目を閉じる。

「えー、リスナーさんからね、たくさんのメール頂いております。本当にありがとうございます」

独特の関西訛りが心を落ち着かせてくれる。

「ラジオネームのりお26歳さんからです」

「ほお、のりおさんありがとうございます」

「えー僕には彼女がいて、現在付き合って七ヶ月ぐらいになるのですが、先日ショッピングモールに大学時代の友達と遊びに行った際に彼女と偶然鉢合わせました。ですが、それに喜んだのも束の間、隣には誰だか知らない長身のイケメン男性がいました。嘘だろ…浮気していたのかと思ったのですが、彼女から『この人私のお兄ちゃん』と言われ、ホッとしました。」

自然と脳裏に遠藤と本屋で鉢合わせたあの時のことが思い浮かび、眠るどころか、よりスマホに耳を傾けてしまう。

「しかし、その後ろから彼女のお父さんとお母さんが歩いてきて、まさかの初対面が、ショッピングモールご挨拶になってしまったので冷汗が止まらなかったです。お二人も最近ヒヤッとした、またはドキッとした出来事って何かありますか。ということなんですけど、ショッピングモールご挨拶は、嫌やなぁ」

やはり誰でも目の前の情報を信じてしまい、勘違いしてしまうものなんんだろうか。遠藤と僕が映っている写真を見た渚もそうだったのかもしれないなと、ふと思った。彼女は当初、ただただ事実確認もせずに僕に別れを告げたし、僕から浮気されていると思った時点で信用をなくして、僕に失望して話すらもしてくれなかったんじゃないだろうか。安直と言えば安直だが、この投稿主のエピソードを聞いて何となくそう思った。

しかし、犯人はなぜ渚と僕の中を引き裂きたかったんだろうか。

なんでそんなことする必要があったのだろうか。もし僕と渚の仲を引き裂きたいんだったら、琉斗なんかではなく僕を脅せばいいはずだ。そちらの方が手っ取り早い。犯人の思惑どおり、僕も渚も浮気疑惑で別れさせられたものの、僕らへは爆破事件以外で物理的な危害は加えてこない。

僕らに恨みがあるんだったら復縁した今、圧をかけてくるはずだ。

まだこれから送られてくる可能性も否めないが、アカウントは既に警察の監視下に置かれてしまっている。もし僕らを落とし込むならその前に僕らを脅迫しておくべきだ。なんならそれを犯行計画に入れるべきだ。なのにそれらをしてくる気配はない。本当に何が目的なんだ。まるで闇の中をさまよっている気分に陥りそうだった。僕は脳みそを休憩させるため、考えるの一旦やめた。

ベッドから立ち上がり、動画を止めて一階のリビングルームまで下りる。幸いにも姉はソファで寝ておらず、部屋で寝ているようだったので、ふかふかのソファに身を委ねるようにして横たわった。

カーテンの隙間からわずかな光が差し込んでいた。もう朝日が昇っているのがわかる。

静かなのもなんなのでリモコンに手を伸ばしテレビの電源をつけた。

いつもの朝の情報番組が映り、なんだか心が落ち着いた。今まで映画のようなバイオレンスな世界に放り投げられていた感覚がずっとあったのでなんとなく事件が起きる前の“平穏な日常”を思い出すことができた。

やがてニュースのコーナーに移り、僕はそれを睡眠用BGMのように垂れ流しの状態にして目を瞑った。五分ほど目を閉じていると自然に“夢の中の平穏”へと導かれていった。



午後一時十三分



目が覚めると、のどの渇きがひどかったので真っ先に冷蔵庫の方へと歩いた。中からオレンジジュースの紙パックを取り出し、コップに注いで一気に流し込む。食パンを取り出していちごジャムを塗り、テレビの前のローデスクに運んだ。

両親はすでに仕事で出ていて、家には僕と姉しかいなかった。二階から物音がするので姉がいるのがわかる。

あ、やべっ。大事なことを思い出した。僕は定例会議と題して午後三時から康太と事件に関する意見交換をすることを約束していたのだ。お互いできるだけ最新情報を多く持ち合わせて実験に関して議論する。ただそれだけだ。外に出れない今、単なる暇つぶしとしては丁度良かった。約束の時間までまだ時間はあるが、意見交換のために様々な情報を集めておかねばならない。

ローテーブルの上に置いておいたスマホを取って、Twitterを開く。ネット記事などはある程度見きっていたので、材料として残っているのはSNSぐらいだった。しかし、検索をかけてみたものの大した情報は得られなかった。そこに書かれていたのは“犯人をまだ逮捕できていない警察の無能さが出てる”とか“俺が捜査したほうが早い”などのツイートばかりであった。

中には逮捕された琉斗が過去にしてきた悪行の数々を晒している者もいた。一体誰の仕業だ。

ネットの意見というのは、なんてこう浅ましく、滑稽なんだろう。見てるこちらが恥ずかしくなってくる。

ふとNINEを開くと、一年一組のグループチャットに有働がファックスを学校の生徒が送ってたことに関するツイートを見つけてきたらしく、『これってやっぱ遠藤華凛だよな?』というメッセージが添えられていた。このクラスチャットに遠藤がいないからこそ、できる話だ。

あまりこういったところで個人を祭り上げるような発言はあまりよろしくない。

有働の行動はあまり良い行動ではなかったが、みんなはそれに対して満場一致で『間違いないな』『だね』と返信していた。しかし一方で『他にもこの中で犯人らしきアカウントに脅迫された人はいない?みんな大丈夫?』と学級委員の松田は相変わらず周囲に気を配っていた。流石は我がクラスのリーダーだ。

皆が現在掴めている情報は一年一組の生徒が立て続けに犯人から脅迫されていたことが浮き彫りになったこと、それに伴い犯人はやはり学校の中にいるということだ。職員室が主に狙われた場所であることから考えて学校の先生とは考えにくかった。だとすれば、犯人は生徒の中にいるということだ。というのもそういった考えに行きついてしまう原因は盗聴器の件だった。

どうやって僕らのバッグの中に盗聴器を仕込んだのだろうかという疑問、それだけがずっと頭を巡っていた。

バックの側面の布地の裏に仕込むという行為は、学校に来てそう簡単にできることではない。

誰かが自分のバッグを触ってなんかしていたら、例え康太のような友達が触っていたとしても、なにしてるんだと少し警戒しまう。

それに一旦布地を切って裁縫しないとそんな場所に仕込むことなんてできない。

そんなことは学校に来て、地道にやってもできることではない。人の目もあるし、不審な行動をしていたら誰かが気に留めるはずだ。だとすれば、僕らが教室に不在の時、恐らく僕らのクラスが移動教室の時なんかに仕掛けられたのだろう。だとしても、授業中の五十分間で全員のバッグにそんな細工を施せるとは思えない。

とすれば、他クラスの生徒だろうか。

また闇の中をさまよっているような感覚に襲われ、一旦リセットするためにオレンジジュースをコップに注いで喉に流し込んだ。

空気の入れ替えをするために立ち上がって窓を開けていく。快適な風が部屋の中に入ってきて頭を冷やしてくれているようで心地が良かった。レースカーテンがまるで踊っているように揺れていた。一度深呼吸をして、仕切り直す。もう一度ソファに戻って考え直そう。

ソファの方に歩いた瞬間、なんとなくオレンジジュースの紙パックに目線を移した。そのときに、ふとあることが頭をよぎり、冷静にその時のことを思い出す。

康太のスクールバッグ…。

僕はハッと胸を突き刺された気分になり、急いでスマホを取って康太のトーク画面を開き、通話ボタンを押した。

心とは裏腹にそうすぐには康太も出てくれず、着信音が無情にも耳元に響いてくる。

頼む、出てくれ。

「もしもし」

康太の声が聞こえてきて、さらにエンジンがかかる。

「あ、康太」

約束の時間よりも早く電話してしまったこともあってか、康太は驚いている様子だった。

「この前話してただろ。いつ犯人が盗聴器を仕込んだかって。あれ、わかったぞ」

「は?どうせまた篠原の妄想だろ」

相変わらず僕を馬鹿にしてきたので、そう言っていられるのも今のうちだと念を押す。

「よほどの自信だな」

「なぁ、覚えてるか?入学式から一週間ぐらいした時にお前が牛乳こぼして遅れそうになった時のこと」

「あーうん、覚えてるよ。バッグにシミついてたけど放課後には取れてた話だろ。この前も学校に行くときに話してたじゃんか。それが何なんだよ」

「そう。あのときシミは自然に消えたんじゃなかったんだよ。単にバッグそのものが取り換えられたんだ」

「は…?どうやって」

「あの日、体育の授業があったんだよ」

僕はその日のことを鮮明に覚えている。朝に康太といつもの交差点で待ち合わせた時、バックの外側の側面には薄っすらと白く、牛乳のシミができていた。『入学早々に新品のバッグを汚すとか親が泣くぞ』なんて冗談を言っていたが、放課後にはそのシミがいつの間にか取れていたのだ。時間の経過とともに消えたんだろと康太と話していたが、体育の時間に盗聴器を仕込んだバッグと取り換えたんだ。シミの加減も、誰かに指摘されなければあまり気づかないぐらいのものだったので、犯人もそれに気づかず、知らぬ間に、僕らにヒントを残してしまったのだろう。

「俺らはいつも教室で着替えて女子はB棟の使われてない空き教室で着替えるだろ?あの日に、俺らが体育の授業受けてる隙に入られたんだよ」

「確かに…あり得なくもない話だな…」

康太はそう言って五秒ほど黙り込んだ。頭の中で必死に僕の話を整理しているのだろう。

「でも流石にそんなやつがいたら、二組の奴らとかが不審に思って犯人に気づくんじゃねえのか?物音とかするだろ」

「いやその時間、二組は音楽の授業があって音楽室に移動してたんだ。だから教室にはいなかった」

そう。だから、犯人が教室に入り込んだとしても怪しまれにくい。それに授業中に入ったともなれば尚更だ。音をあまり立てないようにすれば、教室で授業を受けていた三組の生徒からすれば、さほど気にならないだろう。それにB棟の女子更衣室兼物置部屋と化している教室も、対面しているA棟側から着替えているところを見えないようにするためにカーテンを閉め切っているのだ。つまり、こうすることでA棟側からバックをすり替えている様子は見えない。

僕は康太にこの話の本題の質問を投げかけた。

「その時間帯に誰にも怪しまれずに学校内を動けるのは、誰だ」

スマホにはサーというホワイトノイズだけが聞こえてくる。康太は話を整理して、じっくり考えていた。

そして、重々しそうにその口を開いた。

「その時間、授業がない先生…」

「そういうことだ」しかし康太は自身の発言を撤回するように僕に言った。

「いやいやいや…流石にありえないだろ。じゃあなんで職員室なんか狙うんだよ。自分も爆発に巻き込まれるだろ」

「無傷の先生がいただろ?」

康太は核心を突かれたと言わんばかりに黙り込んだ。

「まじかよ…。嘘だろ…そんな…」

その声色から彼が動揺しているのがわかる。これで犯人特定にまた一歩近づける。この一歩は実に大きい一歩となった。暇つぶしと思ってやっていた定例会議も無駄ではなかった。早速渚にも報告しよう。スマホを手に取り、渚とのトークを開いたその時だった。

「え⁉」

二階にいた姉が突然なにかに驚いたような声を発した。何事かと思い、「すまん、康太。ちょっと待っててくれ」と康太との話を一時中断すると、姉は階段を慌てて降りてきて、リビングのドアを開けた。

「壮太…これ…」

姉は僕にスマホの画面を見せてきた。まさか犯人が新たにアカウントを作って姉になにか送りつけてきたのか、先ほどのヒステリックな姉の声からそんな考えがふと過ったが外れていた。

スマホの画面を見ると、何かのサイトが表示されていた。

写真が添付されていたのでそれに注目すると、そこには辺り一面に生い茂っているたくさんの木々や草が映し出されていて、その中には複数人の警察の姿があった。

何かのニュース記事だろうか。写真の下に綴られていた文章に目線を落とすと『福岡県早川市の山奥で死体発見』という見出しだった。早川市は車でここから五十分ほどのところにあり、辺りは山々に囲まれていて自然豊かな町並みが広がっているところだ。

確かにそんなところで犯罪があったとされれば恐ろしいなとは思うが、決してそんなことを言ってほしくて僕にわざわざ記事を見せてきたのではないことは容易にわかる。

「これ見て」

見出しの文の下にはそれに関する詳細な事が書かれていた。そしてその文を下から上にスクロールして読んだとき、途端に背筋が凍りつく。

“警察が遺体の身元を調べたところ、被害者は宮島聖也さん(24)であることが判明した”

宮島…。

姉がこの名前を見て驚いたのだとすぐにわかった。『琉斗と同じ苗字だね』なんて流暢なことを言っていられないのは僕でもわかる。、

「これって…」

「琉斗君の…お兄ちゃんだよ」

僕は絶句した。

嘘だろ……。

琉斗の兄も日野ヶ丘高出身だったのは過去に何度か耳にしたことがあった。

姉たちの一個下の学年で彼もまた日野ヶ丘高校の生徒だった。今の琉斗よりもタチが悪い行いをしていたようで、ゲームセンターで他校の生徒を恐喝し、逆らう者にはご自慢の拳で殴る蹴るの暴行を加え、警察沙汰になったこともある人物だったと。

とすれば、宮島聖也を殺した犯人は、必然的に爆破事件の犯人と同一人物と考えるのが妥当だろう。

しかし考えられるのは、琉斗が警察に話したことで、犯人との約束を破ったことから殺されてしまったのではないかということだ。琉斗も脅迫された時に本田や遠藤のように他言するなと言われていたはずだ。

「“被害者の知人が、一緒に食事をする約束をしていたが、待ち合わせ時間になっても一向に来ず、家にも伺ってみたが、灯りはついておらず、連絡も取れなくなっていたため不審に思い、警察に通報し捜索届を出したところ、被害者は早川市にある山の中で遺体となって発見された”って」

「いつ、殺されたの…?」

「わからない。ここには——書かれてないみたい」

「どうしたんだ?」とスマホから康太の声が聞こえてきた。

康太にも琉斗の兄が遺体で発見されたという一報を共有する。

「本当にうちの先生がこんなことやったのか…。それなのに平然と俺らと一緒にあの学校にいたのかよ…」

康太は目の前の現実を受け入れられない様子だった。それは僕も全く同じだった。

完全な計画的犯行。それに脅した生徒の家族にまでも手を出した。ここまでの犯行ともなると、犯人に対する恐怖心が一層心の中で増幅していく。犯人は、爆弾で多くの先生を殺した上にもう一人殺したのだ。

流石に多くの人を無残に殺しすぎている。やはりこのタイミングで殺されたなら、琉斗が犯人との“約束”を破ったからだと考えるのが妥当だろう。だとしたら、本田や遠藤の家族もまずいんじゃ……。

そして、僕が渚にそのことを伝えるためにメールをしようと思ったその時だった。

途端に僕のスマホが振動した。

三回ほど振動したのでホーム画面に戻るとNINEに五件ほどメールが届いていた。誰だと思い、再びNINEを開く。そのメッセージの主は渚だった。

何事だと思い、トークを開くと

『壮太、やばい』

『これ見て』

三通目に動画が送られていた。あとの二つのメッセージには、僕にメールを送ったことにいち早く気付いてほしくてスタンプを連打しようとしたのか、同じNINEのスタンプを二つほど送ってきていた。僕がトークを開いて既読になったことを察して送信はやめたのだろう。

渚も琉斗の兄が遺体で発見されたニュースを知って連絡してきたのかと思ったが、それは違うことがすぐさまわかる。

送られてきた動画をタップして再生させた。

動画に映し出された場所は非常に薄暗く、動画が撮影されているその場所がどこなのかわからない。

何の動画なんだろうか。

「おい、騒ぐな!」

急に男の声が聞こえてきた。少し声が耳元で叫ばれているように大きかったので、恐らくその男がスマホを持って撮影しているのだと察する。

「ごめんなさい…。ごめんなさい…」

女性と思しき声がどこからか聞こえてくる。気味の悪い動画だ。

「なにそれ」

姉が僕の方を気にして聞いてきた。

「これ」

僕は嫌な予感がして姉にも動画を見せた。

急に僕と姉が康太のことを放っておいて話し始めたのを察して康太が「どうした?なんかあったか」と聞いてきたので康太にも動画を転送し、動画を見るように伝えた。姉は僕が康太と通話していることを察して、電話越しに「おう、康太」と言って軽く挨拶した。

もう一度動画を再生させる。姉も状況を飲み込めていない様子だったが、女性の声で姉も眉間に皺を寄せて動画に見入っていた。

そして暗がりの中に映ったその女性のシルエットが薄っすらと姿を現した。その女性は椅子に座っていて腕を後ろに回していた。いや、後ろに回しているというよりも腕を後ろで拘束されているようだった。顔を下に向けてごめんなさいという言葉を、涙をこぼしながら繰り返している。

徐々に動画を撮っている男がその女性に近づいて行くと、その女性が誰なのかすぐに分かった。

それは、本田だった。

「本田だ…。康太!本田が犯人に誘拐されてる!」

「は⁉」

動画に見入ると本田はロープで手と足を縛られ、椅子に体を括りつけられていて身動きが取れない状態でいた。

すると、その画面には微かに銀色の何かが映った。一瞬何かわからなかったが、撮影している男がライトをつけて明るくしたことで、それが何かわかる。その男は手に刃物を持っていたのだ。

やばい…。これは本当にやばい…。本田が…本田が殺されてしまう。やり場のない焦燥感に駆られ、気づけば僕の手は大量の手汗で湿っていた。

心臓の鼓動がより一層早くなる。

「おい、一年一組のお前ら!」

男の声に反応し、反射的に体が驚いてしまった。

そして、男はそう叫びながら本田の首元にナイフを当てた。ハアッ…ハアッ…という息遣いをしていて興奮状態であることがわかる。

しかしその声をよく聞くと、聞き覚えのあるような声だった。その時、僕の心の中でその男に対して持っていた信頼がまるで積み上げたジェンガの塔が倒れてバラバラになるように崩壊していった。

そうか。やっぱりあなたが犯人だったのか。

目の前の映像の中でその人はクラスメイトにナイフを向けているのか。本当に?目をこすってもう一度その映像に目を落とす。

その光景はあまりに受け入れ難い事実だった。

あなたがこの事件の“本当の犯人”だったなんて…。

掃除のときはあんなに場の空気を和ませて笑顔にしてたじゃないか。間違ったことを言えばその生徒を叱ってくれて、その子をちゃんと正しい道に歩ませようとしていたじゃないか。それにいつも生徒思いでみんなから信頼されていたのに。そんなあなたがなぜこんなことを…。

その声の主は——

一年一組の副担任であり、僕の班の掃除顧問である体育教師の佐々木先生だった。

困惑しながらも何とか話を整理するために過去を想起する。僕と康太がさっきまで話していたスクールバッグの件に関して言えば、あの日の体育は確か佐々木先生は出張が入っていたとかで学校に来ていなかった。体育の最初の授業で代理の先生がそんなことを言っていたような気がする。それにあれだけの身体能力があれば、瞬時にバッグを取り換えることなど可能だろう。それにどうやって鍵を手に入れたのか。それは、ある程度検討がついていた。移動教室などの時は学級委員が戸締りをしなければいけない。故に体育の授業では、女子更衣室の鍵は、松田。

男子更衣室である教室は、副学級委員の後藤が管理していて体育館に持ち込まれるのだ。だから、盗まれるはずはないのだが、日野ヶ丘高校の一つ一つの教室には、鍵を失くしてしまった時のためにあらかじめ、スペアキーが職員室にあるのだ。流石の僕もどこにあるのかは知らないが先生の立場にある佐々木先生からすれば盗むことなど容易だろう。出張と偽って前日に僕らが使う教室のスペアキーを盗み、侵入した。そしてスクールバックをすり替えたのだ。

「明日の午前三時に一年一組の教室に来い!お前ら以外の誰かにこのことを話したり、学校に部外者や警察を呼べば、本田みきを殺す。時間厳守だ。誰か一人でも間に合わなかったとしてもこいつを殺す!俺は本気だ!」

佐々木先生はさらに力強く本田の首元にナイフを押し付けたところで、動画は終わった。

あまりの映像に僕と姉は言葉が出なかった。部屋の中が静寂に包まれる。

「おい、これって…」

康太の声だけが部屋の中に響き、僕も気持ちを整理して康太に返す。

「やっぱりそうだった…。佐々木先生だったんだ」

「え…さっきのってあんたらの学校の先生なの?」

うんと僕は頷いて返すと、姉は唖然としていた。

「あんたたち、もしかして行くつもりじゃ…ないわよね?」

「行かなきゃだめだろ…」

すると姉はローテーブルを思いっきり叩いて僕の方を睨みつけた。

「ダメに決まってんでしょ!あんたたちを死なせに行かせるようなもんじゃない!」

姉がそんなに怒鳴ってくるとは思わなかったので僕は驚いた。行ってほしくない気持ちはわかる。僕が姉の立場なら止める。だけど——

「これで俺たちが行かなかったらクラスメイトが殺されるんだ!俺らからしたら行かないことが友達を殺すようなもんなんだよ!」

僕もまた張り合うようにして姉に怒鳴ると、姉は黙り込んでしまった。確かにいけば何が起こるかわからないし、危険なのはわかる。僕らだって危害を加えられるかもしれない。だけど、行かないと。行かないと一人の人間が殺されるんだ。

佐々木先生は爆弾も仕掛けて、琉斗の兄まで殺したんだ。もし行かなければ、本当に本田を殺すだろう。

「俺は行かない」

スマホからその声が聞こえてきて僕は思わず目を落とす。

「何言ってんだよ…。行かなきゃ本田が殺されるんだぞ!」

「なんで行っちゃダメってわかんねぇんだよ‼」

突然康太は声を荒げてそう言った。

「なんで佐々木先生が俺らを呼び出してんだ。なんで人気がない時間帯を選ぶんだよ。俺ら全員を殺すつもりだからじゃないのか!」

僕は咄嗟にそれに返すことはできなかった。康太の言うことは確かに的を射ているからだ。僕にもなんで佐々木先生が一年一組の生徒を呼び出しているのかはわからない。しかし、僕たちも殺されるからと言って一人の命を見過ごしていい理由にはならない。これは犯人との駆け引きに過ぎないんだ。

「本田が殺されて罪悪感を背負ったまま一生を生きていくのと佐々木先生のところに行って生きるか死ぬかの駆け引きをするの、どっちが最善な選択なのかくらいわかるだろ」

僕は間違ったことは言ってないように思える。ここでじっと事の顛末を待つよりも犯人である佐々木先生の言うことに従って本田が生存する道を選んだ方がいい。

カーテンがふわりと浮いて戦慄した雰囲気を落ち着かせるように心地よい風が入ってくる。

「多分だけどさ、俺ら一年一組のことは殺さないと思うんだ」

「なんでそんなことが言えんだよ」

これは僕の中で本田を助けられると思う最大の根拠だった。

「殺すんだとしたら、なんでこんな手間のかかることするんだよ。爆発した日は俺ら普通に学校でいつも通りの生活を送ってたんだ。だるそうにしていて、爆弾が仕掛けられてるなんて思ってない。普通の日常だった。なのにあのタイミングで俺らを殺さず、先生たちを殺すことを選んだんだ。明らかに気の抜けてる俺らを殺すことだって可能なはずだし、なんなら盗聴器のことだって知らなかったんだ。なのにわざわざこんな風にするなんてなんか理由があるはずだ」

一向に引く気のない僕になくなく同調してくれたのか、

「はぁ……わかった。もうわかったよ。どうせ折れるつもりなんてないんだろ?お前が行くなら俺も行かないとな」

ちょっと康太!と意見を裏返してしまった康太に姉は驚いて、ため息をついた。明らかに呆れているようだった。

「あーもう…しょうがないわね……。あんたたち、今のうちに準備しときな。夜になってやってたら怪しまれるよ。ただでさえ壮太は怒られて警戒されてんだから」

姉も仕方ないと踏んで僕らの行動を許してくれた。


僕は康太と何を持っていくか話し合いながら決め、何かしらの武器を持っていくことにした。

佐々木先生が持っていたのは刃物だった。海外映画のように銃を持っていたら何かと面倒だが、ナイフともなれば何か鈍器でも持っていけば僕らも対抗できるだろう。そう踏んで押し入れの奥にしまっていた金属バッドを使うことにした。小学生の時、何かといろんなスポーツをして遊んでいたので、サッカーボールやバトミントンラケット、野球のグローブなど諸々のスポーツの道具は揃っていた。最近はなかなかそれらを使って遊ぶことはしていなかったが、懐かしい思い出の品となりつつあるそれらが、まさか人と対峙するための武器として使うことになるなんて思いもしてなかった。

康太の意見を取り入れ、一応野球ボールも持っていくことにした。野球の球を正確に投げることはできないので、なんとかして野球部の佐藤や木原にでも投げてもらえれば、本田の救出を行うことができるかもしれない。とりあえず僕らの最優先事項は本田の救出だ。それさえ出来れば、襲いかかって取り押さえることができる。体育教師である佐々木先生であったとしても男子全員で襲われてはさすがに抵抗できないと思う。

僕は普段メールしない有働に野球ボールを持ってくるように一応メールした。

すぐさま『おっけ』と返ってきて、渚にも僕らが勿論本田のもとに行く意思を伝え、何か護身用に武器を持っていくように伝えた。

僕は康太と電話しながら道具をリュックの中に詰め込んでいった。

時間が経つにつれて自然と心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。これから殺人犯に会うのだ。僕も生徒は殺されないと言った反面、実際どうなるかなんてのはわからない。しかし、みんなの意思は一緒だ。一人の命を助ける。ただそれだけだ。警察や親に相談できない今、僕たちだけでなんとかするしかない。

時計の針は無情に進み、やがて夕方になって両親が帰ってきた。怪しい素振りを見せないよう、できるだけいつも通りの自然体の自分を演出した。

やはり決戦の時に備えてなのかいつも以上にNINEの通知が来ていたので、お母さんは「みんな不安なのね、可哀そうに」と気にかけてきたので、こんなことで変に勘づかれたりでもしたら元も子もないと思い、スマホの通知音が鳴らないようにし、できるだけ、スマホのメールは定期的にチェックすることにした。

十二時になって親が二階の寝室へと移動したことを確認して普段通りの表情を作っていたので顔がやけに疲れていた。親が就寝したことを確認し、外に出れるチャンスができたらメールを送るように康太と約束していたので、一時になって二階へと上がる。寝室のドアの前にそっと立ち、中からの音を確認するために耳をドアに当てると、一定の間隔で息を吸って吐いている音が聞こえてきたので親が眠りについたことを察した。僕はすかさず、康太にメールを送り、こちらの準備が整ったことを伝える。『まだ待て』と送られてきて、二十分後に『大丈夫、親寝たわ』と送られてきたので、既読にしてそっと自室のドアを開ける。用意していたリュックを背負って、音をたてないように階段を忍び足で、慎重に下りていった。

リビングのドアを開けて、姉にもう出ていくことを伝える。

「本当に気を付けてね」

と言って姉は僕を強く抱きしめた。下手したらこれで顔を合わせるのも最後という可能性もある。普段こんなことは断じてしないが僕も姉の体をそっと包み込み、「絶対生きて帰ってくる」と言って僕は靴を履いた。

姉は、我が子を見送る母親のように不安そうに僕の顔を見ていた。

「それじゃ」

と言って親が起きないようにそっとドアを開け、ゆっくりと閉めた。

本当にまたこの家に帰ってこれるのだろうか。姉や両親の顔をまた見れるのだろうか、平穏な生活に戻れるのだろうか、心が不安という名の霧に包まれながら玄関のドアをじっと見つめた。

そして僕は負の感情を体内から出すように深呼吸をして腹を括った。




自転車に乗って交差点まで行くと、人影が見えた。近づいていくとそれは康太だとすぐにわかる。久しぶり親友との再会がこんなことになるなんて、皮肉なものだ。

不思議にも、なんだか康太の体格がいつもよりでかく感じた。

「その体どうした」

「キャッチャーが試合でつけてるプロテクターだよ。なにがあるかわからねえだろ?」

なるほど。その手があったか。あいにく僕の家には防弾チョッキじみたものがなかったので、もし佐々木先生からナイフで胴体を刺されたら危ない。僕がやられそうになったら康太を身代わりにしよう。腹の中でそう決めて「お前流石だな」と後で康太に助けてもらえる代わりにお膳立てをした。友よ、申し訳ない。

僕たちは出発する前に予め、比較的関わりのある班の人間である有働や渚、木原、桜や吉原などにもこっちの準備が整ったことを伝えた。

桜と渚はもう既に合流して日野ヶ丘高校に一足先に向かっているようだった。

時刻は午前一時四十二分。

動き出すには少し早いんじゃないか。流石に他に動き出している人間はいないだろう。NINEを送ってもそれから返信がなかったので少し心配になり、自転車を走らせることにする。

自転車のペダルがいつも以上に重々しく感じた。

康太もいつもより背を伸ばしながら自転車を漕いでいた。

緊迫した空気の中にあったため、自転車を進ませている最中は自然と何も言葉を発さなかった。すると、康太が唐突に声をかけてきた。

「なぁ、篠原」

「ん?」

「なんでこんなことするんだろうな。佐々木先生は」

康太は空を見上げながらそう言った。その声は怒りに満ちているというよりも、なんであんなにいい人がこんなことをするんだろうかと少し悲し気だった。

「犯罪者のやることはよく分からねえよ。頭がおかしくなるようなことがあったから、こんなことするんだろうしな」

「奥さんも子供もいるらしいぜ?人間の考えることなんて分からねえもんだな」

「そりゃそうだよ、渚の気持ちだってわかんないんだからさ」

冗談っぽく言うと康太は虚空を見つめて何かを思い出したように少し笑った。

「お前も本当可哀そうだよな。遠藤との浮気疑われるなんてな」

「本当だよ。人助けしただけなのにな」

蝉の声がどこかから聞こえてくる。本当に事件なんて起こったのかと感じるほど深夜の水野は閑散としていた。人気もなく、ただ空しく街灯が立ち尽くして僕らの行く先を照らしているかのようだった。

太ももで振動が鳴る。ズボンのポケットにしまっていたスマホに誰かからメールがきたのだ。誰からだろうかとスマホを取り出して確認する。

渚からメッセージだ。

『学校についたけど、まだ誰もいないみたい』

流石に早すぎるだろ。

まずい。もし佐々木先生がもう学校にいたら、僕らが向かっている最中に渚が人質に取られてしまう可能性がある。僕は途端に不安に駆られ、サドルから体を立たせて前傾姿勢になり、ペダルを漕ぐスピードを速める。

「康太、急ぐぞ」

夜の日野ヶ丘高校は廃校舎のように空しく佇んでいる。まるでお化け屋敷のようだった。門は閉じられ、職員室の正面玄関のガラス扉は爆発のせいでものの見事に割られていて、映画で見るような“KEEP OUT 立ち入り禁止”の黄色のテープが張られていた。

僕と康太は警察や民間人がいないか周囲を確認する。流石にこの時間帯にうろついている民間人はいないだろうが、念のため必要だ。これで誰かに見られでもして警察に通報されれば、約束を破った罰として本田を殺すかもしれない。こういったことは気にかけてやっておかねば。

「おい、お前ら」

一瞬心臓が止まりそうになる。誰だ。学校周辺に家は五、六軒ほど建ち並んでいるが、明かりが灯っているところはない。寝静まっているようだが、誰か家から出てきたのだろうか。周囲を見渡しても人がいる気配はない。

「有働と木原だ」

康太は指をさしてそう言った。その方向を見ると、学校を囲っている柵の隣に立派に立ち尽くしている一本の木の陰から二人の人影が見えた。その二人がこちらへと歩いて近づいてくる。

よく目を凝らしてみるとその人物が同級生の木原と有働であることが分かる。肩の力が抜け、安堵する。木原も僕らと同じようにリュックを背負っていて、その中から金属バットのグリップが出ていた。

有働はなぜかサッカーボールを持ってきていたが、家に武器となる道具がなかったらしく手ぶらなのもなんだからと、持って来たらしい。

「みんな準備いいか」

有働の言葉で一層気が引き締まる。

「大丈夫」

康太に続いて僕も頷いた。

「行こう」




木原の提案で、校門の前に僕と康太の自転車を置き、自転車の荷台の上に立ち、そこから校門に手をかけてのり越え、中に入っていくことになった。「校門の前に自転車を残しておけば、身長が低い子でも入りやすくなるよ」というその一言で、僕は木原の冷静かつ良い判断に思わず感心した。そういえば、僕と康太は、木原と知り合ってたった半年しか経っていない。そんな一面があったことはこの時初めて知った。いつも有働と騒いでいて赤点をギリギリで回避している不真面目な奴という印象を持っていたが、こういった時に頼もしく役に立つことも、爆発したときにみんなに「逃げろ!」と叫んでいたのも木原だった。今回の事件で見えない人の姿が垣間見えてきた。しかし逆に言えば、それほど知り合って間もない期間にこんなことに僕らは巻き込まれてしまったのだ。全く不運な世代だ。

僕らは近隣住民に気付かれることなく、学校内に侵入することができた。

そして職員室の正面玄関から、立ち入り禁止の黄色のテープをくぐり抜けて校舎の中へと入った。当然、照明なんかは灯っておらず、学校の中は暗く、視界が悪かった。全員でスマホの明かりをつけて廊下を照らした。床に目を落とすとガラスの破片や壁の欠片などが無数に散らばっている。生々しい事件の残骸が虚しく残っていた。被害に遭った職員室の方に目をやると扉がなくなっており、爆発で黒焦げになっていることもあってか、一層その場所は暗く重々しい雰囲気が漂っていた。僕らはそれらを横目に、先に進もうとしたその時だった。職員室前廊下の奥の方からガラスの破片が踏まれるような音が聞こえてきた。

僕らは顔を見合わせて、奥の方を凝視した。

「何か見えるか?」

「いや…なにも」

暗闇の先をスマホのライトで照らしたが、そこには誰もいなかった。気のせいだろうか。

「風のせいだろ。窓も全部割れてるし」

木原のその言葉を皮切りに僕らは前を向いて職員室のあるB棟からA棟に続く廊下を真っ直ぐ歩く。慎重に前へ前へと進んでいき、階段へ足をかけた。

「有働と木原、後ろ警戒しとけよ」

僕の隣を歩いていた康太が言った。気づけば、佐々木先生を警戒して木原はリュックの中から金属バットを取り出し、剣道の竹刀のようにして構えていた。有働は何もできないのを気遣うようにして後方をスマホのライトで照らしていた。

僕らも用意していた金属バットを取り出して、スマホを片手に持ち、辺りを照らしながら前へ進んだ。

ゆっくりと足元を確認しながら進んでいく。何とか二階に到着した。一階から二階に上がるだけでこんなにも神経を使うとは。少し息を整えてさらに階段を上がっていく。三階までの道のりがあまりに長く感じる。まだか。まだなのか。慎重に足を進めていき、三階への最後の段を上ったところで壁に背中をつける。たどり着いた。まだ安心してはいけない。どこかから佐々木先生が出てくるかもしれない。ここからが大事だ。この曲がり角を曲がったら奴がいるかもしれない。僕の行動に倣い、康太、有働、木原も体を壁に沿わせる。妙に体力を使ったことや緊張感もあり、少し呼吸が早くなる。

「誰かいるの?」

急に女子の声が聞こえてくる。しかしその声を聞いて肩の力が抜けた。

念のため慎重に角から覗くと、そこに立っていたのは渚と桜だった。

「壮太!」

渚も少し安堵の表情を見せていた。

康太が本題に入る。

「本田は?」

「まだ来てない」

約束の時間になってから現れるつもりなんだろうか。しかし、ひとまずは落ち着くことができる。僕は来る途中に自販機で買った水をあけて、のどを潤した。

「とりあえず教室に入ろう」

僕らは渚と桜の後ろをついて行き、教室の中へと入った。

「懐中電灯持ってる?」

桜からそう聞かれたので、僕はリュックを宮島の席に置いてリュックの中から懐中電灯を取り出した。

「なんで?」

有働は聞いた。

「教室の電気つけてたら流石に近隣の人にバレるでしょ?だからそうならないように一旦カーテン閉めて、懐中電灯をつけようってこと」

桜と有働はカーテンを閉めて、僕の懐中電灯と木原が持っていた懐中電灯で教室内を照らした。

「他に来てる人はいないの?」

「いない。私たちが一番乗り」

その時、誰かの足音が聞こえてきた。僕と康太は金属バットを持って構える。

ゆっくりと慎重に廊下の方を覗くと

「田浦か…」

僕の席がある列の前から二番目の席の田浦野乃花だった。

あまり彼女とのかかわりはないが、女子の中では結構人気者である。ノリもよくユーモアセンスもあるが毛嫌いしているのか、男子と話しているところはあまり見ない。

そのほかの友達である寺内、橋田、則元、平田、中田も来て教室の中へと迎え入れた。

「ねえ、何が起こってるの?本当に。気がおかしくなりそう」

田浦はあまりの事態に動揺しているようだった。

「落ち着け。大丈夫だから」

「落ち着けるわけないでしょ!先生は殺されるし、みきちゃんは佐々木先生に捕まってるし、盗聴器は仕掛けられてたし!意味わからないでしょ!」

田浦は涙ぐみながら、そう僕らに訴えかけた。寺内達が田浦の背中をさすりながら大丈夫、大丈夫だからと落ち着かせる。田浦は、佐々木先生が顧問をしている陸上部に所属していて、スポーツ推薦でこの学校に入学したこともあるので、僕たちよりも佐々木先生と関わりの深い人物だった。取り乱してしまうのも無理はない。ずっと慕っていた、信頼していた人が実は殺人鬼だったら誰だって辛いに決まっている。それは僕たちも同じ気持ちだ。

そしてその後、時計の針が進むにつれて一年一組のクラスメイトがぞろぞろと教室に集まってきた。学級委員の松田も入ってくると、「みんな、出席確認するから出席番号順に座っていって」と皆に言い、それに従って僕らは席に座り、その時を待った。


午前二時四十分


気づけばそんな時間になっていた。近くに佐々木先生がいるように感じる。みんなの緊張感が伝わってくるほど教室は静寂に包まれていた。

三人、四人とさらに入ってきて教室内の席が埋まっていく。僕の前の席である佐々木陽平も来て僕の前に座った。

「あとは…」

松田がそう言うと皆がその席の方に顔を向ける。教室にはあと二つだけ埋まっていない席があった。一つは今逮捕されている宮島琉斗。それは埋まらなくて当然だ。僕らが目を向けたのはそっちではなく、もう一つの席。グラウンド側の端の列の前から四番目。有働の後ろの席である遠藤華凛の席だ。

「こんな時にまで来ないつもりなんじゃ…」

有働がボソッとそんな言葉を呟いて、

「大丈夫よ。もう少し待とう」

松田が遠藤を擁護するように有働に返した。さすがに遠藤もそこまでの人間ではないと思われる。人が一人死んでもいいなんて思っていないはずだ。信じて彼女を待とう。そう思った時だった。

突然、ドンッと大きい音が廊下から聞こえてきた。

「わかった…。一人で歩けるから。押さないで」

みんなが顔を見合わせる。思わず息を吞んだ。いやな予感がしている。みんなが考えていることはわかる。だんだんと足音が近づいてくる。

あいつが来たんだ。

「みき…」

ドアの前に誰かが現れた。暗くてあまり見えないが教壇に立っていた松田がそう言って確信に変わる。その人物は本田だった。

ドアが開いて本田が後ろから押されて教卓の横に倒れた。

「みき!」

松田が本田に駆け寄り、体を起こさせる。僕たちはそれを見て唖然とした。

「全員揃ったか」

その声を聞いて教室の空気が凍りついた気がした。

全員がドアの方に目を向けると、奴はそこに立っていた。興奮状態で顔がやつれていて、生きる気力を失くしてしまっているようだった。そしてその右手には、動画に映っていた通り、ナイフを持っていた。

佐々木先生……。

「松田、全員揃ったか」

目が虚ろになりながら、佐々木先生はそう言った。松田は恐怖心から怯えて何も言葉を発することができないようだった。

佐々木先生は教室全体を見渡すと、

「ほとんど全員揃ってるじゃないか…」

僕はズボンのポケットの中に手を突っ込んだ。ポケットの中に念のため、野球ボールを入れておいたのだ。野球ボールに手をかけて投げる隙ができるの待つ。

しかし、佐々木先生はそう言うと拳を握りしめ、ドアをドンッと思いっきり殴った。

「なぁ、もういいだろ!お前から言われた通りに全部やったんだ!これで十分だろ!」

その音に僕は驚き、反射的に体が跳ねてしまう。

明らかに気が狂っている様子だった。誰に話しかけているんだ。ここまでの犯行を重ねたことによって、おかしくなったのか。内に抑えていた感情が彼の中で爆発してしまったのか。

「まだ付き合ってもらいますよ。佐々木先生」


教室が途端にざわめき始める。

佐々木先生が言ったのかと馬鹿な考えが過ってしまうがそんなはずはなかった。明らかにワントーン高い男性の声。誰だ。佐々木先生の後ろに人影が見えた。暗くてよく見えないが、佐々木先生よりもその人物は、背丈は少々低いようだった。

「佐々木先生は琉斗の席にでも座っていてください」

佐々木先生はそれに従って教室内に入り、廊下側の端の列の一番前の席———琉斗の席に体を預けるように乱雑に座る。

「みんな、久しぶりだね。あの煙の中からよく逃げ切ったよ」

その人物も教室に足を踏み入れ、左足を引きずりながら壇上に登った。僕はその姿を見て、己の目を疑った。見間違えているのかとさえ感じる。やがてだんだんとはっきりその人物の顔が確認できると、心臓をえぐられるような感覚を覚えた。

嘘だろ…。なんで…。なんでこんなところにいるんだ。目の前の現実を受け入れようとしても頭が追い付かない。僕らを助けに来てくれたのか。いや、でも、佐々木先生は彼に怯えているようだった。そんな…。まさか……。

もう一度、教卓に立った彼の顔に目を向ける。

教卓に立ったその人は——

英語教師であり、僕ら一年一組の担任の先生である長谷川先生だった。

「……なんで長谷川先生が」

本田の体を支えていた松田が声を震わせながら言った。みんなは動揺してざわつき始めた。

教室が一層緊張感に包まれる。

そして、本田が涙を啜りながら発した言葉で全てを悟った。

「事件の犯人は…こいつなの。こいつが…先生たちを殺したの」

僕らは困惑し、みんなは席を立ちあがって身構えた。僕と康太は机に立てかけていた金属バットのグリップを強く握りしめて構えた。

その顔は、いつものように明るく、人当たりの良い形相ではなかった。目は虚ろになっており、不気味な笑みを浮かべていた。何かを企んでいるのか、僕らが驚いているのを見て面白がって笑っているのか、その表情からは何も読み取れない。

その不穏な雰囲気がさらに僕らの恐怖心をより一層倍増させた。

「なんで先生がこんなこと…」

松田が言うと長谷川先生は教卓の上をじっと見つめた。

「まあ言わばこれは、道徳の授業みたいなものだよ。単純にみんなに授業をしに来たんだ。休みが続いて暇だっただろ?」

溜息を吐いているかのような草臥れた声だった。意味の分からない彼の発言に気持ちが不安定になる。

自分が何を言っているのかわかってるのか。

ここに至るまでに多くの人を混乱に導いてきた殺人鬼が教壇に立ち、“道徳の授業をする”なんざと、ほざいてるんだ。あんたに人の善悪を語る資格はないだろう。まさに人の振り見て我が振り直せと言いたいところだ。

妙に余裕のある感じの発言が彼の異様さを彷彿とさせ、僕らは圧倒されていた。

「なんかバッドを手に持ってるやつがいるけど俺に危害は加えない方がいい」

そう言うと、長谷川先生はスーツのズボンの中に手を突っ込んだ。何をしているのかとみんなはそれに注目する。ポケットから手を出すと、その手にはボールペンサイズの細長い棒のような物を持っていた。あれは何なんだろうか。しかし次の瞬間、僕らは戦慄した。

「佐々木先生のご家族が死ぬことになる」

長谷川先生が手に持っていたのは細長い棒状の機械だった。棒の先端には赤いボタンのようなものがある。まずい。嫌な予感がする。佐々木先生はこれで脅されたんだ。

「頼む!やめろ!やめてくれ!」

佐々木先生の声が教室に悲しく響き渡る。

「いいか、みんな。一度しか言わないからよく聞いておけよ。俺は佐々木先生のご自宅に爆弾を仕掛けた。そして、その爆弾の起動スイッチがこれだ。もし、俺に何か下手な行動をとれば、俺はその瞬間にこれを押し、爆発させる。いいかい?君たち次第だからね?」

僕らはその言葉で鎖を繋がれたように動けなくなる。僕と康太は金属バットから手を離した。

佐々木先生の家族。前に今年二歳になる娘さんがいて新築の家に住んでいることを微笑ましく授業中に話していた。いわば順風満帆。長谷川先生はそこに漬け込んで佐々木先生を脅したのだろう。もしかしてこれも計画の内だったのだろうか。

「みんな安心しろ。簡単な事だ。お前らが俺に手を出さず、ただ大人しくしとけばいいんだから。俺の指示に従えばいい。まずはみんな自分の席に座れ」

僕は椅子に腰を下ろした。みんなもぞろぞろと黙って席に着いていく。教卓の横で本田の体を支えていた松田も本田を立たせて、背中をさすりながら廊下側の本田の席に連れて行って座らせ、その隣にある自分の席に着いた。

長谷川先生は、みんなの様子を確認するように教室全体を見回し、一度大きく息を吸って吐き、真剣なトーンで話し始めた。

「これが、俺の『最後の授業』になる。心して聞いてくれ」

教室全体が静寂に包まれる。手に持っていた爆弾の起動スイッチをスーツジャケットのポケットにしまった。

「俺が何でみんなをここに呼んだのか。それは、俺が犯行に至った動機をみんなに伝えるためだ」

長谷川先生は僕らに背を向けてチョークを取り、黒板になにかを書き始めた。静寂の中で、ただチョークが黒板に当たるだけ音が響き渡る。身動きが取れない今、僕らはただじっとその様を眺めることしかできなかった。人の家族を人質に取られてしまえば、こちらも何もできない。

長谷川先生は書き終わると、こちらを向いて教卓に戻った。

僕らは黒板に書かれた文字に目をやった。そこに書き記されていたのは“宮島聖也”という文字だった。

「みんなはこの“宮島聖也”という人を知っているかな。まぁ、なんとなく察することもできると思うが、こいつはお前らのクラスメイトである琉斗の兄貴だ。そして俺は、高校生の時こいつにひどくいじめられ、人生をめちゃくちゃにされた。それもこの高校でな」

え……。長谷川先生はこの高校に通っていたのか。長谷川先生の出身校や年齢は知らなかった。宮島聖也の年齢は二十四歳だった。

そうか。そういえば、僕らが入学した時に去年まで大学に通っていたという話を何となくしていたような気がする。康太と『長谷川先生も今年から俺らと一緒のタイミングでこの学校に入ってきたんだな』と話した記憶がある。それを考えれば、今年で二十三歳になる。そして、一方の宮島聖也の年齢は二十四歳だった。

ともなれば、長谷川先生たちの一つ上の学年が宮島聖也たちの学年だったということになるのか。しかし、長谷川先生は確か県内にある通信制の高校に通っていたという話をしていた。あれは嘘だったのだろうか。

「俺がいじめられるきっかけとなったのは、一年生の夏休みの時のことだった。俺は昔から本が好きでな。四六時中、小説や漫画を読むのに没入していた。ある日、俺はいつものように本屋に小説を買いに行ったら、そこでとある女性に会ったんだ」

再度、僕らに背を向けて黒板に書きだした。

“菊谷萌音”彼は、そう黒板に書いた。

「名前は菊谷萌音という人で、俺のクラスメイトだった。見る人誰もが見惚れてしまうほどの端正な顔立ちで、とても綺麗な女性だった。入学したての時にも、周りの男子から遊びに誘われたり、教室の外から眺めている人なんかいたほどの美人だった。俺はこの人と本屋で鉢合わせて、俺は喋ったこともないのにあっちから話しかけてくれたんだ。『同じクラスだよね』『その小説、私読んだことあるよ!』って。想像以上にとても素敵で可憐な人だった、いい人だったとあの時はそう思ってた」

だんだんと長谷川先生の表情が曇っていった。

「菊谷萌音は軽音楽部で背中にはギターを背負ってて、右手には大きなビニール袋を持ってたんだ。彼女の母親からお遣いを頼まれてたらしくてな。中にはパンパンに食材が入ってて、俺は重そうだから彼女の家までその荷物を送り届けてあげることにしたんだ。好きな小説の話で盛り上がってまだ俺も話し足りないのもあって思ってあの時手伝った。いいことをやったつもりだった。でも、それが悪夢の始まりだった」

悲しげな声でそう語ると、長谷川先生は話を整理して話そうとしたのか少し沈黙を作った。

だが、同じような話をどこかで…。

「後々分かったことなんだが、最悪なことに、菊谷さんは当時二年生の問題児である宮島聖也の彼女だったんだ。そしてたまたまそれを見てしまったんだろうな。菊谷さんの家に着くまで俺と菊谷さんが自転車を並走しながら喋っている様子を何者かに撮られてしまった。撮った人物は未だにわかっていないが、それが宮島にまで伝わって、俺は浮気相手として疑われて問い詰められた。問い詰められたと言ってもあれは、話の通じないサルだったから、俺はただただ一方的にタコ殴りされた。本当にひどいもんだよな…。勝手に浮気なんか疑いやがってさ…、こっちは知らなかったのによ」

僕は途端に背中が凍りついた。やっぱり“あの時”と状況がほとんど同じだ。

遠藤と僕が写真を撮られたあの日と。だからあんなことをしたのか…。

「俺はそれから宮島にいじめの標的にされた。学校に来ては『俺の心を傷つけた慰謝料だ』って言われて金を取られ、荷物を運ばされて、殴る蹴るの暴行が連日続いた。いつもいつもその流れだった。何回も誤解だって説明したけど、あのバカが聞く耳持つ訳もなく、ただただ僕のことをいたぶりつけて晒し者にしていた」

教卓の上にのせていた長谷川先生の手に力が込められていた。僕らの想像を絶するほどの辛い過去だったんだと思う。

「あの時のクラスメイトの目、未だに覚えてるよ。最初は俺を可哀想に思ってか、捨て犬を見るように哀れみの目で見てきた。だけど、俺が宮島の彼女と浮気してたっていうデマが流れて噂され始めた途端に『しょうがない』『自業自得だ』って言って誰も助けてくれなかった。俺には味方がいなかった。菊谷萌音も弁明してくれるかと思ったら、宮島に恥をかかせたくなかったのか『こんなやつと浮気なんかするわけないじゃん』って俺のこと、嘲笑ってた。あの時の彼女とは全く違った。本が好きだということを楽しげに話していたあの子とは…。化けの皮が、剝がされたような感じだった。それから俺は他人のことをこれっぽっちも信用できなくなった」

 そしてそれが火種となり、八年越しに復讐したのか。僕が予想していた通り、恨みを持ったことによる計画的犯行だった。聞いてるこっちも辛くなるほどのあまりに悲惨な話だった。いじめという悲惨な経験はその人を変えてしまう。それによる犯罪も多いと聞く。長谷川先生の心の中にはその思い出が痛々しく刻まれてしまっているのだろう。

すると、長谷川先生は突然僕の顔をじっと見つめてきた。

「なあ、これを聞いてどう感じたよ…。篠原」

「えっ…」

僕は突然のことで心臓が早鐘を打ち、上手く声を発せなかった。教室の全体からの視線をなんとなく感じる。頭の中で急いで言葉を紡ごうとするが頭が働かない。それを察してか、僕が喋り始める前に長谷川先生が話始めた。

「知らない人もいると思うから言っておくが、篠原と池本は付き合ってるんだ」

唐突に僕と渚の関係をみんなの前でカミングアウトされて驚いたが、緊迫している空気もあって誰も反応はしなかった。しかし、そんなことを言うということは、やっぱりそういうことなんだろう。ただ当然、みんなはそれが長谷川先生の過去とどう関連しているのかまだわかっていないようだった。

「唐突に何言っているんだと思うかもしれない。まずは順を追って話すよ。俺は学校側にいじめられていたことを当時の担任に相談した。そしたらその時だ。担任の先生は、当時宮島がいたクラスの担任をしていた現校長の加藤に話をしに行ったが、加藤がそのことを問題にしたがらなかった。互いの親も呼び出さず、ただ単純に当事者間の和解で終わったんだ。なんでなんだって。当時の俺は不服でたまらなかった。だけど後になって気づいた。この学校に多額の支援をしていたのが宮島のご両親だったんだ。知っている人は知っているだろうが、宮島の家は都会でホテルを何店舗か営んでいる、いわゆる金持ちだ。

まあ、この学校は過疎化も進みつつあって生徒も少なくなり始めていたから、どんどん資金力が低下していってたんだ。だから、宮島が何か警察沙汰になって問題を起こしたとしても退学や停学処分にならず、ただの厳重注意だけで済ませていた。そして琉斗に至ってもそうだ。だから、問題にはしたがらなかった。

俺は腹が立って、親と一緒に学校に不服を申し立てに言ったら、その時、加藤が『聖也がそんなことをするってことは君も悪いんだよ。なんで一方的に聖也が悪いみたいな言い方をするかな。もうこの問題は終わったんだからビービー騒ぎ立てないでよ。学校が嫌ならやめたらいいんじゃない?』って俺に言ってきたんだ。そして俺は、その後に学校に退学届けを出し、通信制の高校へと転校した。そしてそれからずっと宮島とこの学校への復讐を考えて高校生活、大学生活を過ごしてきた。何をしたらこの過去の思い出を記憶から消すことができるのか、何をしたら自分の過去にケリをつけることができるのか、なんてこともだ。そして俺は思い立った。学校の人間になって、やつらと宮島を殺そうって」

長谷川先生は不気味にも口角を上げて笑っていた。生徒一人一人の顔を見ていたが僕は思わず目をそらしてしまう。それほど彼の放っている雰囲気は恐ろしいものだった。

「まず先生になるために教員免許を取得して、この学校の採用試験を受験した。校長になった加藤が俺と対面したとき、俺の顔を見て思い出すかと思って試してみたんだ。履歴書にはあえて日野ヶ丘に通っていたことは書かなかった。いわばあれは奴に対する“テスト”だった。まあ今思えば、気づいてほしい気持ちもどこかあったと思う。そして奴が俺に気づいたらあの時のことを少しでも謝罪してくれるんじゃないか、そんな願望を持って俺は採用試験に向かったんだ。結果は最悪だったよ。ひどいもんだよな…。俺のこと全く覚えてなかったよ。ただの採用試験を受けに来た教師を目指してる大学生として俺のことを認識してた。本当にふざけんなと思ったよ。その時に、改めてこいつを殺してやろうって決心ができたんだ」

長谷川先生はニヤリと口角を上げて不穏な笑みを浮かべた。過去に達成した計画を思い返して達成感に浸っているような嫌な笑みだった。

外で吹き荒れていた風がさらに強くなり、彼の恐ろしさをより彷彿とさせる。

「ものの見事に採用され、復讐計画の第一歩を踏むことができた。仕事始め早々、一年生の担任を任されることを知らされた。まさか新任の自分が一つのクラスを受け持つことになるなんて思ってなかったよ。それに関しては想定外だった。それでせっかくだから、“あること”をしようって決めたんだ」

そうか。そういうことだったのか。脳内で抱えてきた疑問が次々と解消されていく。

長谷川先生は僕らの顔を教室の端から端までゆっくりと見回して言った。


——お前らに俺と同じ思いをさせてみようって


「まずは、みんなが入学してから一週間経った頃、体育の授業があっている最中に、クラス内部の人間関係やカーストを図るために、みんなのスクールバッグを盗聴器入りのバッグにすり替えた。あれは本当ハードだった。あの時俺は授業がなく、特に職員室でやらなきゃいけない作業もなかったから、やるならあの時間帯ぐらいしかなかったんだ。まあ…そんなことはどうでもいいか」

長谷川先生は虚空を見つめて、そう言った。

やっぱりあの時にやっていたのか。僕の推測は間違ってなかった。

「まあ、でも……ハッハッ。面白いことに、このクラスに一つの問題が浮上してきたんだ」

心臓が掴まれたように委縮した。気まずくなって机の上を見ることしかできなくなる。

「それはみんなご存じ、遠藤の問題だ」

一瞬、クラスのみんなの肩がビクッと跳ね上がったように感じた。確かにみんなそのことは多少気にかけていたはずだ。しかし、遠藤のことを気にかけるというよりもなんで来なくなってしまったのかと噂していただけで彼女に手を差し伸べてあげるような行動は恐らく誰も起こしてはいなかった。

突然、僕の右斜め後方あたりから、啜り涙を流しているような声が聞こえてくる。声のする方を見ると、本田が俯いてポロポロと涙を落としていた。

「まあクラスなんて所詮こんなもんだよな。一見、平穏を保っているように見えるが実際は違う。みんなその問題があることを認識しているにもかかわらず、それから目を背けて見て見ぬふりをしているんだ。それに巻き込まれたくもないからな。この中に気付いている奴もいたんじゃないのか、遠藤がこのクラスの誰かから——」

急に話をやめたので先生の方を見ると、教卓を拳でドンッと殴りつけた。その音に驚いて渚や康太などの何人かの肩が跳ね上がる。

「いじめを受けていたことに」

僕の頭の中にとある記憶が蘇る。

「知ってるよな…。なぁ?そうだよなぁ⁉池本‼」

突然、長谷川先生は渚を指名して声を荒げた。渚の体が反射的に硬直しているようだった。渚は机の上をじっと見つめていたが体全体が小刻みに震えていた。大丈夫だ。渚。堂々としていろ。

恐らく先生も勘違いしているんだけだ。渚が僕の浮気疑惑で遠藤を問い詰め、遠藤がそれ以来学校に来なくなったことを先生は咎めたいのだろう。しかし、あれは現場を見てしまった者が誇張して誰かに伝えて、それが徐々にたくさんの奴に伝播していっただけなのだ。それで彼女のことに関する間違った噂が広まったんだ。

それに、元を辿れば、そうなった原因は長谷川先生じゃないか。長谷川先生が本田に、僕と渚が別れるように仕掛けたから変なことになった。だからこそ、渚が遠藤を問い詰めたのはそもそも先生のせいじゃないか。渚に駆け寄って言いたい。大丈夫だと。君は悪くないんだと。あいつはただ大きい声を出して君を怖がらせてるだけなんだと。ただ、次の瞬間、そんな気持ちは打ち砕かれる。

「全部知ってるぞ。お前が中学の時から遠藤に陰湿ないじめをしていたこと」

「え…」

思わず声を漏れてしまった。クラス全体の視線が渚に集まる。

違う。そんなはずはない。彼女はそんなことするような人じゃない。そんなの嘘だ。

そんな反論を思い浮かばせるが、僕はそれを否定する強い根拠を持ち合わせていない。

僕と渚の関わりは五月から今までに至るが、そんないじめっ子の一面は彼女からは見受けられなかった。僕の知らない一面が渚にはあるのか。悪魔のような一面が。

「もう…やめてください…」

本田は突然そう言って黒いジャージの袖で涙を拭った。

「本田、お前は爆発が起こった時にまず一番初めに遠藤を疑っただろ」

教室には、ただ本田が啜り泣いている声だけが悲し気に響き渡っていた。渚は何も言わず、ただ机の上を見つめるばかりで、一番前の方に座っていた桜も俯いていた。。それ以外のみんなは何が起こっているのかわかっておらず、状況が吞み込めてない様子だった。もちろん僕もその一人だ。そんな事実呑み込めるわけがない。

「本当に心が腐ってんだな。ずっと遠藤はお前らに苦しめられてきたってのにさ」

「私は違う…。私はいじめてない…」

本田は囁くような声でそう言った。

すると、本田は突如席から立ち上がり、長谷川先生に向かって叫んだ。

「悪いのは渚でしょ!私は悪くないじゃない!」

「ハッハッハッ。本っ当に哀れだな。今更逃げるのか?ここに証拠があるってのに」

そう言うと、長谷川先生はポケットの中からスマホを取り出した。何度かタップし、ボリュームボタンを長押しした。

「今から流すのは池本たちがいじめていた証拠の音声だ」

そうか。僕らのプライベートな会話も盗聴していたんだ。つまり、僕らの関係性は何もかも知り尽くしているんだ。もはや渚たちはこの場で嘘をつこうとも言い逃れなんてできない。

『いやぁ、マジでそれな』

長谷川先生のスマホから大音量で女性の声が流れ始める。

それは渚の声だった。しかし、音声から聞こえてきた渚の声はどこか棘のある下賤な声色だった。僕と話すときよりも声のトーンが明らかに低く、普段聞き慣れない声だった。その音声から学校の喧騒が聞こえてくる。恐らく休み時間の会話だろう。

『体育祭の時の校歌斉唱とかマジ笑いそうになったわ。あいつ癖ありすぎ』

それに返しているのは本田だった。

『音程外しまくりだしね』

僕はだんだんと委縮していった。恥ずかしかった。それに残念だった。自分が好きになった人間が、信じていた人が一人の人間を品もなく嘲笑っていた。

『口の空き方とかさ』

『ハッハッハッ。あれマジやばかった。ねぇ、桜も面白くなかった?』

本田の問いかけに桜が反応する。

『そりゃ聞いてたけどさ、遠藤さんも頑張ってやってんだから笑っちゃだめだよ』

桜は渚と本田とは対照的に自身の正義を貫いていた。むしろ、桜の行動にはその人柄の良さが滲み出ていた。

『いや、でもさ、あれは笑っちゃうよ。“美しく咲き誇る”のとことか声の裏返りすごかったもん』

『ハッハッ。やばいやばい。ツボるツボる』

長谷川先生はそっとスマホを手に取り音声を停止させた。渚と本田にはクラスのみんなから鋭い視線が向けられていた。

「マジで最低だな…」

有働がそう小さい声で呟いた。僕は言葉を受け入れざるを得なかった。そして何よりそんな素振りを見せずに今まで一緒に居られたことが、なんだか騙されていたような気がして彼女に対し、怒りの念が徐々に込み上げてきた。

「これは体育祭があった翌月、六月の昼休みの時だ。まあ篠原と池本が付き合い始めて一ヶ月経った頃なんだろうが、お前は彼女のこんな一面も知らず、能天気に交際をしていたんだ」

もうやめてくれ。これ以上最悪な現実を突きつけないでくれ。これまで僕が話してきた、関わってきた渚はレプリカだったんだ。

いわば僕は本物の池本渚ではなく、見せかけの、偽装された池本渚と付き合っていたんだ。

先生は再度、スマホを取りなにやら二、三回ほどタップすると顔を上げた。

「俺が考えた計画は、クラスの中のカップルの一人とクラスの中であんまり目立たないタイプの人間、人と話すのが苦手な人間に俺と宮島聖也の彼女との写真を撮られたあの時と同じようなシチュエーションに巻き込んで、俺の心の辛さを理解してもらおうと思った。共感してほしかったんだ。

最初に、遠藤華凛という子が、あまり友達がいない子なんだってすぐにわかった。それは教室にいてもわかることだった。あとはカップル探しだったが教室では特定できなかったから、盗聴器で探って、篠原壮太と池本渚という子たちが恋人同士であることが分かった。役者は揃った。そう思ったけど、このクラスは想像以上に面白くってな。池本渚のことを盗聴しているときに遠藤華凛の陰口を言ってるのを聞いちゃったんだよ。普段皆に見せている顔と裏の顔が全然違うんだ。心の中に悪魔がいるんだよ。笑えるだろ。池本は他にも中学の同級生とも電話で遠藤の悪口を交わしていた。そこで思ったんだ。見てみたかった。こいつらの仲を七年前のあの時と同じことをやって崩壊させたらどうなるだろうって」

長谷川先生は虚空を見つめた。

僕らにその時の当事者たちの気持ちを味わってもらいたくてやったんだ。

彼しか味わうことのなかった辛さを味あわせるために。

「できればあの時のシチュエーションに限りなく近づけたかった。それで俺は終業式の日のHRで、十月下旬に英検を受けてもらう話をした。『英検対策のための単語帳や参考書を買っておけよ』と。皆覚えてるか?」

嫌でもあの時のことは忘れない。

僕はそれにまんまと“釣られて”本を買いに行ったのだから。

夏休みが始まってから買いに行くのは非常に面倒くさい。今のうちに買っておこうと思って僕は買いに行ったんだ。それに、本屋に行った目的はそれだけじゃなかったから——

「その日は絶好の機会だった。篠原が好きな漫画の最新巻が発売された日でもあったからな」

やっぱりそうだったのか。

先生が完全に僕たちの情報が筒抜けなのが、その言葉で改めて実感した。

あの日はそう。

俺と康太が愛読している漫画『ドミネーター』の発売日だったんだ。

それに康太はあの日熱を出して休んでいたんだ。

先生からしたら俺を誘導するためのいい餌になったのだろう。

「そして当然遠藤も呼びこんだ。だけどな、もちろん英検を理由に来るとはあまり思えなかったから、あらかじめ、インスタやTwitterなんかのSNSでフリーアドレスを使って複数のアカウントを作成しコンタクトを取ることにした。そしてTwitterで遠藤のアカウントを特定して、“救世主”を装い、DMを送った。『池本渚から解放されたいですか?私ならあなたを助けてあげられます。その代わり、お母さんのためにスーパーヤマザキで大きなビニール袋一杯になる程の買い物をして本屋の青林堂に行ってください。そしてそこにいる一人のクラスメイトと話して一緒に帰りなさい。それが条件です。それを達成すればあなたを助けてあげます』ってな。遠藤は最初困惑していたが俺が課した条件をのんで、大きいビニール袋を持って青林堂に入ってきた。やっぱり追い込まれてたんだろうな。必死に我慢してたんだよな。辛かったんだよな。あの場に来たのが何よりの証拠だもんな。そうだろ?遠藤」

皆は不安そうに周囲を見回した。教室にまだ来ていないはずの遠藤の名前を呼んでいるのだ。幻覚でも見えてるのか。そう紛うほどにはっきりと彼は言ったのだ。すると、廊下側の席の一番後ろの席である吉原が「あっ、遠藤さん…」と小さい声で呟いた。僕はそちらの方を見つめると教室の後ろのドアに人影が見えた。よく目を凝らしてみるとそれが誰なのかが分かった。

遠藤華凛だ。

久しぶりに見たが、周囲を恐れているように背中を丸めていて、その目は潤んでいた。

「ゆっくりで大丈夫だから、席に着け。遠藤」

長谷川先生の口調は少し柔らかかった。遠藤は長谷川先生の指示通り、有働の後ろの席へと歩いて行った。下を向いていて表情は読めなかったが、彼女は相当な勇気をもってここに来たんだと思う。思えば中学生の時からあんなふうに渚から馬鹿にされても彼女は夏休みの出校日までは休まずに学校に来ていたんだ。僕らが想像できないほど辛かっただろうに。

「それから俺の思惑通りに事は進んだ。篠原は遠藤の荷物を見て、家まで送り届けてやったんだ。お前はいいことをした。そうなんだよ。誰だってそうするよな」

長谷川先生はあの時の自分の行動を称えるように僕の行動を褒めた。

「俺はそれから二人の写真を撮ってインスタで本田を脅迫した。『この写真を池本に見せて篠原と渚を別れさせろ。さもなければ、お前の家族を殺す』と。まんまと本田はその言葉通りに動いた。そして本田が池本に写真を送ると、池本はこちらの思惑通りめちゃくちゃキレててね。聞いてて面白かったよ。本田の説得も相まって本当に浮気してるって信じ込んじゃってさ。本当に笑えた。そりゃ腹立つよな?自分の彼氏がいじめの標的と浮気してただなんて。そりゃ、怒り狂っちゃうよな?」

長谷川先生の煽りに耐えきれなくなった渚は俯いて肩が小刻みに動いていた。そして渚の泣き声が静かに聞こえてきた。とても悲しそうに。だけど、僕はもう何も手を差し伸べてやる気はなかった。彼女が泣こうが傷付こうが知ったこっちゃない。もう彼女のことを信用できなくなった。その涙でさえも許しを請うためにあえて出しているんじゃないかとさえ思ってしまう。社会の中に生息する怪物は長谷川先生のような人じゃない。本当の怪物は彼女のような、宮島聖也のようないじめっ子なんだ。長谷川先生もまた被害者なんだ。

「池本は八つ当たりするように篠原に別れを告げた。篠原は正しい行いをしただけなのに自分勝手な馬鹿な女に振り回されたんだ。可哀そうに。みんなどう思う?なぁ?可哀そうだと思わないか?」

再度教卓の上に置いていたスマホを取って操作し、僕らの方を見た。

「今から流すのは、夏休みの出校日の放課後に録れた音声だ」

そう言ってスマホをタップすると、音声が再生された。

『ねぇ、あんたさ、ナメてんの?人の彼氏と一緒に帰ったりなんかして』

また非情で棘のある声が響き渡る。しかし、先ほどのように嘲笑って話が盛り上がっているような会話ではない。誰かを攻め立てているようだった。そこで僕は思い出した。渚が『八月の出校日にさ、華凛ちゃんに壮太との事で問い詰めたの』と話していた——その時の音声だ。

『いや違う…。それは誤解で』

相手は間違いなく遠藤の声だった。普段僕らに対して拒絶したように返す遠藤とは全く違った。まるで捨てられた子犬のように弱々しく怯えている声だった。

『みきがたまたま目撃して教えてくれたから良かったよ。なに?いつもの仕返しでこんなことやったわけ?』

『違う、違うよ』

『渚もういいじゃん、やめようよ』

仲介に入っていたのはやはり桜だった。

『何言ってんの桜。こいつの味方すんの?』

『いや、そういうわけじゃ…。でも遠藤さんも浮気してないって言ってるし』

その時、ドンッと何かが当たる音が大きく響き渡った。

『私が嫌いだから、こいつはあんなことしたのよ!』

『ごめんなさい…』

先生は音声を一時停止させて、前方の席に座っている桜の方を見た。

「河合。この時、池本が何をしたのか覚えているか?」

どうやらさっき音声の中で大きく鳴った衝撃音に関して現場にいた桜に聞きだした。

「渚が…遠藤さんの机を蹴りました…」

うんうんと先生は頷いた。それから渚の顔を見るが、殻に閉じこもったようにずっと下を向いたままだった。長谷川先生はスマホをタップして続きの音声を流し始めた。

『まじで死ねよ。お前』

『渚!流石に言い過ぎだよ』

『こんなやつ死んで当然だよ。人の彼氏奪ったんだから』

別の人物が喋っているのではないかと思うほど、その口調は荒々しかった。桜が仲介に入ってくれていなかったら、全く聞けたものではなかっただろう。しかし次の瞬間、先生のスマホから奇声が聞こえてきた。

『キャーーーー‼』

『遠藤さん、落ち着いて。お願い、落ち着いて』

『ふざけんな!いつもいつも私のこと馬鹿にして…』

何が起きているんだ。いまいち、状況が掴めない。

『お願い、落ち着いて!カッターを置いて!お願い!』

外の風が、なんだかいっそ吹き荒んだように感じた。

遠藤は渚にカッターを向けたのだ。恐らく彼女の中で怒りの沸点に達してしまい、自分のことが抑えきれなくなったんだろう。

刃物を人に向けてはいけないなんてことはあまりに当たり前のことだが、そうなったのは渚の自業自得だ。遠藤も積み上げて我慢してきたことを仕返すためにカッターを隠し持っていたのではなかろうか。

長谷川先生は停止させた。

「それからこの教室に誰か他クラスの生徒が来て、遠藤は一目散に帰っていった。ちなみにだが、本田はこの場にはいなかった。まあ、恐らく自分が送った写真のせいで友達がヒステリックになってるところ見たくなかったんだろうな。用事があるって嘘ついて先に帰ったんだ」

長谷川先生は本田の顔をじっと見ながらそう言った。一向に下を向いて啜り泣いている彼女を見てフンッと鼻で笑った。

「そして池本は遠藤からカッターの刃先を向けられたことを学校には言わなかった。河合にも口止めしたんだ。なんでそんなことをしたのか、わかるか。篠原」

僕は唐突に話を振られ、長谷川先生から目線を外した。

机の上を見て少し考える。彼女に失望していたこともあってか、僕は比較的冷静だった。

そして一つの答えを構築し、慎重に言葉を並べる。

「学校に言えば、自分がいじめていたことが浮き彫りになって学校中に知られてしまうから」

気付けば僕の声には覇気はなくなっていた。ここまで大切な人に裏切られればもう心は枯れていくように堕ちていくばかりだった。

「その通り。その音声もあるが、時間もないからここまでにしておこう」

長谷川先生は、スマホをポケットにしまい、冷酷な表情になった。

「みんな知っている通り、それきり遠藤は学校に来なくなった。その一方で俺は、琉斗のスクールバッグに仕掛けた盗聴器で琉斗が属している不良グループの会話を盗聴し、奴らが二年前から各高校に爆破予告を行っていたという情報を掴んだ。それで爆弾の仕掛け役はこいつしかないと思い、爆弾が入った白いバッグを琉斗の家の前に置いて、DMを送り、早朝に職員室裏にある室外機の上に置くように脅迫した。そして職員室を爆破し、先生たちを巻き込んだ。俺はアリバイを作るためにあえて職員室に向かって、この通り、足を怪我した。まぁただの打撲で済んだけどな」

と言って右足を二回叩いた。その生々しい犯行計画に長谷川先生の殺人に対する執念がひしひしと伝わってきて僕らは少々引いていた。

「でも感謝してくださいね、佐々木先生。事前に職員室には立ち入らないように手紙で伝えてあげたんですから」

こんなことに巻き込まれて絶望状態で俯き気味だった佐々木先生は顔を上げて長谷川先生の顔を見た。

「そういうことだったのか…だからあの時…」

佐々木先生は小さい声でそう呟いた。発言の意図はわからないが、何か一つの解に辿り着いたようにその表情から険悪さが無くなっていた。

むしろ、何か真実を知って驚いているようだった。

「まあでも、いわばあれは、あなたへの感謝の気持ちを込めてやったんです。

俺は先月家庭訪問したときに遠藤の両親から遠藤が学校でいじめにあっていることを相談されました。そしてそこで思ったんです。あいつが校長になったこの学校はいじめの対処をどうしてるんだろうって。俺は思い切って職員会議の場で遠藤のことを言ってみたんです。『どう対処すればいいんですかね。もし良ければご意見をお聞かせください』って。そしたら、驚きましたよ。加藤の口から『自分のクラスは自分で何とかしろ。俺たちはそうしてきた』って。そして恐ろしいことにそれに対して誰も何も反論しなかった。だからその時、この学校はもう終わってるんだって思いました。あの時のあいつとなんも変わっていなかった。俺は失望しましたよ。でも、そんな時に佐々木先生や安藤先生、吉田先生が僕を気にかけてくれたんです。だから、あの時嬉しかったんです。この学校に、まともな先生がいたことが。あなたたちがいるだけで生徒の心もまた変わってくるんです。そしてお三方は少しでも遠藤が学校に行けるように協力してくれて、そのおかげで遠藤が保健室に登校できるまでに回復した」

それから長谷川先生は「だから、本当にありがとうございました」と言って佐々木先生に頭を下げた。

いじめられっ子の辛さが分かるからこそ、長谷川先生は確かめたかったのかもしれない。本当に学校は問題を解決しようといじめに対して何か策は立てているのかと。確かに、先生たちからすれば生徒間の関係というものは面倒くさいものかもしれない。ただ自分のために尽力してくれる、いじめられた子のために尽力してくれる先生がいるだけで生徒の精神面は全然違ってくるんだということを校長先生に分かってもらいたかったんだと思う。

「それで爆発の時、佐々木先生と安藤先生と吉田先生には職員室から離れた場所にいるようにと手紙を添えておいたんです。まぁ、“そうしなければ家族を殺す”という脅迫文も手紙の中に書いたんですけど」

それでその手紙に従った結果、佐々木先生はあの爆発の中から無傷で助かることができた。そして安藤先生や吉田先生も。佐々木先生は脱力したようにゆっくりと下を向いて机の上を見つめていた。

まあ実際、自分を殺さなかったと言ってご配慮ありがとうございましたという話でもない。佐々木先生が携わってきた先生たちは爆発に巻き込まれてしまったのだから。

佐々木先生は何も言葉を発さずに大きくため息を吐いた。すると、後ろの方から女子の声が聞こえてきた。

「先生…、ちょっといいですか」

振り向くと松田が申し訳程度に手を上げていた。

こんな雰囲気の中でよく手を挙げたものだ。長谷川先生はどうしたと尋ねる。

「じゃあ、なんで長谷川先生は、みんなに佐々木先生が犯人だと思わせるような動画を撮らせたんですか」

確かにそうだ。長谷川先生が犯人だとわかった今、佐々木先生はあの動画を長谷川先生から命令されて撮っていたことがわかる。なぜわざわざあんなことを佐々木先生にさせたのだろうか。

長谷川先生は「いい質問だ、松田」と言って咳払いをした。佐々木先生は顔を上げ、長谷川先生の顔を見た。

「これがこの『最後の授業』の本題だ。俺が学校を爆破させたのも、琉斗を犯人に仕立て上げようとしたのも、遠藤にファックスを送らせたのも、みんなに佐々木先生を犯人だと思わせたのも理由がある。ただお前らを巻き込んで混乱させるためじゃない。俺はお前らや世間に“あること”を伝えるためにみんなを事件に巻き込んだんだ」

途端に長谷川先生は時計を確認して、着用していたスーツのジャケットを羽織り直した。ポケットの中に入っている起爆装置に気にかけるように佐々木先生はその様子を凝視したが、長谷川先生は起爆スイッチを気にすることもなく、五秒ほどの沈黙を作ってまた話し始めた。


——俺が事件を通して伝えたかったのは、“相手のことをよく知りもしない、調べようともしないくせに、単なる憶測だけでその人がどういう人なのか、安易に決めつけるな”ということだ。


「同級生や事件の協力者が次々と逮捕される中で、お前らがいろんな奴を疑っていたことを、俺は知ってる。琉斗が逮捕された後の録音記録を聞いたら、クラスの大半が琉斗の陰口をこぼしていた。中には、『いいね稼ぎ』のために、琉斗が今までやってきた悪行をあることないことネットに書き込んでたやつもいる。だけど、時間が経つにつれて宮島が犯人じゃなかったとわかった瞬間、お前らは手のひら返していろんなやつを疑っていた。

その日不可解な行動をしていた本田や、来ていなかった遠藤、挙句の果てには自らの友達まで疑っていたやつもいる。悲しくなるほどみんなが互いのことを疑って、腹の奥底で思っていた愚痴をこぼしていた。本当に音声を聞いてて残念だったよ。こんなに友情という綺麗なものが簡単に壊れていくとは思っていなかった。

俺はそういうデマや憶測でいろんなやつから勘違いされたからこそ、こうして犯行に及び、お前らに伝えたかった。俺はお前らに性根の腐った大人になってほしくない。学校っていう社会は本当にくだらない場所だ。少しの悪い噂だけで、今もあることないこと陰で言われて学校に行けない子供が何人もいる。世の中には、俺みたいに過去に囚われながら大人になって犯罪者になるやつもいる。渚や本田、お前らみたいな“集団”から学生生活をめちゃくちゃにされて自殺していったやつが世の中には何人もいるんだ。それをよく考えろ。自分のやってる行動が本当に正しいのか、自分が今からする発言によって事態が良からぬ方向に進むんじゃないのか、一人の人生を潰すきっかけになるんじゃないかって。そのことをよく考えてくれ」

その言葉に自分の過去の行動が改めて恥ずかしく思えた。僕は、いじめを働いていた渚や本田に促されて遠藤を疑ってしまっていた。

僕も知らず知らずの内に恐ろしい“集団”の一員になっていたのだ。

なんて愚かだったんだろう。

今すぐにでも姿を晦ましたかった。誰も知らない場所へと逃げ込みたかった。こんな自分が恥ずかしかった。その事実に目を背けたかった。だけど、そんなことをしてはいけない。こんな自分と向き合わないといけない。確かに渚や本田は最悪な人間であり、遠藤を傷つけた諸悪の根源だ。             しかし、僕らも遠藤の心の中の暗闇の一部となってしまうような行動をとったんだ。そして、他のみんなも入学から今まで関わってきた大切な友を疑ったんだ。

このことは僕らの中で大きな恥部になっただろう。

長谷川先生は突然手に持っていたスマホの画面を見せてきた。

そこにはスマホの画面一面、いやそれ以上の量の文章が綴られていた。

「俺はついさっき、犯行動機や過去のこと、世間や全国の教師どもに対する願いを綴った文をマスコミに送った。全国の学校、教育委員会に動いてもらうためだ。恐らくこれからいじめに対する罰則がより厳しくなると思う。そう願ってる。いじめてたやつらが三年間学校に通い、最高な高校生活だったなんて言って卒業していく現実を許してはいけない。そんな世界、俺は間違ってると思う。だから、お前らだけじゃなく、世間にこの学校社会の事実を、この俺の願いを伝えたくて俺はこうやって事件を起こした。社会が間違った方に進まないように。俺みたいなやつが生まれないように。これ以上、青春を台無しにされる子を増やさないようにだ。そして、他にももう一つ、犯行に至った理由がある。それは——」

その時、長谷川先生の目から一粒の涙が頬を伝っていた。その涙は、彼が今に至るまで過ごしてきた鬱屈とした日々を物語っているようだった。その涙を必死にこらえながらも僕らに話し続けた。

「あの憎い思い出を頭の中から消し飛ばしたかったからだ…。この記憶を消し飛ばしたくて…この大嫌いな場所を吹き飛ばしたくて…爆破させたんだ。だけど、ダメだな…。宮島と加藤をちゃんと殺したのに、まだ俺の記憶の中から消えてくれないよ…」

その姿を見て、彼の高校生の時から今まで抱え込んできた辛さが伝わってきた。ここまでの犯行をやったんだ。僕らの想像を絶するほどに、宮島や周りの人間に恨みがあったんだと思う。傷ついた思い出は離れてくれない。頭の中にずっと住みつく。それは僕らだって同じだ。彼の心は誰にも同情できないほど重いものとなっているのだろう。

「最後にみんなにお願いがある」

そう言うと彼はポケットに手を忍ばせた。

「俺が今日言ったことをSNSで広めて世間に伝えていってくれ。そうすれば俺は……心置きなく死ねる」

まさか……。そう思った瞬間に、先生はポケットからナイフを取り出した。

そんな…。嘘だろ。やめてくれ…。

あまりのことに体が硬直していた。

長谷川先生は取り出したナイフの刃先を自分の首元に向けていた。

「おい!」

咄嗟に声をかけたのは佐々木先生だった。

「佐々木先生。あなたの家に設置した爆弾ですが…、あれは爆発しません。それっぽく見せかけた単なる偽物です。なので安心して下さい。先ほどの起動スイッチもまるっきり嘘なんで」 

長谷川先生は微笑んでそう言うと、僕らみんなの顔を見て、さらに力強くナイフを握りしめた。

「それじゃ、みんな。さよなら。元気でな」

だめだ。そんなのだめだ!

「こんなのダメだよ!」

あまりのことに教室が一段と静かになり、そちらの方を向く。

長谷川先生も動きを止めていた。

そう大声で先生を止めたのは遠藤華凛だった。

怯えて腰を丸くしていた彼女とは違い、目には涙を浮かべながらも真っ直ぐ背筋を伸ばして堂々と立っていた。そのあまりに真っ直ぐな力強い目つきに僕らも彼女の瞳に見入ってしまう。

「こんな終わり方しちゃダメ。そりゃ私だっていじめられて、もう死んでしまおうって何回も考えた。でも、私や先生みたいなのは、いじめられてきた分、幸せにならなきゃいけないんだ。先生が今死んだら、ただの“不幸だった人生”で終わるじゃない!悔しくないんですか?私だったら悔しいですよ。

せっかく宮島聖也を殺したんだから、宮島がいないこの世界を楽しまないと。

宮島がいない世界はどうですか?これはあなたが掴んだ幸せでしょ?じゃあ満喫しないと‼今まで息苦しかったこの世界の空気を存分に吸わないと。生きないとダメだ…。私からしたらそんな世界、羨ましくて仕方ないんですから」

彼女の説得は非常に狂った言葉のように聞こえるが、彼らの中にしか感じ得ないシンパシーがそこにあるのを感じた。僕らなんかが紡げるような言葉ではなく、今まで辛い思いをしてきた遠藤だからこそ発することのできる言葉だった。

するとその時だった。僕の後ろから何かが前方へと飛んで行った。反射的に屈んで回避するが、それはそのまま一直線に長谷川先生の方へと向かっていき、幸運にも、両手に直撃して、ナイフを床に落とした。後ろを見ると、みんな木原の方を向いていた。木原が、持っていた野球ボールを投げたのだ。

すると、佐々木先生が長谷川先生に突撃し、体を取り押さえた。

「おい!お前らも押さえろ!」

前方の席のみんなが急いで長谷川先生の上に乗って足から胴体までを完全に押さえつけた。教室には長谷川先生がさめざめと泣く声が悲しく響いた。

「誰か警察呼べ!」

と佐々木先生が大声で呼びかけると、松田が「私がかけます!」と言って机の上に置いていたスマホを手に取り、耳に当てた。

「もしもし!すぐに日野ヶ丘高校に来てください!爆破事件の犯人を取り押さえました!」






一年後






「来年受験かー」

「そうだなー。時間経つの早すぎるよな」

学校の授業も終わって気づけば夕暮れ時になり、あれからもう一年も経ってしまったのかと時間が経っていく速さに恐ろしささえ感じてしまう。

「あれから一年か」

「早いもんだな」

あの一件の後、松田の通報で警察が来て長谷川先生は逮捕され、その後に行われた裁判では終身刑判決が下された。長谷川先生によって綴られた文章には校長先生であった加藤先生から高校生の時に受けた発言や不正、宮島聖也から受けてきた仕打ちなど犯行に至るまでの経緯が痛々しく綴られていた。

『最後の授業』があった日の午前二時半に長谷川先生と思しきアカウントから吉原のインスタアカウントにとあるワードファイルがDMで送信されてきていたらしく、吉原はそれをクラスのグループチャットに転送し、僕らは先生が、あの日語っていた以上の詳細なことを知ることができた。

長谷川隆志の計画は、実は正確には“完遂出来ていなかった”ことも。

彼が綴った文章によれば、当初の計画では自分のことを救ってもくれずに、ただ嘲笑っていた菊谷萌音にも制裁を加えるため、彼女を殺害しようと目論んでいたのだが、それはできなかったのだ——彼女は、もうその時には既に亡くなっていたから。

過去に連日ニュースで取り上げられ、世間を震撼させた死体遺棄事件の犯人である『野村浩平』の手によって。

先生の綴った文章によると、菊谷萌音は高校二年生の時に、痴情の縺れから琉斗とは別れたらしい。そして高校卒業後は県内の私立大学へと進学したのだが、人間関係のトラブルなどで二年生の時に大学を中退、女手一つで彼女を育てていた母親にそれまで払ってくれた学費を稼ぐために、母親に黙って夜の街で働き、パパ活にも手を出してしまったようだ。そしてある晩に運悪く野村浩平と一夜を共にしてしまった菊谷萌音は彼の手によってそのまま殺害されてしまったのだそう。

野村浩平は自分の気に入った女性をコレクションとして自らの手元に置いておきたくて殺害に及んでいたらしい。つまり彼女も彼のお気に入りのコレクションの一人として加えられてしまったのだ。

自らの手による殺害を成し遂げたかった長谷川先生からすれば、実質、不完全燃焼だったのだという。

ただそれ以外は計画通りに事が運んだらしい。

そして僕らにやった『最後の授業』も彼の計画の内だったのだ。

「じゃあな。壮太」

「おう。じゃあな、また明日」

僕と康太はいつもの交差点のところで別れて、僕は真っ先に“待ち合わせ場所”へと向かう。

家の前を通り過ぎて、それから一段とスピードを上げて自転車を走らせる。

見えてきた。

川辺の近くのベンチに座っている彼女の姿が視界に入る。僕は自転車を止めて階段を下りていく。彼女も僕に気付いてこちらを振り向いた。

「久しぶり。渚」

「うん、そうだね。大体、一年ぶりくらいか」

彼女の瞳には以前よりも影が宿っているようだった。明るい面影はなく、どこかやつれてしまっているようだった。久しぶりの対面に僕も少し緊張してしまう。

「元気にしてた?」

会話が途切れて気まずくならないようにと思い、何か雑談でもしようとしたが、思わず他愛もないことを口走ってしまった。 

「そう…だね。あ、康太とか元気にしてる?」

「うん。あいつはいつでも元気だよ」

「ハハ。そうだよね」

僕は渚の隣に腰掛けた。

そういえば、一年前のあの時、ここらへんで喋ったなと、なんとなく過去を想起する。

あの時に僕は言われたんだ。

“華凛ちゃんに問い詰めたの。ちょっと私もカッとなって強く言っちゃってさ。それを見た人が嫌がらせしてるって感じて広めちゃったんだろうね”

渚はあの時、謝りに行ったと言っていたが遠藤に確認したところ、実際彼女はそんなことをしてはいなかった。あの時、つくづく彼女に失望したものだ。今となっては懐かしい話だが。

『最後の授業』で渚の本性が浮き彫りになった後、僕は彼女に別れを切り出した。

一ヶ月間の休校期間も終わって学校に行くと、そこに渚の姿はなかった。一週間経っても、二週間経っても彼女は姿を現さなかった。単に自分の悪行が晒されてしまい、学校に居場所がなくなったから来なくなったのだろうというのがみんなの暗黙の認識だったが、その一ヶ月後に突然渚からメールがきて、来なくなった理由が分かった。

渚は学校を退学していたのだ。

両親とともに遠藤の家に赴いて、中学生の時から陰湿に行っていたいじめについて謝罪し、それ相応の罰として学校を退学するという決断に至ったのだ。今はアルバイトをしながら、高卒認定試験のために日々、勉強に励んでいるそうだ。

一方の本田も高校を退学し、通信制の高校に転校している。しかし、彼女とは僕も渚ももう連絡を取っていない。渚が連絡してみても何も返信がなかったのだ。そうして本田との関係は自然消滅した。そして、琉斗もあの一件の後に釈放されたが、不良グループの爆破予告に加担していたことが明らかになったことで、学校側から退学処分を下されてしまった。多分、琉斗の両親はこれまた金でなんとかしようとしたのだろうが、学校側はそれに動じることなく公正な判断を下したようだ。

「ごめんね。本当に。急に呼び出して」

「いや、いいよ、別に」

渚は下を向いて話し始めた。

「一人でいると、やっぱあの時のこと思い出しちゃってね。バイト中もふと浮かんじゃうんだ」

「けど、長谷川先生はそれを望んだんだと思うよ」

渚は顔を上げてこちらを見た。

「先生は多分、過去の過ちを反省してもらいたかったんだと思うよ。渚は宮島聖也まではひどい人間じゃないと思う。改善の余地はあるとそう踏んで、渚に自分のやった行動をよく考えてほしくて、あの時言ったんだと思うよ」

渚の目は涙で潤んでいた。しかし、自分は涙を流す資格はないと言わんばかりに袖で目を拭った。

「そうだよね…。本当バカだったよ。今となってはなんであんなことやったんだろうって、ずっと…」

渚は下を向いて唇を噛み締めていた。過去の行いを恥じるように、悔いるように。恐らく、彼女の贖罪の日々は今後この先もずっと続いていくのだろう。

「その気持ちを持ち続けることが大事なんだと思うよ」

僕も完全に渚を信じているわけではなかったが、反省の色を示して後悔の念に打たれている彼女を見て、僕はそう言葉をかけた。

「そういえば、桜は元気にしてる?」

「うん、遠藤とよく遊んでるのはインスタで見るね」

「そっか」

渚はインスタのアカウントを削除していたのでこのことに関しては知らなかった。

「桜には会わないの?」

「流石に会えないよ。合わせる顔がない」

学校が始まると、桜は遠藤に頻繁に話しかけにいくようになった。それに伴って松田や吉原なども話しかけにいき、今では学校で仲良さそうに話している姿を頻繁に目にする。

そして僕は、今まで触れてこなかったパンドラの箱にあえて触れた。

「ずっと聞けなかったことがあったんだけどさ」

「うん」

「なんで遠藤にあんなことしてたの?」

渚は目の前の川を見つめた。その瞳から彼女の後悔の念が何となく伝わってきた。

「すごく子供っぽくて馬鹿なことだよ。華凛って中学の時から他人に対して少し人当たりが強かったの。本人は多分悪気なくやってるんだろうけど、それを不快に感じる人ももちろんいて。それで私が関わってた女子グループの友達が華凛のことを揚げ足取って小馬鹿にしてたの。あえて華凛の近くで華凛の陰口吐いたりして。私も友達失いたくなくて、みんなの雰囲気に流されて渋々一緒にやってたの。でもいつの間にか、一緒にやっていくにつれて、気づいたら、どんどんどんどん私の口から自然とそういうこと言うようになっていって、私が華凛を馬鹿にして言ったことでみんなが笑ってる姿見たら嬉しくなって、だんだんエスカレートしていっちゃってさ。

気付いたらその時の“ノリ”を高校でもやってしまったの。だから、壮太と華凛が一緒に写ってる写真見た時、華凛が仕返しに壮太と浮気したんだって思って問い詰めたら、あんな感じに…」

「そうだったのか」

それから渚は、遠藤の怒りを買ってしまったのだ。遠藤の心の中でも長谷川先生が抱えていたような鬱屈とした感情があったんだと思う。それが溜まりに溜まって怒りが爆発した結果、遠藤は渚にカッターを向けたのだ。

長谷川先生の綴った文章にも書かれていた。『誰かを傷つけることは誰かの恨みを買うことになる』と。どのような形で自分に帰ってくるかわからない。爆破事件がなく、渚の悪行が続けば、将来遠藤の手によって殺されていた可能性だってある。それを考えれば、変な言い方になってしまうが、彼女の命は爆破事件に救われたと言っても過言ではないのだ。

そして、長谷川先生の文章が世間へ与えた影響も非常に大きいものとなった。

先生の文章はたちまち全国に広まり、SNSでも長谷川先生の思いや願いに賛同する人が多く出てきて、長谷川先生の思惑通り、いじめに対する取り締まりが各学校でより一層厳罰化された。無論、ここら一帯の高校もそうだ。

長谷川先生の思いは全国に行き届いた。いや、届かざるを得なかったのだろう。

こうしたことをしていかなければ自分たちの学校がいずれ被害に遭うのかもしれないという強迫観念に駆られ、いじめに対する対処を厳罰化している学校もあるのだと思う。

いずれにせよ、長谷川先生はこの学校を、いや、全国の小中学校・高校、教育界に影響を与えたのだ。そして僕や去年一緒のクラスだったみんなも先生の願い通りに、微力ながらその事件のニュースや先生が綴った文章について特集された週刊誌の記事などをSNSで拡散し、全国に発信していっている。

今頃、長谷川先生はどうしているのだろうか。こんなにも世間に広がったことを知っているのだろうか。憎き人がいなくなったこの世界の透き通った空気を今も吸い続けているだろうか。

その時、ポケットに入れていたスマホが振動した。何かと思い、見てみると、康太からNINEにメールが届いていた。表示されたメッセージに目をやる。

はぁ…。思わずそれを読んで僕はため息をこぼしてしまう。

「どうかしたの?」

「これ」

僕は渚に康太からのメールを見せた。

「大変だね」

渚も呆れて苦笑いをした。もう一度、表示されたメッセージに目を落とす。


『市役所に爆破予告届いて明日休校なんだって』

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小説『消えてなくなれ』 @kumogawa-tetsuo

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