第五章「こわれ指環」5

「どせっ!」

 背後から芹菜の脇腹に右の拳を叩きつけた。

 芹菜は優斗の首を絞めたまま動かない。

 一瞬の間があった。

「えいっ!」

 賀茂がペンダントを持ったまま、手のひらを広げて芹菜を押す。その勢いで芹菜が吹き飛んだ。芹菜が地面に転がり仰向けになる。微動だにしない。

「どうやら、『押す』ことはできるみたいだね。優斗君大丈夫?」

 優斗は首がヒリついて呼吸をするのが精一杯だった。

 賀茂が左手を差し出し、優斗が手を取り起き上がる。

「熱い……」

「劣勢だね」

「今のは」

「概念を、『叩く』から『押す』に変えた。攻撃の意思がなければ干渉できるんだろう。まあ、なんだろ、それは合気道とかそういうのだと思ってくれればいい。さて、と」

「そっちは」

 賀茂の右手を優斗が見る。白い煙が立ち上がっていた。賀茂からは生木が焼けたような臭いがした。

「まあ、正直に言えばキツいね」

 二人が芹菜を見る。

 ふわり、と人間では到底不能な動きで芹菜が起き上がった。

「第二ルートだね、ここから先は、芹菜ちゃんの安全は保障できない」

「そんな、今も」

 会話はできたはずだ、と言いかける優斗を賀茂が遮る。

「いや、もうリミットがきた。それとも、今の彼女を、『まだ意識がある』と君は言えるのかい?」

「それは……」

 さっきの芹菜は優斗を優斗と認識し、かつ優斗を邪魔なものとして扱った。その彼女が正気であると優斗は認めることができなかった。

「彼女はもう向こう側に囚われている。正常な意識は奪われた。奥底にある行動を遂行しようとするパターンが残っているだけだ」

「そう、か」

 優斗は反論できない。

「できる限りの手は打つ、ただ覚悟はしてくれ」

 賀茂の左手には優斗に渡したものと同じナイフが握られていた。

「これを」

 賀茂が胸から黒いプラスチック破片を取り出して優斗に渡す。

「すでに認識されている君に今さら効果があるかはわからないけど」

「これってサラサーテとかいう」

 賀茂が頷く。

 優斗が芹菜の家に侵入するときに賀茂が持っていた破片、『サラサーテの盤の欠片』だ。確か、所有者の存在を曖昧にする、とかいうものだったはずだ。

「今のところは効いていた」

 発動の条件は道具を使う前に認識されていないこと、優斗がそれに当てはまるかは難しいところだろう。

 芹菜が最初賀茂を無視して優斗しか見ていなかったのは、賀茂がこの欠片を持っていたからだ。

「どうするんだ?」

 優斗の疑問に、賀茂がまた頷く。

「とりあえず、彼女を再起不能にする。人間としてね」

「それって」

「覚悟、だ。上手くいけば、身動きを取れなくすれば、打開策が見つかるかもしれない。ペンダントはまだある。なんとかこれを彼女の内側に捻り込めばあるいは。そのためにはいくらか傷を与えないといけない」

「そんな」

 賀茂は右手に持つペンダントを見せる。ペンダントはまだ青く光を放っていた。その光に照らされて賀茂の右手が痛々しそうに見える。焦げているというより、炭化でもして指が崩れ落ちそうになっている。

「その指」

「まだいける、その心配はいらない」

「そう、か」

 二人のためにここまで賀茂は損傷しているのだ。

「君は隠れて見ていてくれ。それじゃ、ね」

 賀茂が芹菜を見て、眼鏡のツルを掴む。

「そろそろかな」

 芹菜が動き出しそうだ。先ほどのダメージもないのだろう。

 大きく深呼吸をして賀茂が前に屈む。手が地面につこうかとしたところで、賀茂が駆け出す。直線ではなく、弧を描くように、右回りで駆ける。

 芹菜が賀茂を捉えた。

「『ガラスの星』!」

 ナイフを持った賀茂の左手からビー玉のようなものが一つ零れ落ちる。ビー玉は白く光っていた。地面に落ちて、バウンドしたところで、高く跳ね上がった。高さは十メートルはあるだろうか。そこで静止する。

「ロックした! 落ちろ!」

 賀茂が叫ぶ。

 ビー玉が角度をつけて急降下をしながら芹菜にめがけて飛んでいく。芹菜の頭上まで来たところで、芹菜が右手でそれを払う。ビー玉はその衝撃を受けて真横に数メートルはじき出されるが、ピタリと空中で停止する。

「ガラスの星、彼女に向かって『落ち続けろ』」

 賀茂の命令を受けて、ビー玉が芹菜に向かって真横に飛ぶ。自由落下をするように、だ。ビー玉は彼女の脇腹に当たる。賀茂が殴ってもびくともしなかった彼女が、身体を曲げた。ビー玉はそのままぐりぐりと彼女にのめり込もうとする。

「やっぱりね、攻撃の意思がないとあまり認識できないんだ。それならまだ僕にもやりようがあるかな。この多面体の力を見せてあげよう」

 めり込んだ銃弾を抜き取ろうとしているのか、芹菜が右手で脇腹を掴む。人間らしさが残っているような動作だ。ビー玉を掴んだのか、芹菜が手を振る。

「いっ」

 ビー玉は優斗に向かって飛び、目の前で動きを止める。もう少しで顔面を潰してしまいそうな勢いだった。ビー玉はキュルキュルと回転を始め、また芹菜に方向を変えて飛んでいく。

「優斗君」

 いつの間にか賀茂が横に立っていた。

「少しは時間が稼げるだろう」

 ビー玉は芹菜を打ち、めり込んでは芹菜によって取り除かれ投げ捨てられ、また芹菜に向かって真っ直ぐ飛んでいく。

「あの程度ではダメージは与えられていない。いずれ星のエネルギーが尽きるか投げても無駄だと気がついた彼女に粉々にされるかしてなくなるだろう。耐久力自体がそんなにあるわけじゃない。それでも人間一人くらいはなんとかできるはずなんだけど」

「ああ」

 横にいるのに賀茂がぼやけて見える。声はすぐそばなのにもっと遠くにいるように感じられた。

 胸から人差し指程度の小瓶を取り出して、賀茂は中に入っている透明な液体をナイフにかけた。あとどれだけの物が賀茂の中に納められているのだろうか。

「残りは君に」

 半分くらい残った瓶を優斗に渡す。

「僕らは魔法士でも騎士でもないから詠唱できないしあまり効果はないけど、ちょっとだけ攻撃力が上がる。しかるべきタイミングが君に訪れたら、それを使うといい」

 しかるべき、とはいつなのだろうか。

「君に許可を求めるわけじゃないけど、宣言はしておく。僕は、彼女を、限界まで『削る』。なるべく生かしておきたいけど、それは今回の対処には二の次になる。これから起こりうる被害を最小限にすることを優先する。それが結果的に彼女のためになると信じるしかない」

「……任せた」

「ありがとう。僕のミッションは、彼女を霊的に消耗させて、彼女に穴を開ける。そしてペンダントを直に彼女の中にねじ込む。ぶっつけ本番の作業になる。彼女を生かすためにそれ以上にできることはない。彼女にとってそれが致命傷になるとしてもだ」

 賀茂は早口でそう言い、すでに芹菜に向かって走り出していた。今までよりも直線的で、なおかつ速い。

 サラサーテの効果がないからか、芹菜は賀茂をしっかりと認識しているようだった。構えのようなものはないが、注意をしている、というのは優斗にも感じられる。

 間合いに入った賀茂が左手のナイフを真横に振るう。その切っ先が芹菜の左腕をかすめた。

「うう」

 芹菜が声を漏らす。

 芹菜本人が痛みを感じているのかもしれないと思うと優斗は見ていられなかったが、ここで目をそらすことはできなかった。自分の安全のために、あるいは事の顛末から目を背けないために。

 反抗するように芹菜が右腕を賀茂に振るうが、すでに賀茂はその位置にはいなかった。賀茂の姿は芹菜以上に曖昧に見えた。もやのようなものが動いているだけだ。それは速度の問題だけではないだろう、これが賀茂が言っていた『多面体の力』というものか。

 賀茂の攻撃は止まらない。

 一撃、一撃と線を描き芹菜を切り裂いていく。

 芹菜自体の動きは緩慢で、賀茂のように素早い動きはできないようだった。時々声を上げるが、芹菜は反応できず、賀茂の攻撃に腕が、足が、脇が、切り裂かれている。

 ただ、それでも芹菜は緩慢なまま、何も変わらなかった。傷がついていることに反応、反射して声を出しているだけなのかもしれない。

 芹菜の攻撃は単調だった。

 というか、腕を振るくらいしかできていない。

 芹菜自身が格闘技をやっていたわけでもないから、そこが隙になっているのだ。

 触れられれば焼ける、このことにさえ注意していれば、賀茂にとってはそもそも重要視するレベルの相手ではないのだろう。瞬間的なものならまだしも、さっきの優斗のように、掴まれることがなければいい。

 ビー玉が時折彼女に『落下』していく。どうやらビー玉は彼女の認識外の行為で、当たるたびに身体を曲げたり捻らせている。ビー玉は彼女に辺り大きく上、下、横と重力に関係なくバウンドして、また彼女へと飛んでいく。

 その姿勢が崩れたのを賀茂が攻撃の起点にしているのだ。

 賀茂は息切れしているようには見えない。芹菜も呼吸が荒くなっているのは確認できない、そもそも呼吸というものをしているかもわからない。服が裂けているのがわかるだけで、出血はしていない。

 芹菜に賀茂が与えるのはまだ切り傷程度だった。賀茂は『穴を開ける』と言っていた。ペンダントが押し込まれるほどの穴を開けるにはもっと奥に切り込まないといけないはずだ。あるいは腕や足を切り落とせば、いいや、完全なら首を落とした方が確実だろう、と思ってしまった優斗はそのイメージを頭から排除する。

 賀茂は左右にステップをしていた。

「ガラスの星、戻れ!」

 その言葉を合図に、浮いているビー玉が賀茂まで飛んで戻ってくる。立てた右手の人差し指に吸い付くようにそこで静止した。

「流星のように落ちろ」

 賀茂が指でビー玉を軽く押す。

 銃弾のようにビー玉は芹菜に飛んでいく。ビー玉は芹菜の額を直撃した。パリン、という音が広がる。ビー玉が割れて弾けたのだ。芹菜がのけぞる。賀茂はもうそこにいた。

「ごめんね」

 賀茂は芹菜になのか、優斗になのか、あるいは両方なのか、簡潔に謝った。

 優斗は右に賀茂、左に芹菜が見える位置で、賀茂がナイフを深々と芹菜の腹部に突き立てたのを見た。

「ぐう、う、もう、ちょっと、頼む」

 すっぽりと身体に刀身すべてが押し込まれたナイフを右に動かそうとする。そこに穴を作るつもりなのだ。

「ううう!」

 それを引き抜こうと芹菜が賀茂の左の手首を掴む。

「我慢比べなら負けない」

 賀茂の左手が燃えている。右手もかなり損傷しているはずだから、今はもう両手を捨てるつもりなのだろう。

「い、いった」

 数センチは横に動いただろうか。腹部を真一文字に切って内臓を出す必要はない、賀茂が右手に持っているペンダントが身体の中に入れさえすればいいでいいのだ。

 賀茂は左手のナイフを抜いて、右手のペンダントをその傷口に押し当てた。

「ぐっ」

 ナイフを持つ手を右手の甲に重ねて、確実にペンダントを開いている腹部に入れる。

「ああ、あああああああ」

 芹菜が叫ぶ。

 賀茂に抵抗するというよりは、自分の顔を手で覆い、身体をくねらせる。

「効いている。念のため」

 ペンダントの中の宝石に向かって、賀茂が左手のナイフを突きつけた。カン、という音がした。優斗からは何をしているのか見えないが、ナイフで宝石を砕いたのだろう。

「あああああああああ!」

 一層の絶叫を芹菜がする。

 芹菜は腹部ではなく、頭を抱えている。

「これで全身に回れば」

 賀茂が芹菜から手を抜き、後ろに飛ぶ。芹菜が攻撃してこないのを確認して、優斗のそばに来た。

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