第一章「蜘蛛の糸」3
失踪した彼女の友達から、優斗は追加で情報を得ることができた。
まず、この紙は複数存在する。おそらくひらがなの並び順は同じだろうと思うけど、複数の紙を見比べた人はほとんどいないから、自信はない。他の人とやったとき、前と同じ配列だと思ったから、という程度の認識だった。そして、それは誰かから渡されているようで、誰が作っているのかはわからない。もしかしたら原型があって、誰かがコピー機でコピーしているだけかもしれない。
このルートは難航するかと思ったが、他に紙を持っていた人間が見つかり、それを誰にもらったかが判明した。それをもらった人が、更に誰にもらっていたかもわかった。最初の出所かどうかは不明だが、話を聞く価値はあるだろう。芋づる式に繋がっていればそれでいい。
優斗には何かを得られるだろう確信があった。
その人物に聞き覚えがあった。
学校帰りに優斗は市立図書館へと向かった。
一階のフロアを歩き、自習スペースを抜ける、左手に螺旋階段があって、地下の書庫へと向かう。書庫は古い本の臭いがした。貸出数が少なそうな古い蔵書、全集などがラックに並べられているだけだった。
もう一段降りて、地下二階まで行く。
窓もない、部屋を照らすには頼りない蛍光灯だけがあるその空間に先客がいた。
彼は壁に背を向け、何かの文庫本を読んでいた。首にはヘッドフォンがかけられていたが、耳には当てられていなかった。
優斗を完全に無視したまま彼はページをめくる。
「あなたが、
一ノ瀬、と呼ばれた彼は本を閉じるでもなく言葉を返す。
「先輩、な」
「一ノ瀬先輩」
「ああ、用件なら手短に頼むよ」
二人の距離は二メートルくらいだ。一本踏み込めば触れるだろうが、優斗は一ノ瀬が持つ雰囲気に飲まれそれ以上足が前に進もうとしなかった。
優斗は『神様』の紙を胸から取り出し一ノ瀬に見せる。
「これは、あなたの仕業ですか?」
「仕業?」
その紙に視線も合わせず、一ノ瀬が答える。
「あなたがこの紙を配っているという話を聞きました」
「それは嘘だな」
「何がですか?」
「俺が配った、という情報をお前は持っていない。何も知らず、淡い期待だけで俺を訪ねることにした、そうだろう?」
「なっ」
「探り合いが通じる相手だと思われているのが心外だ」
一ノ瀬がちらりと優斗を見た。
目つきは鋭くないのに、妙に印象に残る瞳をしていた。その瞳で、じっと優斗を見る。
「俺の目を見たな」
二秒ほど、ただ見つめ合っていた。
「どうした? 少し疲れたんじゃないか? ここまで歩き通しだったものな」
妙なことを言い出す。
別にたいした距離を歩いたわけではない。
「足が重いだろう?」
一ノ瀬に言われた途端、優斗の左足が急激に重くなった。
「呼吸も乱れているな、走ってきたのか?」
そんなわけはない。
しかし、気がつけば呼吸が安定しない。肩で息をしている。全力で走ってきたかのようだった。
「こういう状況をなんと言うのだろうな。そうそう、『頭が高い』だ」
「あ」
そう言い終わるかどうか、優斗が両膝をつく。
立ち上がろうとするが、鉛のような重さになった足が動かない。
ようやく一ノ瀬が一歩近づき、腰を屈めて優斗を見る。手を伸ばせば届きそうなのに、優斗は床についた手を上げることすらできない。
「ぐ、ぐぐぐ」
全身の主導権が奪われているかのようだった。
「ああ、お前、『正義の味方』だろう? 知っているぞ。」
「自称したことはないですよ」
「ふん、まあいいさ、正義の味方。ここいらで遊び回っているようじゃないか」
「遊び回っているなんて……、あなたが、『情報屋』ですね……。一ノ瀬先輩」
なんとか口は開くようだった。
それだけは許されている、という感覚だった。
「それくらいはわかっているのか。まあ、それでよくも大して警戒もせずにここまでやってきたものだ。俺のこと自体はあまり知らなかったようだな、正義の味方。知らせる義理も義務もないが。ここまでたどり着いたことだけでも褒めてやるよ」
一ノ瀬と呼ばれる彼のことを優斗は少し前から知っていた。彼の言う通り、優斗が『正義の味方』と呼ばれるように、彼は一部の人間から『情報屋』と呼ばれていた。優斗はできる範囲の出来事に対応して解決を試みる。一方の一ノ瀬は、相手が解決に必要な情報を用意する。自分からは動かない。対価に金銭ではなく、別な情報を欲する。
直接対面したことはなかったが、いくつかの出来事でバッティングすることが今までもあった。要するに、一ノ瀬によって解決されたからもう優斗の力は必要ない、ということが起こっていたのだ。
今回の流れも調べていくうちに、靄のようにぶち当たって情報が途切れているところがあった。直接は明言されなかったものの、情報が別な情報にすり替わっていると思わしきものもあった。
この紙をもらった人物を調べていくと、他の誰かに行き着く。その人は誰からもらったかというと別な人物を上げる。しかし、面識はない。知らないもの同士がどうやり取りしていたかというと、対面ではなく、コインロッカーを使ったなどとという。こういうケースがいくつかあった。つまり、空白の期間が必ず差し込まれているのだ。
だから、いよいよこのときが来たと優斗は思った。
今まで敵対していたわけではないからやり取りはしていなかった。
ただ一ノ瀬に興味があったというのもある。どんな人物でどんな言葉を話すのか。
それは今後の活動にも影響をするだろう、と。
協力体制を敷くとまでは楽観視していなかったが、さすがに初手でここまでやり込められるとは思っていなかった。
暴力的なことも経験がないわけではない、しかし、このような不可解な状況になるとは思っていなかった。
一ノ瀬に右手で頭を掴まれる。
「またな、お前が何か情報を持ってきたら会ってやるよ。それ以外で俺の周囲でうろうろするのはやめるんだな」
わしわしと頭をかき回される。
一ノ瀬の言葉が脳の奥に響く。
絶対的な命令のように聞こえた。
残った力を振り絞って、優斗は顔を上げた。
すぐそばに一ノ瀬の顔がある。
「僕は、ただ」
「ふうん、抵抗するのか。そうだな、もう少し力を込めておくか」
顔を距離が近い。接してしまいそうだった。
背中に冷や汗をかいているのがわかる。
「ん、何か邪魔が入ったみたいだな」
一ノ瀬が優斗の肩の先を見る。
「誰だ?」
「誰? 私は誰? 私が誰か、私が決めるの?」
子供っぽい女子の声が聞こえた。
緊張感は感じさせず、曖昧な返答をした。
「俺の目を見ろ」
「どうして? ええ、でもいいわ」
一ノ瀬の目を見ることで何かが起こる、優斗はそれだけがわかっていた。言い換えればそれ以外は何もわからない、ということだ。
「跪け」
「なぜ?」
彼女は軽く返す。
「どうして、効かない」
苛ついた物言いで一ノ瀬が言う。
「その程度、避けるまでもないわ、私にまでは届いていない。私はもっと遠くにいる」
「なんだ、お前」
「あなたは私を見ていない。私もあなたを見ていない。あなたはあなた自身を見ている」
「なんだと? いや……」
一ノ瀬が自分の顔をおさえた。
「何を、した?」
「何もしていないわ。だって、何も起こっていないのだから」
「チッ」
一ノ瀬が立ち上がる。
「お前、月村の人間だな。妹の方だ」
「私を知っているの?」
「少しだけだが。だが、どうして俺の邪魔をする。契約では」
「邪魔ではないわ。ただ、無意味なことをやめさせようとしているだけ。それに『契約』? 魔術師が混血なんかと契約なんて結ばないわ、仮に結んだとしても守る縛りは魔術師にはない。だっていつも裏切るのはあなたたちなのだから」
「無意味だと?」
「そう、あなたがしていることは、全て無意味だわ」
「なん、だと」
「私のことを知っているのなら、今はどうすべきかは聡明なあなたならわかりそうなものだけど」
「触らぬ神に祟りなし、だな。」
優斗の背後の人間に言った。
少女の声は落ち着いて、それでいて圧のような物を感じた。
「じゃあな、『正義の味方』。今回は助かったみたいだが、これ以上俺の周りをうろちょろするな、そうだな、『敵』に認定するぞ」
一ノ瀬が書庫の階段を上がっていく。
ふ、と、優斗の全身が軽くなった。
背後にいた少女を見るため、振り返る。
一瞬だけ、彼女の足元が見えた。
顔を上げ、全身を見ようとする。
幼い少女の顔があった。身体も薄く、細く、ちょっと力を込めただけで折れてしまいそうだった。その顔は妙に達観しているようで、優斗を見ている。悪く言えば陰気を背中にまとっているようでもあった。
「もうかかわらない方がいい。誰にだって領分があるわ」
静かな声で、彼女が言った。
「さようなら」
次の瞬間にはそこにはもう誰にもいなかった。
力が抜けてホコリが敷き詰められているにもかかわらず、優斗が書庫で大の字になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます