舞台挨拶

宗真匠

舞台挨拶

 積み上げてきたものが壊れる瞬間というのは、いつだって突然やってくる。


「ごめん、別れてほしい」


 たった一瞬。たった一言。

 短い別れの言葉で私の青春は跡形もなく崩れ落ちた。

 積み木と同じだ。どれほど時間をかけて組み立てても一度指が触れるだけでいとも簡単に崩れてしまう。

 彼の言葉と共に、ガラガラと何かが崩れ去る音が心に響く。


「うん、わかった」


 私がノーと言えないと理解しているのか、彼はそれ以上のことは何も言わなかった。

 どうしてなのか。私の何がダメなのか。はたまた新しい女か、どうしてその女なのか。

 聞きたいことはたくさんある。文句のひとつでも言えたなら、私はもっと気楽に生きていけたのだろう。

 だけど、私にはできない。縋ることも、泣くことさえもできやしない。

 

「今までありがとう」


 全身に渦巻く感情を全てを飲み込んで、彼にそう告げた。

 ツーツー、という虚しい電波音だけが耳に響く。

 最後の別れくらい、直接会って聞きたかった。

 耳元に当てていたスマホを力なく落として、大きなため息をついた。

 悲しい。虚しい。苦しい。辛い。

 ありとあらゆる負の感情が、行き場をなくして体を蝕む。

 こんな気持ちはもうたくさんだ。

 こんな気持ちになるくらいなら、もう恋なんてしない。

 幸せという建築物からたった一つの支えを外すだけで、それは辛さに変わってしまう。

 だから私は恋を辞めた。

 自分の気持ちに蓋をして、感情を心の奥底にしまい込んで、私は現実を放棄した。

 淡く切ない初恋は、こうして幕を閉じたのだ。




「ってことがあってから、やっぱその辺の男じゃダメだなーって思ったわけよ」


 購買で買った牛乳をストローでチューっと吸い上げて、私は一息ついた。

 目の前では私の友人、サトミが呆れたと言いたげな冷めた表情で私を見ている。


「何その目」


 サトミは予想通りため息をついて「アホらし」と吐き捨てた。

 私の恋バナが聞きたいと言い出したくせに、何とも酷い感想だ。


「ハルカ……あんた、どうしたらその結果から今に至るの?」


 "その結果"とは、恐らく本音が言えず彼氏と別れ、それ以来男性と付き合えなくなったことを指すのだろう。

 そして"今"とは、スマホに映る私の愛しの人について言っているのだと思う。

 私は牛乳パックを遠ざけて、前のめりになってサトミと向き合う。


「もう男は信じられないの」

「そうね」

「だから彼に生涯を捧げることにしたの」

「は?」


 サトミは笑いの取れないピエロを見るような憐憫の眼差しを私に向ける。

 彼女の言いたいことはわからないでもない。

 大学生になってからも高校時代の恋愛を引きずって男性を避けている私が、一人の男性に生涯尽くそうとしているのだから。

 けれど、矛盾はしていない。

 私が失敗したのは、簡単に壊れてしまう積み木の上に立っていたからだ。

 ともすれば、絶対に陥落しない王城を眺めていれば、死ぬまで幸せでいられるんだ。

 発想の転換だ。何も恋とは、恋人になることだけが全てではない。遠くからそのご尊顔を拝謁することも一つの恋と言えるはずだ。

 これが私の見いだした新たな道だった。

 ……のだけど、どうやらサトミには度し難いほど愚かに見えているらしい。

 突き刺さるサトミの視線から逃げるように目を逸らして彼を見る。

 彼とは、他の誰でもない私のスマホの中でこちらに笑いかける彼のこと。

 浅川リョウ。それが彼の名前。

 リョウ君は最近デビューした人気の若手俳優で、その中性的な顔立ち、女の子みたいな高めの声、男の子にしては小柄な体格と『可愛い草食系男子』の完成系とも言える最高の俳優なのだ。

 デビュー作は『夕日の沈む丘』という映画のヒロインの友人役。脇役ではあるけどこれがまたどハマりしていて、ヒロインの可愛さに引けを取らないその愛おしさに加え、ヒロインを好きでいながらもヒロインが困った時には背中を押してあげる男らしさも兼ね備えてそれはそれは──


「ちょっと、聞いてるの?」


 ハッと現実に戻ると、サトミがたいそうご立腹な様子で頬を膨らませていた。

 いけない。リョウ君の話になるとついつい思い出に耽ってしまう。それだけ魅力に溢れているから仕方ないんだけど。

 初めての主演映画『浅川家の三姉妹』については、またゆっくりと映画を見ながら感傷に浸るとしよう。


「ごめんごめん。なんの話だっけ?」

「やっぱり聞いてなかったのね」

「ほんとごめんってば。リョウ君がかっこよくてつい……」

「いいわよ、別に。浅川君のことになると魂が抜けるのはいつものことだし」


 サトミは「またか」と声が漏れそうなほど深いため息をついて、呆れ顔で答える。

 彼女もまた浅川君のファンの一人ではあるけど、私ほど深い愛情は持っていない。

 ……と言うよりも、私の愛が重すぎて反面教師として活用されているのだと思う。

 学校の指定カバンではキーホルダーがジャラジャラと音を鳴らし、スマホには彼の写真が何千枚と保存されている。溢れんばかりのグッズの数々が彩る私の部屋を見たサトミのドン引きした表情は永遠に忘れられそうにない。

 生年月日や身長、体重、趣味や嗜好まで何も見なくても全て覚えている。リョウ君への愛情は日本一、いや世界一だと自負している。

 そんな私に彼女は言う。


「私も浅川君のこと好きだけど、ハルカには絶対に勝てないって思っちゃうわ」


 それは私にも自信がある。

 どこの誰であっても、デビュー当時からリョウ君を知る人物であっても、私以上に彼を好きな人は居ない。そう言い切れる。

 だけど、私は別に彼と付き合いたいとは思わない。

 そもそも付き合うなんて烏滸がましい相手ではあるけど、絶対に手が届かない存在だからこそ私は彼を好きになった。

 叶わない恋。届かない相手。最早崇拝に近い。

 彼は私にとってこれ以上ない完璧な存在なのだ。誰かと付き合う彼の姿は見たくない。皆のものであり、誰のものでもない彼が好きなんだ。

 そして、彼は絶対に私の期待を裏切らない。その自信があるからこそ、私は安心して彼に恋心を抱き続けられる。

 だって彼は──


「そんなあんたに朗報があるのよ」


 サトミはいつの間にか脱線していた話を本題に戻す。そう言えばさっき何か言いかけていた。

 彼女はごそごそとカバンを漁り、何かを探している。その表情から高揚感が溢れ出していて、私にも期待が伝播する。

 程なくしてカバンから出てきたそれは、黄金に光り輝く宝石のように見えた。


「そ、それは……!」

「ふっふっふ。浅川君の新しい主演映画の完成披露試写会のペアチケ取れたのよね。もちろんハルカも一緒に行くでしょ?」


 サトミはそう言って、鞄から取り出したチケットをピラピラと見せる。

 完成披露試写会。公開前の映画を特別に見られるだけに留まらず監督やキャストのトークまで楽しめる、前世で徳に徳を積みまくった人にしか行くことを許されない楽園だ。

 かく言う私もリョウ君が主演の新作映画は公開日当日に見に行く予定だった。それがまさか、こんな形で本物の彼に会えるチャンスが転がり込んでくるなんて。

 それは確かに、喉からと言わず今すぐ右手が出て引ったくりそうなほど欲しい物だ。

 叶うならリョウ君に会いたい。遠目でもいいから、一目でいいから彼をこの網膜に残したい。

 だけど……


「ごめん。ちょっとその日は……」


 チケットがその手を離れ、ヒラヒラと地に落ちていく。

 サトミはそれを拾い上げるよりも先に、身を乗り出して私に顔を近付けた。


「ハルカ、本気で言ってるの?」


 ジリジリと迫るサトミに気圧されつつ肯定すると、彼女は呆気に取られながらもチケットを拾い上げて椅子に座り直した。

 信じられないと思っているのだろう。私もそうだ。

 どんな用事よりもリョウ君よりも優先されることはない。これがただの試写会であれば、私は彼女の手を取ってチケットを涙で濡らしていたことだろう。

 でも、ダメなんだ。私には行けない。

 サトミの好意に対する罪悪感と行きたくても行けない歯痒さに苛まれていると、彼女は机に肘をついて頭を抱えた。


「ハルカなら親の葬式よりも浅川君を優先すると思ったのに」

「え、なにそれ失礼」


 さすがにそんなことはないよ。……たぶん。

 サトミが誰と行こうかとぶつぶつ呟いていると、准教授が教室へと入ってきて話はお開きとなった。



 惜しいことをしたと思う。

 一世一代の幸運。この先これほどの僥倖は舞い降りては来ないだろう。

 私も出来ることならリョウ君に会いたかった。

 涙で前が見えなくなって、サトミにあやされながらリョウ君のご尊顔をこの目に焼き付ける。そんな淡い妄想。

 でも、それは叶うことのない妄想でしかない。

 なぜなら──



「浅川君、そろそろスタンバイよろしく」

「あ、はい」


 思い出を掘り起こして感傷に浸っていると、そう声がかかった。

 映画は終盤に差し掛かっていた。浅川リョウとヒロインの女優が短く言葉を交わしてすれ違うシーン。

 台詞は少ないけど、これまでの彼らの関係から生まれる切ない感情と幾ら費用をかけたんだと言いたくなるほど美しい情景に誰もが涙するシーンだ。

 浅川リョウの繊細な表情を撮るために何度も撮り直しを要求されたため、音を聞いているだけでもその光景が蘇る。


「表情、固くなってますよ」


 死角から話しかけられ、身体をビクリと震わせる。


「櫻井さん……驚かさないでよ」


 クスクスと笑う彼女は、今作のヒロインで若手人気女優の櫻井さくらい桃香ももか。整った顔に小柄な体型。明るいキャラクターで男女問わず人気がある、所謂『可愛い』を体現したような女性だ。


「何か考え事ですか?」

「ああ、うん。今上映してるシーン、何度も撮り直したなーって記憶が蘇って……」

「浅川さん、監督にこっぴどくしごかれてましたもんね」


 櫻井はいたずらっ子のように笑みを浮かべて続ける。


「でも、浅川さんの演技とても良かったですよ。私もドキドキしちゃいました」


 この子のこういう優しさが人気の秘訣なんだろうなとつくづく思う。

 彼女は今作が初の主演映画だと聞いたけど、これからどんどん人気になるんだろうなと思わされる。

 彼女の優しさに感謝を込めて笑顔を返した。


「ありがとう」


 満足そうに舞台裏へと足を進める彼女の背中を見送って、舞台挨拶のために心を落ち着かせた。


 エンドロール後、会場が明るくなると同時に監督を始め出演者が次々と壇上に上がる。

 当然僕もその列に続く。

 満員の客席から会場全体に響くほどの拍手があがる。

 本当なら私もあちら側にいたのにな、なんてありもしない理想を脳内に巡らせ、誰にでもなく客席に向かって手を振る。

 それだけで湧き上がる歓声の大きさから『浅川リョウ』という俳優の人気がわかる。

 それは、私が私の一番好きな人を全力で演じているのだから当然と言えば当然なのだが、それにしてもすごい人気だ。

 前列の女の子なんて、感動のあまり泣き出してしまっていた。友人らしき茶髪の女の子に慰められているが、その涙は止まることを知らない様子だ。

 私も浅川リョウに会えたらと考えると人のこと言えないけど。


 浅川リョウは私の想い人だ。絶対に私を裏切らない理想の男性だ。

 交友関係を始めとしたプライベートは謎に包まれ、恋人はおろか友人の話も聞かない。

 皆のものであり、誰のものでもないファンたちの理想の権化。

 それが私、浅川リョウだ。


 監督が挨拶を終え、私にマイクが回される。

 この会場に里美さとみも来ているのだろうか。

 里美は、こんな私を見てもいつものように冷たい目で見て、笑ってくれるだろうか。

 男装した自分のことが好きだという私を見ても、いつも通りに接してくれるだろうか。


 様々な思いが渦巻く中、深く息を吸って呼吸を整えた私"深海ふかみはるか"は、人気俳優"浅川あさかわりょう"として挨拶を行った。

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